回避不能のフラグと、ヤバい薬売りの行商人 ~土方歳三、襲来~
私は剣を捨てるつもりだった。
本気で、合理的に、
そのつもりだった。
試衛館・中庭
ここを「庭」と呼ぶには、いささか語弊がある。植栽の配置に美的センス(アート)が感じられない。ただ土が露出しているだけの、グラウンドだ。昨夜の雨の影響で、地面は泥濘んでいる。粘土質の土壌。含水比が高い。
歩行するたびに草履に泥が付着し、運動エネルギーを奪っていく。不快だ。非常に不快だ。
自分の姿を見下ろす。道着。それは本来、白いはずの布地だ。だが現在は、茶色と灰色のグラデーションに染まっている。泥汚れ。汗染み。そして、微量だが誰か(おそらく門下生)の返り血。衛生環境が崩壊している。
私の肌からは、加齢臭ならぬ「部活臭」が漂っている気がする。七歳の女子が発していいフェロモンではない。これは由々しき事態だ。私の市場価値が暴落している。
目の前には、ジローがいる。私の投資対象。私の未来の年金受給源。彼は新品の着物を着ている。良い生地だ。絹の光沢が、曇天の下でも自己主張している。彼は私を見て、少し引いている。距離を取ろうとしている。パーソナルスペースの侵害を拒絶している。
一歩踏み出す。泥が跳ねる。ジローが半歩下がる。
「ジロー。客観的評価を求めます。私は『可愛い』ですか?」
問う。直球だ。マーケティングにおいて、顧客の声を聞くことは基本中の基本だ。現状のブランドイメージが、ターゲット層にどう認識されているか。そのギャップ分析が必要だ。
ジローの目が泳ぐ。視線が定まらない。彼は答えに窮している。「可愛い」と即答できない時点で、私のブランディング戦略に重大な欠陥があることは明白だ。彼は唇を震わせている。恐怖のサインだ。
「(怯えながら)な、なんだよいきなり!お前はガサツで、強くて……正直、怖い!!昨日も野良犬を素手で締め落としてただろ!」
「怖い」致命的な評価だ。星一つだ。そして具体的な事例を挙げてきた。昨日の野良犬事件。
脳内のログを参照する。昨日の夕方。試衛館の裏手。体長約80センチの中型犬が侵入してきた。犬種は雑種。毛並みは荒れ、口から泡を吹いていた。狂犬病の疑いがある個体だ。ジローが噛まれそうになった。私は即座にリスク排除行動を取った。具体的には、犬の背後に回り込み、前足の関節を極めつつ、頸動脈を圧迫して気絶させた(スリーパーホールド)。殺してはいない。
非殺傷だ。保健所がないこの時代における、最大限の配慮だ。その後、その犬は物理的に遠くへ投げ飛ばした(リリースした)。
「……ふむ。野良犬は衛生リスクがあったので排除しましたが、確かに『守ってあげたい感』が欠落していますね。……イメージ戦略の転換が必要です」
分析する。私の行動は論理的に正しかった。狂犬病のリスクは致死的だ。ワクチンがない現在、噛まれたら終わり(ゲームオーバー)だ。私がジローを守った。感謝されるべき案件だ。
だが、「可愛さ」という観点からはマイナス評価となる。「素手で犬を絞め落とす七歳児」に、庇護欲を感じる男はいない。需要と供給のミスマッチだ。私が提供すべきは「最強のボディガード」としての価値ではなく、「守ってあげたくなる可憐な少女」としての幻想なのだ。
泥だらけの手を見る。この手は、既に何本もの木刀を折り、何匹もの害虫を葬ってきた。修羅の手だ。これではいけない。このままでは、ジローの「嫁」ではなく、ジローの「用心棒」として雇用されてしまう。それでは労働から解放されない。ニートになれない。路線変更だ。ピボットだ。
決意の表情で立ち上がる。背筋を伸ばす。泥だらけの顔を上げる。瞳に、営業用の光を宿す。
「決めました。私は今日限りで『剣』を辞めます。これからは琴や茶道を嗜む、深窓の令嬢となり、効率的かつ優雅な『ジローの嫁ライフ』を送るのです」
