トラベルガイドの俺、彼女を金持ちの社長に奪われたので、不倫旅行の行き先を地獄にしてみた
不倫旅行の手配依頼なんて、普通はもっと人目を避けてやるものだと思っていた。
少なくとも、俺のデスクの上に堂々と高級ホテルのパンフレットを広げて、「ここ、海が見えるスイート空いてる?」と笑いながら聞くものではないはずだ。
「南側の角部屋がいいの。夕日が一番きれいに見えるって、前に優人が言ってたでしょ?」
そう言って、美咲は俺の机に肘をついた。
艶のあるネイル。薄い桜色の口紅。首元には、見たことのない細いダイヤのネックレス。
俺が知っている彼女より、ずっと高そうで、ずっと他人だった。
その隣で、九条圭吾は上機嫌に腕時計を弄んでいた。
四十手前。若手実業家として雑誌によく載る顔だ。
高級リゾート開発会社九条リゾートホールディングスの社長で、うちの会社にとっては大口の取引先。何度も団体視察や海外の富裕層向け手配を任されてきた、要するに逆らいにくい客だった。
そして、美咲を俺から奪った男でもある。
「極秘の視察旅行でね」
九条はそう言って、わざとらしく声を落とした。
「新規案件の下見だ。表向きは仕事。でも、せっかくだから快適にしてほしい。君、そういうの得意だろう? 客の気持ちを先回りするの」
その“客”の隣で、美咲が笑う。
唇の端だけで笑う、俺にはもう向けられない笑い方だった。
「優人ならわかるよね。私、ベッド硬いの嫌いだし、お風呂は広い方がいいし、朝食は部屋に持ってきてもらえると助かるの」
「……」
「あ、あとね、サンセットクルーズも入れて。昔、連れていくって言ってたでしょ? あそこ、すごく人気なんだって」
昔、連れていくって言っていた。
その言葉だけで、胸の奥に古い針が刺さるみたいな痛みが走った。
碧凪島。
本土から飛行機を二本乗り継いだ先にある、小さな離島の高級リゾート。
俺がいつか美咲にプロポーズしようと思って、何年も前から少しずつ調べていた場所だ。
格安の時期、景色のいい部屋、混まない移動ルート、島でいちばん静かな展望台。全部ノートに書き溜めていた。
そのノートを、俺は一度だけ彼女に見せたことがある。
『お金が貯まったら、ここ行こう』
そう言った時、美咲は心底うれしそうに笑っていた。
あの顔だけは本物だったと、ずっと思っていた。
「どうした?」
九条が俺を覗き込む。
値踏みする目だった。
「仕事だろ。私情は挟まないでくれよ、相沢くん」
「……承知しました」
「さすがだ。失恋してもプロ意識は捨てない。君のそういうところ、嫌いじゃないよ」
失恋。
そういう軽い言葉で済まされるものなら、どれだけ楽だっただろう。
美咲は俺の机に置いてあったパンフレットをめくりながら、「あ、このレストランもいいな」と呟いた。
ページをめくる細い指に、俺が渡した銀色のリングはなかった。
代わりに、薬指には大粒の石が嵌まっていた。
婚約指輪ではない。
既婚者の九条が、それを渡せるわけがない。
だからこそ、余計にたちが悪かった。
名前のつかない関係のくせに、俺が渡せなかったものをあっさり与えているみたいで。
「二泊三日で。会社の経費で落とすから、領収処理はうまくやってくれ」
九条がさらりと言った。
その言葉に、俺は初めて顔を上げた。
「会社の経費、ですか」
「視察だと言っただろ」
「同行者は?」
「秘書扱いでいい。最近、美咲はこっちでも手伝ってるからな」
美咲は胸を張って頷いた。
「受付やってるより、ずっと世界が広いの。社長のそばにいると、見える景色が違うから」
「……そうか」
「うん。優人といた頃は、狭かったなって、最近すごく思う」
机の下で、無意識に拳を握っていた。
爪が掌に食い込む。
それでも俺は、顔だけはいつものままにして見せた。
旅行会社の人間は、客の前で顔を崩さない。
どれだけ理不尽な要求をされても、どれだけ無茶を押しつけられても、笑って受ける。
それが仕事だ。
だからその日も、俺は笑って答えた。
「承りました。忘れられない旅にします」
九条が満足そうに口角を上げる。
美咲も、何も気づかずに笑った。
ああ、本当に。
忘れられない旅にしてやる。
美咲と付き合い始めたのは、俺が二十三、彼女が二十一の時だった。
きっかけは、なんでもない。
仕事帰りに寄った小さな定食屋で、彼女が一人で泣いていたのを見つけた。
受付で客に怒鳴られた日だったらしい。
