【連載版始めました】幼馴染ばかりを優先する婚約者には、愛想が尽きましたので
連載版も始めました!
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「オスカー。またしてもキャスリーン嬢と二人で出掛けるのか? いくら大人しいミレイユ嬢でも、流石にそろそろ怒る頃合いだと思うがな」
「まさか。あのミレイユが俺に怒るわけがないだろう」
薄く開いた教室の扉。その隙間から漏れ聞こえてくる令息たちの声に、ミレイユはぴくりと眉を動かした。
「気が弱い上に、ミレイユ嬢は子爵家の出。婚約者とはいえ侯爵令息相手に不満なんか言いようがない、か」
「ああ。俺に嫌われれば玉の輿がおじゃんになる。その辺りは心得ているさ」
ミレイユの婚約者、オスカーの声音にはたっぷりと嘲りの響きが孕んでいた。
「容姿端麗、成績優秀。学院内でもミレイユ嬢に焦がれる男は多いというのに、その傲岸不遜な態度。婚約者の余裕ってやつは羨ましい限りだよ」
「美人ではあるが俺の好みではないし、頭のいい女なんて嫌味でしかないだろう。懸想する男どもの気が知れないな……」
ぼそりとオスカーがこぼせば、別の令息が歌うように追従する。
「万人受けするのは、やっぱりキャスリーン嬢だよな。あの可憐な容貌に人当たりのよい笑顔。抜けているところがまた庇護欲を誘うというか」
「オスカーが大切にするのもわかるよ。キャスリーン嬢はとにかく可愛らしい」
くすくすと交わされる、令息たちの談笑。
ミレイユはくるりと扉に背を向けて、その場を立ち去った。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
マグノリア子爵家の令嬢ミレイユがオスカー・バークライトと婚約を交わしたのは、三年前。互いが十四歳の時だ。
親同士が決めた婚約関係は良好――とは、お世辞にも言い難かった。
休日の朝。ミレイユはマグノリア子爵邸の応接間で、オスカーの来訪を待っていた。
今日は午後からとある伯爵主催のガーデンパーティに招待されている。
元々はバークライト侯爵が招かれていたパーティだったが、侯爵の名代をオスカーが務めることになり、婚約者としてミレイユも同行する予定になっている。だが、待てど暮らせど、オスカーが一向に現れない。約束の時間はとっくに過ぎていた。
ミレイユは小さくため息をこぼす。
(本日も、お約束のお約束……ですね)
観劇、演奏会、夜会。昔からオスカーはミレイユとの約束をすっぽかしがちだ。
友人と遊んでいた。単純に億劫になってドタキャン。理由は数あったが、最たる要因はオスカーの幼馴染キャスリーン・ホプキンスだった。
ミレイユよりも付き合いの長い幼馴染を、オスカーは殊更に優先しがちだった。その日はキャスリーンと約束ができた。お前とはいつでも外出できるのだから、今回はキャスリーンを優先させてくれ。
先約はミレイユなのに、そう言ってすっぽかされた回数は片手の指では足りない。婚約者のミレイユは軽んじるのに、オスカーは同い年の幼馴染をお姫様のように扱っているのだった。
(キャスリーン様を姫君のごとく扱っているのは、オスカー様に限った話ではありませんが)
キャスリーンはいつだって、学内で多くの男子生徒に囲まれている。可憐で小動物のように愛くるしい令嬢に、多くの令息が首ったけなのだ。己よりキャスリーンに夢中な婚約者に腹を立てている令嬢は学内に結構いて、キャスリーンは同性からの評判があまりよろしくなかった。
まあ、中でも一際べったりなのが自身の婚約者、オスカーなのだけれど。
「お嬢様。バークライト様がおいでになりました」
侍女が呼びに来たので、ミレイユはソファから立ち上がった。
「応接間にお通ししている時間はないから、私が玄関まで向かうわ」
急いで玄関に向かったミレイユは、エントランスホールに佇む人物を見て、おっとりと微笑んだ。
「ごきげんよう、アルヴィン様」
立っていたのはオスカー――ではなく、彼より小柄で、まだ少年の域を脱していないあどけない顔立ちをした鳶色の髪の貴公子。
バークライト侯爵家の次男、アルヴィン・バークライトだ。
