第7話 招かれた6人の異邦人
世界が裏返るような、強烈な吐き気がした。
三半規管をミキサーにかけてぶちまけたような酩酊感。脳髄を直接揺さぶられる不快な振動。
視界を埋め尽くすのは、網膜を焼くほどの純白の光だ。
平衡感覚が消失する。上も下も分からない。
足元がぐらりと揺らぐ。
今まで踏みしめていた学校の教室の床――放課後の静寂、使い古されたリノリウムの感触が消え失せ、代わりに冷たく硬質な石の感触が足裏に伝わってくる。
「……ッ、うぅ……きもちわる……」
誰かの呻き声が聞こえた。
光が収束していく。
僕――天道晴人は、激しい目眩に抗いながら、必死に瞼を持ち上げた。
思考が一瞬白濁するが、すぐに意識を覚醒させる。
パニックに陥りそうになる感情を、理性の檻で強引に押さえつける。
さっきまで、僕は生徒会室で予算配分の資料を作っていた。それが一瞬にして、物理法則を無視した転移現象に巻き込まれた。
状況は異常。だが、現実は現実として受け止めなければならない。
最初に目に飛び込んできたのは、圧倒的な「高さ」と「広さ」だった。
見上げるようなドーム状の天井。そこには精緻なフレスコ画が一面に描かれ、幾何学的な模様を描くステンドグラス越しに、七色の光が神々しく降り注いでいる。
空気の匂いが違う。
日本の湿った空気ではない。
鼻孔をくすぐるのは、焚きしめられた高級な香木の香りと、どこか金属的な冷たい清浄な空気だ。オゾン臭に近い、魔力とでも呼ぶべきエネルギーの残滓が肌にまとわりつく。
「――成功です。座標固定、魂の定着を確認」
「おお……! なんという強大な魔力反応……!」
「惑星防衛機構『アイギス』のシステム、正常に稼働しています!」
「48代目の召喚に成功したぞ!」
震えるような歓喜の声が、四方から響く。
視界がクリアになるにつれ、状況の詳細が脳に叩き込まれた。
僕たちが立っているのは、巨大な発光する魔法陣の上だ。複雑怪奇な文字が明滅し、粒子の光が舞い上がっている。
そして周囲を取り囲んでいるのは、ファンタジー映画のセットごときではない、本物の重厚さを纏った白装束の集団――数十人の神官たちが、僕たちに向かって平伏していた。
彼らの背後には、全身を銀色の甲冑で固めた武装した騎士たちが直立不動で整列しており、その剣呑な輝きがここが法治国家の及ばぬ場所であることを告げていた。
心臓が早鐘を打つ。
だが、僕は努めて冷静に周囲を観察した。
武器を持った集団。魔法らしき技術。そして僕たちに向けられる崇拝に近い眼差し。
ここで取り乱して叫んだところで、事態は好転しない。むしろ、相手を刺激し、こちらの価値を下げるだけだ。
まずは現状把握。巻き込まれたのは僕だけじゃない。
「……は? マジ? なにここ」
間の抜けた、しかし不機嫌そうな声が隣で響く。
派手な金髪の巻き髪に、校則違反ギリギリまで短くしたスカート。
クラスのムードメーカーであり、カースト上位に君臨するギャル、西園寺アリス。
彼女は周囲の異様な状況に怯える様子もなく、眉間に深い皺を寄せて手元のスマホを睨みつけている。
「電波死んでんだけど。ありえなくない? インスタのストーリー上げようとしてたのにさー。てかここどこ? ドッキリ? カメラどこあんの?」
アリスは長いネイルチップで画面を苛ただしげにタップし、頭上の神官たちを一瞥して鼻を鳴らす。
その態度はあまりにも「日常」すぎて、逆にこの場の「非日常」を際立たせていた。ある意味、肝が座っていると言うべきか、状況を理解できていないだけか。だが、彼女のその明るさが場の空気を少しだけ緩めているのも事実だ。
「……おい、どうなってんだよ」
低い声がした。
荒垣龍也。
鋭い目つきに、少し着崩した制服。学校ではあまり良い噂を聞かない、いわゆる不良だ。いつも教室の隅で寝ているか、人を寄せ付けないオーラを出している。
