深海魚達 01
『こないだの話だけど、今日あたりいけそうです♪』
綾美からそんなメールが届いたのは、それから3日後の事だった。
ベッドに寝転がり、携帯の画面をスクロールして行くと、こんな言葉が続いていた。
『裏羽根の店で働いてる知り合いからの情報☆ 今日、コーイチが店に来るらしい。うちらも行ってナナチンのために戦おう! 7時に裏羽根駅中央エンジェル前に集合! ナナチンをオーディションに参加させてあげよーね! アヤミン?。』
…やっぱ本気なんだ。このコ…
携帯を閉じて溜め息をつく。そして頭の下で腕を組み、…どうしよう…? と、考え込んだ。…そりゃあ、できるもんなら私だって七瀬の為に力になってあげたいとは思うよ。あれだけ頑張ってたんだもんね。けど、コーイチさんが、私らみたいなガキの言う事を聞いてくれるのかなあ?…
私は、あの、クリスタルパークでたった一度会ったきりのコーイチの顔を思い出そうとした。輪郭がぼやけて上手く思い出せない。だけど、ダンスに対して一途で厳しそうな感じだった事だけは覚えている。
…とても、そんな話を聞いてくれるような優しい人には見えなかった。て、いうか、もし日程変更ができるもんなら、七瀬が怪我した時にとっくにやってると思う…。第一向こうは仕事でしょう? 頼みに行くだけ無駄な気がするけど…。 いつもの癖で、頭の中でとっさにそんな計算をしてしまう。が、ケガを押してまで練習をしていた七瀬の姿を思い浮かべれば、例え無理と分かっていても力を貸すべきじゃないかとも考えた。けれど参加するにしても、もう一つだけひっかかりがあった。「綾美の知り合いが働いている店」とは、一体どこなのか? コーイチが出入りする事から考えれば、子供が行くような場所でない可能性も大いにあり得る。今どき真面目すぎるかも知れないけど、得体の知れないところに連れて行かれるのはごめんだった。
行くかやめるか決めかねて、グズグズ迷っていると枕元の携帯がぶるぶる震えてメールの着信を知らせた。私はチカチカと赤い光を点滅させる携帯を手にとり、ぱかっと開いてメールを読んだ。そこには、こう書いてあった。
『☆書き忘れてごめん☆ 今日の参加者は、アヤミン、マユちゃん、クズ、委員長の4人です♪ ナナチンにはヒミツでよろしく~☆=』
「藤井が!?」
私は思わず携帯に向かって叫んでいた。
なんで藤井が? あれだけ七瀬を嫌っていたくせに。それ以前に、あの冷静な藤井がこんなお祭り騒ぎに加わるという事が信じられなかった。メールの画面を消してアドレス帳から藤井の携帯番号を呼び出すと、発信ボタンを押した。プルルルと言う数回の呼び出し音の後、「もしもし…」と、眠た気な藤井の声が聞こえた。
「あ、藤井? 今、町田さんからメール来たんだけど…」
「ああ、俺んとこにも来たよ。マユも参加するんだ」
「私はまだ行くかどうか決めてないよ。藤井は参加決定なの?」
「ああ…一応…」
歯切れの悪い言葉が返って来る。その時、なんでだろう? 私の中で何か得体の知れないどろどろとした感情が湧き上がって来た。そして気がつくと、とてもいじわるな言葉を藤井に投げかけていた。
「…へぇ、意外だな…藤井が七瀬の為に、何かしようとするなんて…。あんなに嫌っていたくせに。どういう心境の変化?」
その、皮肉な口調に自分でも驚く。
しばらくの沈黙の後、慎重に…まるで言葉を選ぶかのように…藤井がゆっくりと答えた。
「確かに…俺は、はっきり言って春日が好きじゃなかったよ。…今だって、苦手は苦手だけどさ…こないだの、公園でのアイツの姿見て、なんて言うか…ショック受けたんだ…どう言ったらいいのかな…? 今まであんな激しい奴見た事なかったから…。それとさ、アイツって身内の縁すげえ薄かったりするじゃん。そういうの見てたら、可哀相になって…。町田もきっと俺と同じだと思うよ」
