青
カクヨム様にて、投稿していた小説をほんの少し修正した作品です。
心動かされるものがありましたら、ページ下での星での評価をよろしくお願いいたします。
「今日も空は綺麗……。こういう色をなんて言うのかな?」
水色?
でも、水色というには色が鈍いかなぁ……。
青藍色?
でも、青藍というには澄んでいるよねぇ……。
紺青色?
でも、紺青というには色が軽いかぁ……。
「あぁ、そっか……。こういうのを空色って言うのかな……?」
本当に……。
本当に……。
「綺麗だなぁ」
私と違って……。
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「……行ってきます」
呟くように、私は言葉を溢した。
一般的な家庭なら、明るい口調で、あるいはほんの少しの心配から“いってらっしゃい”と返事があるのだと思う。
でも、“一般的”という言葉は私の家に当てはまらない。
私に返ってくる言葉は、何もない。
確かに、家の中には家族がいるはずなのに……。
いつも通りの時間に家を出て、いつも通りの時間に電車に乗る。
そして、いつも通りに……。
「……止めてください」
身体が触られる。
どうやら、私の身体は男の人から見ると魅力的に映るらしい。
そのせいで、痴漢に遭うことが多い。
本当は電車になんか乗りたくない。
そう言っても、母、もしくは父親にあたる人が車で送り迎えしてくれることはない。
何度も痴漢の被害に遭っているのに、そんなものに出会うのは“私のせい”だそう。
見知らぬ男性から、何度も身体を触られる。
偶然を装うように、手の甲? で太ももに触れてくる。
そのまま、手のひらでゆっくりとお尻を撫で上げる。
嫌悪感と恐怖から身が固くなる。
大きな声を出さなきゃいけない。
身を捻ったりして、抵抗しなきゃいけない。
でも、私に出来るのは微かな反抗だけ……。
自分なりに、必死に声を上げる。
「……やめてぇ」
そうして頑張っても、気の弱い私では、大きな声が出せなかった。
何よりも、男の人から痴漢されている事実を周囲に知らせるのも抵抗があった。
私みたいな醜い人間が、痴漢されるわけがない。
そう思ったから……。
なんとか身体を捩って、抵抗しようとする。
でも、その手はしつこく私の身体に触れてくる。
(気持ち悪いよ……。誰か助けて……)
そんな願いが通じたのか、バッと私の身体を触っている手を、誰かが掴み取る。
「おっさん!! 朝っぱらから何してんだよッ!!」
そう声を荒げてくれたのは、髪を茶に染めた気の強そうな女の子だった。
「テメェの気色悪い性欲を、こんなところで発散してんじゃねぇッ!!」
そう叫びながら、彼女は痴漢していた四十代ぐらいのおじさんの手を捻り上げた。
「イデェ!!」
女の子はかなり力が強いのか、おじさんが苦悶の表情を浮かべた。
そんなおじさんのことを知ったことかと言わんばかりに、女の子は私に優しく笑みを見せてくれる。
「大丈夫か? 朝から気持ち悪かったよな。もう大丈夫だからな」
メイクもしっかりと決めたギャルっぽい彼女の顔は、気の強そうな表情から、私を気遣うような色に変わる。
おじさんの手を捻り上げたときの彼女にかっこよさを感じていたが、当時に少しだけ怖さもあった。
でも、私を気遣うような表情をした女の子は、陳腐な言い方だけど、凄く可愛く感じていた。
何よりも、私のことを慮ってくれることに、心がほんの少し温かくなる。
私はつい、彼女の柔らかな表情に見惚れてしまっていた。
「お、おい。大丈夫か?」
そうして、返事をしないまま彼女を見つめてしまっていたからか、彼女の表情がより心配したものに変わった。
それに気づいた私は、慌てて口を開く。
「あ、すいませんっ。ぼーとしちゃって……。助けてくれて、ありがとうございますっ」
