NEWS 1
ひんやりとした廊下側の席に座り、私は窓の外に向かって「バイバイ」と手を振った。すると、廊下にいた前野紗知が笑って手を振り返してくれる。浅黒い肌に、ボーイッシュなショートカット。でも、笑うとすごくかわいい紗知。紗知は、紺色のスポーツバッグを背負うと、部活の仲間達と楽しそうに喋りながら歩いて行った。
バレー部の紗知は今から部活だ。名目図書部、実質帰宅部の私と違い、いつも遅くまで学校にいる。藤井も今日は部活だし、優香はデートで、メグミは病欠。仕方ない。今日は一人で帰るか…。
机の中の物を鞄にしまいながら反対側の窓辺を見ると、眩しいばかりの日ざしが教室の中程まで、これでもかといわんばかりに注ぎこんでいる。席替えでこっち側に来れてよかった。あの窓際の席じゃ、この季節暑くてしょうがないもの。…難をいえば、藤井と離ればなれになっちゃった事が悲しいけど、かわりに紗知っていう友達ができたし…。
6月の終わりの席替えで、私は前野紗知と隣同士になった。それがきっかけで、色々話すようになり、気がつけば紗知の元々の友達である優香やメグミも交えて、私達はすっかり仲良くなっていた。
面倒見のいい前野紗知に、おっとりした白石優香。そして、ジャニーズファンの澤村メグミ。仲良くなってから分かったのだけど、みんな、孤立している私の事をずっと心配してくれていたらしい。「でも、マユは絶対いい奴だと思ってたよ。だって『あの春日』を庇うぐらいだもん」紗知が、そう言ってくれた時にはマジメに涙が出そうになった。補足すると、七瀬は一部の女子の間では、相変わらずひどく嫌われている。
…さて、そろそろ帰ろうか…鞄を持って立ち上がると、教室の後ろからけたたましい笑い声が聞こえてきた。振り返ると、町田が葛谷を指差して笑っている。葛谷は5、6人の生徒のまん中で、頭の上にボールペンを立てギターをひくマネをしていた。その姿を見て溜め息をつく。…バカだ…。その輪の中には七瀬もいて、町田と一緒に笑っていた。
七瀬とは、あのクリスタルパークでの夜以来一言も口をきいていない。が、今の所、七瀬も町田や森山とうまくやっているらしい。それについて、彼女の中にどれほどの葛藤が有るかは(あの性格からして)計り知れないけれど、とりあえず波風を立てないのは、成長した証なのだろうか?
その後も、時おり話しかけて来る葛谷の言葉から、七瀬が相変わらずあの公園でダンスの練習をしており、それは例のコーイチという青年の新しく作るダンスチームのメンバーになりたいからである、という事を知ったが、今の私にとっては既にどうでもいい事になっていた。
七瀬の方も、私と仲直りする事はもう諦めたらしい。こうして、放課後同じ教室にいても、まったく声をかけて来ないし、メールも送って来ない。手紙のようなメモが教科書の中に紛れている事もなかった。
もう二度と七瀬と話す事もないかもしれない…。私は、楽しそうに笑う七瀬の顔から目を背けると、さっさと教室から出て行った。
7月の太陽が、校舎の外のアスファルトに鮮やかな陰影を描いている。グランドからは野球部の部員達が上げるかけ声や、ボールがバットに当たるキーンという音。そして、校舎からはブラスバンドの演奏。体育館からは、シューズが激しく床を軋ませる音とドリブルの音が響いてくる。
本格的な夏に向け、学校全体に熱気が溢れていた。深呼吸をして真っ青な空を見上げると、遠くからスタートを告げるホイッスルと、同時に上がる水の音が聞こえた。体育館の横のプールでは、今頃藤井も、夏の大会に向けて練習しているのだろう。私は、藤井のいる方向へ視線を送った。
高校入学以来やっと訪れた私の穏やかな生活を、誰よりも喜んでくれたのは藤井だった。彼は、七瀬との縁が切れた事については「残念だけど、仕方ない」で済ませているようだった。と、いうより、七瀬に関する話題を極力避けているようにも思えた。それ程藤井は七瀬が嫌いなのだろうか?
