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鷹宮塾塾長、鷹宮慎一の春

作者: Nonoa
掲載日:2026/02/26

 鷹宮塾の職員室。


「もうすぐ夏ですね」


 妻の真紀が、パソコンから目を上げて言った。


 夏。受験生にとっても勝負の季節だが、塾にとっても書き入れ時だ。


「駅前のゼミナール、無料体験やるみたいです」


「またか……大手は体力が違うな」


 大手進学塾に、個別指導塾。競合相手は山ほどいる。

 少子化の上に、最近は勉強アプリまで出てきた。


 机に残った、夏期講習のチラシを手に取る。ずいぶん配ったが、反響は今ひとつだ。

 チラシ代も、高くなったな。


 ……塾なんてもう、儲からないかもしれないな。


「廊下の順位表の掲示、廃止を検討していましたが、続けて欲しいという意見が多いです」 


「そうか。……やっぱり続けるか」


 マグカップに口をつける。

 年々、個人情報の取り扱いが厳しくなっている。合同模試も、実名掲載はとっくになくなった。


「子どもの頃は、順位表を見るのが好きだったな……」


 志望校も、載っていた。

 ライバルの名前を探して、勝った負けたと騒いで。

 ……ああいうのは、なくなっていくのだろうか。


「夏合宿、六年生は全員申し込んでくれましたよ。五年生は、あと三人ですね」


「なるべく、取りこぼさんようにしたいが……」


「夏期講習と合わせると、高額ですからね」


 再びチラシに目を落とす。

 費用に見合う結果だけは、出してやりたい。


---


 自宅。


「慎一。杉本先生から、電話」


 明日から夏合宿だと言うのに、理科の杉本先生が体調を崩してしまった。

 お大事に、と伝えて電話を切った。


「困ったわね。誰か来れる人、見つからない?」


 元々人数が足りず、付き合いのある塾から一人借りる予定だったのだ。

 正直、明日急にもう一人となると、厳しい。


「学生のチューターだけでも、声をかけてみるか。誰かつかまれば良いが」


「授業は慎一が担当するの?」


「それしかないだろう」


「時間割、少し変更しなきゃね」


「任せる。オレは授業の準備してくる。」


 杉本先生から送ってもらったメールで、夏合宿の範囲を確認する。色褪せた、分厚い理科のテキストを、本棚から引っ張り出す。


 理科を教えるのは久しぶりだ。だが、体はまだ覚えているはずだ。


 キッチリ復習しておこう。子どもたちの前で、いい加減な事は出来ない。


 コンコン。部屋をノックする音。娘の遥花が入って来た。


「お父さん、大丈夫?」


「ごめんね、私がいけたら良かったんだけど……」


 遥花は大学四年生。時々、塾でチューターのアルバイトをしていたが、今はインターンの真っ最中だ。


「気にするな。娘に心配かけるような事じゃない」


 遥花に、なんでもない事のように笑ってみせる。


「お父さん、理科教えるの?」


 遥花が机の上のテキストを見ながら言った。


「ああ。問題ない」


「じゃあ、コーヒー入れてこようか」


 ……なんて良い娘なんだ。


「ああ、ありがとな」


 遥花は、最近だんだんコーヒーを入れるのが上手くなっている。

 コーヒーの匂いが、部屋に漂ってきた。今夜は長くなりそうだ。


---


 翌日。

 子どもたちをバスに乗せ、予定通り合宿地へと向かう。


 まるで遠足か修学旅行だ。車内はずっと騒がしい。これから勉強漬けだと言うのに、元気なもんだ。


 アイドルの話、マンガの話。今通った車がカッコいい。お菓子の交換。


 聞いていても仕方ないな。寝るか。


「真紀、アイマスクあるか」


 隣の席の真紀がカバンから荷物を取り出す。


「はい、耳栓とエアーピローも」


「準備がいいな」


「だって毎年寝てるでしょ」


 耳栓を付けながら、真紀の顔を少し見つめる。アイマスクをつけてから、ありがとな、と声をかけた。


___


 チェックインを済ませ、子どもたちを大広間に集める。昼食前に、注意事項をしっかり説明する。


「廊下を走らないように。それと、備品も壊さない」


「騒がない。他のお客さんに、迷惑をかけないように」


 当たり前のことほど、怖い。

 一度でも揉めれば、来年はこの旅館が使えなくなる。

 ……トラブルは、考えただけで胃が痛い。


「風呂は夜9時10分開始、20分交代制。10時就寝だ。」


「よく予定を確認しておく事。」


 少し強めに言っておく。真面目な連中でも、子どもは子どもだ。

 説教のような説明が一段落したので、真紀に目で合図する。


「それじゃあ、みんな、ご飯にしましょう」


「いただきます」


 この旅館は、毎年メニューがあまり変わらない。昼はカレーかトンカツかエビフライがよく出る。今日はエビフライか。一口かじる。


「相変わらず、美味いな」


「ええ。子どもたちも、ご飯くらい、楽しみがないと」


 ……そうだな。なんせ、毎日朝から晩まで、みっちり勉強させる予定だ。


---


 算数の時間。


「今から時間を測ります。5分以内に解いて下さい」


 毎年やっている、五年生への洗礼だ。生徒たちは少し驚いたような顔で、慌てて問題を解き始める。