あわあわと落ち着きのない私の様子に、彼女は何かおかしかったのか、クスッと微笑む。
「そうかっ。大丈夫だったらいいんだ」
見た目は完全なギャルなのに、言葉遣いは男の人のような彼女。
そんな彼女に、なぜか私の心はキュンとしてしまう。
自分のことながら、一度助けてもらっただけで、ときめいてしまうなんてチョロいなぁ、と捻くれた考えが脳裏を過ぎった。
そんなことを考えていると、彼女は申し訳なさそうな、気を遣うような顔をして言う。
「申し訳ないけど、このおっさんを駅員に突き出さなきゃいけないんだ。被害者なのに悪いんだけど、付き合ってくれるか?」
「あっ! は、はい」
チョロい私は、彼女の付き合うという言葉に、少しだけドキッとしつつ、返事をした。
その後、私の身体を触ってきたおじさんは、気の強い彼女に腕を捻られながら、駅員さんに突き出された。
おじさんは諦め悪く、逃げ出そうとしていたが、まったく隙のない彼女が逃がすことはなかった。
面倒ごとが終わった後、私は彼女に改めてお礼を言った。
そのまま話していると何となく気が合った私たちは、自然と友人になった。
名前と連絡先を交換したのだから友達だよねっ、と独り言を溢したとき、彼女、光希ちゃんに聞かれてしまっていたのは恥ずかしかったけど……。
嫌なこともあったけど、朝からミツキちゃんと知り合えたことは、今年で一番良かったことだと思う。
駅でミツキちゃんと別れた後、私はルンルン気分で学校に向かって一歩を踏み出した。
その上機嫌も学校に着く頃には、すっかり消えてしまう。
でも、それも仕方ないことだと思う。
私は学校で虐められているのだから……。
いつもより少し遅れて到着した学校。
自然と私の足は重くなる。
一歩一歩踏み出すたびに、嫌な汗が背中に浮かんでいるのを感じた。
校内に入ったら、まずは靴を履き替える。
靴箱は悪戯を仕掛けるのに都合がいい。
だから、どんな嫌がらせをされても良いように、気分を持ち上げようと意識する。
それでも、私は背中を丸くしてしまう。
自身の存在を主張しないように、身体を必死に縮こまらせる。
下駄箱を見たとき、私はホッとした。
今日は何もされていなかったから。
これまでは、押しピンが入れられていたり、ガラス片が入っていたり、ときには蛙の死骸が入れられていることもあった。
(今日は大丈夫、なのかな……)
靴に何もされなかっただけで、油断してはいけない。
そう思っても、気が緩みそうになる。
だが、これまで受けてきたイジメを思い出すと、顔は自然と俯いた。
そそくさと上靴に履き替え、教室に向かう。
私が向かう教室は三階。
一階からゆっくりと階段を上っていく。
一段一段上っていくと、耳元に荒い息が聞こえてくる。
それが自分のものだと気付くのに、時間はかからなかった。
「はぁ……、はぁ……」
ただ、教室に向かうだけ。
それだけなのに、なぜか足は思うように動いてくれない。
私は心の抵抗を無視するように、必死に歩を進めた。
どんどん重くなる身体を無理やり動かしていると、ようやく三階にたどり着いた。
ここまででも私にとっては、一苦労だった。
それでも、教室へと足を進ませる。
周りの人間から異物だと思われないように、自然な足取りを意識して――。
ガラガラっと、教室のドアを開けた。
俯かせていた顔を少しだけ上げ、自身の机を確認する。
そこには、ちゃんと自分の席があった。
だけど、机の上には花瓶が置かれている。
水も入っていない花瓶の中には、彼岸花が入っていた。
そして、机にはさまざまな言葉で悪意が書かれている。
“死ね”という直接的な言葉から始まり、“尻軽”と言ったような性的な侮辱すらもある。
私は心の中で、必死に抵抗する。