彼はポケットに手を突っ込んだまま、鋭い視線で周囲を警戒している。怯えているというよりは、獲物を狙う野獣のようにピリピリとした空気を纏っていた。全身の筋肉が強張っているのが分かる。即座に逃走か戦闘に移れるような構えだ。
その他にも、剣道部のエースである如月咲、学年トップの秀才・桐生蓮、そしておっとりした白石結衣。
見知った顔ぶれが、呆然と立ち尽くしている。
みんな、混乱している。
誰かが音頭を取り、情報を引き出さなければならない。
僕は彼らを背に庇うようにして一歩前に出ると、最も位が高そうな老人に向かって問いかけた。
「あなた方は何者ですか?そして、ここはどこですか?」
努めて冷静さを装った声に対し、集団の中から一人の老人が進み出た。
金糸の刺繍が入った豪奢なローブを纏い、黄金の杖を手にした男。
大神官と呼ばれたその男は、芝居がかった動作で深々と頭を下げ、顔を上げた。
その瞳。
僕は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
慈愛に満ちているようで、その奥には狂信的な光が宿っている。僕たちを「人間」として見ているというより、待ち望んだ「機能」あるいは「部品」そのものを見るような、値踏みするような視線。
「ようこそ、異界よりの客人よ。そして、誉れ高き48代目の勇者様方」
「勇者……?」
「左様。ここは『空中聖都アヴァロン』。地上3000メートルに浮かぶ、人類最後の希望の砦です」
空中。3000メートル。
突拍子もない単語に、後ろで桐生が眼鏡の位置を直しながら「馬鹿な、物理的にありえない」と呟くのが聞こえた。
だが、高い位置にあるアーチ状の窓の外を見れば一目瞭然だった。
石造りの窓枠の向こうには、青すぎる空と、眼下に広がる真っ白な雲海しか見えない。
山頂などではない。地平線まで雲が続いている。
ここは、本当に空の上なのだ。
これがドッキリなら、国家予算レベルの費用がかかっているだろう。
「我々は待ち焦がれておりました。惑星防衛機構アイギスの導きにより、この世界を『絶滅』から救ってくださる皆様の降臨を」
大神官の声が、石造りの広間に朗々と響き渡る。
48代目。その数字の大きさが気になる。
咲や結衣は、戸惑いながらも「私たちが……勇者?」「世界を救うって……」と、どこか現実味のない顔を見合わせている。
僕は脳内で情報を整理する。
拒否権のない召喚。一方的な期待。
だが、ここで「帰せ」と叫んだところで、彼らが「はいわかりました」と帰してくれるはずがない。ここまで手の込んだことをやっているのだ、きっと彼らにも引けない事情がある。
ならば、まずは彼らの言い分を聞き、こちらの立場を確保するのが最善手だ。
「……おい、爺さん。要点は短く頼むぜ。俺たちは帰れるのか?」
不躾な声が空気を裂く。
彼は神官たちの威圧感にも動じず、睨みつけるように尋ねた。
隣にいたアリスが、「ちょっと龍也! 言い方! 相手偉そうな人じゃん」と小突くが、龍也は無視して大神官を見据えている。
態度は悪いが、彼の質問は最も合理的で、全員が一番知りたいことだ。
大神官は、すぐに柔和な笑みを貼り付け直し、しかし断固とした口調で首を横に振った。
「残念ながら、召喚は一方通行なのです」
「……なんだと?」
「帰還の術式はアイギスには組み込まれておりません。ですが、あなた方が地上の厄災を打ち払い、この世界の理を正した暁には……あるいは、神の座に至り、自らの力で扉を開くことも可能でしょう」
「つまり、戦って勝てってことか。選択肢なしの強制労働だな」
荒垣が吐き捨てるように言う。
その通りだ。理不尽極まりない。
だが、帰る手段がないと分かった以上、ここで暴れるのは得策ではない。
衣食住の保証、この世界での地位。それらを得るためには、今のところ彼らに従うのが最も生存率が高い。