二つ年下のアルヴィンは、髪色よりも若干色味の薄い瞳を揺らめかせて、苦笑した。
「驚かないのですね。兄様が来ないのは予想していましたか?」
「侯爵家の次期当主として自覚に欠けるオスカー様ですから。お父上の名代という大切なお役目ですらも、普段の感覚で投げ出すのではないかと思っておりました」
ミレイユの目から見て、オスカーという人は侯爵家の嫡男としての自覚に著しく欠ける人だった。
友人や幼馴染と遊ぶことにかまけて勉学を疎かにし、卒業後に必要になるであろう領地経営について学ぶ気配もなく。そのことでよく両親から叱責されているのに、改める気配はない。また、社交に対する意識も低い。悪友たちとは積極的に遊ぶのに、将来のための人脈づくりには消極的。先が思いやられるばかりである。
オスカーがミレイユとの約束を放り出す時、弟に代役を任せる。これも、お約束だった。
ミレイユがアルヴィンと顔を合わせるのは、ひと月前にオスカーと約束していた観劇に代役として付き合ってもらった時ぶりである。
「兄様は急用ができたとのことなので、僕が代理でエスコートを仰せつかりました」
まだ十五歳なのに、ミレイユに手を差し伸べる仕草は非常に様になっている。彼の日々の努力の表れだろう。
(先日オスカー様がご友人方と話していらしたキャスリーン様とのお出掛けというのは、今日のことだったのかしら?)
オスカーの急用というのは、どうせキャスリーンである。この三年間でミレイユはそう学習していた。
「共に、困った兄様の尻拭いと行きましょう」
アルヴィンは柔和な面立ちに、やんわりと呆れた色を湛えている。
父親の名代で訪れるはずだったオスカーではなくその弟が顔を見せれば、パーティの主催者である伯爵は不快に思うだろう。己を軽視している、と。嫌味を吐かれること間違いなしである。加えて、オスカーはまた婚約者より幼馴染を優先したのでは、と囁く輩もいるだろう。居心地の悪いパーティになるのはわかりきっていた。
「少々気が重たいですが、共に務めを果たしましょう」
淑やかに微笑んで、ミレイユはアルヴィンの手を取った。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
伯爵邸で開催されたガーデンパーティは、想像通りの肩が凝るものだった。
アルヴィンと共にオスカーの不在を伯爵に懇切丁寧に詫び、多方面に挨拶をして回り、楽しくもなんともない、気疲れだけするパーティを二人は張り付けた笑顔で乗り切った。
「よければこの後、我が家に寄って行かれませんか?」
会場を辞し、馬車に乗り込むと、対面に腰掛けたアルヴィンがふんわりと微笑んだ。
「ミレイユ様の大好きな、我が家特製のパンプキンパイを用意させてあるんです。今からなら、ちょうど焼き立てのパイが食べられると思いますよ」
「まあ……っ」
とってもとっても魅力的なお誘いに、ミレイユはぱっと瞳を輝かせる。
「ぜひお邪魔させてください」
「よかった。父母もミレイユ様に会いたがっていたので、喜びます」
オスカーの代役でアルヴィンとお出掛けした後、侯爵邸にお邪魔するのは、これもお約束だった。
月に一度の頻度で訪れている侯爵邸は勝手知ったるもので、ミレイユはいつものように屋敷の敷居を跨ぎ、応接間でアルヴィンと侯爵夫人の三人でお茶を楽しんだ。
本音を言うと、ミレイユは実家にいる時間があまり好きじゃない。領主の仕事しか頭にない父と母の仲は冷え切っていて、ミレイユが幼い頃、両親の口論は日常茶飯事だった。
罵り合いを聞きたくなくて、ミレイユは実家の書庫にこもって読書に没頭していた。
その甲斐あってか、ミレイユは貴族の子息令嬢が集う学院でもトップクラスの成績を維持している。
「まったく、オスカーと来たら。幾度も注意しているというのに……」
話題は自然とオスカーに派生し、侯爵夫人は悩ましげに吐息をこぼす。
「兄様は昔からホプキンス男爵令嬢に夢中でしたから。周りの声など耳に入らないのでしょう」
アルヴィンは刺々しく言う。
「あと一年足らずで学院を卒業するのに、将来のことをどう考えているのか……。あの子ったら、未だに領地経営について無知で、人脈だって決して広いと言えないのに」