(彼岸花には死を意味する花言葉はないし、馬鹿な私以下の言葉でしか侮辱できない低劣な人の言葉なんかで傷つかない……)
傷つかない。
大丈夫。
傷つかない……。
大丈夫……。
私は心中で唱え続ける。
でも、自然と目から溢れてしまうものがある。
自分が傷ついているなんて悟られたくない。
こんなことで、自分の尊厳がなくなったりなんてしない。
例え、同じクラスの人間が私のことを見てクスクス笑っていても。
例え、苦しんでいる私を知りながら無視していても。
(私は大丈夫……。だいじょうぶ……)
必死に、自分を鼓舞した。
でも、私の心は抵抗しきれず、身体は机の前で立ち尽くすだけだった。
それは先生が朝のホームルームに来ても変わらない。
何なら、先生すらも私のことを見て見ぬふりをする。
「春夏冬、早く席につけ。それと、周りに迷惑をかけるな」
冷たい言葉。
冷めた視線。
(何か悪いことをしたのかな、わたし……)
たぶん、私の心は折れている。
本当なら、もう死んでいる。
じゃあ、なんでいまも私が息をしているのか。
それはたぶん、死ぬ勇気がないから……。
誰かが、私の背中をそっと押してくれたら、何の抵抗もせずに、私は死ぬと思う。
(なんで私は生きているんだろう……)
今日も私は顔を俯かせたまま、周囲は何事もなく日常を送っていく――。
午前の授業が終わった。
今から昼食を摂る時間だけど――。
「……」
私の周りには誰もいない。
教室にいる皆は誰かと話をしながら、食事を摂っているというのに……。
ただ机に突っ伏して、午後の授業が始まるのを待つのも良いかもしれない。
そんな思考が過ぎるが、この教室に私の居場所はない。
音を出さないように、そっと席を立つ。
そのまま息を潜め、存在感を消すように意識して、教室を出ようとする。
だが、今日の運は痴漢から助けられたことで尽きてしまったらしい。
「あ?」
教室を出る瞬間、私の目の前の扉が開いた。
正面にいたのは、このクラスのカーストトップの女子。
私がイジメられるきっかけを作った女の子。
「チッ。お前どんだけ面の皮が厚いんだよ。ビッチがよく平気な顔で学校に来れるよね? キショいんだけど?」
好き勝手罵倒する女の子。
そんな仕打ちに対して、私は何も言い返すことが出来なかった。
怖いという感情もあるし、もう抵抗する意味もないという考えもあるし、何より疲れていた。
女の子は、さらに舌打ちをした。
「チッ。どけよ、ブス」
「サラ。そんなのに構う時間がもったいないよ」
「それもそうね」
女の子を前にして、動けない私。
苛立ち、恐怖、悔しい、つらい、寂しい。
いろんな感情で動けない私を、目の前の女の子は平気で突き飛ばしてくる。
「ジャマ」
その一言と共に、女の子は私から視線を外す
サラと呼ばれる女の子とその友達が、私の傍を何食わぬ顔で通っていく。
彼女たちがいなくなったことで、蛇に睨まれた蛙のように動けなかった私は、ようやく身体が動かせることを思い出した。
「……」
私はその場から急いで去った。
向かう場所はいつでも自分の命が絶てる場所。
屋上だ。
屋上でぼぉっと空を眺めながら、ぼんやりと思い出していく。
いまのクラス編成になって始まった一学期は、サラという女の子も周りの女子も優しかった。
でも、彼女が狙っていた男の子の興味が私に向いてしまった。
それからだ。
彼女たちが私に辛く当たるようになったのは……。
まるで三文小説のような、どこにでもありそうな流れで、私は虐められるようになった。
この立場になって最初に思ったことは、こんな物語みたいなことが本当にあるんだ、というもの。
だけど、そんな余裕もすぐになくなった。
仲が良いと思っていた子に虐められることは、想像している以上に心が軋んだ。
「今更、昔のことを思い出しても、どうにもならないのに……」