「荒垣、落ち着いてくれ。彼らにも事情があるはずだ。まずは話を聞こう」
「……チッ。優等生様は余裕があっていいな」
龍也は舌打ちをして視線を逸らす。
協調性のない奴だ。この状況下で単独行動や反抗的な態度はリスクでしかないことがわからないのか。
大神官は僕の態度に満足したように頷き、杖を鳴らした。
「賢明なご判断、感謝します。皆様には、まずこの世界の『歴史』と『真実』を知っていただかねばなりません。さあ、こちらへ」
重厚な扉が音もなく開かれた。
僕たちは促されるまま、長い回廊へと歩き出した。
案内されたのは、王宮の回廊だった。
磨き上げられた大理石の床。天井からは豪華なシャンデリアが下がり、壁一面には巨大なフレスコ画が、絵巻物のように連なっている。
それは、この世界の歴史書そのものだった。
「800年前、この世界は一度、危機を迎えました」
大神官が、最初の一枚――禍々しい魔王と、それに立ち向かう一人の勇者の絵を指し示す。
「当時、世界を支配しようとした魔王を倒すため、異世界から一人の勇者が召喚されました。それが、『初代勇者リオン』です」
僕たちは食い入るように壁画を見る。そこには、魔王を討ち果たし、民衆に称賛される英雄の姿が描かれていた。
だが、物語はそこで終わっていなかった。
次の絵を見て、僕たちは息を呑む。
そこには、空が裂け、形を持たない13の影――『邪神』が降り注ぐ様子が描かれていた。
魔王など比較にならない、根源的な絶望。
都市は灰になり、人々は家畜のように食らわれている。
「魔王討伐の歓喜も束の間、突如として現れた13柱の邪神により、世界は本当の地獄へと変わりました。リオンは……魔王を倒した英雄でしたが、神々の前では無力でした」
大神官の声が、低く沈む。
壁画の中のリオンは、もはや英雄の顔をしていない。
圧倒的な暴力を前に、剣を捨て、腰を抜かし、恐怖に顔を歪めて背中を見せている。
その足元には、彼に助けを求める仲間たちが描かれているが、リオンは彼らを見捨てて逃げ出しているように見えた。
「……うわ、なにこれ。エグッ」
アリスが顔をしかめて呟く。
大神官は、無念そうに首を振った。
「彼は魔王とは戦えても、神には抗えなかった。当時の召喚はあくまで『人間』の手による儀式でした。ゆえに彼は脆弱で、神の威圧に魂を折られ……あろうことか仲間と民を囮にして、自分一人だけいずこかへと逃亡したのです」
逃亡。
神官たちの間に、重苦しい空気が流れる。
彼らにとって、リオンの名は希望から絶望へと変わった象徴なのだろう。
「彼が逃げた後、人類は成す術なく蹂躙され、絶滅寸前まで追い込まれました。……彼は我々人類にとって、最大の『失望』であり、決して許されざる『逃亡者』なのです」
厳しい評価だ。
だが、責められるだろうか。
魔王を倒して全て終わりだと思っていたところに、さらに凶悪な化け物が現れたのだ。心が折れるのも無理はない。
しかし、結果として彼は多くの人々を見捨てた。
勇者として、力を持つ者として、その責任放棄はやってはいけないことだった。
僕なら……いや、考えるのはやめよう。
「ですが、世界はまだ終わりませんでした! 残された3柱の守護神様が、自らの『神核』を砕き、命と引き換えに『アイギス』を発動されたのです!」
大神官の声が弾み、次の壁画を指す。
そこには、光り輝く金髪の青年が描かれていた。
手には光り輝く剣。背景には、世界を包む巨大な光の膜が描かれている。
「アイギス発動後、システムによって召喚されたのが『2代目勇者アベル様』です! アベル様は、脆弱な人間による召喚ではなく、神のシステムであるアイギスによって選定された最初の勇者。彼は歴代最強の力を持ち、果敢に神々に挑みました」
壁画のアベルは、リオンとは違い、神々に立ち向かっている。
