誤算だらけの試衛館 ~ゴリラとの遭遇と、投資対象(ジロー)へのハニートラップ~
才能は、隠しても漏れる。
私はそれを、甘く見ていた。
掃除をしていただけなのに、
世界はそれを許さなかった。
牛込柳町。江戸の片隅にあるこのエリアは、未開発の荒野に近い。
都市計画が機能していない。道路の舗装率はゼロ。土煙が舞う。呼吸をするたびに、微粒子状物質(PM2.5)が肺胞に侵入するのを感じる。健康被害が懸念されるレベルだ。そんな劣悪な環境の中に、目的の施設が存在する。
「試衛館」看板の文字が掠れている。メンテナンス不足だ。
木材の腐食も進行している。建物の構造計算をするまでもなく、耐震等級は1にも満たないだろう。震度3で半壊するリスクがある。玄関前には、打ち水がされているが、その水分量は不十分で、気化熱による冷却効果は限定的だ。
ただ湿度を上げているだけだ。不快指数が上昇する。
荷物を足元に置く。風呂敷包み一つ。これが私の全財産だ。中身は着替えと、数冊の兵法書、そしてジローから巻き上げたへそくり(隠し資産)
必要最低限のアイテムだ。ミニマリストを気取っているわけではない。いつでも逃亡できるように、身軽にしているだけだ。
「ここが……新しい職場ですか」
テンションは底辺だ。心拍数が低下している。生きる気力が削がれていく。みつ姉上は隣で目を輝かせている。彼女の視覚センサーには、このボロ屋敷が「希望の城」に見えているらしい。AR(拡張現実)フィルタでもかかっているのか。羨ましい脳内処理能力だ。
「ごめんくださーい!今日からお世話になります、沖田ですー!」
みつ姉上が叫ぶ。音量が大きい。近所迷惑防止条例があれば即座に通報されるレベルだ。玄関の引き戸が開く。ガラガラという不快な摩擦音。潤滑油を注したい衝動に駆られる。
中から現れたのは、巨大な質量を持った物体だ。人影。いや、生物だ。逆光でシルエットしか見えないが、肩幅が異常に広い。僧帽筋の発達が著しい。首が見当たらない。顔の面積が広い。口が大きい。全体的な骨格形状から、ホモ・サピエンス(現生人類)というよりは、ゴリラ・ゴリラ(ニシローランドゴリラ)に近い遺伝的特徴を有している。
男が口を開く。
「おお、新しい手伝いか?俺は島崎っていうんだ!よろしくな!ガハハ!」
爆音。ソニックブームが発生しそうだ。鼓膜が振動の限界を超えて悲鳴を上げる。「ガハハ」という笑い声は、擬音語ではなく、物理的な衝撃波として私を襲う。
唾液の飛沫が飛んでくる。私は半歩下がり、それを回避する。感染症対策は基本だ。
脳内データベースを高速検索する。検索ワード:「島崎」。……検索中……。……検索中……。
結果:該当なし。新選組局長「近藤」という名前はヒットしない。「島崎」という名前のモブキャラ(端役)しか存在しない。
「……検索開始。ターゲット『近藤』……該当者なし。目の前にいるのは『島崎』……よし、回避成功ここは新選組の巣窟ではない。ただの田舎道場だ」
安堵。私の心拍数が正常値に戻る。副交感神経が優位になる。よかった。ここは歴史の特異点ではない。
ただの偶然だ。「試衛館」という名前が同じだけの、別の道場だ。あるいは、フランチャイズ展開している系列店かもしれない。どちらにせよ、目の前のこのゴリラは、あの有名な近藤ではない。
名前が違うのだから当然だ。私のデータベース(Wikipediaのうろ覚え知識)に間違いはない。
居住まいを正す。相手がただの「島崎さん」なら、警戒レベルを下げる。一般的な雇用主として対応する。私は無表情を作る。鉄仮面モード。