それでも、私は過去に想いをはせる。
楽しかった時間を頑張って思い出そうとする。
でも、そんな想い出も穢されていく。
ゴミクズのように捨て去りたい両親のようなものたちとの記憶。
簡単に私のことを敵対視するようになった元友達が私にしてきた所業。
「なんで、私生きているのかな……」
こんな最低最悪な人生を今すぐにでも放り出したい。
でも、簡単にそんな選択は出来ない。
勇気がない。
「死ぬのって簡単なようで、難しいんだ……」
呟き、空を見上げる。
視界に入る風景は憎たらしいほど爽やかだった。
「本当に、空は綺麗……。私は穢されているのに……。あぁ、なんて――」
頭にくるほど美しい青。
空を見上げ続ける。
見惚れるように……。
睨みつけるように……。
好ましさと憎らしさで、空を眺めていると、携帯の通知が鳴った。
母親から持たされているコレは、常に私の居場所を特定するための道具だ。
「あの人からかな……」
憂鬱に思いながら、携帯を見る。
そこには見覚えのないアイコンからのメッセージ。
アプリに届いたソレを、開くべきか、辞めておくべきか、と少し悩む。
「まぁ、怪しいメッセージだったら、消せばいいよね……」
そう呟き、私はメッセージを開く。
内容はというと……。
『突然のメッセージ、ごめんなさい。
アキナシ ユキさんの携帯で合っていますか?
あのあと、登校時間には間に合いましたか?
今朝のことを忘れられていればいいのですが……。
ミツキより』
長すぎず、短すぎないメッセージ。
それでも、私のことを慮るような言葉。
対面で会話していたときよりも遠慮がちな言葉遣いに、少し違和感を覚える。
それでも、彼女の気遣いで、私の心は少しだけ温かくなった。
すぐにメッセージを書き、ちょっとだけ内容を読み直して、返事を送る。
『メッセージありがとうございます! ミツキちゃん!
登校時間には無事間に合いました!
今朝のことは、ミツキちゃんと出会えたので、プラスだと思っていますよ♪』
親以外にメッセージを送るのは久しぶりだったため、気持ち悪い文章になっていないか気になりながらの返信。
それから昼休みの時間は、ミツキちゃんとのメッセージのやり取りをして過ごした。
ミツキちゃんは文字情報だと、凄く丁寧で、今朝見たときの印象とは全く異なっていた。
少し意外に感じつつも、私はアプリ上で会話を楽しんだ。
楽しい時間というのはあっという間で、午後の授業の予鈴が鳴った。
その音を聴いた瞬間、一瞬でブルーな気持ちになってしまう。
「はぁ……」
深いため息を溢し、教室へと向かう。
一歩一歩が重たくなる。
それでも、足を止めることはない。
教室に着いたら、誰にも気づかれないように気を付けながら、自分の席へ。
それから、午後の授業もいつも通りに進んだ。
クラスの皆は楽しそうに、あるいは面倒くさそうに、でもガヤガヤとしながら授業を受ける。
翻って、私はというと……。
息を潜めるように、自身の存在を主張しないように、俯きがちに過ごした。
午後の授業が終わった。
私は部活に入っていないから、あとは帰るだけだ。
でも、帰りたくない。
なら、学校にいたいのかというと、それもない。
学校にも家にも、私が安心して過ごせる場所などない。
一学期が終わる頃には、そう思うようになっていた。
校舎から出ると、やっと学校という檻から離れられるという解放感を覚える。
でも、駅に近づくにつれて、不安が募る。
今朝もあったが、私はよく痴漢に遭遇してしまう。
たぶん、気の弱そうな見た目と、服の上からでも分かるぐらい発達している身体のせいだと思う。
大して良い食事を摂っていないのに、なぜ身体つきばかり男受けのするようなものになってしまうのか……。