「しかし、アベル様をもってしても、13柱の神々をすべて殺し尽くすことは不可能でした。戦えば戦うほど、守るべき人々が巻き添えになっていく……。そこでアベル様は、勝利条件を『神々の殲滅』から『人類の生存』へと書き換える決断を下されました。それが『救世の聖断』です」
「救世の聖断?」
蓮が興味深そうに身を乗り出す。
大神官は熱を込めて語り続けた。
「第一の聖断。アベル様は聖剣を振るい、汚染された大地を物理的に切り離し、この『空中聖都アヴァロン』を天空へと浮上させました。地を這う神の化身たちが物理的に届かない、絶対安全圏を作り出したのです」
「大地を浮かせた……? 魔法でそんなことが……」
僕たちは絶句した。この都市そのものが、一人の勇者の力で空に上げられたものだというのか。
「そして第二の聖断。アベル様はアイギスの結界を補強し、神々が存在する『高次元』と、我々がいる『物質界』の間に『次元隔絶結界』を展開しました。これにより、12柱の神々の本体は世界の外側へ弾き出されたのです」
神々を世界の外側に隔離したのなら素晴らしいことのはずなのに、大神官の表情は厳しいままだ。
「しかし、結界は完璧ではありません。網の目から漏れる水のように、神の魔力は『化身』として実体化し、今も地上の残存人類を脅かしています。……そして何より、この結界を維持するためには『鍵』が必要なのです」
大神官は僕たち一人一人を見渡し、深く頭を下げた。
「それこそが、勇者様方です。アイギスは異世界人の魂を触媒に稼働しています。勇者様がこの世界に存在し、呼吸して生きているだけで、アイギスにエネルギーが供給され、神を締め出すロックが掛かり続けるのです」
僕たちの、存在そのものが……エネルギー源?
つまり、僕たちは戦う以前に、生きていること自体が世界の防衛装置の一部だということか。
「このシステムは『永続召喚』により維持されています。現役の勇者が全滅するか、寿命でその力が衰えると、システムが自動的に次代の勇者を召喚する……それが、皆様が48代目である理由です」
「……そうか。前の代が死んだから、俺たちが呼ばれたってことか」
荒垣が冷めた声で言った。
その通りだ。僕たちは「補充」されたのだ。
部品が摩耗したから、新しい部品と交換する。非常に分かりやすい、システム的な論理だ。
アリスが「えー、なんかアタシら電池扱い? ウケるんですけど」と茶化すが、顔色は少し悪い。
だが、僕は腑に落ちたものを感じていた。
なぜ僕たちが呼ばれたのか。なぜ帰れないのか。
全てはシステム維持のため。
理不尽だが、理屈は通っている。
そして、このシステムがあるからこそ、この空の上の楽園は守られている。
僕たちがここで安全に暮らす対価として、その身をシステムに捧げる。それは一種の契約だ。
逃げたリオンにはできなかった、責任ある行動。それを僕たちが果たせばいい。
「分かりました」
僕は静かに頷いた。
「僕たちが呼ばれた意味、理解しました。この世界の人々を守るため、アベル様が構築したこのシステムを守るため、僕は力を尽くします」
神官たちが感涙に咽び、僕を称賛する声が響く。
これでいい。彼らを安心させ、組織として機能させることが最優先だ。僕たちが協力的であれば、彼らも最大限の支援をしてくれるだろう。
ふと、視線を感じて横を見た。
みんなが光り輝くアベルの壁画を見上げている中、荒垣だけは、薄暗い影に覆われたリオンの壁画をじっと見つめていた。
その表情は、軽蔑でも恐怖でもない。
ただ、何かを値踏みするような、不可解な視線。
彼はリオンの情けない顔を見て、何を感じているのか。
「……荒垣? 行くぞ」
声をかけると、彼はハッとしたようにこちらを向き、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「……ああ」
彼はそう言って、誰よりも先に回廊の出口へと歩き出した。