どうもこうも、何も考えていないのでは。ミレイユはそう思ったが口には出さず、困った方ですね、と微笑するに留めた。
「そうだ、ミレイユ様」
ふと思い出したようにアルヴィンが立ち上がり、一度応接間を出て行ってから戻ってきた彼の手には、一冊の書物が収まっていた。
「こちらを」
ずしりと重みのある本の題名に目を落として。
「まあ……っ」
異国の文字で綴られた題名に、ミレイユはキラキラと瞳を輝かせた。
「これは、まさか、『白百合姫』の原書ですか……っ?」
半年ほど前から王国で大流行している歌劇の題材となった小説『白百合姫』。元は隣国の小説で、ミレイユは先月アルヴィンとこの歌劇を観覧した際、ぜひ原作の原本を読んでみたいとこぼしていた。
国内では出回っていない希少な本だったので、叶わない願いだと思っていたのに。
「どうやって手に入れたのですか?」
「これでもバークライトは歴史ある名家ですから。古くからの伝手を利用したら、さほど苦労することなく手に入りました」
アルヴィンはさらっと言うけれど。相応の労力を要してくれたことは想像に難くなかった。
「不肖の兄のせいでミレイユ様には多大な苦労をかけてしまっていますし、そのお詫びということで。受け取ってもらえますか?」
ミレイユは本を胸に抱いて、こくこくと頷いた。
「ありがとうございます。とっても嬉しいです。大切に読みます」
「よろこんでいただけて、僕も嬉しいです」
アルヴィンもニコニコと微笑んでくれる。
そこに、
「ミレイユ嬢」
新たに加わった声の主は、この屋敷の当主バークライト侯爵のものだった。
「歓談中にすまないね。我が領の穀物の収穫量に関してなんだが……少し、君の意見を聞かせてはくれないかね?」
「あなたったら。お茶の時間に仕事の話なんて……」
「私は構いませんわ」
侯爵からの頼みごとに、ミレイユは快く立ち上がる。
「助かるよ」
侯爵は好々爺然とした笑みを浮かべて、ミレイユを手招きした。
「父様。僕も交ぜてください」
勉強熱心なアルヴィンもそう言ってついて来る。
侯爵邸はミレイユにとって非常に居心地の良い場所。なので、問題はオスカーだけなのである。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
「今日も、キャスリーン様はお気に入りたちを侍らせてご満悦ね」
翌日の朝。教室で友人の課題を手伝っていたミレイユは、冷ややかな声にぱちりと目を瞬かせた。課題と戦っていたはずの友人はいつの間にか、手を止めて窓の外に呆れ顔を向けている。
視線を追って、中庭を見下ろす。
ベンチに腰掛けた薄桃色の髪の令嬢を取り巻くように、男子生徒が集っている。そんな一団に、通り掛かった生徒たちもまた、呆れた視線をちらちらと送っていた。
「学年問わず、キャスリーン様の人気は凄いですね」
「まるで他人事ね。ミレイユの婚約者も、取り巻きの立派な一員なのに。いいえ。それどころか取り巻き筆頭じゃない」
キャスリーンの隣で楽しげに談笑に興じるオスカーの姿がある。
ミレイユは口許に微笑を湛えて応えた。
「愛らしいご令嬢に慕われて無下にできないのは、殿方の性なのでしょう。仕方のないことです」
婚約者がいる令息にもお構いなしに近づくキャスリーンの立ち回りを、迷惑がっている令嬢は多い。
一方のミレイユは、そのことでオスカーに注意らしき注意をしたことは一度もなかった。学内外問わずキャスリーンと親しくしていることも、約束をすっぽかして彼女を優先することも。ミレイユはただの一度も、オスカーに苦言を呈したことがない。そんなだから、彼はどんどん増長していく。
「来年で卒業だというのに、他の令嬢に懸想する婚約者を放置するのはミレイユのためにならないわよ?」
「ご両親から再三のように叱られて現在に至るわけですから、私が咎めたところでオスカー様が変わるとは思えません」
キャスリーンへの接し方を改めろ。もっと侯爵家の嫡男としての自覚を持て。侯爵夫妻は口を酸っぱくしてオスカーに言い含めている。それでも彼に変化は見受けられない。
ミレイユの諦観はよほど説得力があったらしい。
「ハズレくじを引かされたら諦めるしかないだなんて、政略結婚は理不尽ね。オスカー様が心を入れ替えることを願うばかりだわ」
