赤い靴 02
それから、私達は公園へと続く道を走って行った。両側の家々には明かりが点り、どこからか夕餉の匂いが漂って来る。緩やかな起伏のある道を10分程走り続けると、やがて、前方に白川役場が見えて来た。それは、クリーム色の外壁を闇色に染め、星空の下にずっしりと建っていた。そして、その真ん中あたりで、公園に設置された時計台が、丸く、白く光っているのが見える。私達は緩やかな坂道を登り、目の前の車道を横切って、バラバラと公園の中に入って行った。
公園に入ると、私達はまず、時計台のそばで踊っている筈の七瀬の姿を探した。しかし、予想に反して、そこに七瀬の姿はない。
「いないよ」
綾美が言った。
「待って」
そう答えて、私は耳を澄ませた。どこからか、キィキィと哭くような音が聞こえて来る…。
「ブランコだ…!」
私は、その方向を指差した。柳の枝の向こう側で、ブランコがゆらゆらと揺れているのが見える。
「七瀬!」
走り出すと、他の3人も私を追って走って来た。柳の木の前を大きく迂回してブランコの前に出る。すると、そこに、しょんぼりとうなだれて、ブランコを揺らす七瀬の姿があった。
「七瀬!」
「ナナチン」
「ナナさん」
わらわらと駆け寄る私達に、七瀬が幽霊みたいな青い顔を向けた。
「どおしたの? ナナさん」
葛谷が悲愴な叫び声を上げる。
「パパと何かあったんでしょ?」
綾美が断定的に尋ねる。すると、七瀬は何も言わずにうつむいた。
「やっぱり!」
綾美は、自分のカンが当たった事を誇るかのように私達を見た。葛谷が、負けじと自慢にならないような自慢を言って慰める。
「そういうことなら、俺にまかせてよ。自慢じゃないけど、俺、オヤジとの喧嘩にかけちゃエキスパートなんだよ。ね、何があったのか話してよ」
葛谷の言葉に私は頷き、
「うん、七瀬話して。相談に乗るよ」
そう言うと、しばらく七瀬の言葉を待った。しかし、七瀬はうつむいたきり口を開こうとしない。話したくないような、そんな大変な事がおじさんとの間にあったんだろうか? 沈黙が続けば続く程、私は不安になっていった。と、その時、突然藤井が口を開いた。
「話したくなければ、話さなくてもいいけどさ、これだけみんなに心配かけけておいて、謝罪もないわけ?」
怒っている。…でも、なにもそんな冷たい言い方しなくたって…。私は藤井の横顔を見て思う。…不自然だよ。藤井は本当はもっと優しい人なのに…。
しかし、藤井の言葉でやっと七瀬が顔を上げた。そして、言った。
「そうだったね。心配かけて、ごめん…」
私達を見て頭を下げる。
「けど、パパとの事じゃないの」
「え?」
私達は首を傾げた。
「確かに、パパと居るのが気詰まりで家を出て来ちゃったんだけど、それだけで落ち込んでるわけじゃないの…」
…じゃあ、なんで? そんな私達の問いかけに答えるように、七瀬はブランコから立ち上がり、弱々しい足取りで、一歩、二歩、三歩…と歩いて行った。そして、十歩目、時計台に辿り着いたあたりでこちらを振り向き、
「見ていて」
そう言って、なんと、踊り始めた。
もし、静寂を目に見える形にするのなら、こんな風になるのかも知れない…
音一つない空間で、七瀬はステップを踏み、踊る。
しかし、それは危なっかしくてとても見ていられるものではなかった。なにしろ、怪我をしていた右足は、一ヵ月もの束縛の為かすっかりと力を失い、おまけに、左足に比べると明らかに痩せてしまっている。その、痩せた足で地面を踏む度にふらふらと上体が揺れ、最後には足がもつれて、とうとう激しく転倒してしまった。
「七瀬…!」
私は七瀬に駆け寄り、抱き起こした。七瀬は乱れた前髪の下から、虚ろな目を私に向けて、
「私、踊れなくなっちゃったの」
と、涙を流した。
「な…何言ってるの?」
私は戸惑う。
「し…しかたないじゃん。まだ、包帯取れたばっかりなのよ! これから練習していけば、すぐに元に戻るわよ」
「ダメなの! 今踊れなくちゃダメなの…!」
七瀬が泣きじゃくり、そして、こちらが耳を疑うような事を言った。
「だって、それじゃオーディションに出られない!」
オーディション? 私は眉をひそめた。
「何言ってるの? あんた、オーディションは諦めるって言ってたじゃない」
そう、確かに言った。あの、山の上で。あれは、聞き間違いなんかじゃない。
「嘘をついたの?」
詰ると、七瀬は泣き止み涙を拭った。
「嘘じゃないよ。あの時は、本当にそう思ったの…でも…やっぱり私にはこれしかない…コーイチと離れたくない」
…なによそれ…
私は少し腹を立てた。
…七瀬の言葉なんて全然信用できない!