「…それって、つまり町田さんも藤井も七瀬に同情してるってこと…?」
「まあ、ひとことで言えば…」
「そっか…」
『同情』という言葉になぜか安心している自分がいる。同時にいつもの冷静さを取り戻す。そして私は穏やかに尋ねた。
「けど、オーディションの日程変えるなんて無理じゃないかな?」
「9割方無理だと思うよ。でも、ちょっとでも可能性あるなら、何とかしてやりたいと思わねえ? その…『友達』としてさ」
藤井はなぜか『友達』という言葉を協調した。
「…そうだね」
私は、皮肉を言ってしまった自分がとても恥ずかしくなる。
「私も行くよ。万が一って事もあるもんね」
「そっか、じゃあ7時に…」
「うん。7時に」
携帯を切り時計を見ると、まだ4時少し前だ。今からならシャワーを浴びてゆっくり準備しても十分間に合うだろう。タンスを開け、着て行く服を探した。
JR裏羽根駅の広い構内を、仕事帰りのOLやサラリーマンが行き過ぎて行く。私は中央コンコースにある天使の銅像の前に立ち、目の前の改札から降りて来る人々を眺めていた。夏休みのせいか、ショップの紙袋を下げた学生の姿が目につく。若い子向けのブランドショップや百貨店が立ち並ぶ駅周辺は、市内で一番の繁華街になっている。休みに買い物に…といえば大体ここに来る。そして、この天使の銅像前で待ち合わせというのがお約束になっている。今も待ち合わせらしい人達がかなりいて息苦しいぐらいだ。天上に向かって弓を構えるあどけないエンジェルの姿を見て溜め息をつく。
…早く来すぎちゃった…
携帯を開けて時間を見ると、『6:55』。
…でも、もう後5分だ…
携帯を閉じて目を上げると、改札横のキオスクから出て来る藤井の姿を見つけた。ベージュのメッシュキャップをかぶり、モスグリーンのTシャツにボロボロのデニムパンツをはいている。なんとなく、いつもの藤井と違う感じがした…。大きく手を振り合図を送るが、なかなか気付いてくれない。5メートル先ぐらいでやっと私に気付き、一瞬なんだか気まずそうな顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべて「早いじゃん」と言った。ちょうどその時、7時を知らせる鐘が構内に鳴り響いた。
それから、私達は天使の銅像の下に並んで綾美と葛谷の来るのを待った。7時5分を過ぎた辺りで、改札口から綾美が現れた。彼女は、派手なピンクのロゴ入りの黒いキャミソールの下にピチピチのデニムのパンツを履き、茶色の長い髪を頭の高いところで一つに結んでいた。黒いベルトの大きな星の模様がやけに目につく。綾美は銀色のミュールをカパカパさせながら走って来ると、不満げに私達を眺めた。
「これだけー?」
「そうだよ」
藤井が仏頂面で答える。「もっと、早く来い」とでも言いたげだ。しかし、綾美は気にするでもなく、
「クズはー?」
と、例の甘ったるい声で聞いてきた。
「来てない」
藤井が再び仏頂面で答える。しきりに腕時計を眺めている様子から、かなり頭にきているのが分かる。
「もー。クズは~。時間にルーズなんだからあ」
綾美が、自分の事を棚に上げて言った。
それから20分程、私達は葛谷の来るのを待った。時間を持て余してか綾美がしきりに話しかけて来る。どうやら、彼女は私がしている例のピンクダイヤのネックレスが気になって仕方がないらしい。しきりに「キレイキレイ」とほめてくれた。もっとも、他にほめるところがなかっただけかも知れない。なにしろその日の私ときたら、着古した黒のノースリーブの下にこれまた着古したグレーのタイトスカートを履き、母さんに借りたサンダルを履いて…という世にも情けない格好だったのだ。一応自分では頑張ったつもりだったが、綾美と比べるとあまりにも子供っぽく感じられ、正直落ち込んだ。