嘆かわしいと言わんばかりに、友人は肩を竦めた。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
その日の昼休み、ミレイユは学院の中庭に呼び出された。呼び出し人はオスカーの幼馴染、キャスリーンである。
「昨日はごめんなさい。オスカーがあなたと約束していたなんて私、知らなくて……」
庇護欲を誘う可憐な令嬢は、伏し目がちに謝罪を口にした。オスカーの急用というのは、やはりキャスリーンのことだったらしい。
キャスリーンからオスカーに関することで謝罪されるのは初めてだった。
「謝罪など要りませんわ。私は気にしていませんから」
ミレイユはにっこりと微笑んで、そう答えた。キャスリーンの愛らしい顔が、ひくりと歪む。
「……強がらなくていいのよ? 幼馴染より優先されない婚約者なんて、屈辱的で、思うところがあるに決まっているもの」
大きな瞳に浮かんでいるのは、挑発的な色。ミレイユは微笑みを崩すことなく、緩くかぶりを振った。
「オスカー様が私よりキャスリーン様を優先なさるのは、今に始まったことではありません。婚約当初からのお約束に、いちいち目くじらを立てる必要はないと割り切っています」
「…………」
(期待していた反応と違う、と顔に書いてあります)
キャスリーンは悔しがるミレイユの姿を見たかったのだと思う。期待していた反応が得られなくて、キャスリーンの心中はささくれだっていることだろう。
多くの男子生徒を侍らせているキャスリーン。その中でも特にお気に入りなのが幼馴染のオスカーだ。数多の取り巻きの中でオスカーにご執心な訳。その理由に、ミレイユはとっくに気づいている。
話はそれだけですか、と尋ねようとした時。
「キャスリーン、大丈夫か……っ」
植垣のあいだから不安げに飛び出して来たのは、ミレイユの婚約者――オスカーだった。彼は何やら慌てた様子でキャスリーンのもとへと駆け寄っていく。
「オスカー!」
途端に、キャスリーンの瞳に涙が盛り上がった。
「ミレイユ様が……っ、昨日の件を謝罪したら、オスカーと二度と顔を合わせるなって……」
キャスリーンはさめざめと泣きながら、縋るようにオスカーに身を寄せた。小柄な彼女の肩を当然のように抱いて、オスカーがぎろりとこちらを睨んできた。
「お前がキャスリーンを呼び出したと聞き、よもやと思って来てみれば――」
はて。呼び出されたのはミレイユなのだけれど。なにがどうしてそんな話になったのだろう。
オスカーの怒気を涼しい顔で受け流して、ミレイユはそんなことを考えていた。
「陰でこそこそとキャスリーンに突っかかるのではなく、文句があるなら俺に直接言え!」
オスカーが脊髄反射のようにキャスリーンの肩を持つのは今に始まったことではない。ミレイユとの約束をすっぽかすのも、婚約者より別の女性を優先するのも、彼は非がある行動と捉えてはいないのだ。
婚約が決まった時からこうだったので、ミレイユはミレイユでオスカーの言葉は右から左に聞き流している。
「文句などありませんわ」
ミレイユが首を横に振れば、オスカーはますます苛立った顔で舌を打つ。
「自らより身分が劣るキャスリーンには恫喝しておきながら、侯爵家の嫡男である俺には媚を売るその性根――貴様が婚約者など、俺にとっては恥以外の何物でもない……っ!」
それはこちらの台詞です、とは返さずに、ミレイユは黙りこくって、嵐が過ぎ去るのを待つ。
オスカーの罵倒は続いた。
いずれ結婚し、私生活を共にするミレイユより今しか共にいられないキャスリーンを優先するのは当然のこと。目くじらを立てるのは心が狭い、とか。弟のアルヴィンを寄越しているのだから文句を言われる筋合いはない、婚約者としての責務は果たしている、だとか。そもそもお前と過ごす時間がつまらないのが悪いんだろう、とか。
そして。
「マグノリア子爵領が今潤っているのは、誰のおかげだ? バークライトの資金援助があってこそだろう? いいか、ミレイユ。婚約を破棄されたくなければ、キャスリーンを傷つけるな。二度とこの子に近づくんじゃない」
ミレイユはスカートの裾を持ち上げ、静かに応えた。