痴漢や、誰かに身体のことを茶化される度、ただでさえ憎い親のことが、より憎くなる。
「どうしよう……」
駅構内に入る前に、つい呟いてしまう。
そんなとき――。
「よっ! また、逢ったな」
不意に肩を叩かれて、私の身体がビクンと跳ねた。
声の方に視線を向けると。
「あっ、ミツキちゃんっ」
その姿を確認した瞬間、嬉しさで声のトーンが高くなってしまった。
今朝出会ったばかりの女の子なのに、なぜかミツキちゃんには親近感を覚えてしまうのだ。
「こんなところでどうしたんだ?」
ミツキちゃんが明るく問いかけてくる。
それだけで私は嬉しかった。
私に興味を持ってくれている、そう思うだけで、気持ちがいくらか軽くなるような気がした。
「えっと、ね……」
とはいえ、家に帰るのが嫌だ、なんてことはミツキちゃんに言えない。
家族との関係が良くないことを知っているのは、学校の知人でもサラぐらいだ。
そのサラももう敵になってしまったけれど……。
ミツキちゃんになんて返事をしようかと悩んでしまう。
そんな私のことを見て、優しい彼女は口を開く。
「もしまだ家に帰らないならさ。私とカラオケにでも行かない?」
「え?」
思わぬ誘いだったけど、凄く嬉しかった。
誰かに遊びの誘いをされるなんて、数か月ぶりだったから……。
でも、同時に、困惑もあった。
まだ出会ったばかりの私とカラオケに行って、ミツキちゃんは本当に楽しめるのかな、という戸惑いがあった。
「ね、ユキ。朝は嫌なことがあったんだから、パーっとストレス発散しよっ?」
その言葉を素直に受け取るならば、ミツキちゃんは私のことを気遣ってくれているのだと思う。
でも、なぜかそれだけの言葉じゃない気がした。
だから、私は――。
「うん。せっかくだし、一緒にカラオケ行こっかな」
ミツキちゃんがぱぁっと笑顔を浮かべた。
「じゃあ、近くのカラオケ行こっ? カラオケってなぜか、駅の近くにあるよね」
ミツキちゃんは私の手を引いて歩き出した。
自然と繋いできた手。
その手の温かさに、なぜか心まで温かくなったような気がした。
「ユキはどんな歌が好きなの? 私は――」
ミツキちゃんとの何気ない会話は、カラオケ店に着いても続いた。
なんでもない会話を交わすのすら久しぶりな私は、ミツキちゃんの言葉を大事に受け取る。
散々、言葉による攻撃を受け続けていたせいか。
ミツキちゃんの何の悪意も籠っていない言葉は、私の心を大きく揺さぶっていた。
おそらくは彼女が想像できないほどに……。
そして、孤独だった私が、何でもない日常を思い出させてくれるミツキちゃんに惹かれるのは、当然のことだった。
カラオケが終わったあとも、しばらくミツキちゃんと時間を共にした。
今朝のことを思い出してか、ミツキちゃんは電車に乗るときも私のことを気遣ってくれた。
当たり前のことだけど、ミツキちゃんの明るい口調や、何気ない気遣いがどれほど嬉しかったか、ミツキちゃんには伝わっていないはずだ。
酷くボロボロになってしまった私の心に、ミツキちゃんの言動の全てが甘い毒となっている。
家にはミツキちゃんのように、私を尊重してくれる人はいない。
学校にはミツキちゃんのように、私と言葉を交わしてくれる人はいない。
あまりにも孤独だった私が、今日一日だけで、ミツキちゃんに好意を抱いてしまうのも自然なことだったのかもしれない。
そう。
私の壊れた心は――。
ミツキちゃんへの依存に変化しかけていた。
ミツキちゃんと別れ、家に着いた。
幸いにも、彼女と最寄りの駅が一緒だったおかげで、何の不安もなく電車に乗っていられた。
一緒に過ごした時間は心地よかったけれど、彼女と別れ、家にたどり着く頃には、私の身体が固くなっていた。
「た、ただいま……」
控えめに、帰宅の言葉を発する。
出来るだけ親の機嫌を損ねたくないからだ。