「よろしくお願いします。業務内容を確認します。掃除、洗濯、炊事。……オプションとして、害虫駆除(物理)も可能です。髪は薄桃色ですが、染色体異常ではありません」
履歴書を読み上げるような口調。掃除、洗濯、炊事。これらは基本契約に含まれるタスクだ。オプション提示。害虫駆除。このボロ屋敷には、ゴキブリ、ネズミ、ムカデなどの不快害虫が多数生息していると推測される。
それらを私が発見次第、物理的に粉砕する。スリッパや新聞紙ではない。的確な投擲や、急所を突く刺突で排除する。衛生環境の維持は私の得意分野だ。
髪の色についての注釈。私の髪は、生まれつき色素が薄く、光の加減でピンクがかった茶色に見える。この時代では「異端」とされる形質だが、先に説明しておくことで差別的視線をブロックする。
「……お、おう。……変な奴だな。(目が笑ってねえ……)」
島崎が引いている。当然の反応だ。七歳の女児が「害虫駆除(物理)」と口走り、目が死んだ魚のようであれば、誰だって警戒する。彼の野生の勘が、私を「危険人物」としてタグ付けしたようだ。素晴らしい。舐められないことが、職場での生存率を上げる。
「まあ、元気な方!私、あなたのこと『かっちゃん』て呼ぶわね!」
横から爆撃機が突っ込んでくる。みつ姉上だ。彼女は距離感という概念を持っていない。
初対面の、しかも自分より遥かに巨大な男性に対し、いきなり「かっちゃん」という愛称を付与する。命名権の侵害だ。そして、彼女の手が島崎の肩に伸びる。親愛の情を示すボディタッチ。一般的には軽い接触だ。だが、彼女の場合、それは打撃攻撃になる。
バン!!!
破裂音。肉と骨が衝撃を受け止める音。島崎の体が、物理演算に従ってよろめく。重心がブレる。彼は片足を踏ん張り、なんとか転倒を防ぐ。耐衝撃性能が高い。さすがゴリラだ。普通の人間なら鎖骨が粉砕骨折している。
「痛っ!?……姉さん、距離が近いし、腕力がすごいな……!」
彼が顔をしかめる。痛覚は正常に機能しているようだ。「腕力がすごい」。正確な分析だ。みつ姉上の筋出力は、見た目の断面積からは計算できない数値を叩き出す。彼女は無自覚な生体兵器だ。
「姉さん、そのゴリラは猛獣です。餌を与えないでください」
心の中で注意喚起する。猛獣に触れてはいけない。だが、この場合、どちらが猛獣なのか判断に迷う。ゴリラ対天然災害。この道場の未来は暗い。カオスだ。エントロピーが増大している。
「さあ、上がりましょう!司、荷物を運んで!」
みつ姉上は、自分が相手にダメージを与えたことを認識していない。ノーダメージだと思っている。彼女は靴(草履)を脱ぎ、勝手に上がり込む。不法侵入に近い堂々とした振る舞い。島崎も、その勢いに飲まれて止めることができない。リーダーシップ(という名の圧力)の差だ。
肺の中の空気をすべて入れ替える。荷物を持つ。重い。中に入っている兵法書が重量を稼いでいる。しかし、私は文句を言わない。これは労働だ。対価は、住居と食料。そして、何よりも「新選組ではない場所」での安全な生活。そう信じ込んでいる私は、島崎の後ろ姿を見ながら、内心で勝利を確信していた。今のところは。
◆
週末。試衛館という労働環境から一時離脱している。向かった先は、市ヶ谷の高須藩邸。私のセーフティハウスであり、私のメインバンク(予定)であるジローの部屋だ。地下トンネルを経由しての侵入。もはや正規ルート(玄関)を通る気などない。警備システムの脆弱性を突くことが、私の日常ルーティンになっている。
部屋の中は快適だ。空調はないが、通気性が良く、畳のグレードが高い。い草の密度が違う。私は部屋の中央で、座布団の上に鎮座している。私の目の前には、ジローがいる。七歳。私のターゲット。私の将来の年金。彼は満面の笑みを浮かべている。IQが低下している顔だ。
