天使とすみれ 1
いつも通りかかるレンガの家のポストの下に、ひっそりと紫色の花が咲いている。
私は、暇つぶしにそれを眺めた。
…なんていう花だっけ?
膨大な過去の知識のストックから、その花の名前を検索しようとする。でも、 残念ながらヒット数はゼロ。検索条件を変えて下さいって文字が頭の中に点滅する。あの門柱の横で、誇らし気に咲いている大きな薄紅色のしゃくなげの花の名 前は思い出せるのに…なんだか悔しくなって、私…吉岡真由美は、15才の女の子 にしては大きな体を折り曲げ、じっとその花達を見つめた。小さな花達は、自分より遥かに大きな石と石の隙間から、力強く頭を出している。花弁には、やわらかな朝日を映す雫。
「吉岡?」
ふいに声をかけられ、後ろを振り返った。そこには、この春から同じクラスになった藤井一希が立っていた。藤井は、細いまゆをひそめて不思議そうにこっちを見ている。いつもと同じ、きちんと折り目の付いたブレザー。学校規定の鞄。黒のローファー。真面目を絵に描いたような男子学生。けれど、色白で繊細なその顔だちは、端正で整っており、一度も染めた事がないんだろう…さらさらの黒髪が、肌の白さを際立たせている。
形のいい唇が開いた。
「なにやってるんだ?今頃、こんなとこで」
「花、見てるの」
「はあ?」
藤井は、しゃがんでいる私の上からポストの下を覗き込んだ。
「なんの花?」
「わかんない」
「好きなの?」
「別に…名前を思い出そうとしていただけ」
藤井はあきれたように肩をすくめると
「遅刻だぞ。俺、今日、寝坊したんだから」
と、私の腕をつかんでひいた。引っ張られて立ち上がると、私達の背は同じくらいだ。女にしては大きめの私と、男にしては華奢な藤井が並ぶとそうなる。
「走ろう!」藤井は、私の手をひいたまま走り出した。藤井の黒髪が風の形を造る。
4月下旬の教室は、洗い晒しのブラウスみたいに清潔で、少しばかりの居心地の悪さを感じる。中学から高校に上ったばかりの私達は、まったく見知らぬ他校にいたクラスメート達と、さぐり合いながらもゆっくりと距離を縮めていく。夏頃には、もうすっかり馴染んでいるのだろう。そして、青春てやつを謳歌するのだ。きっと私もその一員として…。でも、とりあえず今日の私は、藤井と一緒に始業3分前に教室に入り、慌ただしく自分の席につき教科書を並べた。私の席は、一番端、窓の横。藤井は私の斜め前、いつでもここから見える位置。
藤井は席につくと、文庫本を手に取り読み始める。ちらっと見えたその本のタイトルは、『春と修羅』作:宮沢賢治。…なんだろう?宮沢賢治は知ってるけど、『春と修羅』なんて知らない。
チャイムが鳴り、担任が入って来た。40過ぎの眼鏡をかけた、なんだか人生にくたびれきったような、政経の教師…確か名前は松岡カネマツ…とかいったはず。40過ぎで独身の彼は、ロリコンだとか、盗撮マニアだとか、早速女生徒達のかっこうの暇つぶしの種にされている。そういう事を知ってか知らずか松岡先生は、不思議な発音ででボソボソと喋る。
「いぇー、しょれではぁ出席をとりましぅ…」
そのおかしな発音に女生徒達がクスクスと笑い声を上げたが、松岡先生はあくまでも機械的に「赤松君、新井君…」と、出席を取り始める。
「新見君…野口君…藤井君」
藤井の名前が呼ばれた。
「はい」
藤井は、短く、はっきりと返事をした。それは、まるで雨上がりのぬかるんだ土壌から青空を目指す青竹のように、凛として真直ぐな藤井の気性をよく現している。私はそんな藤井を好ましく思いながら見つめていた。
入学式の日に彼と出会ってから、私はずっと、幸せな春の気分だ。人を好きになる事が、こんなに楽しい事だとは思わなかった。まるで世界が違って見える。
無機質な教室さえ、鮮やかに色染められる。…が、
「春日…春日七瀬は、いましぇんか?」
出席番号37番…女子7人目のところで松岡先生がふうっと溜め息をついた時、私は幸せな春の夢から引き戻された。そして、右へ4列目、一番後ろの席に否応なく意識を向けさせられる。主のいないその席には、鞄だけがちょこんとのっていて、春日七瀬が今朝この教室に来て、何分か前まではあの席にいたらしい事を告げている。
「どこに行ったか、誰か知りましぇんか?」
滑舌の悪い松岡先生の質問に、出席番号8番、葛谷高志が足を挙げて答えた。
「春日さんなら、朝早く、町田と小林に呼び出されてました~!」
松岡先生は、寝ぼけているような目を、町田の方に向けた。
「町田さん、小林さん、春日さんがどこに行ったかしりましぇんか?」
「知りません!私達貸したものを返してもらっただけです!すぐ別れたもんねぇ、ユキ」
茶髪の町田綾美は、むくれたようにそう言うと、その褐色の顔をぷいっと逸らした。
「春日さんの事だから、またさぼってるんじゃないですか?協調性ないし」
黒髪の小林ユキが、町田の加勢に入る。前髪を不自然に右の目の上に垂らした。
小林は、両腕を組みまっすぐに松岡を睨んでいる。
「よく言うよ。いじめじゃねぇの?」
葛谷が皮肉った。小林が「いじめじゃねーよ」と言ってキッと葛谷を見る。
「どうだか?お前ら春日つぶす相談してたじゃん」
「してねーよ!」
クラスメート達が、2人のやりとりをおもしろがって囃し始めた。同時に、私の心拍数がだんだん早くなってくる。私はこの場にいない七瀬に向かって、心の中で叫んだ。
…まただよ、七瀬。これじゃあ、中学の時と全く同じパターンじゃない。もう、カンベンして頂戴、七瀬…!