俺が黙って温かいお茶を差し出したら、彼女は鼻を赤くしたまま「そういうところ、ずるい」と笑った。
あの頃の美咲は、まだ素直だった。
高いブランドも、タワーマンションも、外車の助手席も知らなかった。
給料日前には一緒に半額の惣菜を買って、狭いワンルームで映画を見て、休日には俺が作った“日帰り旅のしおり”を片手に近場を回った。
俺はトラベルガイドの仕事が好きだった。
ただ観光地を案内するだけじゃない。
どの時間に行けば光がきれいか、どの道なら人混みを避けられるか、どの店なら観光客向けの見栄えだけじゃなくちゃんと美味いか。
そういう細かいことを積み重ねて、誰かの一日を少し良くする。
派手じゃないが、好きな仕事だった。
美咲はそんな俺の話を聞くのが好きだと言っていた。
「優人って、地図見てる時が一番楽しそう」
「仕事だからな」
「ううん、違う。好きなんだよ、それ」
「……」
「そういうの、いいなって思う」
結婚の話もした。
すぐには無理だった。俺の給料は高くないし、彼女もまだ若かった。
それでも二人で少しずつ貯めようと言って、共同の口座を作った。
その金で、最初の大きな旅行に行こうと約束した。
行き先は、碧凪島。
海の色が、一日の中で何度も変わる島。
朝は薄い青、昼は白く眩しく、夕方には群青の底に金が溶ける。
ガイド仲間から聞いて、俺は一度も行ったことのないその島に、勝手に憧れていた。
美咲も、ノートを見ながらうれしそうに言った。
「ここで写真撮りたい」
「じゃあ、日没の十五分前に展望台へ行こう」
「なんで十五分前?」
「いちばん綺麗なのは、沈む瞬間よりちょっと前だから」
「そういうの、ほんと詳しいよね」
「案内するのが仕事だからな」
「ううん。私のために考えてくれてるからでしょ」
その時の言葉を、俺は何度も思い出した。
別れた後も、奪われた後も、馬鹿みたいに。
九条圭吾が初めて会社に来たのは、去年の春だった。
高級スーツに、いかにも高そうな香水の匂い。
受付前に立っただけで空気が変わるような男だった。
美咲は最初、緊張していた。
けれど九条は、人を気持ちよくさせるのが上手かった。
「感じのいい受付さんだね」
「笑顔が素敵だ」
「この会社、センスいいな」
そんな軽い言葉を、あの男は驚くほど自然に言う。
花を贈り、差し入れをし、仕事終わりに高級店へ連れていく。
最初は断っていた美咲も、少しずつ帰りが遅くなった。
服が変わった。
爪が変わった。
化粧が変わった。
俺の前でスマホを伏せるようになった。
決定的だったのは、去年の冬だった。
終電間際、会社の近くで偶然見かけた。
黒い外車の助手席から降りてきた美咲が、運転席の九条へ身体を寄せていた。
別れ際、彼女は窓の中へ顔を近づけて、何か囁いた。
九条が笑い、彼女の顎に指をかけた。
それだけで十分だった。
俺がその場から動けずにいると、美咲は俺に気づいた。
一瞬だけ目を見開き、でもすぐに顔を整えてこちらへ歩いてきた。
「……何してるの?」
「それはこっちの台詞だ」
「送ってもらっただけ」
「送ってもらっただけで、あんな顔するのか」
「どういう顔?」
「……」
「優人、最近うるさいよ」
その一言で、全部察した。
そのあと何を話したか、もう曖昧だ。
ただ、最後に美咲が言った言葉だけははっきり覚えている。
「優人は優しいよ。でも、優しいだけじゃ足りないの」
「何が」
「未来。お金。余裕。そういうの、全部」
その二週間後、彼女は俺の部屋から荷物を引き上げた。
共同口座に入っていた金も、半分きっちり持っていった。
置いていかれたのは、使い古したマグカップと、俺が作った碧凪島のしおりだけだった。
最後に彼女は、玄関で振り返ってこう言った。
「社長と一緒にいると、自分がちゃんと女として扱われてるって思えるの」
「……」
「優人は、私を大事にしてくれた。でも、それって家族みたいで。ドキドキしなかった」
まるで俺が悪かったみたいに。
まるで奪った側のくせに、被害者みたいな顔で。
その時は、怒りよりも先に情けなさが来た。
ああ、負けたんだな、と。
金に。
肩書きに。
派手さに。
そして、たぶん、見せびらかすような欲望に。
依頼書を受け取ったその日の夜、俺は会社に一人残っていた。
デスクの上には、美咲と九条の旅行希望メモ。
「夕日が見えるスイート」「カップル向けスパ」「部屋食」「サンセットクルーズ」「貸切送迎」。
よくもここまで露骨に書けるものだと思う。
しかも、行き先は碧凪島。
