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あまりの傾斜のきつさに、いったん自転車を止める。額の汗を拭いながら目を細めて坂の上を眺めると、青空の下の鮮やかな緑の山を背に、七瀬が入院している真っ白な病棟が見える。『市立白川病院』…この辺りでは一番大きな救急病院である。私の家から自転車で約10分…つまり『白川駅』からは20分のこの場所まで、昨日七瀬は痛む足を引きずって一人で行ったというのだろうか? そう考えるとわずかに心が痛んだ。
今、私は担任の松岡先生に命じられ、副委員長としてクラス代表で七瀬の見舞いに行く途中だ。自転車の篭の中では、クラスのカンパで買ったお見舞い用のピンク色のユリと白いバラの花束がゆらゆら揺れている。本来なら一緒に来ている筈の委員長…藤井は、夏の大会に向けて水泳部での特訓があるなどとうまい理由を作って逃げてしまった。代表選手でもない藤井に、特訓など必要なわけがない。私には分かっていた。本当の理由は、ただ七瀬に会いたくないだけである。七瀬に会うのは私にとっても苦痛だったが、どちらかが行かなければ収まりがつかない。家も近い事だし…これも副委員長としての仕事だと割りきって行く事に決めた。
とろとろと坂を登り病院の敷地内に入ると、正門脇の駐輪場に自転車を止め花束を手に駐車場を突っ切り正面玄関から院内に入る。大勢の患者が順番待ちしている受け付けロビー前の柱に貼られた案内板でエレベーターの場所を探していると、1組の担任の柴田先生と中年の女性を連れて歩いて行く松岡先生の姿が見えた。先生は、私より一足先に、七瀬を突き落とした生徒とその保護者を連れて七瀬に謝罪に行く手筈になっていた。中年の女性の目が心持ち赤くなっている…おそらくあれが七瀬を突き落とした生徒の母親だろう。柴田先生がいるという事は、つまり犯人は1組の生徒だという事になる。一つだけ腑に落ちないのは、肝心のその生徒の姿が見えない事だった。
声をかけあぐねているうちに、先生達は正面玄関から出て行ってしまった。おそらく謝罪が済んだのだろう。少なくとも今日のところは。その背中を見送ると、私はエレベーターの場所を確認し、5階の七瀬の病室を目指した。
七瀬のいる502号室は、6人の患者が入れる大きな部屋で、黄色いカーテンで間仕切りされた一番窓際のスペースに、右足を吊るして七瀬が横たわっていた。気まずさから来る胃の痛みを押さえながらカーテンの中を覗き、私はぎょっとした。なぜならそこに、予想外の人物が居たからである。今までに面識があったわけではないが、しかし一目見てすぐ私は彼女が誰なのかを悟った。萩高の生徒が言った犯人の特徴そのままの『痩せ形で眼鏡をかけたショートカット』の少女は、両手を膝に乗せ、俯いて座っていた。彼女の母親と同様、目が赤く腫れている。その足下に投げ出されたスポーツバックに書いてある名前を、私は素早く読んだ。『鈴木靖子』…それが、七瀬を突き落とした少女の名前だった。なぜ、彼女はここにいるんだろう?