やがて、クラスのざわめきが潮を引くようにおさまる頃、私はさんざん迷った挙げ句、覚悟を決めてすっと右手を上げた。
「先生、私が春日さんを捜して来ます」
クラス中が、あっけにとられて私に注目した。長い黒髪を後ろで一つにくくり、リップもつけていない優等生然とした私の顔を、町田と小林が睨んでいる。葛谷は面白そうにニヤニヤしている。私は、恐さと恥ずかしさでこの場から消えたくなった。そんな私の心の内を知るわけもなく、淡々と松岡先生が言う。
「君は、副委員長の吉岡さん…でしゅね」
「はい。春日さんは、私の友達ですから…」
「そうでしゅか。では、お願いします」
松岡先生が、無感動にうなずいた。
斜前の席から、藤井が非難するような目でこちらを見ていた。
広い校内で、たった一人の学生を見つけるのは大変なように思えるけれど…本当は学校の中で一人になれる場所なんて、ほんのわずかに限られている。
3年前から使われなくなった旧校舎の端にある非常階段の下で、私はようやく七瀬を見つけた。ところどころ銀メッキが剥げ、錆びた鋼板がむき出しになった螺旋状の階段は、空から地上へ急勾配を描きながら降りて来る。七瀬は地上にたどり着く一歩手前、一段目にうつむいて座っていた。頭と肩が真白に汚れている。その姿は、まるで羽をもがれた天使みたいだ。
「七瀬…」
走り寄って声をかけると、七瀬が琥珀色の瞳を私に向けた。
大きな二重の目の下に、赤い痣ができている。良く見ると、黒いソックスの上のふくらはぎからひざにかけても、小さな痣がぽつぽつとできていた。頭と肩が白く見えたのは、チョークの粉のせいだった。私は黙って七瀬の横に座り、七瀬の体から白い粉を払ってあげたのだが、執拗に叩かれたのだろう…黒板消しのあの縫い目の跡が、どんなに払ってもなかなか消えない。
「小林さんと町田さんにやられたの?」
七瀬の背中を払いながら聞くと、七瀬は「うん」と頷いた。
「他にも3人ぐらい居たけど…他のクラスの子だったから名前知らない」
私は、さっきの教室での小林の「いじめじゃねーよ」という言葉を、憤りと共に思い出す。
「許せない! いじめてないって言ってたよあいつら!」
「真由美が怒る事ないよ」
七瀬はそう言うと、「ありがとう」と、私の腕をつかんだ。「もう、白墨を払ってくれなくてもいいよ。」と、いうことらしい。それで、七瀬から手を離すと膝の上で組んだ。
中学の時から何度となく繰り返したこのシチュエーションの中で、七瀬が泣いた事は一度もない。いつだって、私の方がやきもきしているのだ。今だって…。
「で、何が原因なの?」
私が聞くと、
「最初に、小林が『髪の毛を、真っ黒に染めて来い』って言ったの」
と、人ごとみたいに答えて空を見上げる。私は、七瀬の薄茶色の髪を見た。カラーリングしているわけではない、七瀬の髪は天然のプラチナベージュ。それは、彼女のDNAに組み込まれた色素の薄さを示す。七瀬の肌は雪のように白く、唇は淡いピンク。
「それで、七瀬はなんて答えたの?」
「なんで、あんたらにそんな命令されなきゃいけないのよ! 言いたい事が有るなら、つるまずに一人で来いよ! このヘタレ!…って。その後、小林の顔を2、3発殴ってやったら、仕返しに全員からボコられた」
あきれて七瀬の顔を見る。今更、驚きもしないが、七瀬は子猫のような可愛い顔をして、言う事、やる事全てがきつい。レイヤーの入ったショートボブの髪を揺らして、「でも真由美だって、その立場になったら同じ事するでしょ?」と、同意を求めて来る。しかし、生憎私は、そんなに強くないと首を振る。ちなみに、「ヘタレ」とは「小心者」、「臆病者」というような意味である。
「おとなしく従っときゃいいのよ。いいじゃない、髪の毛ぐらい黒くしたって」
と、たしなめるように言うと、
「冗談…」
にベもない七瀬…。「冗談…」というのは、七瀬の口癖で「冗談言わないでよ!」という意味である。
「そんなんだから、七瀬はマトにされるのよ…」
「勝手にすれば? って感じよ。痛くも痒くもないわ」
七瀬は、本当に痛くも痒くもないといったように立ち上がると、
「用事思い出したから、今日は帰るわ」と、さっさと歩き始めた。
「待ってよ!」
私は七瀬を追いかけた。
「教室に帰ろうよ!」
「冗談…! こんな顔で」
「小林さんに殴られたって言えばいいじゃない。イジメがあるって証拠になるわ!」
「春日さんの方が先に手を出したので、仕返ししました…小林がそう言ったら、イジメだなんて信じてもらえっこないわ」
「…」
私は、七瀬を追う事を諦めて立ち止まった。七瀬には、何を言ったって無駄なのだ。こうと決めたら、テコでも動きはしない。10年以上の付き合いで思い知らされている。
…でも…
七瀬、あんたは分かってるのかしら? 中学時代からこんな事が有るたびに、私がどれだけ苦労してあんたのフォローをしているのか。
旧校舎の表側に面した中庭を突っ切り、渡り廊下へと消えていく七瀬の後ろ姿を見ながら、溜め息をついた。
どうして、私は七瀬と友達なんてやってるのだろう?