俺がいつか彼女を連れていくはずだった場所。
ノートの古いページを開く。
手書きの字で、「展望台」「潮風市場」「ガラス工房」「崖上レストラン・要予約」と並んでいる。
横には、美咲の丸っこい字で、「ここで一緒に写真!」と書かれていた。
喉の奥が熱くなった。
悔しいとか、悲しいとか、そういう綺麗な言葉だけじゃ足りない。
泥みたいな感情が、胸の底で重く沈んでいた。
その時、内線が鳴った。
夜のオフィスで鳴る電話は妙に響く。
「相沢くん? まだ残ってる?」
経理部の城戸監査役だった。
神経質そうな細い声の男で、普段はほとんど現場に口を出さない。
だが社内の不正には異様にうるさいことで有名だった。
「はい」
「九条リゾートの視察手配、君に回ってるそうだね」
「……はい」
「旅程書、できたら正式ルートで回してくれ。最近あの会社の交際費処理、少し怪しいんだ」
「正式ルートで、ですか」
「そう。役員旅行の申請は、同行者名も宿泊形態も全て記載。省略なしで。君ならわかるだろう?」
俺は少し黙ってから、「承知しました」と答えた。
電話を切ったあと、しばらく受話器を見ていた。
正式ルート。
同行者名、省略なし。
宿泊形態、全て記載。
ルールを守るだけでいい。
隠さないだけでいい。
旅行業界には、客が知らない“表”と“裏”がある。
部屋を押さえる名義、送迎車のルート、会食の席順、会社精算に必要な内訳、現地スタッフへの共有事項。
誰にも見えないその裏側で、旅はできている。
そして俺は、その裏側をよく知っている。
誰にも迷惑をかけず。
違法なこともせず。
ただ、求められた通りに、完璧に手配する。
そうすれば、こいつらは勝手に自分の足で地獄へ行く。
俺は端末を立ち上げた。
航空券は実名で。
送迎車は正規申請。
宿泊はキングスイート一室。
オプションに《アニバーサリー・メモリアルプラン》。
部屋食、スパ、サンセットクルーズ、記念撮影、ウェルカムメッセージ。
入力欄の最後に、ホテルへの要望欄があった。
普段なら客の希望を簡潔にまとめるだけだ。
俺はメモを見ながら、そのまま打ち込んだ。
『特別な記念旅行のため、可能であればロマンティックな演出を希望』
『同行者の川瀬美咲様は夕景と花の演出がお好きです』
一文字も嘘は書いていない。
続いて、旅程書を正式ルートで社内承認に回した。
経理、監査、役員秘書室、九条リゾート担当窓口。
必要な場所へ、必要な情報が届くように。
最後に、碧凪島の提携ホテル《蒼天グランシエル》の支配人へ連絡した。
電話口に出たのは、昔から世話になっている神谷支配人だった。
「相沢くん? 久しぶりね」
「ご無沙汰してます」
「あなたから碧凪島の手配なんて珍しい。大切なお客様?」
「ええ。とても」
少しだけ間を置いて、俺は言った。
「演出は、できるだけ盛大にお願いします。目立つくらいで」
「あら」
「忘れられない旅にしたいんです」
「……そういう声ね、それ」
さすがに察しがいい。
神谷支配人は一拍黙ったあと、柔らかく言った。
「相沢くんは、昔から段取りがきれいだったわ。だったら今回も、きっときれいに終わるんでしょうね」
「そうなるといいです」
「任せて。表に出るのは、全部“予約通り”にしておくわ」
電話を切ったあと、オフィスの窓に映る自分の顔を見た。
ひどい顔だった。
怒っているわけでも、泣いているわけでもない。
ただ、長く使いすぎた地図みたいに、擦り切れていた。
でも、もういい。
俺はガイドだ。
目的地まで、責任を持って案内する。
たとえその行き先が地獄でも。
出発当日、空港のVIPカウンター前で、美咲は白いワンピースの裾をつまんで笑っていた。
「この服どう?」
「似合ってる」
「社長が買ってくれたの。島の海に合うって」
九条はサングラスを外しもしないまま、「荷物、先に預けといて」とキャリーケースを俺に渡した。
受け取った瞬間、思ったよりずっと重い。
二泊三日には多すぎる量だった。
タグを確認すると、ケースの横に見覚えのある小さな革の札がついていた。
青い糸で縫った、手作りのネームタグ。
昔、美咲に俺が作ったものだ。
角が少し擦れていて、それが余計に胸に刺さった。
捨てるほどでもない程度の思い出として、まだ使っているのかと思うと。
「それ、まだつけてるんだな」
俺が低く言うと、美咲は一瞬だけ視線を落とし、それからすぐに笑った。
「物持ちいいだけ。深い意味ないよ」
「そうか」