「あら、ユキ。帰ってきたのね。私はこれから仕事だから」
母の言葉に、温かい感情など一切乗っていなかった。
普通の親子だったらどんな会話をするのかな、なんて疑問を感じながら、私は小さな声で言う。
「いってらっしゃい……」
「はいはい、行ってきます」
勇気を出して発した私の言葉は、あまりにも適当に流された。
そのまま、母は仕事へ向かうのかなと思っていると、彼女は思い出したように口を開いた。
「あ! いま私の大事な人が家にいるから、失礼のないようにお願いね? あと、もし変な誘惑したら――」
母の声色がどんどん恐ろしいものに変わっていく。
最初は何も感情が乗っていないかのような口調だったのに、いまは私のことが憎いのだと思い知らされるような音で、次の言葉が発された。
「娘と言えど、殺すからね?」
あまりの恐怖に、声が出せなかった。
いつも言われている言葉なのに、母への恐れで毎回返事が出来ない。
そして、そんな私を見て、決まって言うのだ。
「あなたが性処理に使われるのは別にいいわ。でも、あの人の心を奪ったら――。ね?」
「……」
私の口元から、恐怖でガチガチと音が鳴る。
別に寒くもないのに、身体全体が震えて止まらない。
「ユキ? 返事は?」
「……」
「へ ん じ は?」
「は、はい……」
何とか、母の圧力に耐えながら、声を出す。
たった一言、“はい”というだけで、私の喉はカラカラだった。
「そう。イイ子ね、ユキ。じゃあ、行ってくるわ」
「……」
私の返事を聞き、母は家を出た。
今から母は知りもしない男とまぐわうのだろう。
母のお金でご飯を食べさせてもらっている私が言えたことではないが、もっと普通の仕事に就くことは出来ないのだろうか。
そう強く思ってしまう。
でも、同時に、そんなことは無理だとも思う。
母は“美しい女”という特徴を生かして、大金を稼いできた。
身体を売ることでしか、お金を稼いだことがないのだ。
それが彼女の生き方なのだ。
そんな母を私は誇れない。
だって、必死に稼いだ大金をすべて男につぎ込んでしまうから……。
もし真面目に勉強して資産運用を行っていれば、他人に誇れずとも、尊敬できる母だと思えたはずだ。
でも、いまの母を尊敬することも、誇れることも出来ない。
そのことが、心苦しくて仕方ない。
「おっ、帰ってきたのか」
母のことを考えていると、彼女の大事な人の声が聞こえてきた。
その瞬間、私の身体がまた緊張する。
でも、それを出来るだけ悟らせないように、必死に演じながら、私は父のような存在に返事をする。
「ただいま、です」
「おう、おかえり。もう風呂は沸いているから、さっさと入ってきなさい」
「は、はい」
父のその言葉に、私は察してしまう。
また私を使うのか、と……。
そのあとは語ることなど何もない。
ただ私の身体が蹂躙され、穢されただけのこと……。
もう涙も出ない。
もう声も出ない。
もう身体も震えない。
もう何も感じない。
ただ残ったのは、絶望だけ。
好きな人が出来たときに捧げたかった心は、すでに壊されている。
好きな人が出来たときに捧げたかった身体は、すでに穢されている。
好きな人が出来たときに捧げたかった言葉は、すでに枯れている。
好きな人が出来たときに捧げたかった嬉し涙は、すでに汚れている。
あぁ、私はなんて――。
「汚いんだろう」
ミツキちゃんと出会えた幸運な日から、私の日常に大きな変化はなかった。
朝起きて、電車に乗り、学校で授業を受け、終業後は家に帰り、身体を蹂躙され、息を潜めるように眠りにつく。
そんな悲惨な日々。
だけど、最低最悪な日常に変化を与えてくれる存在がいた。
そう、ミツキちゃんだ。
苦痛に満ちた日々がループするような日常だったが、ミツキちゃんのおかげで、ほんの少し変わったのだ。
