NeWS 3
「謝って欲しいって? 一体どういう事?」
葛谷が目を丸くして七瀬に尋ねる。
「さあ?」
七瀬が、首をかしげる。
「イミ分かんねーし!」
町田が吐き捨てる。
私の頭の中にも『?マーク』が飛び回っていた。一体、この状況下で七瀬が何を謝るというのだ? あまりの話の展開の目まぐるしさに、帰ろうとしていた事も忘れて私は目の前で震えている痩せっぽっちの少女の口元を見つめた。しかし、いつまで待ってもそこからは何の言葉は出て来ない。町田が苛立った声ようにを荒げた。
「黙ってないで、なんとか言えって。なんでナナチンがあんたに謝らなくちゃい
けないわけ?」
すると鈴木靖子は町田を見上げて、ようやく重い口を開いた。
「謝ってほしいのは、私にじゃありません。…た…武田竜一先輩にです!」
武田竜一…? 思いもかけない名前に、私は驚いて鈴木靖子の顔を見た。同時に、私はなんとなくこの事件の全貌が見えた気がした。しかし、町田と葛谷にはピンと来ないようだ。
「武田? 誰? クズ知ってる?」
「いや? どっかで聞いたような気もするけど…誰だっけ?」
まどろっこしく考え込む2人に向かい私は
「生徒会長よ」
と、思わず口を挟んだ。今まで黙って話を聞く一方だった私が急に喋ったものだから、驚いたんだろう。葛谷と町田がこちらを見る。そしてすぐに葛谷は手を叩き、大袈裟に頷いた。
「あ、そっか。そうそう。思い出した。さすが、よっちゃん!」
そんな自分に対して一瞬町田が向けたうさんくさそうな視線を無視し、葛谷は鈴木靖子目の前にしゃがんだ。そして子供を諭すように、嫌味な程丁寧に尋ねた。
「で、なんでその…生徒会長にナナさんが謝らなくちゃいけないワケ? そいつが、謝れらせろって頼んだわけ? 突き落としてくれって言ったわけ? 大体あんた一体そいつのなんなの?」
「それは…」
鈴木が口籠ると、葛谷がまったく見当違いな発言をする。
「まさか、彼女とか?」
「ち…違います。違います。まさか、私なんか…」
鈴木は顔を真っ赤にして激しく否定した。
「だったらさあ、おかしいんじゃないの? 君がナナさんに謝れとか言うの…。分かってるの? 君のやった事はシャレにならないんだよ。自覚しなくちゃ。ちょっと、間違えば殺人よ、殺人」
葛谷が厳しくかつ大袈裟に(しかし、口調だけは優しく)詰問すると、いきなり鈴木がわっと泣き出した。葛谷はびっくりして飛上がり、助けを求めるように私に顔向けた。
一方、町田は容赦がない。
「泣けば済むと思ってるんじゃねーぞ」
鈴木をさらに追い詰める。
「ちょ…ちょっと待ってよ町田さん。そんな言い方可哀想じゃない。ねえ、話ぐらいは聞いてあげようよ」
私は庇うように鈴木の前に立った。やった事は決して許せないとはいえ、既に十分に責められ、ひたすら泣きじゃくっている少女の姿に、おせっかいにも同情してしまったからだ。町田は、ちょっと嫌な顔をして「勝手にして」とでも言うかのように、黙ってそっぽを向いてしまった。私は、鈴木の顔を覗き込んで尋ねる。
「ねえ、鈴木さん。あなたは、何を七瀬に謝って欲しいの?」
すると、鈴木は丸い眼鏡を外して私の顔を見た。そして、ちょっと安心したのかしゃくりあげるのをやめると、ポケットから黄色ともオレンジともいえないハンカチを取り出し、溢れ出る涙を拭った。そして、
「わ…私は武田先輩の彼女じゃなくて、ただのファンです!」
まるで、それが最も重要な事かのように、嗚咽まじりに言う。
「ファン? 何それ? ゲーノー人かよ!」
葛谷が、まったく理解できないといったように叫んだ。その声の大きさに驚いて、また泣き出してしまった鈴木に代わって私が説明する。
「芸能人じゃないけど、武田先輩は顔が良くて、頭が良くて、明るくて、スポーツ万能だから、一部の女子の間で凄く人気が有るの」
葛谷は顔をしかめた。
「そんな奴、実在するのかよ? っていうか、まさかよっちゃんもそいつの『ファン』とか言わないよね」
「違うわよ。私は先輩とは委員会でたまに会うだけ」
よけいなこと言わなくていいの! 私は葛谷を睨み付けた。
「大体、あの人が好きなのは七瀬なんだから…!」