「うん。勘違いしないで」
勘違い。
本当に、その通りだった。
俺はずっと勘違いしていたのだろう。
この女は、自分が捨てたものに対して、驚くほど無頓着だということを。
チェックインを済ませ、専用ラウンジへ案内する。
俺は同じ便に乗るが、添乗担当として後方席だ。
二人は最前列のプレミアムシート。並びで。
搭乗までの短い時間、美咲はシャンパンを飲みながらスマホで島の写真を見ていた。
その画面が偶然目に入る。
保存されていたのは、俺が昔送った碧凪島の風景写真だった。
「……それ」
「なに?」
「俺が送ったやつだろ」
「ああ、これ? 綺麗だったから残してただけ」
「社長に見せたのか」
「うん。そしたら、“じゃあ実際に連れていってあげようか”って」
美咲は悪びれもせずに言った。
「優人って、こういうの調べるの上手いよね。でも、自分では連れていけないんだもん。もったいないじゃない」
九条がそこで笑った。
「才能は、使える人間が使わないとな」
「ほんとそれ」
「だから君の代わりに、俺が叶えてやるわけだ」
美咲がうれしそうに九条の腕へ手を添える。
人前を気にするそぶりもなかった。
空港のラウンジで、昼の光の中で、堂々と。
まるで俺がいないみたいに。
いや、むしろ見せるためにやっているように。
俺は搭乗案内の時間を告げ、頭を下げた。
サービス業の顔で。
何も感じていないふりをして。
でも腹の底では、静かに確認していた。
もう迷いはない、と。
碧凪島に着くと、海風はまだ少し冷たかった。
空港からホテルまでは、海沿いの専用道路を四十分。
窓の外では、浅瀬が陽を跳ね返して白く光っている。
昔なら、この景色を見せたら美咲はきっとはしゃいだだろう。
「すごい」「きれい」「写真撮って」って、子どもみたいに。
今の彼女は、九条の肩にもたれたまま、眠そうに目を閉じていた。
指先には、俺の知らない高級ブランドのネイル。
膝には、俺が書いた旅程表。
車がホテルの正面玄関に滑り込む。
蒼天グランシエルは島でも最上級のホテルで、白い外壁とガラス張りのロビーが海をそのまま切り取ったみたいだった。
エントランスに立つ神谷支配人と数人のスタッフが、一斉に頭を下げる。
「九条圭吾様、川瀬美咲様。蒼天グランシエルへようこそ」
続いて、スタッフが二人の前に花束を差し出した。
「特別な記念旅行と伺っております。ささやかですが、お祝いのお花を」
九条が一瞬だけ俺を見る。
その目に、軽い驚きと満足が混じった。
美咲はぱっと顔を輝かせた。
「え、すごい……!」
「ご希望欄に演出希望がありましたので」
俺が事務的に答えると、美咲は得意そうに九条へ寄り添った。
「ね、優人ってこういうの本当に得意なの」
「さすがだな、相沢くん」
ロビー中央には、宿泊客へのウェルカムボードが立っていた。
そこに、金文字でこう書かれている。
《九条圭吾様・川瀬美咲様 メモリアルステイへようこそ》
周囲にいた宿泊客が、何人かそちらを見る。
夫婦か恋人だと思ったのだろう。微笑ましそうに視線を向ける者もいた。
美咲は頬を染めていた。
恥じらっているようで、実際にはうれしくてたまらない顔だ。
俺はその顔を見ながら、心の中で一つだけ思った。
よかったな。
そんなに堂々と飾ってもらえて。
チェックインの署名欄に、九条がさらさらと名前を書く。
宿泊形態、《キングスイート一室 二名》。
オプション、《ペアスパ》《部屋食》《記念撮影》。
その下に、美咲がサインする。
ホテル側は何も隠さない。
予約通りに、必要な手続きを淡々と進めていく。
神谷支配人がにこやかに言った。
「今夜のディナーですが、天候が安定しておりますので、当初の予定通り《崖上テラス・ルシエル》でご用意しております。特別な日だと伺っておりますので、素敵な夜になりますよう」
「ありがとう」
九条が満足そうに頷く。
美咲はもう完全に舞い上がっていた。
部屋まで案内し終えると、彼女がふと思い出したように振り返った。
「ねえ優人」
「なんだ」
「夕方まで時間あるよね? 展望台、どの時間が一番きれい?」
「……日没の十五分前だ」
「ふふ、やっぱり」
「なんで笑う」
「昔からそればっかり言ってたなって」
そのまま彼女は九条の腕を取った。
「行こ、社長。優人おすすめの時間だって」
「そうだな。君の元彼の知識に感謝しないと」
二人がエレベーターに消えていく。
閉まる寸前、美咲がこちらへ向けた目は、ひどく満ち足りていた。