「でもマユちゃんて、髪降ろすと大人っぽいよね。それに髪サラサラでうらやましい」
哀れむように(と、私には感じられた)褒めてくれる綾美に向かって、情けない声でお礼を言う。
「ありがとう、綾美ちゃん。でも、無理しなくていいよ…」
「おい、それよりあのバカまだ来ねえよ!」
その時、しゃがんでいる私達に向かって、一人腕組みして立っていた藤井が腕の時計を指し示した。
「もう30分だぞ」
「マジで?」
綾美が立ち上がって藤井の時計を確認する。そして、鬼のような提案をした。
「もう、クズだけ置いて行こうか?」
「それ、いい考え」
藤井が即答する。
「でも、葛谷君、どこに行くか知ってるの?」
私が聞くと、
「さ~?」
と、綾美。
「あいつなら、なんとかたどり着けるでしょ!」
と、藤井。
そしてこの冷酷な2人組みは、一人オタオタしている私を置き去りに、さっさと西出口に向かって歩き始めた。
「ちょ…待って!」
仕方なく2人を追いかけようとしたその時、
「いや~、悪い悪い」
と、言いながらようやく葛谷高志が現れた…。
30分遅刻したこの男は、グレーのTシャツの上にオレンジのユニフォームを着て、カーキのダボダボパンツを穿き、シルバーのネックレスをじゃらじゃらさせながら走って来た。なんだかバスケットの選手をみたいな格好だなと思いながら見ていると、後ろ頭を掻きながら、
「いやー。地元の駅で財布忘れた事に気付いちゃってさ」
と、ニコニコ笑う。そんな葛谷を待ち受けていたのは、ひたすら藤井と綾美の冷たい視線だった。が、この男の凄いところは、それらの視線をモノともせず満面の笑みを絶やさなかったことだ。そればかりか私を見て、
「よっちゃん! 久しぶりに会えて俺幸せだよ。それにしても大人っぽくてびっくりしちゃった」
などと軽口をたたく。
「ふざけないでよ…」
私は怒った。しかし、なぜかすぐに顔が熱くなってきて、不覚にも俯いてしまう。
「お前なあ…」
藤井が呆れ返ったようにつぶやいた。
「状況分かってるのか? 先に何か言う事あるだろう?」
「はぁ?」
葛谷は、まるでその時初めて藤井の存在に気付いたみたいな顔をすると、邪魔くさそうに言った。
「何で、お前がここにいるんだよ?」
「とぼけんなよ! 時間守れって言ってるのが分かんねーのか?」
藤井がとうとう本気で怒った。
「うるせー。財布忘れたって言ってんだろうが。日本語通じねえのか? お前は」
それは、自分ではないだろうか?
「遅れるなら、遅れるで、メールぐらい寄越せ!」
藤井の言い分はもっともである。
「まあまあ…」
このままでは収集がつかないと思ってか、綾美がいがみ合っている2人の間に入って、やんわり制止した。
「いいじゃん、これで全員揃ったんだし。それよりそろそろ行こうよ。時間なくなっちゃうよ」
大きく息を吸って、藤井が頷いた
「そうだな」
同じく葛谷も頷いた。そして、尋ねる。
「で、どこに行くわけ? コーイチさんが出入りする店っていったら、やっぱし『club-U』?」
「クラブ?」
私と藤井が同時に叫ぶと、「そうよ」と綾美が無邪気に頷く。その答に絶句しながら、私は藤井と顔を見合わせた。
『クラブ』…その存在はもちろん知っていた。が、今まで自他共に認める優等生だった私にとっては無縁の世界だと思っていた。少なくとも、この年でそんな場所に行く事になるとは思ってもみなかった。それは私の意志というよりは、むしろ…
「俺達…高校生だぞ…」
藤井が私の心を代弁するかのように言う。後を続けるように、私も綾美に尋ねた。
「クラブって、年令制限厳しいって聞いてるけど…確か18才未満は入れないって…」
