その夜に 1
…In my head this sweet music
Hope it stays with me forever
Blue horizon waiting, there's something for us there
窓辺のCDプレイヤーから、囁くような歌声が聞こえて来る。
(この優しいメロディーが
いつまでも私を包んでくれますように
“青い地平線”そこで、私達を待っている何か…)
昔、ちょっと流行ったアルバムなんだけど、凄くいいから…と言って藤井が持って来たCDに耳を傾けながら窓の外に広がる空を見上げると、抜けるような空が、あの蒼いガラスの塔を連想させた。
「また、クリスタルタワーに昇りたいね」
私は隣で本を読んでいる藤井に話しかけてみた。
「うん」
小さく頷くと、藤井はばさりと本を置き、ごろりと畳に寝転がる。私も藤井の真似をしてごろりと横になった。
階下からぱたぱたと母がたてる足音が聞こえる。壁に掛かった時計の針が、ちょうど4時を告げている。私は目を閉じて、流れて来る音楽を聞いた。
(音楽は私達を連れて行く
行きたい場所へ、その羽に乗せて…)
…The music carries you and me
It takes us to where we want to go
And riding on it's wings we well get there don't you know
PM6:30
夕食を一緒に…という母の言葉を「今日は金沢の兄が帰って来るらしいから…」と、断り藤井は帰って行った。がっかりしている母を横目に食事の準備をしていると、居間の電話がけたたましく鳴った。弟の敦が受話器を取る。
「はい、もしもし…そうです。ちょっと待ってください…」
敦は、私の方に受話器を差し出すと叫んだ。
「姉ちゃん、電話! 町田って人から!」
…町田?
意外な名前に首を傾げつつ、私は受話器を受け取った。
商店街といったって、昔にくらべれば閑散としたものだ。東西に走る私鉄の踏み切りを越えた国道沿いに、3年前、大手スーパーの『洋和堂』ができてからすっかり客足が遠のいてしまったと、八百屋のおばちゃんがぼやいていた。
それでも今だに商店街を彩っている小さな吹き流しや色とりどりの旗の下を、自転車をこいで走って行く。閉じられた洋品店のシャッターに、夕日のオレンジ色が映っていた。
駅に向かう緩やかな坂道を下り、白川駅の脇の踏み切りにさしかかった辺りで、ふいに後ろから呼び止められた。振り返ると、白川駅の入り口で藤井が手を振っている。
「マユ!」
「あぁ! 藤井」
私は自転車から降り、その向きをくるりと変えて、藤井の前まで引っ張って行った。そしてこの思いもかけない出会いに驚きつつ口を開いた。
「まだ、いたんだ」
「うん。ここ、電車が30分に一本しか来ないんだな。それより、お前何慌ててるの?」
「ああ。大変なのよ。七瀬が行方不明になったって」
「…え?」
一瞬、藤井は不意打ちをくらったみたいな顔をした。そして、
「春日が…? どういう事?」
と、なんだかうわずった声で聞いて来た。妙に落ち着きのない藤井のその態度にほんの少しだけ違和感を感じたけれど、『それどころではない』と私の理性が告げる。
「うん。藤井が家を出てすぐに町田さんから電話があってね、実は今日、七瀬が退院して来たらしいの。…私もさっき電話で知ったばかりなんだけどさ。…それで、町田さんと七瀬のおばあさんとで七瀬の世話をしていたらしいんだけど、2人が夕食の材料を買いに出かけてる間に、あのコ居なくなっちゃったっんだって。まだ、足の包帯も取れてなくて、お医者さんからは一週間は絶対安静って言われてるらしいのに…」
「そう…」
藤井は、私の説明を聞いて眉をしかめた。
「今、町田さんが、おばあさんと一緒にで七瀬の家の近所を探してくれてるの。でも、2人とも、この辺りの地理に詳しくないでしょ? だから、私にも手伝って欲しいって。今から私は線路向こうを探すつもり…」
「よし、俺も探すよ」
「え…?」
私は驚いて藤井の顔を見た。
「でも、金沢のお兄さんは?」
「ああ、いいよ。兄貴なら一週間ぐらい居るだろうし。きっと、事情をいえば分かってくれるさ…。それよりまだ包帯が取れてないんなら、アイツもそんなに遠くまで行ってないはずだ。俺はあっちを探すよ。見つけたらケータイ鳴らす」
そう言うと、彼はその黒い髪をなびかせ夕日の沈む方向へと走り出して行った。私は、その後ろ姿が消えるまで見送ると、自転車の向きを変え、力強くペダルを踏んだ。
しかし、30分程国道からニュータウンまでの入り組んだ道をくまなく探してみても、七瀬の姿は見つからなかった。不吉な予感が胸によぎる。まさかとは思うが、オーディションに出られなくなった事を悲観しての自殺…とか? 馬鹿馬鹿しい…。あの七瀬に限って…ありえない。胸に涌き上がる嫌な思いをかき消すように首を振る。
それにしても、随分遠くまで来てしまった。あの足で、いくらなんでもここまでは来られないだろう。
ザーザーと流れる用水の音を聞きながら辺りを見回せば、薄やみの中同じような外観の住宅が右手にずっと続いており、その一件一件に白い明かりが点っていた。用水を挟んだ向こう側には竹やぶがあり、さわさわと聞こえて来る葉擦れの真上に星が点々と瞬いている。携帯を開けると、もう7時を回っていた。 …そろそろ引き返そうか…
多少の未練を残しながら、携帯を閉じて自転車の向きを返る。重い気持ちを抱えて元来た道をゆっくりと辿ると、やがて国道が見えて来た。和洋堂の正面の横断歩道で信号待ちをしていると、篭の中で突然ブルブルと携帯が鳴った。手に取って見てみると、着信は藤井から。七瀬が見つかったのだろうか? 夢中で携帯を開く。
「もしもし! 藤井?」
すると電話の向こうから、藤井のやけに焦った声が聞こえてきた。
「マユか…? 春日…見つけたよ。早くこっちに来てくれ!」
「本当に? どこ?」
間髪入れずに聞き返す。
「ああ、よく分からないけど、公園だよ。隣に役場みたいな建物が見える。とにかく早く来てくれ…俺じゃ止まらないんだよ」
「止まらない? 止まらないって、どういうこと?」
私は、藤井の奇妙な言葉に耳をそばだたせた。すると、藤井が泣きそうな声で答える。
「あいつ…あいつさ、踊ってるんだあの足で…。早く来てくれよ。俺じゃ止められないよ」
…踊っている?