おそらくそれが、今回の事件のネックになっているのだろうと匂わせてみる。すると、葛谷も、そしてそっぽを向いていた町田までもが、目を丸くして驚いた。
町田が口を開く。
「それ、本当?」
私は頷く。
「本当よ」
葛谷が疑わしに尋ねて来る。
「けど…なんで、そんなことよっちゃんが知ってるのさ?」
「だって、私、入学したての頃にあの先輩から七瀬との橋渡し頼まれたんだもん。…そういう奴多いのよ。多すぎてキリがないから、断る事にしてるけど…」
「そうなんだ…」
葛谷が、妙に納得顔で何度も頷いた。おそらく彼も私と同じ推測に辿り着いたのに違いない。そして、やはり同じ事を考えたらしい町田が、断定的に頷いた。
「それで分かったわ。その…生徒会長がナナチンを好きなのが、このヒト気に入らなかったんだ。それで、階段から突き落としたってわけ? それ、ストーカーじゃん」
ところが、鈴木は私達の素人推理をはっきり「違います!」と否定した。そして、涙でぐしょぐしょになった顔を町田に向けて叫んだ。
「そんなことで、突き落としたりしません!」
売り言葉に、買い言葉で町田が怒鳴り返す。
「嘘ついてんじゃねーよ! 他に理由があるかよ!」
「もう、いいかげんにしなさいよ…」
私は、喧嘩腰の町田の姿が見えなくなるように鈴木の前にしゃがむと、できるだけ穏やかに尋ねた。
「じゃあ、なんで突き落としたりしたの? 教えてよ。鈴木さんが七瀬に謝って欲しい事も一緒にさあ…」
すると、鈴木はようやく涙を止めて、ゆっくりとその理由らしき出来事を話し始めた。その内容を要約すれば、次のような事になる。
昨日の放課後、武田先輩が七瀬に告白をした。派手好みの先輩らしく、正門前の帰宅する生徒達がたくさん見ている中で七瀬を呼び止めて「お願いです。付き合って下さい!」と頭を下げたらしい。ところが七瀬はあっさりと断った。さぞかし武田先輩は驚いた事だろう。なにしろ、彼は『この世の中に自分を振る女の子がいる』なんて考えた事がないような人なのだ。(つまり、自信過剰なのである)決して悪い人ではないのだが…。
「ごめんなさい」と言ってさっさと行こうとした七瀬を、よせばいいのに先輩は引き留めて「なんでだよ? 俺なら君の事なんでも分かってあげられると思うんだよ。君の寂しさも埋めてあげられると思うんだ」とかなんとか言ったらしい。衆人環視の中でこんな事を言えるのは、日本広しといえど先輩ぐらいのものだろう。(しかも、またそういう臭いセリフが嫌味でなく似合う人なのだ)
その後、七瀬は振り返って言った言葉が良くなかった。「バカじゃないですか? あなたに私の何が分かるっていうんですか? 自惚れないで下さい。あなたみたいに、ちょっと女の子に騒がれているぐらいでいい気になってるような『お山の大将』には、私はまったく興味ありません」
鈴木の口を通しているのでこの程度だが、実際は、もっときつい言葉を浴びせたと思われる。葛谷と町田は七瀬のこの言葉に、少なからずショックを受けているようだった。
が、私の知っている春日七瀬なら、これくらいの事はなんの良心の呵責もなしに言えるだろう。
…それはともかく、七瀬のこの言葉を聞いた周囲からは、思いきり非難の声が上がったらしい。
「何? 今の」
「ムカツク」
「ちょっと可愛いぐらいで、いい気になってんじゃねえよ!」
…と、おそらくこんな具合だったんだろう。七瀬はそれらの声をものともせず、堂々と立ち去って行った。
七瀬の姿が見えなくなると、先輩は左右で騒ぎ立てる自分のファンを静かにさせて、
「いいんだよ。…確かに、俺、ちょっと自惚れてたかも知れない。春日さんとつり合うのは俺だけだって…心のどこかで思っていたし…彼女は、正しいよ」
そう言って溜め息をつき、弱々しく笑った。…3ヵ月ばかりの付き合いの私が言うのもなんだが、半分ぐらいはファンの女生徒の同情を引くための演技だったと思う。(繰り返すが、先輩は決して悪い人ではない)
ところが、ちょうどその時、先輩の正面に立っていた鈴木靖子は、いつも明るくて堂々としている先輩の、こんな哀れな姿を見て、胸がぎゅっと締め付けられるような気がした…らしい。そして『今こそ先輩のために自分が何かする時だ』…とやみくもに思い込み、その足で七瀬を追いかけた。