宣言だ。退職宣言。剣術からの引退。私の才能をドブに捨てる行為だが、構わない。私の目的は「生存」と「安寧」だ。「最強」の称号など、ブックオフでも買い取ってもらえないゴミだ。
琴。茶道。インドアな趣味。文化系女子。それこそが私の目指すべきブルーオーシャンだ。肉体労働からの脱却。ホワイトカラーへの転身。ジローの隣で、優雅にお茶を点て、琴を弾き、彼の資産を管理する。完璧なビジョンだ。
ジローの表情が変わる。恐怖が薄れ、期待の色が浮かぶ。彼は単純だ。「琴」や「茶道」というキーワードに、安易な憧れを抱いている。深窓の令嬢。男のロマンだ。
「(ちょっと嬉しそう)ほ、本当か!?お前が優しくなってくれるなら、俺、着物とか買ってやるぞ!」
彼は食いついた。コンバージョン達成。「優しくなってくれるなら」条件付きだが、合意は得られた。着物を買ってくれる。設備投資(CAPEX)の約束まで取り付けた。やはり彼は優良顧客だ。私のリブランディング計画に対して、即座に資金援助を申し出てくれる。
「契約更新ですね。……よし、あのゴリラに辞表を叩きつけてきます」
鉄は熱いうちに打て。善は急げ。退職の手続きは迅速に行うべきだ。
試衛館の主、島崎勝太。彼との雇用契約は口頭による曖昧なものだ。法的な拘束力はない。私が「辞める」と言えば、それで終わりだ。労働基準法はないが、職業選択の自由はあるはずだ。いや、あると信じたい。
足元の泥を蹴る。さようなら、泥と汗の日々。明日からは、絹の着物と和菓子の甘い香りに包まれた生活が待っている。私は道場へ向かう。足取りは軽い。未来への希望が、大臀筋を押し上げてくれる。
◆
道場の中は、独特の気圧に支配されている。入り口の引き戸を開けた瞬間、突風が吹く。物理的な風だ。中央で一人の男が木刀を振っているだけなのに、局地的な低気圧が発生している。
島崎。推定身長175センチ以上(この時代では巨人)。体重、測定不能。筋肉密度、測定不能。彼は素振りをしている。ただの素振りではない。空気を殺す素振りだ。木刀が通過する軌道上の酸素分子が、悲鳴を上げて逃げ惑っている。
ブンッ!ブンッ!ゴオォォッ!
風切り音が重低音だ。ウーファーが効いている。床板が振動している。共振現象で建物が倒壊しないか心配になるレベルだ。私はその発生源に近づく。危険区域への侵入。だが、これは必要な手続きだ。退職交渉
「島崎さん。……いえ、島崎先生。重要なお話があります」
声をかける。腹から声を出す。そうしないと、彼の素振りの風圧と騒音にかき消されてしまうからだ。「島崎先生」。敬称を使うことで、円満退社を演出する。大人の対応だ。
島崎の手が止まる……ことはない。彼は振っている。振り続けている。だが、顔だけはこちらを向く。器用だ。首の筋肉がどうなっているのか。満面の笑み。汗が飛び散る。スプリンクラーだ。
「おう、司か!どうした、稽古が足りないか?そうだろ!お前の目は飢えている!」
彼は叫ぶ。会話が成立していない。第一声から認識のズレ(ギャップ)が生じている。「稽古が足りない」。そんなわけがない。私は朝から雑巾がけ(スクワット走法)を50往復させられた後だ。カロリー収支はマイナスだ。「お前の目は飢えている」。それは空腹だからだ。朝食の味噌汁が薄かったからだ。戦闘への飢えではない。糖分への飢えだ。
「いいえ、満腹です。……私は本日をもって退職……いえ、剣術を引退します。私には『お嬢様』という新たなキャリアパスが見つかりました」
否定する。明確に否定する。そして本題を切り出す。引退宣言。キャリアチェンジ。「お嬢様」。この単語を、この汗臭い道場で口にする違和感は自覚している。だが、本気だ。私は剣を置く。普通の女の子に戻ります。キャンディーズ宣言だ。
島崎の動きが一瞬止まるかと思ったが、止まらない。むしろ加速する。なぜだ。私の音声データは届いているはずだ。鼓膜は機能しているのか?それとも脳の言語野が筋肉に置換されているのか?