「司!遊びに来てくれて嬉しいぞ!今日は何する?鬼ごっこか?」
彼は提案する。鬼ごっこ。有酸素運動としては悪くないが、生産性がない。ただ走り回ってカロリーを消費するだけだ。エネルギー効率が悪い。私は首を横に振る。拒否権発動。
「いいえ。今日は『資産価値の確認』を行います。……ジロー、こっちに来なさい」
業務命令を下す。資産価値確認。バリュエーション。ただし、確認するのは彼が持っている金品ではない。私自身という「商品」の価値を、彼(顧客)に再認識させるプレゼンテーションだ。定期的なメンテナンスが必要だ。顧客満足度(CS)を維持するために。
ジローは「資産価値?」と首を傾げながらも、素直に近づいてくる。警戒心ゼロ。野生動物なら即座に捕食されているレベルだ。彼は私の前に座る。距離、50センチ。パーソナルスペース内。
彼の手を取る。彼の手は温かい。体温が高い。代謝が良い証拠だ。健康体。長生きしそうだ。パトロンが早死にすると困るので、彼の健康管理も私のタスクに含まれる。
「どうですか?私の身体。……柔らかいですか?将来性を感じますか?」
彼の手を誘導する。私の二の腕。上腕三頭筋の上部。脂肪と筋肉が絶妙なバランスで配置されている部位。いわゆる「ぷにぷに」ゾーンだ。彼の手のひらをそこに押し当てる。接触。触覚情報の伝達。皮膚の弾力性、温度、湿度。すべてのデータを彼の脳に送信する。
次に、頬。バッカルファットが豊富なエリア。指先で触れさせる。赤ちゃんの肌に近い、極上の触り心地。コラーゲンの塊だ。
ジローの反応を見る。呼吸が止まる。瞳孔が散大する。交感神経が急激に活性化する。顔面の毛細血管が拡張し、急速に赤くなる。ゆでだこ状態。分かりやすい。非常に分かりやすい生体反応だ。
「(顔を真っ赤にして)……う、うん……。マシュマロみたいだ……」
彼は感想を述べる。語彙力が貧困だ。マシュマロ。糖分とゼラチンの塊。比喩表現としては稚拙だが、彼の実感としては正しいのだろう。柔らかく、甘く、中毒性がある。私は彼にとってのマシュマロ(ドラッグ)になる。
「よろしい。……この感触を記憶しなさい。これが将来、あなたの『側室』になる予定の肉体です。……先行投資だと思いなさい」
刷り込み(インプリンティング)だ。「側室」。正室(本妻)を狙うのはハードルが高いかもしれない。彼は陪臣の子息だ。政略結婚の駒として使われる可能性が高い。ならば、側室のポジションでいい。責任が少なく、愛され、金だけもらえるポジション。コストパフォーマンス最強の役職だ。「先行投資」。今のうちに唾をつけておく。青田買いだ。彼に「司は俺のものだ」と錯覚させることで、他の競合他社の参入障壁を築く。
「よくわからんが、すごい得した気分だ!!司、俺のお小遣い全部やる!!」
ジローが叫ぶ。成約完了。意味など分かっていなくていい。「得した気分」。これが重要だ。顧客体験(UX)の向上。彼は私の頬を触っただけで、全財産を差し出す決意をした。ROI(投資対効果)が無限大だ。ちょろい。あまりにもちょろい。セキュリティソフトが入っていないパソコンのようだ。ウイルス(私)に感染し放題だ。
彼は懐から巾着袋を取り出す。ジャラジャラという音。重い音。銀貨か、あるいは小判か。中身を確認せずとも分かる。そこには私の「安泰な未来」が詰まっている。
巾着を受け取る。重量感。物理的な幸福の重みだ。これでまた、へそくりが増える。分散投資の一環として、この資金は安全な場所に埋蔵する。あるいは、高金利の貸金業者に運用を委託するか。いや、この時代の金融システムは信用リスクが高い。床下に埋めるのが一番だ。