朝、電車に乗るときにミツキちゃんと出会えるだけで、車内にいる不安は軽減される。
下校時にミツキちゃんと遭遇したら、少しだけ遊んで、ストレスを発散する。
本当に少しだけの変化だ。
でも、それのおかげで、自分はもう少しだけ生きていようかなと思えた。
ミツキちゃんは本当に魅力的な人だ。
口調は女の子らしくないのに、言動や所作の節々が妙に色っぽいのだ。
性格もサバサバしているように見えれば、思いやり溢れる優しいところや細かいところで気を遣える大人っぽい女の子だった。
そんなミツキちゃんと少しずつ一緒に過ごす時間を積んでいくたびに、私の中で想いがどんどん溢れてくるようになった。
単純に言えば、ミツキちゃんのことが恋愛としての意味で好きになったのだ。
そのことに、私は何となく納得していた。
父とも呼びたくない男のせいで、私の恋愛対象はすっかり同性へと変わってしまっていたのだ。
自分の気持ちを自覚してからは、どんどんミツキちゃんに惹かれていくようになった。
ちょっとしたことでもミツキちゃんへの気持ちが強まったし、ミツキちゃんの短所を見つけても、まぁそういう欠点もあるよね、と受け入れられた。
どんどんミツキちゃんへの気持ちは膨れ上がっていったけど、私はその気持ちを伝えるつもりはなかった。
理由は私の心も身体も穢れているから……。
こんな私がミツキちゃんに好意を抱くだけでも、自身を嫌悪してしまうのに、想いを伝えるなんてもってのほかだと思ったのだ。
ただ、そう思っても、何かのきっかけがあれば、その想いを溢してしまうと確信できるほどに、それは大きくなっていたけれど……。
ほんの少しの幸せを噛みしめつつ、絶望の多い時間を過ごしていると、季節は肌寒い秋へと変わろうとしていた。
ミツキちゃんと出会った日はまだ少し暑かったけど、長袖の人が多くみられるような、そんな気温、季節になった。
そんな時期になったある朝、ミツキちゃんの様子がおかしいことに気付いた。
電車に乗るときは若干挙動不審で、私との会話もあまり耳に入っていないような、そんな様子だった。
何とかミツキちゃんを勇気づけようと言葉を探していると、彼女がいつもとはまったく違う丁寧な口調で提案してきた。
「ユキさん。今日は少しだけ学校をサボりませんか?」
「……いいよ。どこか行こっか」
ミツキちゃんのただならない雰囲気を感じ取った私に、提案を拒否する選択肢はなかった。
そのまま、いつも降りる駅を無視して、電車に乗り続ける。
そうしていると、ミツキちゃんの目的の駅に着いたのか、私の手を引いて、電車を降りていく。
その間に、言葉はなかった。
ミツキちゃんの目的地は海だった。
どこまでも広い青を見ながら、ミツキちゃんは口を開いた。
「ユキさん。突然の提案なのに、付き合ってくれてありがとうございます」
「ううん。いつもミツキちゃんには助けられているから、別に学校をサボるぐらいなら問題ないよ」
「ふふ。そう言ってもらえると嬉しいです」
いつも対面で話すときは男勝りな口調だったのに、何故か今日はメッセージでやり取りするときのような、丁寧な話し方だ。
そのことで、私は何となく察した。
「それが本当の話し方なの?」
「そうなの。普段は強い自分を演じているだけ……。本当の私はただの普通の女の子。幻滅した?」
「そんなことはまったくないかな」
「良かった……」
ホッとしたような表情。
これまで見たことの無いような顔だった。
「……私はね、ユキさん」
「うん」
「……私は」
「……」
「……わ、た、しは」
ミツキちゃんの声色に、涙がにじんでいく。
一所懸命に、何かを伝えようとしてくれている。
それを急かすことなく、じっと待ち続ける。
「……私、父に……。乱暴されてるの……」
「そっか」
「……驚かないのね?」