「(満面の笑みで)ガハハ!何を言ってるんだ!照れるな!さあ、次は『平正眼』からの打ち込みだ!来い!!」
彼は笑い飛ばす。「照れるな」。どの文脈でその解釈が生まれたのか、論理的な説明を求めたい。私の退職願を「もっと激しい稽古を求める照れ隠し」と翻訳したのか。ポジティブすぎる。超訳だ。ニーチェもびっくりだ。
彼は私の意思決定を完全に無視し、次のメニューを提示してくる。平正眼からの打ち込み。実戦形式だ。危険だ。退職交渉に来た社員に、残業命令を出すようなものだ。ブラック企業の極みだ。
「……聞こえてますか?日本語(言語コード)が通じていませんよ?私は辞めると……」
繰り返す。ボリュームを上げる。怒りの感情が混じる。コミュニケーションコストが高すぎる。この上司、マネジメント能力が欠如している。
「行くぞぉぉ!!始めぇぇい!!(木刀を振りかぶる)」
彼は聞く耳を持たない。強制執行。彼は木刀を振りかぶる。上段。殺気。いや、彼にとっては「愛の鞭」なのだろうが、物理的には質量兵器の投下だ。私の生存本能が警報を鳴らす。逃げろ。いや、逃げられない。間合いに入っている。背中を見せれば斬られる(打たれる)。迎撃しかない。
「チッ……!話の通じない筋肉ダルマめ!……迎撃します!」
舌打ちをする。お嬢様言葉を忘れる。道場に立てかけてあった木刀を手に取る。反射神経のみで動く。思考停止。身体制御プログラムが自動起動。モード:近接戦闘(CQC)。
島崎の木刀が落ちてくる。大気圏突入のような圧力。私は半身になってそれを逸らす。受け止めてはいけない。質量差がありすぎる。まともに受ければ腕の骨が粉砕される。流す。パリー。運動エネルギーのベクトルを変える。
ガギン!!
木と木がぶつかる音ではない。岩石同士の衝突音だ。手が痺れる。衝撃が骨を伝わる。だが、私の体は止まらない。逸らした反動を利用して、踏み込む。カウンター。狙うは島崎の小手。最短距離。最速の軌道。
「ガハハ!良いぞ!速い!」
島崎が笑う。私のカウンターを、彼は手首の返しだけで防ぐ。反応速度がおかしい。あの巨体で、なぜそこまで繊細な動きができる。理不尽だ。彼は楽しんでいる。この戦闘狂め。
そこから先は、記憶が曖昧だ。言語による思考が消失する。あるのは、視覚情報と、筋肉の収縮、そして衝撃のフィードバックのみ。
【30分後】
バシン!ドカッ!ズバァン!
道場内は破壊のシンフォニーだ。床板が悲鳴を上げている。壁に亀裂が入っているかもしれない。私は動いている。呼吸が荒い。心拍数は毎分180を超えている。有酸素運動の限界領域。だが、苦しくない。むしろ、気持ちいい。
脳内麻薬。ドーパミン。セロトニン。各種神経伝達物質が、脳内でカクテルパーティーを開いている。ランナーズハイならぬ、スラッシャーズハイ。視界がクリアだ。世界が遅く見える。島崎の筋肉の動き、汗の粒の落下、すべてがスローモーション。その隙間を縫って、私の木刀が走る。当たる。弾かれる。また振る。
「はあ!はあ!はあ!……(脳内物質が……快楽物質がドバドバ出ている……!)」
思考する。いや、感じている。これは危険だ。ドラッグだ。剣術という名の依存性薬物だ。「辞める」という当初の目的が、快楽の波に飲み込まれていく。お嬢様?茶道?琴?そんな静的な趣味で、この強烈な刺激を代替できるか?