「……チョロい。この『松田家(仮)』の次男坊を完全に掌握すれば、私は働かずに一生遊んで暮らせる。……完璧な老後設計だ」
松田家(仮)。彼が「高須藩」と言っていたので、松平家か何かだろうと推測しているが、詳細はどうでもいい。金さえあれば、名前など記号に過ぎない。彼は私の「財布」であり、「ATM」であり、そして「観賞用植物」のようなものだ。水をやり(優しくし)、肥料を与え(触らせ)、実(金)を収穫する。農業だ。私は農家だ。
「さあ、ジロー。追加サービスです。膝枕をしてあげましょう」
「えっ!?いいの!?」
「特別です。1分につき銀1枚でどうですか?」
「安い!!お願いします!!」
彼は私の膝に頭を乗せる。髪が硬い。剛毛だ。枕としての快適性は低いが、顧客サービスなので我慢する。私は彼のおでこを撫でる。よしよし。育てよ、私の金づる。立派な大名になって、私を養え。
窓の外では、小鳥がさえずっている。平和だ。試衛館でのゴリラとの遭遇によるストレスが、浄化されていくのを感じる。やはり、ワークライフバランスは重要だ。オン(労働)とオフ(搾取)。この切り替えこそが、長く働く(働かないけど)ための秘訣だ。
「司、なんかいい匂いがする……」
「それは石鹸の匂いではなく、私のフェロモンです。幻覚作用があります」
「へえー、すごいなあ」
信じている。冗談も通じない純粋さ。罪悪感?そんな非合理的な感情パラメータは、私のOSには実装されていない。あるのは「生存」への渇望のみ。
ジローの頭を撫でながら、ぼんやりと天井を見上げる。天井の木目。年輪の数。構造力学的な強度。すべてが正常だ。私の未来も、こうして計算通りに進んでいくはずだ。今のところ、計算外の要素は見当たらない。島崎というノイズも、ここには届かない。ここは私の聖域だ。
◆
竹箒。全長約150センチ。素材は竹。天然由来のコンポジット材料だ。この清掃用具は、単純な構造でありながら、使い方次第で極めて高い殺傷能力を発揮する。重心バランスは先端に寄っている。遠心力を利用しやすい設計だ。私はこの竹箒を手に、試衛館の庭に立っている。地面は土。そこに無数の落ち葉が散乱している。欅、銀杏、その他雑多な広葉樹の残骸。これらは視覚的なノイズであり、歩行時の摩擦係数を不安定にさせる要因だ。排除が必要だ。
「(ブツブツ)……掃除とは、エントロピーの増大に対する抵抗活動……。最短距離で、掃く。掃く。掃く」
熱力学第二法則。閉鎖系において、エントロピー(乱雑さ)は増大する方向にしか進まない。つまり、放置すれば部屋は散らかり、庭は荒れる。これは宇宙の真理だ。だが、私はそれに抗う。局所的にエネルギーを投入し、秩序を回復させる。それが掃除だ。私は竹箒を振るう。腕の筋肉だけではなく、広背筋、脊柱起立筋、そして大殿筋からの連動性を利用する。エネルギー効率を最大化する。無駄な動きは1ミリたりとも許さない。
シュッ!シュッ!
風切り音が鋭い。箒の穂先が地面を撫でる音が、もはや打撃音に近い。落ち葉が一箇所に集まっていく。物理演算エンジンが正常に機能している。完璧な集積率だ。
その時、視界の端に動く黒点を捉える。ハエだ。イエバエの一種。体長約8ミリ。不規則な飛行軌道を描いている。羽音が不快だ。衛生管理上、看過できない存在だ。病原菌の媒介者。私のテリトリーに侵入したことを後悔させてやる。
箒の動きを止めることなく、軌道を修正する。ターゲットロックオン。ハエの予測進路を計算。相対速度、風向き、湿度による空気抵抗。すべてを瞬時に解析する。私の脳内CPUがオーバークロックする。
「……消えなさい」
ズバァッ!