「……承知しました、オスカー様」
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
そんなやりとりから六日が経った、休日のこと。
「ミレイユ、貴様、やってくれたな……っ!」
先触れもなしに押し掛けてきたと思ったら、子爵邸の応接間でオスカーが猛々しく吠えた。彼の隣にはキャスリーンの姿もある。
「一体何事でしょう?」
ソファに腰掛けたまま、ミレイユはおっとりと首を傾けた。
「とぼけるな! 昨日、お前が学院でキャスリーンを階段から突き落とした件に決まっている!」
まったく身に覚えのない話である。
「私は先日お約束したとおり、キャスリーン様には一切近づいていませんが……」
「この期に及んでシラを切るつもりか! キャスリーンの右足の腫れを、俺はこの目で実際に見ている。言い逃れできると思うなよ……っ」
(まあ……)
ミレイユはちょっと驚いた。
ということは、キャスリーンの怪我自体は事実なのだろう。ミレイユを悪者に仕立て上げるために自ら怪我を負ってみせたのだとしたら、なかなかの度胸だ。
「忠告したはずだぞ、ミレイユ! 両親が定めた婚約だ。致し方ないと受け入れていたが、もう我慢ならない! 貴様との婚約はこの日を以て破棄する……っ」
ひと息に捲くし立ててから、オスカーはキャスリーンをこれ見よがしに抱き寄せた。
「それから、この件の責任を取って、俺はキャスリーンを妻に迎える!」
「オスカー……」
感極まりましたという風に、キャスリーンが潤んだ眼差しでオスカーを見上げる。
オスカーは猛禽類のような目でミレイユを鋭く見据えた。
「侯爵家嫡男である俺の決定だ。マグノリア家に異論は挟ませない。両親にもだ。三日後、書類にサインしに屋敷まで来い」
ミレイユの意見など聞く気がなさそうに、オスカーは一方的に言い捨てた。
彼の腕の中で、キャスリーンは勝ち誇った笑みを浮かべている。
ミレイユは静かにソファから立ち上がり――いつものように、何も反論せずに膝を折った。
「承知しました。オスカー様のおっしゃる通りに」
そうして、オスカーに求められた通り、ミレイユは父と共に侯爵邸を訪ね、婚約解消の書類にサインをし――二人の婚約は、これにて解消となったのだった。
◆◆◆◇◆◇◆◆◆
二人の婚約が解消となってから十日後。ミレイユは、バークライト侯爵邸を訪れた。
玄関には、間が悪いのか良いのか、オスカーの姿があった。居合わせると、彼はあからさまに眉を顰めた。
「何をしに来た、ミレイユ」
怪訝な顔は、すぐに得心したものへとすり替わる。
「……あぁ、侯爵夫人の座が惜しくなって、俺に縋りに来たか。残念だったな。キャスリーンとの婚約は成立済みだ」
ミレイユはにっこりと微笑んだ。
「私は婚約者に会いに来ただけですわ」
「婚約者……? 何を言っている。お前との婚約はもう……」
「ミレイユ様!」
喜色に満ちた少年の声が降ってきた。
顔を上げると、吹き抜けになった二階の手すりからアルヴィンが身を乗り出していた。
すぐにこちらまでやって来た彼は、丁重な所作でミレイユの手を取った。そうして、ふんわりと微笑む。
「お会いできて、嬉しいです」
「私もです、アルヴィン様」
二人はのほほんと笑顔を交わす。やり取りについていけてない様子のオスカーに、ミレイユは首を傾けた。
「あら? ご存じではありませんでしたか? 私の現在の婚約者は、アルヴィン様なのです」
は? と、オスカーが間抜けな声を上げた。
「……いつから」
「婚約解消のサインをするために侯爵邸を訪れた際に、新たにアルヴィン様と婚約を交わす書類にもサインをしました」
ミレイユの説明に、オスカーは腑に落ちたという顔になる。
「父母はお前を気に入っていた……だからアルヴィンと婚約させたというわけか」
独りごちた彼の口許に、すぐに嘲りが浮かんだ。はっ、とオスカーが鼻で笑う。
「残念だったな、ミレイユ。どうせ侯爵家の資産目当てだろうが、次男のアルヴィンじゃあ大した資産は望めないし、成人後に金銭的援助を得られるかどうかは当主次第。俺は弟を甘やかすつもりなどないぞ」