否。できない。このヒリヒリするような命のやり取りこそが、私の魂を震わせる。前世の記憶か?沖田としての本能か?バグだ。私のシステムがバグっている。
「よし!良いぞ!天才だ!お前の筋肉は喜んでいるぞ!」
島崎が叫ぶ。彼は汗だくだが、息は切れていない。化け物だ。彼は私の状態を正確に診断している。「筋肉が喜んでいる」悔しいが、その通りだ。私の細胞の一つ一つが、歓喜の歌を歌っている。「もっと振れ、もっと戦え」と。
「(キラキラした目で)ハイッ!!……あ、あれ?私、なんで返事をしたんでしょう。……ジロー!運動は楽しいですね!!」
大声で答える。満面の笑みで。営業スマイルではない。本心からの、狂気の笑顔だ。
「ハイッ!!」肯定してしまった。退職交渉は失敗だ。それどころか、契約更新どころか、終身雇用契約にサインしてしまった気分だ。私は入り口の方を見る。そこにはジローがいる。彼は一部始終を見ていた。
ジロー。私のATM。彼に同意を求める。「運動は楽しい」。スポーツジムのインストラクターのような爽やかな発言。だが、状況は泥沼だ。私はお嬢様になるはずだった。なのに、今は汗と泥にまみれた、戦闘マシーンになっている。
ジローは壁に寄りかかっている。顔色が青い。彼は見ている。私が島崎と互角(に見えるよう)に打ち合い、笑いながら木刀を振るう姿を。それは「深窓の令嬢」とは対極にある姿だ。鬼神だ。あるいは、バーサーカーだ。
「(遠い目)…………だめだこいつ。早くなんとかしないと。」
ジローが呟く。諦念。絶望。そして、微かな責任感。彼の中で、私に対する認識が確定したようだ。「守ってあげたいお嬢様」ではない。「制御不能の生物兵器」。あるいは「放っておくと死ぬまで戦い続ける戦闘狂」。彼は悟ったのだ。自分が私を養う意味を。それは「お嫁さんをもらう」ことではなく、「猛獣の飼育係になる」ことだと。
木刀を下ろす。急激な疲労感が襲ってくる。血糖値が下がる。膝が笑う。だが、心は晴れやかだ。憑き物が落ちたようにスッキリしている。ストレス発散完了。メンタルヘルスケアとしては最高だ。
「……あれ?私、何をしようとしてたんでしたっけ?」
首を傾げる。記憶の欠損。短期記憶が飛んでいる。辞表?お嬢様?まあいいか。今は水が飲みたい。そして、島崎さんが「稽古後の饅頭」を出してくれるのを待つだけだ。
「ジロー……お茶……」
「はい!今すぐ!」
◆
道場の空気が変わる。気圧が低下したわけではない。湿度や温度に変化はない。だが、環境センサーとしての私の肌が、ピリピリとした不快な刺激を感知する。明確な敵意あるいは、厄介事の予兆だ。
入り口に男が立っている。逆光で表情が見えにくいが、シルエットだけで分かる。その男は、異質なオーラを纏っている。背中には大きな葛籠。行商人のスタイルだ。だが、堅気の商人にしては目つきが鋭すぎる。
眼輪筋が常に緊張状態にあり、獲物を探す肉食獣のような視線を走らせている。そして、その口元には冷笑的な笑みが張り付いている。紫色の手ぬぐい。独特のファッションセンスだ。色彩心理学的には、紫は「高貴」あるいは「欲求不満」を表すが、彼のそれは明らかに「危険信号」としての紫だ。
島崎が、その男を見て破顔する。口腔内が見えるほどの大きな笑顔だ。
「おお!司!休憩だ!……紹介するぞ。こいつは土方歳三って言ってな。俺の地元のツレだ!!」
紹介が行われる。最悪の紹介だ。名前を聞いた瞬間、私の脳内データベースが激しく検索ヒットを知らせる。土方歳三。新選組副長。鬼の規律。局中法度という名のデスマーチ製造機。そして何より、私(沖田)を酷使し、過労とストレスで免疫力を低下させ、最終的に結核というバッドエンドへ導く、運命の死神だ。
思考するよりも早く、脊髄反射が作動する。バックステップ。床を蹴る。摩擦係数を無視して滑るように後退する。距離を取る。ソーシャルディスタンスの確保だ。2メートルでは足りない。半径5メートル以内に入れたくない。彼は歩く労働災害だ。