「はい、ストップ。出来なかった人、手を挙げて」


「人数が多過ぎる。ずいぶん弛んでいるな。この合宿中に、気を引き締めること」


 あえて、厳しい声を意識する。


「手をおろして。授業を続けます。集中するように」


 少し、生徒たちの空気が変わったようだ。

 五年生にも、そろそろ本気になってもらわないといけない。

 夏で差がつく。ここで甘やかす訳にはいかない。


___


 合宿最終日。


「テストの集計、終わりました」


 真紀がノートパソコンの画面を見ながら、結果を書き写している。

 大分バタついたが、あとは成績発表と景品を配って終わりだ。


 プリントを受け取る。


 表彰者一覧。

 五年生、国語1位ーー成瀬葉子。


 ……成瀬?


 まだ入ったばかりの子だ。パソコンを覗き込み、他の科目も確認する。


 成瀬葉子。

 国語1位。

 4科目、9位。


 どうやら、国語がずいぶん得意らしい。


 そういえば、泉野は……。

 4科目、7位。

 思わず小さく息が漏れた。


 入ったばかりの二人が、総まとめテストでこの順位。ほとんど習っていない範囲のはずだ。


 ーー『この塾で、開正中学に入れますか』


 入塾テストの日。

 真っすぐな目だった。

 親よりも、本人の方が本気に見えた。


 開正か……。不可能じゃない。

 やる気が続く限り、出来るだけ力になってやろう。


___


 合宿を終え、バスでそのまま塾へ戻る。塾の前には、すでに何台も車が停まっていた。


 レクサス、ベンツ、見たこともない外車。


「先生、さようなら」


 子どもたちは笑いながら、当たり前みたいに後部座席へ吸い込まれていく。


 ドアが閉まる音まで上品だ。


「……毎年すごいわね」


 隣で真紀が苦笑する。

 ポケットから軽自動車のキーを出す。


「まぁいい。走れば同じだ」


「そういうとこ、あなたらしいわね」


 さて。

 今日はもう、スーパーの弁当でいいか。

 合宿の成績表も、明日には全員分、印刷しないとな。


___


 冬。職員室。

 今年は感染症の流行が酷い。緊急対策会議中だ。


「アルコール消毒と換気のルールをまとめました」


「加湿器、私が水入れます。増やしましょう」


「ボクが全部入れますよ」


 社会の山口先生が手をあげた。

 本当はエアコンも替えたい。だが、見積書の桁を見て、そっと引き出しを閉めた。


 いよいよ受験シーズンだ。

 廊下を走り回っていた連中まで、今は静かに問題集をめくっている。

「マスク忘れるな」「手を洗え」

 最近、そればかり言っている気がする。


 今年の生徒たちは、優秀だ。

 御三家の複数合格が狙えるのは、何年ぶりか。


 合格実績が欲しい。

 最後まで、全力勝負だ。


___


 二月二日。

 職員室で、真紀と並んでパソコンの前に座っている。


「もうすぐね」


「ああ。二人とも受かっているといいが」


 昨日の入試を終え、今日は桜葉女子の結果が出る。

 今日も朝から別の試験に向かったはずだ。

 だが、本命は桜葉女子。


 夜九時。

 更新ボタンを押す。

 番号の一覧が、画面に表示される。


「1007番……」


 スクロールする指が、少し震える。


「あった!1026番も!」


 二人とも、合格。小さく、息が抜けた。


「よし……あとは明日、泉野の開正だ」


「東都理科大附属も今夜よ。早く」


 隣を見ると、真紀が涙ぐんでいる。

 神島は昔からの生徒だ。

 成瀬は、どこか遥花に似ている。


「泣くなよ、毎年の事だろ」


 そう言いながら、自分の声も、少しだけ掠れていた。


 東都理科大附属のページを開く。

 羽島と松本の番号を、二人で黙って探した。


___


 お別れ会の日。


『開正中学校 1名合格』

『桜葉女子中等学校 2名合格』

『東都理科大附属中学校 2名合格』

……


 廊下に合格結果をたくさん貼り出す。

 素晴らしい光景だ。

 子どもたちは、よくがんばってくれた。


 今年は豊作だ。


 成瀬。桜葉女子に受かるとはな……。

 成瀬の姿が、遥花に重なる。遥花が合格した日の事を思い出して、思わず涙腺が緩みそうになる。


 いかん。特定の女生徒に肩入れすると、問題になる。今は男子でも問題になるらしいが。


 山口先生が、泣きながら泉野の肩を叩いている。


 ……仕方ないか。泉野は山口先生と、仲が良かったな。いつも最後まで残っていた。

 よく質問しに来て、職員室の常連だったな。


 開正の合格者は、三年ぶりか。


 ……本当に大したやつだ。


 真紀も、神島に声をかけながら涙ぐんでいる。廊下は、笑い声と泣き声でいっぱいだ。


「……今年も、終わったな」


 隣に来た真紀が、小さく笑う。


「みんな、よく頑張ったね」

「ああ」


 気がつけば、目頭が熱い。

 年々、涙もろくなっていかんな。


 ……来年も、また忙しくなりそうだ。

 壁に貼られた合格一覧を、もう一度だけ眺める。


 悪くない春だ。

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