この国では、家督を継がない名家の男児は成人後に実家を出たら働くか、資産家の娘に婿入りするのが一般的だ。
ミレイユはそっとアルヴィンの顔を覗き込んだ。
「アルヴィン様。あれを持ってきていただけますか?」
「もちろんです」
聡明なアルヴィンは皆まで言わずとも心得た様子で、階段を上っていく。
「……いずれお話ししなくてはと思っていましたから、ちょうどいい機会です。オスカー様に真実を教えて差し上げます」
オスカーに向けて、ミレイユは悠然と微笑んだ。
気弱で大人しく、従順な令嬢。そんな風に思っていたであろうミレイユが初めて見せた表情だったからか、オスカーはほんの少したじろいだ。
「オスカー様は、なぜマグノリア家とバークライト家で婚約が成立したか……経緯をご存知ですか?」
「父上が領地の冷害対策で、マグノリア子爵に助言を仰いだことがきっかけだろう」
ミレイユの父は領地経営の手腕が飛び抜けていると、国内でも評判だった。
一方で、バークライト侯爵は領地のやりくりが苦手で、肩代わりしてくれる人材にも恵まれていなかった。そこで、ミレイユの父を頼ったのである。
「そうです。そして領地経営の手腕に関して、敏腕なのは父だけではありません。幼い頃から父の補佐をしている私もまた、それなりの心得があります」
バークライト侯爵は侯爵領の経営をミレイユに任せるつもりで、婚約を申し出たのである。
「私を妻に迎えれば、侯爵領の安定は概ね保証されるというわけです。さて、ここからが肝心です。オスカー様」
大事なことなので、ミレイユはしっかりと抑揚をつけて告げる。
「侯爵領の安寧のために私を迎え入れるのですから、その夫となる方は当然、家督を継ぐべきだと思いませんか?」
オスカーが眉を顰める。
「何を言っている。家督を継ぐのは長男の俺だ」
「いいえ、兄様。将来バークライト侯爵を名乗るのは、僕です」
戻ってきていたアルヴィンが、一枚の羊皮紙を兄へと突きつけた。
記されている内容は簡潔だ。
『ミレイユ・マグノリアを妻と迎えた者を、バークライトの次期後継とする』
つまりは、バークライト侯爵直筆の誓約書。
ご丁寧にサインまで記入された羊皮紙を前に、オスカーの唇がわななき、瞳が愕然と瞠られた。
すべての始まりは、一年前。
オスカーに約束をすっぽかされ、代役でアルヴィンと出掛けた日。彼にこう告げられた。
『初めてご挨拶した時から、あなたをお慕いしています。兄様はあの通りの方なので、家督に関して付け入る隙があります。もし僕がバークライトの次期当主の座を勝ち取ったら――兄との婚約を解消し、僕を選んでもらえませんか』と。
それまでもアルヴィンは勤勉な令息だったけれど。以降、彼は一層勉学に励むようになった。
ひたむきなアルヴィンの姿に、ミレイユは決心した。彼の努力が実を結ぶのを待つのではなく。婚約者は自らの意志で選ぼう、と。
そして、侯爵にこう打診した。
もしオスカーから婚約破棄の申し出があったなら、ミレイユは受け入れて新たにアルヴィンと婚約を交わす。そして、その時はアルヴィンを後継者に選んではくれないか、と。
長男という立場に胡座をかいているオスカーの姿に思うところがあったのか、侯爵はミレイユの提案に乗ってくれた。
無計画にミレイユを捨てるほどオスカーが愚かなら。その時はアルヴィンを後継者に指名しても構わない、と。
勝算はあった。
己が一番でないと気が済まない性分のキャスリーン。彼女が入学当初からミレイユに強い対抗心を抱いていたのは有名で、キャスリーンから敵視されているという話は、ミレイユ本人も聞き及んでいた。
キャスリーンが侍らせている令息たちは、最初はミレイユに好意を抱いていた者たちだ。とにかく人のものを欲しがる性。彼女のそんな性格を、利用しない手はない。
ミレイユは待ち望んでいた。キャスリーンがオスカーを奪ってくれる日が訪れることを。
オスカーを独占することで優越感を得ようとしていたキャスリーン。婚約者より幼馴染を優先するオスカーの姿勢にミレイユが無関心を貫き続ければ、手応えのなさからムキになり、いつか婚約者という立場そのものを奪おうと画策するはず。
そう確信していた。