「……アラート鳴動。……土方歳三。新選組副長。鬼の規律。そして何より、私を『過労』と『結核』のバッドエンドへ導く、運命の死神!!」
心拍数が急上昇する。交感神経が優位になりすぎる。逃げたい。今すぐこの道場の壁を突き破って、高須藩邸の床下に潜り込みたい。だが、足が震えて動かない。恐怖によるすくみ反応だ。
「(ガタガタ震えながら)……あ、あなたが土方……。……近寄らないでください。感染します。私の『平穏な老後』が死滅します」
声が上ずる。感染するのはウイルスではない。「新選組」という名のミーム(文化的遺伝子)だ。一度関われば、私の人生設計は崩壊する。年金生活も、ゲートボールも、縁側での日向ぼっこも、すべて彼が持ってくる「激務」によって上書き保存されてしまう。データ消失の危機だ。
土方が眉を寄せる。不快感を露わにする。私の発言の意図を理解できていないようだが、拒絶されていることだけは伝わったらしい。
「……あ?なんだかっちゃん。この薄桃色の髪のガキは。……俺を見て化け物でも見るような顔しやがって」
彼は私を「ガキ」と呼ぶ。正確な分類だが、ニュアンスに棘がある。「化け物でも見るような顔」正解だ。あなたは私にとって、フランケンシュタインの怪物以上に恐ろしい「ブラック上司(予定)」なのだから。
島崎が笑う。彼は空気を読まない。私の恐怖を「人見知り」か何かだと解釈している。
「ガハハ!こいつは将来有望だぞ!剣の腕が立つ!」
余計な情報を漏洩する。やめてくれ。個人情報保護法違反だ。私のスキルセットを彼に開示しないでくれ。彼に「使える」と判断されたら、即座に採用されてしまう。
土方の視線が私をスキャンする。値踏みする目だ。商品価値を確認している。
「へえ……。ま、ガキの剣術なんざ興味ねえな」
彼は興味なさそうに吐き捨てる。助かった。不採用通知だ。安堵のため息が出そうになる。だが、彼は視線を外さない。別の興味を持っているようだ。彼は背負っていた葛籠を下ろす。重そうな音がする。中身が詰まっている証拠だ。彼は蓋を開け、中から怪しげな包みを取り出す。黒い油紙に包まれた物体。
「そんなことより、俺は今、薬の在庫処分で忙しいんだよ。……おいガキ、お前顔色が悪いな?労咳(結核)の気があるんじゃねえか?」
爆弾発言。禁句(NGワード)だ。私の最大のトラウマスイッチを押した。「顔色が悪い」のは、今の激しい運動(強制労働)による虚血と、あなたへの恐怖による血管収縮の結果だ。病気ではない。断じて病気ではない。だが、「労咳」という単語が出ただけで、私の肺がキュッと縮こまる錯覚を覚える。プラシーボ効果の逆、ノセボ効果だ。
「(ビクッ!!)……な、何を根拠に……」
声が裏返る。図星を突かれたわけではないが、私の「設定」上の弱点を指摘されたことに恐怖する。この男、鋭い。直感が働きすぎている。
土方はニヤリと笑う。セールスマンの顔だ。不安を煽り、商品を売りつける古典的な手法。
「そんなお前にはこれだ。『石田散薬』。骨折から打ち身、捻挫、筋肉痛まで何でも効く万能薬だ。今なら特別に一包み安くしとくぜ」
石田散薬。土方の実家が製造販売している家伝薬。効能書きが広すぎる。骨折から筋肉痛まで。整形外科領域の疾患をすべてカバーするつもりか。万能薬などというものは、現代医学でも存在しない。
誇大広告(ジャロ案件)だ。薬事法があれば即座に業務停止命令が出るレベルだ。しかも「在庫処分」消費期限が近いのではないか。品質管理(QC)はどうなっている。
ジト目になる。恐怖が、呆れと懐疑心に変わる。私は現代知識を持つ転生者だ。江戸時代の怪しげな民間療法に騙されるほど情弱(情報弱者)ではない。