奪った側の目だ。
負けた男を見下ろす目だ。
その目を見て、俺は不思議なくらい冷えた。
痛みがないわけじゃない。
むしろ、ちゃんと痛い。
でももう、その痛みで足を止める気はなかった。
午後三時、監査役の城戸から連絡が入った。
『旅程書、確認した。同行者の扱いが妙だな』
「規定通り記載しています」
『宿泊がキングスイート一室。視察で?』
「予約依頼通りです」
『……なるほど』
城戸はそれ以上何も聞かなかった。
事実だけで十分なのだろう。
その一時間後、今度は見知らぬ番号から電話がかかってきた。
落ち着いた女の声だった。
『相沢さん? 九条晴香です』
「……奥様」
『妻、というより、会社の取締役と思ってちょうだい。今回の旅程、見ました』
「はい」
『あなた、正直な人ね』
「事実を記しただけです」
『それで十分よ』
声の温度が少し下がる。
『今夜、私は碧凪島に入ります。ちょうどホテルで投資家との会食があるの。偶然ね』
「……そうですね」
『一つだけ確認したい。あなたは何か細工をした?』
「いいえ。お客様のご要望を、規定通り、最高の形で手配しただけです」
『そう』
わずかに、笑った気配がした。
『なら安心したわ。私も、見たいものを見るだけにする』
「ご自由に」
『あなた、つらかったでしょうね』
「仕事中ですので」
『そう。えらいわね』
そこで通話は切れた。
慰められた気はしなかった。
でも、少しだけ救われた気もした。
誰か一人でも、この気持ちを“つらかったでしょうね”と名前をつけてくれたことが。
夕方、神谷支配人と最終確認をする。
「今夜の会場、《ルシエル》は投資家会食と同じフロアよ」
「ええ」
「個室希望があったけれど、先方の都合で半個室に変更。もちろん予約規約の範囲内」
「問題ありません」
「デザートプレートは?」
「予約通りで」
「“圭吾さん、美咲さん、特別な旅の記念に”でいい?」
「……ええ、それで」
「写真立ても用意したわ。チェックインの記念撮影、すごく綺麗に撮れてる」
「そうですか」
「相沢くん」
神谷支配人は少しだけ声を落とした。
「旅ってね、行き先より、誰と行くかで景色が変わるのよ」
「知ってます」
「あなたはまだ、その景色を嫌いにならないで」
答えられなかった。
今はまだ、無理だった。
夜七時半。
《崖上テラス・ルシエル》の前で、俺は二人を待っていた。
添乗担当として、会場確認と食事後の送迎までが仕事だ。
本来ならホテルに任せてもいい。
でも九条がわざわざ「最後まで君が案内しろ」と言った。
見せつけるためだ。
最初から最後まで。
やがてエレベーターが開く。
美咲は昼とは違う、深い青のワンピースを着ていた。
髪を緩くまとめ、耳元には新しいピアス。
昔、俺が「碧凪島の海に合うと思う」と言った色そのものだった。
「どう?」
彼女がくるりと一回転する。
「綺麗だろ?」
答えたのは九条だった。
その腰に手を回したまま。
「最高だ。島の景色が霞むくらい」
「もう、社長ったら」
甘ったるい声。
昔、あれを俺に向けていた時期が確かにあった。
それを思い出してしまう自分が、まだ少しだけ惨めだった。
「お待ちしておりました」
俺は頭を下げて言った。
「お席までご案内します」
「ほんと、ガイドみたい」
美咲が笑う。
「いや、ガイドなんだけどな」
「でもさ」
彼女は俺の横を通り過ぎざま、わざと聞こえるように囁いた。
「自分の元カノの不倫旅行をエスコートする気分って、どんな感じ?」
足が止まりそうになった。
けれど、止めなかった。
「足元が暗くなっておりますので、お気をつけください」
そうだけ答えて、扉を開けた。
中は、予想以上に華やかだった。
ガラス張りの大空間。海に面した半円形のフロア。中央には投資家向けのレセプション用にシャンデリアが灯り、テーブルには白いクロスと銀器が整然と並ぶ。
そして奥の席には、スーツ姿の男たちと、ドレス姿の女たちが何組も座っていた。
九条の足が止まる。
「……聞いてないぞ」
「本日は投資家の皆様との会食も同フロアでございます」
俺は静かに答えた。
「ご予約時点で、半個室への変更をご案内しております」
「ちっ……」
「ですが、海側の一等席をご用意しております。景色は最高です」
逃げるには遅かった。
すでに会場スタッフが気づき、こちらへ歩いてくる。
しかも、その向こうの席には見覚えのある顔があった。
九条晴香。