私は、七瀬から手を離すと無言で立ち上がった。綾美と葛谷が真っ赤な目で七瀬を見ている。彼等はきっと、こう思っているのだろう。
『そこまで、コーイチに対して純粋な思いを抱けるなんて!』
それは、私だってそう思うけど…だったら、初めから諦めるなんて言わなければいいのよ! 私はすたすたと歩き、どっしりとブランコに腰掛けた。
仏頂面でブランコをこぎはじめると、鎖の軋む音に混じって藤井の声が聞こえて来る。
「本当に、それだけなんだな? お父さんと、何かあったわけじゃないんだな?」
七瀬は無言で首を振った。そして、また、うなだれた。七瀬が落ち込むのも当然だ。後、9日で元のように踊ろうなんて、いくら七瀬が意地になったって無理だと思うもの。けれど、もう知った事じゃない。私は、一人そっぽを向き、ブランコを揺らし続ける。藤井、どんどんきつい事言ってやってよ!
しかし、藤井はそんな私の期待には答えてくれなかった。彼は、ごく冷静にこう言ったのだ。
「いきなり、複雑なステップを踏もうとするのが間違ってるんじゃないのか?」
「そうかな?」
七瀬が答える。
「俺なら、まず足の強化と、基礎を徹底的にやるよ」
「それで、オーディションに間に合うと思う?」
「それは、分からないけど…少なくとも、力任せに、難しい事やってるよりはましだと思う。どっちみち、基礎は大事だろ?」
「…そっか…」
七瀬が素直に頷いた。
「なんなら、俺がコーチ引き受けてもいいぞ」
…なんですって?
藤井の言葉に驚き、私は揺れているブランコの上から思わず飛び降りた。
「え?」
七瀬が藤井を見上げている。
「委員長、ダンス分かるの?」
半信半疑みたいだ。
「勉強する」
きっぱりと藤井が言った。七瀬の顔に驚きと、そして希望の色が浮かんでくる。
「任せるか?」
藤井が、もう一度聞いた。
「うん」
七瀬は頷いて、ぱっと顔をほころばせた。
「ありがとう、委員長。見直したよ…!」
七瀬の笑顔に、藤井は隙を突かれたように目線を逸らした。
その時…そう、その時。私の胸に、得体の知れない黒い物が込み上げて来た。その黒い物は、私の心臓をわしづかみにしてぎゅうぎゅうと締め付ける。…呼吸が苦しくなって来た。私は、その苦しさから逃れるために、思わず叫んだ。
「藤井!」
藤井がびっくりして振り返る。私は、自分の声の大きさに驚き、手で口をふさいだ。
「なんだよ? マユ」
藤井が訝し気に私を見る。
「うん…あの…私も…私も手伝うよ、それ…」
そんな風に誤魔化して、私は藤井に駆け寄った。
本当は、ただ藤井と同じ場所に居たかっただけだ…。