補導されるのはまっぴらだ。
「ああ、大丈夫、大丈夫」
綾美が手を振って答えた。そのあまり軽さに拍子抜けしそうになる。
「言ったでしょ? 知り合いがいるって。あたしの友達っていえば通してくれるよ。ていうか、元々IDチェック甘いしね…。高校生もけっこう来てるよ。っさ、早く行こ! もう40分過ぎちゃったよ!」
まるで、バーゲンに行くみたいなせわしさで、綾美は西出口に向かって歩き始めた。しかし、私も藤井も戸惑いを隠せない。かかしみたいにその場に立ち竦み、行くかやめるか考え込んでしまう。
「どうする? 行く?」
私は、おそるおそる藤井に尋ねてみた。内心『帰ると言って』と願いながら…。藤井はしばらく目を泳がせていたが、やがて決心したように頷くと、私を見て「行こう」と言った。期待外れな言葉に、驚きと失望を感じる。しかし、そんな私を置き去りにして、藤井は綾美を追いかけ西口へと走り出した。
その後ろ姿を見ながら、私はいまだに躊躇していた。『追いかけなくちゃ』と思うがなぜか足を踏み出す事ができない。その時、目の前に大きな手がすっと差し出された。顔を上げると、葛谷がニコニコ笑って私を見ていた。
「行きましょう、姫」
「…」
私はぽかんとして葛谷を見る。
「大丈夫だよ。クラブったって、別に怖い場所じゃないんだから。踊りと音楽が好きな奴が集まってるだけだよ」
この男は、私の心が読めるんだろうか?
「それに、ホラ俺がいるじゃん…」
大真面目である。
「…」
ぷーっと私は吹き出した。葛谷がびっくりして私を見る。
「何? 何? 何がおかしかった?」
うろたえている。
「やめてって、似合わないから…!」
笑い過ぎて、目から涙が出て来る。私はそれを手で拭うと「さ、遅れるよ」と言って、ぼんやりしている葛谷を背にさっさと歩き出した。葛谷はポケットに手を突っ込み、じゃらじゃらと音を立てながら追いかけて来る。そして不満げに言った。
「何で笑うんだよ? 俺、傷付いた」
「よく言うわよ。そんな繊細なタイプじゃないくせに」
まだ、笑いが止まらない。
「よっちゃん知らないだけだよ。俺って本当はナイーブなんだから」
その言葉で、悪いけどまた吹き出してしまった。
駅前のロータリーを横切って大通りを渡り、百貨店のショーウィンドウを眺めながら北へ向かう。映画館のある四つ角で信号を渡って左に曲がり、3つ目の交差点を今度は右に曲がる。パチンコ屋やカラオケ、スナックや居酒屋のある裏通りをどんどん歩いていくと、正面にコンビニの入った大きなビルが見えて来た。シャッターのおりた自転車屋の前あたりで綾美が携帯を出し、歩きながら電話をかけ始めた。
「もしもし、ヒロユキ? アタシ。アヤミン…うん。もうすぐ着くよ。もう、コーイチ来てる?…そう、ラッキー! じゃ、待っててね」
綾美は携帯を閉じると振り返り「コーイチ居るって!」とガッツポーズをした。…つまり、今の携帯の相手が『店に勤めている綾美の友達』というわけらしい。しかし、ただの友達なんだろうか? 興味本意に思う。
やがて、コンビニの正面に着いた。それは大きな雑居ビルの中の店鋪の一つで、ガラス越しに作業着の男性や、学生風のグループ、ギャルっぽい2人連れ等が買い物しているのが見える。右隣はゲームセンターで、左隣は居酒屋。居酒屋側には階段があり、そこから地下へ降りて行けるようになっていた。私達は狭い階段をゆっくりと降りて行った。それは緩やかなカーブを描き、未知の世界へと続いて行く。一段、また一段降りて行くたびに、否応無しに胸の動悸が高まって行くのを感じる。そして最後の一段まで降り切った時、重々しく閉じられた真っ黒なドアと、その上の『culb-U』という文字をかたどった赤色のネオンが煌々と輝くのを目にした。