黒のドレスに真珠の耳飾り。表情は静かで、目だけが冷たい。
その隣には、監査役の城戸。
さらに、地元銀行の頭取、投資ファンドの担当者、地方紙の記者までいる。
九条の顔色が変わる。
美咲もやっと異変に気づいたらしく、俺を見る目に焦りが宿った。
「優人、これ……」
「ご希望通り、特別な夜になるよう手配しました」
俺がそう言った瞬間、レストランのスタッフがタイミングよく二人の前へ進み出た。
「九条圭吾様、川瀬美咲様」
よく通る声だった。
会場中に聞こえるくらい、よく通る声。
「このたびは特別な記念旅行に当館をお選びいただき、誠にありがとうございます。こちら、ホテルからのささやかなお祝いでございます」
運ばれてきたのは、花と、小さな写真立てと、デザートプレート。
そこには金色の文字で、はっきりと書かれていた。
《圭吾さん♡美咲さん 特別な旅の記念に》
写真立てには、昼間ロビーで撮った二人の写真。
寄り添い、笑い合う姿。
どう見ても、仕事の視察には見えない一枚だった。
会場の空気が止まる。
九条晴香が、ゆっくりとグラスを置いた。
乾いた音がやけに大きく響いた。
「……楽しそうね、圭吾さん」
「晴香、これは」
「特別な記念旅行?」
「ちがっ、ホテル側の」
「予約欄にそう記載されていたそうよ」
監査役の城戸が、手元の書類を軽く持ち上げる。
そこには俺が正式ルートで回した旅程書の写しがあるはずだった。
「同行者は川瀬美咲。宿泊はキングスイート一室二名。ペアスパ、部屋食、メモリアルプラン。これを会社の視察経費で処理する申請になっています」
「秘書として同行させただけだ」
九条が言い返す。
「部屋が一つなのはホテルの手違いで」
「署名なさいましたよね」
神谷支配人がにこやかに遮った。
「チェックイン時に、宿泊内容へご本人確認のうえで」
「……」
「こちら、控えでございます」
差し出された紙に、九条のサインがある。
美咲の署名も、並んでいた。
周囲の視線が一斉に二人へ集まる。
投資家たちの顔には露骨な嫌悪が浮かんでいた。
記者がメモを取り始める。
地方紙の記者だけじゃない。ホテルの広報経由で来ていた観光系のフリー記者まで、目を光らせていた。
美咲が顔を真っ青にして、九条の腕へ縋る。
「社長、なんとか言って……」
「黙ってろ」
九条が低く吐き捨てた。
その声に、彼女の肩が震える。
晴香は立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
上品で、静かで、それなのに一歩ごとに空気が冷えていくみたいだった。
「相沢さん」
「はい」
「あなた、案内ありがとう。おかげでよく見えたわ」
「どういたしまして」
晴香は一度だけ頷き、今度は夫へ向き直る。
「圭吾さん。あなた、愛人を連れて会社の金で観光して、しかも手配した相手はその女の元恋人ですって?」
「愛人じゃない」
「では何?」
「こいつが勝手に——」
「社長!」
美咲が声を上げる。
その瞬間、九条は本性を隠しもしなかった。
「うるさい! お前が島に行きたいだの、海が見たいだの、騒いだからこうなったんだろうが!」
「な……」
「秘書のふりでもさせて連れて行けば満足すると思っただけだ。勘違いするな」
その言葉で、美咲の顔から最後の血の気が引いた。
ああ、と俺は思った。
やっとわかったんだな、と。
自分が奪う側に立ったつもりでいただけで、結局この男にとっては、自分も使い捨ての飾りだったことが。
でも、もう遅い。
城戸が咳払いを一つする。
「九条社長。本件は不適切経費処理、役員倫理規定違反、ならびに取引先会社社員への不当な私的圧力の疑いがあります」
「圧力?」
「相沢くんに、この旅行の隠蔽処理をさせようとした件です」
「証拠があるのか」
「メールが残っております」
俺が静かに言った。
「“領収処理はうまくやってくれ”と」
九条が俺を見る。
初めて、本気で怒った顔だった。
「てめえ……」
「お客様」
俺は少しだけ笑った。
「旅程に不備はございません。ご希望通り、誰にも忘れられない旅になりました」
周囲から、押し殺したざわめきが起きた。
美咲が、信じられないものを見る目で俺を見た。
「優人……」
「なんだ」
「最初から、これを……?」
「手配しただけだ。お前たちが望んだ通りに」
「そんな……」
「お前、言ったよな。社長のそばにいると見える景色が違うって」
「……」
「どうだ? 今見えてる景色は」
美咲の唇がわなわなと震える。