私達は学校ではあまり話さないようにしていた。そのかわり毎日メールのやりとりは欠かさなかったし、休日は必ずどちらかの家で会った。そして、藤井に会う時は必ず、私の胸にあのピンクダイヤが輝いていた。一度藤井が、それをまじまじと見て、本物か偽物かを真剣に考えていた。しかし、こんな大きなピンクダイヤが簡単に手に入るはずがないから『これは、きっと精巧なイミテーションだろう』という結論に達した。『そうかな? 私は本物だと思うよ』私は反論した。『だって、これはおばあちゃんが恋人からもらった物だもの。証拠の写真だってあるのよ…』
例えこのダイヤが偽物だったとしても、既に私はそれを手放せなくなっていた。なぜなら、万が一にも今の幸福感を失いたくなかったからである。夏の制服になってからは、首にかけると目立つので、グレーの小さな巾着袋に入れて鞄の奥底にしまい、いつでも持ち歩いていた。頭の隅ではバカバカしい事だと分かっていたけれど、どうする事もできない。私はすっかりこの『魔法のダイヤモンド』の呪縛にかかっていた。
そんな風に、平穏な毎日を過ごしていると、あっという間に夏休みが近付いて来た。そして、夏休みまであと3日という快晴のある日、唐突に事件は起こった…。
「絶対、あの女に決まってる!」
昼休み、教壇の周りで他クラスの女子を交えてたむろしている小林ユキを睨み付け、町田綾美が叫んだ。
「よく、平気な顔で笑えるって。ムカツク!」
「まあまあ。アヤミン。どうどう」
葛谷が、まるで暴れ馬をおとなしくさせるように、両手で町田をなだめる。すると町田はくるっと顔を振り向かせ、葛谷に突っかかった。
「クズはナナチンがかわいそうだとか思わないわけ?」
「そりゃ、思うよ。誰よりも思ってるって」
「じゃあ、一緒に怒りなよ! 絶対アイツが犯人なんだから!」
「けど、証拠がないだろ? 証拠もなしで疑うのは人としてどうよ?」
「あーあ、もう。うるさいなあ。いちいち騒がないでよ」
雑誌『POPORA』から目を上げて、メグミが小さな声で呟いた。眼鏡の奥の丸い目が教室中央に立っている町田と葛谷を疎まし気に見つめている。
「しっ! 聞こえるよ!」
癖っ毛の優香が人さし指を口に当てた。
「でも、うるさいんだもん」
メグミが頬をふくらませる。紗知が笑って「まぁまぁ」と言った。私は彼女らと自分の机を囲みながら、町田と葛谷が囲んでいるからっぽの席…七瀬の席を見て、ふぅっと溜め息をついた。
事の起こりは、昨日の夕方。七瀬が『学園前駅』の階段から落ちて足を骨折して、なんと入院しまったのだ。しかもただ落ちたのではない。何者かに突き落とされる所を、たまたま通りがかった萩高の生徒が見ていたらしい。朝から教室内はその噂でもちきりだった。
『誰が春日七瀬を突き落としたのか?』生徒達の関心はもっぱらその事である。水面下で犯人探しゲームが繰り広げられていた。そんな雰囲気の中、ついこの間まで七瀬をいじめていた小林を、町田が疑うのは無理もなかった。が、萩高の生徒が見たという、ショートカットで痩せ型のメガネをかけた女生徒と、中肉中背でセミロングの小林とは、あまりにもイメージが懸け離れ過ぎていた。…にもかかわらず、町田はかたくなに小林を犯人と思いたがっているようだ。彼女の言い分では、小林が誰かに命令してやらせたのだということらしい。あり得ない事でもないが、葛谷の言う通り証拠がない。だが、小林以外に七瀬に対してあんな危害を加える人間がいるのかどうかも疑問に思える。もっともメグミの情報によれば、七瀬に反感を持っている女生徒は他にもけっこう大勢いるらしいが…。
教壇の周りの小林達が、携帯を覗きながら一斉に笑い声を上げた。
「へらへら笑ってんじゃねーよ!」
町田が、また聞こえるように言う。葛谷はさじを投げたのか、首を振りながら自分の席に戻ってしまった。代わりにポニーテールの森山千尋が町田をなだめに入る。
「よしなよ、アヤミン。そのうち分かるよ。悪が栄える試しがないんだからサー」
そのセリフに誰かが「ぷっ」と吹き出した。すると町田は、怒りに震えながら教室を見回した。吹き出した犯人を探そうとでもいうのか? クラスメート全員が町田から視線を逸らす。けど私は、彼女から視線を逸らす事ができなかった。町田の斜後ろで葛谷が「目を伏せろ」とでもいうように、こちらに向かって両手を上下に動かしているのを無視してまっすぐに町田の顔を見ていると、町田もこちらに気付き、つかつかと私の方にやって来た。