一閃。竹箒の先端が、音速に近い速度で空間を薙ぎ払う。ソニックブームが発生したかもしれない。空気が圧縮され、衝撃波となってハエを襲う。いや、直接ヒットした。竹の繊維一本一本が、ハエの微小な肉体を捉え、そして分断する。
ポトリ。
二つに分かれた黒い物体が、地面に落ちる。切断面は綺麗だ。細胞レベルでの切断。もはや芸術の領域だ。私は箒を構え直す。残心。今日も私の動体視力は絶好調だ。掃除という名の害虫駆除完了。
「(通りかかって)……ん!?今、ハエが斬れたぞ!?箒で!?」
背後から爆音が響く。島崎だ。この道場の主であり、歩く騒音公害。彼が通りかかるタイミングが悪すぎる。私の隠密行動が目撃された。マズい。非常にマズい。「掃除の上手な女の子」という偽装が剥がれる危機だ。ハエを箒で斬る七歳児など、どう考えてもカタギではない。
ゆっくりと振り返る。表情筋をリセット。無垢な子供の顔を作る。営業用スマイルVer.2.0「不思議ちゃんモード」起動。
「……チッ。見られましたか。……いいえ、これはただの『高速清掃』です。ハエは寿命で死にました」
苦しい言い訳をする。舌打ちが漏れてしまったのは失点だ。「高速清掃」。新しい用語を定義することで相手を煙に巻く。ハエの死因は寿命。あるいは心不全。箒による物理的切断との因果関係を否定する。証拠不十分で不起訴に持ち込む算段だ。
しかし、島崎の目は誤魔化せない。彼の野生動物並みの動体視力は、決定的な瞬間を捉えていたらしい。彼の瞳孔が開く。興奮のサインだ。ドーパミンが脳内で噴出しているのが分かる。
「いや違う!お前、すげえ才能だぞ!その構え、その踏み込み!まるで天然理心流の申し子だ!」
彼は大声で称賛する。才能。タレント。最も聞きたくない言葉だ。私が隠そうとしている「沖田としての資質」を、彼は直感で見抜いた。「天然理心流の申し子」。やめてくれ。そんな不穏な称号はいらない。私は「玉の輿の申し子」になりたいんだ。
彼が私に歩み寄ってくる。地面が揺れる。質量が迫ってくる。圧迫感。彼は私の肩を掴む。強い。握力が強すぎる。鎖骨がきしむ音がする。労災認定されるレベルだ。
「司!お前、剣を持て!掃除なんかしてる場合じゃねえ!その腕、その目、人斬りの才能だ!」
「人聞きが悪いです。私は平和主義者です。暴力反対。ラブ&ピース」
否定する。必死に抵抗する。だが、彼の耳には届かない。彼は自分の世界に入っている。熱血指導者モードだ。
そこへ、新たな登場人物が現れる。門の方から、明るい声が響く。
「司ー!迎えに来たぞー!……って、なにやってるんだ?」
ジローだ。私のパトロン。私のATM。彼が私を救出しに来てくれたのか。ナイスタイミングだ。ジロー、私をこのゴリラから引き剥がしてくれ。そして高級料亭に連れて行ってくれ。
ジローが小走りで近づいてくる。彼は着飾っている。良い着物だ。絹の光沢が見える。資産価値を身に纏っている。素晴らしい。
しかし、島崎がターゲットを変更する。ロックオン。視線がジローに向く。
「おお、少年!お前もいい体つきをしてるな!よし、まとめて面倒見てやる!」
島崎が叫ぶ。論理の飛躍。「いい体つき」=「入門させる」。どんな三段論法だ。勧誘のプロセスをすっ飛ばしている。強引なキャッチセールスだ。あるいは誘拐だ。
「は?」
私とジローの声が重なる。ユニゾン。理解不能。ジローがキョトンとしている。彼は状況を飲み込めていない。「面倒を見る」の意味を、「お菓子をくれる」か何かだと勘違いしている可能性がある。違うぞジロー。それは「地獄への片道切符」という意味だ。
島崎はジローの腕も掴む。両手に花ならぬ、両手に子供。捕獲完了。
「ガハハ!今日からお前ら二人は俺の弟子だ!試衛館の未来は明るいぞ!」
明るくない。真っ暗だ。私の視界が暗転する。ブラックアウト。私の「掃除婦として目立たずに生きる計画」が、音を立てて崩壊していく。エントロピーが増大している。私の人生のエントロピーが、制御不能なレベルまで拡散している。
ジローが私を見る。助けを求めている。「ねえ司、このおじさん誰?ゴリラ?」という顔をしている。私は首を横に振る。諦めろ。このゴリラの握力からは逃げられない。私たちは今、サバンナの食物連鎖に取り込まれたのだ。
◆
バシン!バシン!