「何となく気付いていたから……」
ミツキちゃんと一緒に過ごすようになって、私は気になったことがあった。
それは、彼女のメイクだ。
初めて出会った日は、少し濃い目のメイクで顔を創っている、美意識の高いギャルだと思っていた。
でも、メイクの濃さは日によって微妙に異なっていた。
私は気付いていた。
ミツキちゃんの家庭環境もあまり良いものではないということに……。
でも、ミツキちゃんがそのことを教えてくれるまでは、知らないフリをしていた。
「ミツキちゃんの言う乱暴って……」
「叩かれたりもするし、気持ち悪いのもあるかな」
「そっ、か……」
私が言い淀むと、すぐに答えるミツキちゃん。
何となく、いまのミツキちゃんの表情は見ない方がいい気がした。
だから、私は海に視線を向け続けながら、口を開く。
「私と……」
「ん?」
「私と少しだけ一緒だね……」
「やっぱり……」
「ミツキちゃん、驚かないんだね?」
「何となく気付いていましたから」
「そっか……」
海を見ながら、私たちは会話を交わす。
互いに隠していたことをすべて曝け出すように……。
私の家庭環境、学校でのイジメ、これまで被害を受けた痴漢の恐怖。
それら全てを私は話した。
ミツキちゃんは私よりも上手くやれていたらしい。
家庭環境こそ私と似ていたけど、学校ではイジメられないように立ち回っていたし、気の強い女の子を演じることで痴漢から逃れたり……。
でも、とある日に、父親からの性的暴力がクラスメイトにバレたらしい。
そのきっかけは、父親が隠し撮りしていた性的暴行の動画が、なぜかネットで出回っていたこと。
なぜ動画が出回ったのか。
どうやら、ミツキちゃんの父親は性的暴行の動画をネットで売り捌こうとしたらしい。
それから、学校で何とか弁明しようとしたらしい。
でも、時すでに遅し。
ミツキちゃんは男子生徒からセクハラを受けるようになり、女子生徒からは遠巻きに見られるようになったらしい。
あまりのことに、私は何も言えなかった。
ミツキちゃんは慰めの言葉を必要としていないだろうし、ミツキちゃんの苦しみをすべて理解することなんて不可能なのだから、同情も出来ない。
ただ、私は彼女の言葉を、感情を受け止め続けた。
互いに、視線は海へと向いていると思う。
少なくとも私は海を眺めている。
しばらく、互いに沈黙した後、私は口を開いた。
「海も、空も綺麗だよね……」
「そう、ね……」
「私はこんなにも穢れているのに……」
「……」
いつもは積極的に話しかけてくるミツキちゃん。
でも、お互いの辛さを吐き出したことで、ミツキちゃんも無理に口を開くことはない。
「海の色って、なんて言うんだろうね」
「……水色、じゃないですか?」
「水色、か……。確かに、そっか……」
「急にどうしたんですか?」
「ちょっと前に、空を眺めていて思ったの。空の色って、なんて言うんだろうって」
「ユキちゃんって、ちょっと天然ですよね……」
「そっかな?」
どうでもいい会話を続ける。
でも、私が言葉を止めることはない。
「昔は、寒色系が好きだったんだ」
「……いまはどうですか?」
「好きだけど、嫌いかな……」
「ふふ。なんとなく分かりますよ」
私はゆっくりと立ち上がる。
「私、ミツキちゃんのこと好きなんだ。恋愛的な意味で」
「……唐突ですね。私はライクの方の好きですよ」
「そっか」
「そうです」
ミツキちゃんもその場で立ち上がる。
「ユキさん」
「なに?」
「一緒に、死んでくれませんか?」
「もちろん、いいよ」
「即答ですね」
「まぁ、好きな人と死ねるなら幸せかなって」
今日は私が手をつなぎに行く。
ミツキちゃんは何も言わずに、それを受け入れた。
そのまま、私たちはその場を去った。
そう、去ったのだ。
(完)