彼女の言い分では、初めは謝って欲しくて追いかけただけらしい。ところが、例の階段でやっと七瀬の姿を見つけた時、七瀬は携帯で誰かと話していた。誰かは、分からなかったがしきりと男の名前を呼んで笑っていたらしい。今の今、先輩をあんなに傷つけておいて、へらへらと笑っている七瀬の姿を見た途端、鈴木の頭がカッと熱くなり…
「気がついたら、春日さんが階段の下で苦しそうに呻いていました。私は、怖くなってその場から逃げ出しました…。こんな私は、確かに最低です。でも、春日さんが先輩に言った言葉はもっと最低だと思います。お願いします。先輩に謝って下さい」
私も、葛谷も、町田すらも、何も言うことができなかった。うつむいてちらちらとお互いの顔を眺めていると、七瀬の冷たい言葉が響いた。
「謝って、どうなるのよ? 謝ったって、私の考えは変わらないわよ」
その言葉で、鈴木靖子が、また泣きそうに顔をゆがめた。
山の端に置き去りの茜雲。
コバルトが空に滲み出す頃、私は自転車を曳き、町田や葛谷と横一列に並んで薄暮の坂道を下り降りて行った。道はなだらかに南へ向かい、坂が終わるところで東南から北西へと流れる白川と交差している。その清流に架かる灰色の高い橋の上で、町田がいきなり立ち止まり低い声で言った
「やっぱり、あの鈴木って女がおかしいんだよね」
私は斜後ろを振り返り、淡い影のような町田を見た。町田は縋るような目で同意を求めている。どう言っていいのか分からず戸惑っていると、私達のちょうどまん中を歩いていた葛谷が溜め息まじりに答えた。
「そりゃあ、どんな理由があったって、アイツのやった事は間違ってるさ。…でもさ、ナナさんも、なにもあんなきつい事言わなくたって…。俺ちょっとショックだったかも…」
その言葉で、町田の顔に失望の色が浮かぶ。そして、今度は私に意見を求めて来た。
「ねえ、あんたはどう思うの?」
「え…? 私? 私は…」
「ナナチンが武田って奴に言った事とか…あの場合、仕方ないんだよね」
「う…うん」
頷くよりなかった。今、町田が求めているのは、肯定だけだなのだ。彼女は七瀬を信じたいんだろう。無邪気に七瀬への友情を守ろうとする町田を、なんで、傷つける必要があるだろうか? …と、私は考え、
「きっと、断ってもなかなか分かってくれない人が多かったから、それで、ついつい言い方がきつくなったのよ。あの子ストーカーされた事もあるし…また同じ目にあうのが嫌なんだと思うよ」
模範解答を与える。
「そうか、…そうよね」
町田が納得したように頷いた。そして、
「仕方ないよね、その場合」
私を見て笑顔を浮かべる。いい笑顔だった。この子は、私なんかよりずっと正直で優しいのだと確信する。
「そういう事なら…仕方ないのかなあ?」
葛谷が首を傾げる。まだ何か納得いかないようだ。「でもさ、」と彼は付け加える。
「あんな怪我しちゃって…オーディションはどうするんだろう?」
その言葉で町田がハッとしたように葛谷を見た。…そういえば、そんなこと言ってたっけ…。私は、ぼんやりと随分前に聞いた葛谷の言葉を思い出す。『ナナさんはコーイチさんが新しく作るダンスチームに入りたくて、今も必死で練習してるんだよ。頼むから応援してあげてよ、よっちゃん』
「8月27日だろ? 確か」
葛谷が真面目な顔で町田に確認した。
「うん…」
町田が頷く。
「でも、あの足じゃ練習できないじゃん。全然無理だ! ナナチン可哀想」
結局、鈴木靖子の処分は停学一週間という事に決まった。 次の日には、すっかり学校中の噂になっており、動機について色々な憶測が飛び交っていた。学校からは「これは不幸な事故だが、偶然とはいえ相手に怪我をさせてしまった事の重大性を考え、停学に処する」という説明がなされた。もちろん、これは真実ではないが、鈴木靖子が本来は真面目な生徒であったことと、自首して来たこと、しかも本人が深く反省している事などを鑑みての教師達の恩情であろう。
そうこうしているうちに夏休みが訪れた。長い休みが終わった頃には、みんな事件の事など忘れているかもしれない…。