乾燥した竹の音が響く。空気の振動が肌を叩く。汗の匂い。床板のきしむ音。そして、ゴリラの咆哮。
「よし!!司!!良いぞ!!その調子だ!!!腰が入ってるぞ!!」
島崎の声が、私の聴覚野を直接攻撃する。現在時刻、午前10時。既に2時間の素振り(スイング)を行っている。回数は千回を超えている。労働基準法違反だ。児童福祉法違反だ。あらゆる法規に抵触しているが、ここには法の番人はいない。いるのは筋肉の信奉者だけだ。
腕が重い。乳酸が蓄積している。ミトコンドリアが酸素を求めて悲鳴を上げている。だが、私の体は止まらない。最適化された動作プログラムが、自動的に木刀を振り上げ、振り下ろす。無駄がない。美しすぎる軌道。それが逆に島崎を興奮させる。
「(白目をむきながら)ハイッ!!……(なんで!?私は掃除婦として採用されたはずなのに!なぜ木刀を振っているの!?)」
反射的に返事をする。社畜の条件反射だ。上司の命令には「ハイ」か「YES」か「喜んで」で答えるようプログラムされている。だが、内心では解雇通知(辞表)を叩きつけたい気分だ。業務内容の不一致。契約違反だ。私は「家事手伝い」として雇用されたはずだ。なぜ戦闘員として育成されているのか。職務記述書の書き換えを要求する。
「ジローも負けるな!!!素振り二百追加だ!!」
島崎がターゲットを隣に移す。ジロー。私の隣で、彼は死にそうな顔で木刀を振っている。彼のフォームは乱れている。体幹がブレている。だが、根性だけで食らいついている。偉い。褒めてあげたいが、今は自分のことで精一杯だ。
「ハイッ!!……(司と一緒にいられるのは嬉しいけど、腕が千切れそうだ!)」
ジローが叫ぶ。心の声が聞こえるようだ。「司と一緒にいられる」。その動機だけで、この拷問ごとき地獄に耐えているのか。愛の力は偉大だが、使い所を間違えている。こんなところで消耗していないで、屋敷で優雅に羊羹でも食べていてほしい。そうすれば私も、君の「おやつ係」としてそこにいられたのに。
「……計算ミス。……『島崎』=『脳筋勧誘マシーン』。……そして私の身体能力が高すぎて、隠蔽工作に失敗。……ジロー、ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまいました」
リスク管理の甘さ。自分の才能(という名の呪い)を過小評価していた。隠そうとしても溢れ出るオーラ。腐っても「沖田」の器だ。ゴリラに見つかったのが運の尽きだった。そしてジロー。彼を巻き込んだのは私の責任だ。彼がここで剣術を覚え、将来「人斬り」の片棒を担ぐことになったら、歴史はどう変わる?バタフライエフェクトが怖い。
「ガハハ!天才が二人も手に入るとは!俺はツイてるなあ!なあ、トシ!」
島崎が道場の隅に向かって話しかける。トシ。その二文字。私の心拍数が再び跳ね上がる。不整脈を起こしそうだ。嫌な予感がする。振り返りたくない。だが、首が勝手に動く。
道場の隅。日陰になっている場所。そこに、一人の男が座っている。大きな背負い箱(葛籠)を置いている。行商人スタイル。だが、その目つきは堅気ではない。鋭い。カミソリのように冷たく、そして計算高い目だ。紫色の手ぬぐいを首に巻いている。ファッションセンスが独特だ。