ミレイユから婚約者を奪ったという優越感と、侯爵家嫡男の婚約者という肩書きは、キャスリーンにとってひどく魅力的だから。
結果は案の定、である。
言葉もなく、愕然と立ち尽くすオスカーに、ミレイユはにっこりと微笑み掛ける。
「残念でしたわね、オスカー様。家督を継げず、突出した能力もない――そんなオスカー様が卒業後、屋敷を出てどう生きて行くおつもりなのか、楽しみです」
「……っ、家督の件、なぜ黙っていた!?」
「お話ししたら、婚約解消に同意していただくことが困難になりますから」
侯爵夫妻がオスカーに再三注意してきたのは、愛情の表れだ。手遅れになってからでは遅いから、自身の将来のために態度を改めなさい、と。
「あんまりだ、ミレイユ。俺と君は婚約者だったんだぞ。互いの至らない部分も、話し合いで改善していく努力をすべきだろう! キャスリーンのことで不満があったのなら、なぜ一言も口にしてくれなかった……っ」
縋るようなオスカーの言葉に、ミレイユは失笑した。
「申し訳ありませんが、私の中でそのような労力を割く価値が、オスカー様には見つけられなかったのです」
話し合って、良好な関係を築くための努力をして――ミレイユだって、大切なことだと思う。
だが、その労力を割く価値が、オスカーにあるとは思えなかった。
婚約が決まり、知り合ってから現在に至るまで。オスカーの器を、ミレイユはそのように評価していた。
オスカーも彼の友人たちも、ミレイユが何も言わないのは大人しくて身分差に怖気付いているからだと捉えていたようだが。笑わせないでほしい。自分は端から割り切っていただけ。
侯爵家と手を取り合うことで、子爵領が潤うのは事実。貴族の結婚に愛を求めるのは夢を見すぎているし、領民のためなら婚約者の不出来さくらい我慢できる。そう思って、ミレイユは軽んじてくるオスカーを窘めることすらしなかった。
だが、アルヴィンからの告白で事態は変わった。ミレイユに選択の余地が生まれたのだ。
長男だから無条件で家督を継げる、なんて傲慢だ。
ミレイユは相応の努力をして能力を得た者が継ぐべきだと思う。
「……あ、アルヴィン! こんな血も涙もない冷たい女が婚約者で、お前はそれでいいのか……っ」
アルヴィンの穏やかな瞳に一瞬だけ嫌悪が滲んだけれど。彼はすぐに微笑んだ。自慢げに言う。
「ミレイユ様はいつ何時も理知的で冷静。流石は僕の太陽です」
「まぁ」
己が冷徹な自覚があるミレイユは、そんな風に表現されて純粋に嬉しかった。ふふっと笑みをこぼしてから、表情を引き締めてオスカーを見据える。
「他人の心配よりも、ご自分の心配をなさった方がよろしいと思いますよ?」
「どういう意味だ」
まだまだ現実が見えていないオスカーに、ミレイユは教えてやる。
「キャスリーン様がオスカー様を愛していらっしゃる。まさか本気でそう思っておられると? 十中八九、侯爵夫人の肩書きがお目当てですから、家督を継げなくなったオスカー様は捨てられてしまうかと」
「な……っ」
鼻白むオスカーに、にこにこと続ける。
「あぁ、でも、お二人はすでに婚約が成立しているのですから、キャスリーン様から一方的に破棄することはできませんね」
当たりの婚約者が一転して、ハズレになった。キャスリーンの反応を想像するのは容易い。
「お二人の関係がどのように拗れていくのか、眺める様が楽しみです」
開いた口が塞がらないと言わんばかりに、オスカーは口をはくはくとさせている。
意趣返しはこのくらいでいいかと、ミレイユはアルヴィンを振り返った。
「それではアルヴィン様、お出掛けに向かいましょうか……っ!」
オスカーには一度たりとも向けたことがない、屈託のない笑顔を浮かべて、ミレイユは差し出された婚約者の手を取るのだった。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
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アルヴィンをあまり出してあげられなかったのが心残りでしたので、二人のその後を少しだけ描こうと思います。
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