「(ジト目)……成分表を提示してください。臨床データは?そもそも『牛革草』を黒焼きにしただけの粉末に、呼吸器系への効能があるというエビデンスは?」
科学的根拠を要求する。石田散薬の主成分はミゾソバ(牛革草)。これを黒焼きにする。つまり炭化させる。炭には吸着作用があるため、整腸作用などは期待できるかもしれないが、骨折や結核に効くわけがない。カルシウムもタンパク質も燃焼して消失しているはずだ。ただの焦げた草だ。炭素だ。
土方が顔をしかめる。「成分表」「臨床データ」「エビデンス」。聞き慣れない横文字の羅列に、彼の眉間の皺が深くなる。面倒くさい客だと思われたようだ。
「……なんだこのガキ。可愛くねえな。……効くと言ったら効くんだよ。気合だ、気合」
論理の放棄。精神論への逃避。「気合」プラシーボ効果を最大限に利用するつもりか。「信じる者は救われる」という宗教的アプローチだ。製薬会社としてのコンプライアンス意識が欠如している。可愛くないのは私の性格ではなく、あなたの商売のやり方だ。
島崎が割り込む。彼は土方の言葉なら何でも信じる信者だ。
「おお!トシの薬か!俺も飲もう!ジローも飲め!」
彼は即決する。購買意欲が高い。そして巻き込み事故を起こす。ジロー。私のATM。彼は完全に蚊帳の外で、状況を理解していない顔をしている。
「えっ、俺は健康だけど……苦そう……」
ジローが引いている。正常な反応だ。黒い粉末を見て「美味しそう」と思う人間はいない。本能が「毒物」だと警告しているのだ。だが、島崎の圧力と、土方の無言の圧力が彼を逃がさない。
「……詰んだ。……筋肉ゴリラに、インチキ薬売りの死神。……この『試衛館』という環境は、私の生存戦略にとって最悪のブラック企業だわ」
天井のシミが、髑髏の形に見える。逃げ場はない。この状況を打開するには、誰かが犠牲になるしかない。私が飲むか。いや、断固拒否する。私の体は資本だ。正体不明の炭素粉末を取り込んで、消化器官に負担をかけるわけにはいかない。
では、どうするか。視線の先に、ジローがいる。彼は健康だ。肝機能も腎機能も若くて丈夫だ。多少の異物を摂取しても、解毒・排出できるだろう。それに、彼は私に「お小遣いを全部くれる」と言った。つまり、私のために身を捧げる契約を結んでいるも同然だ。ならば、ここで役立ってもらうのが合理的判断だ。
土方の手から、石田散薬の包みをひったくる。そして、ジローに向き直る。満面の笑みを作る。聖母の微笑みだ。
「ジロー、毒見をお願いします」
「えっ」
ジローが固まる。拒否権はない。私は彼のアゴを掴む。口腔外科的な手技で口を開かせる。開口保持。そこへ、黒い粉末を一気に投入する。
「むぐっ!?……に、苦げぇぇぇ!!」
ジローが悶絶する。粉が気管に入りそうになりながら、彼は必死に嚥下する。顔が歪む。涙目になる。「苦い」味覚センサーからの報告。やはり良薬口に苦しというのは嘘で、単に焦げた草の味なのだろう。
土方がニヤリと笑う。「飲ませたな」という共犯者の目だ。島崎が「ガハハ!男なら一気飲みだ!」と無責任に笑う。
ジローの背中をさする。アフターケアだ。「よくやりました。これで臨床データ(N=1)が取れました。直ちに健康被害が出なければ、安全性は『暫定的に』確保されたとみなします」
ジローは涙を流しながら私を見る。その目は「ひどい」と言っているが、同時に「司に触ってもらえている」という喜びも混じっている。複雑な心境だ。マゾヒズムが進行している。教育の成果だ。
こうして、土方とのファーストコンタクトは、ジローの犠牲によって幕を閉じた。だが、これは始まりに過ぎない。薬売りが常駐するようになれば、試衛館はさらにカオス化する。私の「業務改善」の対象に、「薬事法遵守」と「労働安全衛生」が追加された瞬間だった。
剣を辞めるのは、
思っていたよりずっと気持ちよくなかった。
代わりに、
辞められない理由だけが増えた。