土方。新選組副長。鬼の副長。そして現在は、家伝薬「石田散薬」を行商して回る、怪しい薬売り。彼がそこにいる。ニヤリと笑っている。その笑顔は、実験動物を見つけたマッドサイエンティストのそれに近い。
「ああ。……面白くなりそうだ。そのガキども、薬の実験台……いや、良い剣士になりそうだ」
土方が呟く。聞こえている。「実験台」と言いかけた。臨床試験の被験者にしようとしている。石田散薬。骨折や打ち身に効くとされるが、その成分はイワザクラの一種(牛革草)であり、効能についてはプラシーボ効果の域を出ないという説もある。それを子供に飲ませる気か。薬事法違反だ。インフォームド・コンセント(説明と同意)が必要だ。
「……終わった。役者が揃ってしまった。……私の『玉の輿計画』が、『地獄の剣術合宿』にすり替わっている……」
絶望。
「ふざけるなあああああ!!(心の声)」
木刀を振り下ろす。完璧なフォーム。重心移動、腰の回転、手首のスナップ。すべてが神懸かっている。空気が裂ける音。そして、木刀が床板に接触する瞬間、物理法則が牙を剥く。
ドガァッ!!
爆音。木材が破断する音。床が抜ける。私の足元の床板が、木刀の衝撃に耐えきれずに粉砕される。穴が開く。直径約30センチ。床下の地面が見える。埃が舞い上がる。道場が静まり返る。サイレント。時が止まる。
自分の足元の穴を見つめる。やっちまった。器物損壊だ。修理費を請求される。今の私に支払い能力はない。ジローに頼むか?いや、これ以上彼に借金を作りたくない。
島崎が目を見開いている。怒られるか?当然だ。大切な道場の床を破壊したのだから。私は身構える。正座して謝罪する準備。ごめんなさい、弁償します、体で払います(労働で)
「おおお!床を叩き割った!すげえぞ司!!明日から実践形式だ!!」
島崎が絶叫する。歓喜の絶叫だ。怒っていない。むしろ喜んでいる。「すげえぞ」。評価ポイントがズレている。破壊力を称賛している。「明日から実践形式」。スパーリングのことか?死ぬぞ?私が?いや、相手が。
土方もまた、興味深そうに頷いている。「ほう、あれだけの筋力……新薬の副作用データ採取に使えるな」とか考えていそうだ。怖い。大人が怖い。
ジローが震えている。「司……お前、やっぱり人間じゃないのか?」という視線を送ってくる。違うのジロー。これは事故なの。私の意志じゃないの。物理演算のバグなの。
木刀を取り落とす。カランコロンと乾いた音が響く。膝から崩れ落ちる。四つん這いになる。床の穴を覗き込む。暗い床下。そこはまるで、私の未来のようだ。
「帰りたい……」
心の底からの本音。高須藩邸に帰りたい。ふかふかの布団で寝たい。羊羹が食べたい。平和な日常に戻りたい。
だが、道場に響くのは島崎の高笑いと、土方の不敵な笑みだけ。外ではカラスが鳴いている。「アホ」と言っているように聞こえる。そう、私はアホだ。才能を隠しきれなかったアホな天才児だ。
才能は、
望まなくても連れて行かれる。
私は今日、
逃げ道をすべて失った。