「ねぇ、あんた」
「…」
返事の代わりに、私は町田の顔を見上げる。
「あんたも思うでしょ? ナナチンを突き落としたのは小林ユキだって」
肯定も否定もできずに黙って町田の顔を見ていると、業を煮やしたのか、町田は教室中に聞こえるような大声で叫んだ。
「なんで黙ってるの? あんただって知ってるでしょ? ユキがしょっちゅうナナチンにリンチして怪我させてた事! きっと今回の事もそうなんだよ!」
「ちょっとぉ、いいかげんにしてよ!」
教壇の前から小林グループの一人、河井愛美が叫んだ。河井は本来隣のクラスの生徒だが、小林と町田が仲違いして以来、休み時間は必ずうちのクラスに来るようになった。町田と同じく褐色の肌に、長い髪を茶色く染めて、瞼に白いシャドウを塗っている。その、河井の後ろでは、小林が腕組みをしてこちらを睨んでいた。不自然に垂らした前髪の下で、切れ長の目が鋭く光っている。小林は、つかつかとこちらに歩いて来ると、低音だがよく通る声できっぱりと言い放った。
「妙な言いがかりはやめてくれない? あたしらがやったって証拠ないんだし」
町田が唇を噛んで小林を見る。もともと親友だった2人である。きっとそこには複雑な感情が渦巻いているんだろう…。自分と七瀬の事を振り返りぼんやりとそんな事を考えていると、河井が小林に加勢する声が聞こえて来た。
「大体、あんただって春日さんのこと虐めてたじゃん。よくそんな風に態度変えられるわ! 本当は案外あんたがやったんじゃないの~?」
河井の不用意な一言に、町田はその褐色の顔をみるみる歪ませると、怒りで体を震わせ泣きそうな声で叫んだ。
「違う! 私達は、友達になったの! ナナチンは偉いコなんだから。あんなにひどい事ばっかりした私の事をナナチンは笑って許してくれたんだから。それに、ナナチンはちゃんと夢も持ってるし…」
小林の頬がぴくりと動いた。河井がその後ろで「何言ってるの? こいつ」とでも言うように笑った。紗知も優香もメグミも…クラス中のみんなが固唾を飲んで事の成りゆきを見守っている。そんな中、私は目の前で泣きそうな顔をしている町田綾美の姿に、ついこの間までの『七瀬を庇っては苦しんでいた自分』の姿を重ねてしまい『もう、七瀬とは関わらない』という決意をあえなく破って立ち上がり、彼女を助けるための言葉を叫びたい衝動にかられた。もしその時「おい、何騒いでるんだよ!」と言いながら、先程担任に校内放送で呼び出されていた藤井が教室に入って来なければ、私はきっとその思いを現実に変えてしまったに違いない。
藤井は、とすとすと教壇の前まで歩いて行くと、教室中をぐるりと見回し言った。
「松岡先生からの伝言。春日を突き落とした奴はさっき職員室に自主して来た。だから、犯人探しはやめろ」
一斉に「えー!」という声が湧き上がる。
「で、誰? 誰?」
「全員教室にいるぞ」
「て事は、違うクラスの奴?」
「女? それとも男?」
「犯人の動悸は?」
興奮したクラスメート達から次々に浴びせかけられる質問に、教壇の前の藤井は丁寧に答えた。
「個人情報は、トップシークレット! っていうか、俺も知りません。原因も不明。軽い気持ちで背中を押しただけなのに大怪我をさせてしまって、本人もショックを受けているらしい」
「それ、誰かにやらされたんじゃないの?」
町田が、藤井に先ほどからの疑問をぶつける。藤井は首を振った。
「いや、それも分からない」
「結局なんにもわかってねーじゃん」
葛谷が怒鳴った。相変わらずどこか喧嘩腰だ。そして、さらにこうつけ加える。
「大体、軽い気持ちで階段から人を突き落とすか?」
藤井は眉をしかめて葛谷を一瞥すると、
「そこまで、知るか! 本人に聞け!」
と、言い返した。「あぼ~ん」と葛谷が叫び、クスクスと笑い声が上がる。藤井は白墨を手に黒板をバンと叩いた。皆、驚いて前を見る。藤井は、黒板に『自習』と大きく書くと、
「5時間目は緊急職員会議で自習、各自静かに勉強するように!」
と言い残してさっさと自分の席に戻っていった。ほぼ同時に始業のチャイムが鳴る。
しかし犯人は見つかっても、なぜかすっきりしない…クラス内のざわめきは、ますます大きくなるばかりだった。