私に気付いて立ち上がろうとした鈴木を「すぐに帰るから」と手で制すると、私はそっぽを向いて眠っている七瀬に声をかけた。
「具合はどう?」
七瀬は私の声を聞くと驚いたようこちらを向き、そして嬉しそうに顔をほころばせた。その笑顔に胸が締め付けられそうになる。にもかかわらず、その思いに抗うようにわざと素っ気無く私は言った。
「副委員長として、クラスを代表で来たの」
途端に七瀬の顔にありありと失望の色が浮かんだ。そして、
「あ、そうなんだ」
と答えてぷいっとあちらを向いてしまった。
加害者と被害者。そして七瀬を許さない私との間に、どうしようもなくしらじらしい雰囲気が漂う。「これ、クラスの皆から、お見舞い」私は手にしていた花束をベットの脇の棚の上の花瓶に生けながら、この場に一番相応しい言葉を探した。
「けがは、ひどいの?」
七瀬がそっぽを向いたまま答える。
「…たいした事ないわ。足首の骨にひびが入っただけ。全治一ヵ月って」
「痛むの?」
「少しね」
「ここまで一人で来たの?」
「駅からタクシー拾った」
「お父さんは来たの?」
「今、出張中だから…。でも神奈川のおばあちゃんが来てくれるって。…もう、いいでしょ?」
まるで受けたくもないインタビューを断るかのように、七瀬は目を閉じてしまった。再び、気まずい雰囲気が漂いはじめる。だんだんいたたまれなくなって来て、「じゃあ、これで」と早々に退出しようとしたその時…
「あ、よっちゃんまだ居たんだ」
例のノーテンキな声が聞こえ、制服姿の葛谷がカーテンから顔を覗かせた。後ろには、ピンク色の包装紙でラッピングした小さな箱を持って町田が立っていた。町田は警戒するような目で私を見たが、葛谷は「だったら、一緒に来ればよかったな、アヤミン」などと言ってあははと笑う。それには答えず、町田はカーテンの中に飛び込むと、
「大丈夫? ナナチン」
と、大袈裟に叫んだ。すると七瀬は目を開き「あ、アヤミン。クズっちも来てくれたんだ…」と言って笑顔を浮かべた。そして、笑いながら言う。
「大丈夫よ。ちょっとひびが入っただけなんだから」
「でもさ、足でしょ?」
町田の言葉で七瀬の笑顔が少し翳る。同時に葛谷も渋い顔をした。
「ヤバいんじゃないの?」
「うん…」
小さく答えると、七瀬は何かを言い淀んでこちら(おそらく鈴木靖子)を見た。
話が見えないままぼんやり立っていると、町田が早く帰れとでも言うように私の顔を睨み付ける。ついでに私の横にいる少女にも冷たい視線を浴びせかけた。「誰だよお前」とでも言いたげな目つきだった。
ところが、次の瞬間町田の目に驚愕の色が浮かぶ。彼女にもすぐに分かったらしい。それは葛谷も同じだったようで、珍しく真面目な顔をして呟いた。
「おい、もしかしてそいつ…」
さすがにそれ以上言うのは、憚られたのかそこで言葉を止めると、その続きを町田が叫んだ。
「あんたが、ナナチンを突き落としたのね!?」
鈴木靖子はおびえたように町田の顔を見上げた。そして、まるで追い詰められた囚人のように、真っ青な顔で「そうです」と頷いた。
「ふざけんな!」
町田が罵声を浴びせる。
「なんでそんな事したんだよ! あんた自分がやった事分かってるの?」
つかみかからんばかりの勢いの町田を、葛谷が背後から抱え込む。
「おい、やめろよ」
「クズは黙っててよ! 言えよ! なんでだよ? まさか誰かに言いつけられたわけじゃないよな?」
町田は、あくまでも小林を疑っているようだ。葛谷がたしなめる。
「おい、よせって。気持ちは分かるけど、ここは病院だぞ…!」
ふと見れば、隣のベッドの患者がカーテンから顔を覗かせて迷惑そうにこちらを見ている。町田はそれに気がつくと、葛谷の腕を振りほどき大きく息をついた。そして、今度は小さな声で質問した。
「小林ユキにやれって言われたんでしょ?」
「ち…ちがいます。全然違います」
鈴木は大きくかぶりを振った。
「もうよせよ、彼女も反省したから自主したんだろ?」
葛谷が口を挟む。そして、いままで一度も私が見た事がない怒りを押さえた顔を鈴木靖子に向け、
「あんたも、もう帰れよ。なんでこんなところでボヤボヤしてるんだよ?」
と、低い声で言った。おそらく町田以上にはらわたが煮えくり返っているのだろう。
その時、七瀬の冷めた声が響いた。
「いいのよクズっち。その人、私に何か謝って欲しくてここに残ったらしいんだから…」
私達は驚いて、一斉に七瀬と、鈴木靖子の顔を見比べた。