泣きそうだった。
でも、その涙に昔みたいな重みは感じなかった。
晴香が冷たく言い放つ。
「圭吾さん、今夜の会食は中止。明日の取締役会で説明していただきます」
「待て、晴香」
「待ちません」
その一言で、勝負はついた。
投資家の一人が明らかに席を立つ。
記者たちは一斉に動き出す。
ホテルスタッフは完璧な営業スマイルのまま、必要以上に事を荒立てず、しかし逃がしもしない位置に立っていた。
九条は取り繕おうとしたが、もう遅かった。
彼の背広の値段も、靴の艶も、これまで人を見下ろすために使ってきた笑顔も、この場では何の役にも立たない。
美咲が、ふらついた足で俺に近づいた。
「優人、お願い……」
「何を」
「助けて」
「なんで?」
「私、こんなつもりじゃ……」
「どんなつもりならよかったんだ」
「……」
「俺の前で腕組んで、俺が連れていくはずだった島に行って、俺が考えた場所で笑って、それで最後だけ“助けて”か」
美咲は何か言おうとした。
でも言葉にならなかった。
九条が後ろで苛立ったように吐き捨てる。
「さっさと来いよ。お前のせいで余計面倒になってる」
その言い方に、美咲がびくりと肩を震わせる。
さっきまで“社長”に向けていた甘い目は、もうなかった。
あるのは怯えだけだった。
俺はポケットから、小さく折りたたんだ紙を取り出した。
昔、美咲に見せた碧凪島のしおりのコピーだった。
何年も前の、安っぽい印刷。
「展望台」「市場」「サンセットクルーズ」。
二人で赤ペンで丸をつけた跡がまだ残っている。
それを彼女の前に差し出す。
「返すよ」
「……」
「お前、置いてっただろ」
「優人……」
「俺はこれで、お前と来るつもりだった」
美咲の目から大粒の涙が落ちた。
でも、その涙で紙の赤い丸が滲んでも、もうどうでもよかった。
「大事にしてたの、俺だけだったみたいだけどな」
俺はその紙を彼女の手に押しつけた。
震える指が、うまく受け取れずに取り落とす。
白い床に、しおりがひらりと落ちた。
もう拾ってやる気にはなれなかった。
その夜、九条と美咲は別々の部屋に移された。
会社側の人間と監査が入り、翌朝一番の便で二人とも本土へ戻ることになったらしい。
投資家会食は完全に打ち切り。
記者も数人動いていたから、記事になるのは時間の問題だった。
俺はホテルの事務室で事後処理を手伝っていた。
神谷支配人が温かいコーヒーを置く。
「お疲れさま」
「ありがとうございます」
「すごい顔してる」
「そうですか」
「勝ってすっきりした顔じゃないわね」
「……そんな感じじゃないです」
本当だった。
たしかに、ざまぁみろとは思った。
思ったけれど、それで胸の中が全部軽くなるわけじゃなかった。
碧凪島の海は綺麗なままだし、昔の約束は戻らない。
奪われた時間も、見せつけられた屈辱も、消えたわけじゃない。
ただ、もう黙って踏みにじられるだけじゃなくなった。
それだけだ。
「相沢くん」
神谷支配人が、少しだけ優しい声で言う。
「あなた、明日の朝の展望台、空いてる?」
「え?」
「日の出ツアーに一組穴が出たの。ベテランガイドが体調崩して」
「……仕事、ですか」
「ええ。やれる?」
俺は少し考えてから、頷いた。
「やります」
「よかった。あなた、やっぱり現場の顔してるもの」
仕事なら、まだ歩ける気がした。
翌朝、島の空気は驚くほど澄んでいた。
展望台へ向かう途中、ホテルのロビーで美咲と鉢合わせた。
帽子を深くかぶり、目元は腫れている。
昨日の青いワンピースではなく、地味なニットにジーンズ。
たぶん、夜のうちに九条から切り離されたのだろう。
一人だった。
「優人」
掠れた声だった。
俺は足を止めたが、近づきはしなかった。
「……なんだ」
「社長、会社の車で先に帰った」
「そうか」
「私、今日の便までここで待てって。秘書でも何でもない、もう関係ないって」
「だろうな」
「ひどいよね」
「お前が俺にしたことと、何が違う」
美咲は黙った。
唇を噛んで、視線を落とす。
「ねえ」
「……」
「少しだけでも、私のこと好きだったの、残ってない?」
その質問に、俺はほんの少しだけ考えた。
残っているに決まっている。
だからこんなに痛いんだ。
完全にどうでもいい相手なら、ここまで刺さらない。
でも、その“残っている”を、お前のために使う気はない。
「あるよ」
美咲が顔を上げる。
期待が滲む。
その顔を見て、俺は静かに続けた。