一瞬、藤井が何を言っているのかが分からなかった。が、やがてあのクリスタルパークでの七瀬の姿と、同時に七瀬が自分の決めた事を軽々しく曲げたりしない人間である事を思い出す。そうだ、あの子はオーディションに出る気なんだ!
あの足で…!
私は「すぐ行くから」と答えて携帯を閉じると、信号が青に変わりきるのも待たずに横断歩道を渡った。
「役場みたいな建物がある」という藤井の言葉のおかげで、案外すぐに2人の居所は分かった。藤井の推察通り、そこは白川町役場の脇の公園だった。町民の為に開かれたスペースと銘打たれたその場所には、子供達のためのブランコや滑り台、ジャングルジムなどが設置されている。
七瀬はその中央の銀色の時計台の下に例の赤いラジカセを置き、時計台のてっぺんの街灯が描く真っ白な光の輪の中で、あの4つ打ちのリズムが奏でる音楽に合わせて踊っていた。けれどもちろんあのクリスタルパークで見たような鮮やかさはなく、思うに任せぬ右足を引きずりながら、必死でステップを踏もうとする姿が痛々しく映る。
藤井はといえば、鉄棒の横のベンチに座り、両腕を膝につき、手を口に当て、真っ赤な顔で七瀬を見ている。私は、入り口の脇の金網の前に自転車をぴったりと停めると、
「七瀬!」
と叫びながら、公園の中に駆け込んで行った。七瀬が驚いたように目を大きく開いて私を見た。私は、七瀬に駆け寄って赤いラジカセのスイッチを切ると、
「やめなよ。足動かなくなったらどうするの?」
と、七瀬の腕をつかんだ。が、その手を振りほどき、私を睨み付けると、彼女はふて腐れたようにラジカセのスイッチを入れた。そして、またたどたどしくステップを踏み初める。まるで、意地になってるみたいに…。
「ダメだってば…!」
私はもう一度ラジカセのスイッチを切り、七瀬の手に届かないように、それを腕の中に抱え込んだ。
「返してよ!」
七瀬は手を延ばして私の腕をぎゅっと掴んだ。物凄い力だったが、絶対離すまいと身を屈めてそれを守る。すると今度は彼女が私の腕を引っ掻いてきた。その痛さに思わず片手を離して、バシッと頬を殴ってしまう。それ程強く殴ったわけでも無いのに、七瀬はよろりとバランスを崩すと、…驚いた事に、なんと、土の上にうずくまって泣き出した。
思いもかけない反応に、私は言葉を失ったが、しかし、すぐに気を取り直して泣きじゃくる彼女の肩を叩いた。
「ごめん、殴ったりして…。でも…ねえ…お願いだから、そんな無茶しないでよ」
七瀬は何も答えずひたすら泣きじゃくっている。可哀相だとも思ったが、心配のあまりついつい口調が厳しくなるのを押さえられなかった。
「ねえ、なんとか答えなさいよ。町田さんも藤井も、あんたのおばあさんも、皆が心配してるのよ。あんたそんな風に他人に心配ばかりかけて悪いと思わないの?」
すると七瀬は、片目だけをこちらに向けて答えた。
「どうしても、オーディションに受かりたいの! そうしないと、コーイチと一緒に居られなくなっちゃうの! だから邪魔しないで!」
「コーイチ?」
私はクリスタルパークで会った、あの強面な男を思い出した。
「ねぇ、お願い。私、コーイチと離れたくないの」
七瀬はそう言ってよろよろと立ち上がると、再び私からラジカセを奪おうと手を伸ばす。
「だめ!」
首を振って後ずさりすると、七瀬は髪を振り乱して叫んだ。
「偽善者ぶらないでよ! あんたは私を切り捨てたんでしょ? 中途半端に関わってこないで…!」
一瞬、ラジカセを抱える私の腕が弛んだ隙を見のがさず、七瀬がそれを奪い返す。そしてスイッチを入れると、たどたどしい足取りで、また踊り始めた。
※『Rock'n Roll』
Lyrics :Tomoko Kawase(Translation:Tomoko Kawase)/the brilliant green