「だからこそ、もう二度と戻らない」
「……」
「情があるうちに、きっぱり終わらせる。お前のためじゃない。俺のためにだ」
美咲の目がまた潤んだ。
けれど今度は、俺はそれを最後まで見なかった。
「本日のご予定は、空港行きの送迎待機のみです」
わざと事務的に言う。
「迷われないよう、ロビーから動かないことをおすすめします」
「優人……」
「以上です」
それだけ告げて、俺は背を向けた。
背中に、泣き声が刺さる。
それでも振り返らなかった。
展望台には、六十代くらいの夫婦が来ていた。
結婚三十五周年の記念旅行らしい。
「今日はよく晴れましたね」
俺がそう言うと、奥さんの方が笑った。
「私たち、若い頃は旅行なんて全然行けなかったんです」
「子どもがいたしね」
と旦那さんが照れたように続ける。
「やっと落ち着いて、今さら新婚旅行みたいなことしてる」
その言い方に、少しだけ胸が痛んだ。
でも不思議と、嫌な痛みではなかった。
東の空がゆっくり白み始める。
海の縁が薄く光り、やがて一筋の金色が水面を裂いた。
「わあ……」
奥さんが息を呑む。
旦那さんがその肩にそっと手を置く。
俺はいつもの調子で説明した。
「日の出は、顔を出す瞬間より、その少し前が一番色がきれいなんです」
「あら」
奥さんがくすっと笑う。
「あなた、そういうの詳しいのね」
「仕事ですから」
「でも、好きじゃないとここまで見ないわよ」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
好きだったのだ。
旅も、人の喜ぶ顔も、そのために段取りを考える時間も。
美咲に裏切られたからって、それまで全部嫌いになる必要はない。
たぶん、まだしばらくは痛い。
碧凪島の名前を聞くだけで思い出すだろう。
白いワンピースも、青い海も、あの夜の会場のざわめきも。
でも、それでいいのかもしれない。
胸糞悪い思い出が残っていても、前に進けないわけじゃない。
案内を終えて、夫婦が何度も礼を言ってくれた。
「あなたに案内してもらえてよかった」と。
その言葉を受け取った時、ようやく少しだけ、呼吸が楽になった。
ホテルへ戻る途中、海沿いの道で本土行きの送迎車とすれ違った。
後部座席に、美咲の横顔が一瞬だけ見えた。
俯いていて、こちらには気づかなかったのか、気づいても顔を上げられなかったのか。
どちらでもよかった。
九条は会社でどう処分されるか知らない。
少なくとも、昨日までみたいに涼しい顔で表へ出るのは難しいだろう。
美咲も、もうあの男の隣で勝ち誇った顔はできない。
二人とも、自分たちが選んだ旅程の先で、ちゃんと落ちた。
それで十分だ。
俺は車窓の外の海を見る。
朝の海は、昨日とは違う色をしていた。
同じ場所でも、誰といるかで景色は変わる。
神谷支配人の言った通りだ。
だったら次は、もう少しまともな景色を見に行けばいい。
誰かとでも、一人でも。
スマホが震えた。
城戸からの短いメッセージだった。
『よくやった。規定を守れる人間は貴重だ。戻ったら話がある』
昇進の話か、異動の話か、それとも面倒ごとか。
まだわからない。
でも少なくとも、俺を便利なだけの男として笑う連中とは違う場所へ行ける気がした。
窓に映る自分の顔は、まだ少し疲れていた。
けれど、もう下は向いていなかった。
ガイドとして、次の客を次の景色へ連れていく。
それが俺の仕事だ。
そして一度くらい、自分自身のためにも、まともな行き先を選んでやろうと思う。
昨日まで、碧凪島は奪われた場所だった。
でも今は違う。
裏切り者たちが落ちた場所だ。
それは胸糞悪くて、少しだけ痛快で、もう二度と忘れられない。
まったく。
本当に、最高の地獄旅行になった。
(完)
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あとがき:
この物語をお読みいただき、ありがとうございました。
他にも物語を連載していますので、もしこの話がお気に召しましたら、ぜひ下記の作品もご覧いただければ幸いです。
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https://kakuyomu.jp/works/822139842039386364
引き続き、読者の皆様の心に残る物語をお届けできるよう努めてまいります。これからも応援よろしくお願いいたします。