その背中は、どこか孤高で、僕たちの輪からは少し外れているように見えた。
その後、僕たちは貴賓室に通され、着替えを命じられた。
用意されていたのは、最高級のシルクと魔獣の革で作られた、貴族のような衣装だった。
制服を脱ぎ捨て、袖を通す。
これは「制服」だ。勇者という役割を演じるための。
「キャーッ! マジ可愛くないこれ!? やばーい、お姫様じゃんアタシ!」
隣の更衣室から、アリスの黄色い声が響いてくる。
出てきた彼女は、露出の多いドレスに身を包み、鏡の前でポーズを取っていた。
「ねえねえ晴人くーん、見て見て! 似合う?」
「ああ、とても似合っているよアリス。この世界の服も着こなすなんて流石だね」
「でしょー! やっぱアタシ、こっちの世界のほうが向いてるかも!」
僕が褒めると、アリスは満面の笑みでくるりと回ってみせた。
彼女のこういう順応性の高さには救われる。この状況を楽しめるというのは、一つの才能だ。
荒垣も出てきたが、彼は渡された服を着崩し、まるで特攻服か何かのように着こなしていた。胸元を大きく開け、裾を乱している。
アリスがそれを見て「ちょっと、せっかくの衣装なんだからちゃんと着なよー」と笑うが、荒垣は「動きやすけりゃいいんだよ」と取り合わない。
そこには険悪な空気はなく、いつもの学校の延長線上のやり取りがあった。
その夜、歓迎の宴が開かれた。
王宮の大広間には、贅を尽くした料理が並び、煌びやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが僕たち「新米勇者」を見ようと群がってくる。
彼らの視線は熱い。期待、好奇心、そして打算。
僕はその中心で、貴族たちへの挨拶回りをこなしていた。
失礼があってはいけない。彼らはこの世界の権力者であり、スポンサーだ。彼らの支持が得られれば、今後の活動がスムーズになる。情報も入りやすくなる。
「これが第48代の勇者様か! なんと凛々しい!」
「天道様、ぜひ我が家の娘とダンスを……」
「如月様の剣技、後ほど拝見したいものですな。我が騎士団の師範となっていただきたい」
完全にアイドル扱いだ。
咲は武人肌の貴族たちに囲まれ、少し困りながらも剣の話をしている。彼女の真面目さは好感度が高いようだ。
桐生は宮廷魔導師たちと魔法理論について熱く語り合っている。彼にとってここは知識の宝庫なのだろう。
結衣も、その愛らしい雰囲気で年配の貴族たちに可愛がられている。
そしてアリスは――
「え、マジ? この宝石くれるの? ちょーウケる! 日本じゃこんなの絶対買えないしー!」
すでに貴族の令嬢たちの中心で、プレゼントの山に埋もれていた。
物怖じしない彼女の性格は、こういう場では最強の武器だ。
彼女は召喚された瞬間に判明した魔力量が多く、魔法の才能があるらしい。貴族たちも彼女の機嫌を取ろうと必死だ。
アリス自身もそれを理解し、しっかりと自分の居場所を確保している。したたかだ。
ふと、会場の隅に目をやる。
そこに、一人で黙々と肉を食べている荒垣の姿があった。
彼は誰とも群れず、ただ必要なカロリーを摂取する作業のように、機械的に食事をしている。
周囲の華やかな空気から、彼だけが切り取られたように浮いている。
……放っておくわけにはいかないか。クラスメイトとして、最低限のケアはしておくべきか。
「……少し、失礼します」
僕は貴族たちに断りを入れ、荒垣の方へ向かった。
「荒垣、楽しまないのか? これからの活力のためにも、人脈は作っておいた方がいい」
「……俺は食えればいい。お前こそ、あんな連中に愛想振りまいて疲れないのか?」
荒垣は骨付き肉を噛みちぎりながら、冷めた目で僕を見た。
その目は、獲物を前にした獣のように鋭いが、同時にどこか諦観のような色も混じっている。
アリスが近くを通りかかり、僕たちに気づいて声をかけてくる。
両手には皿いっぱいのスイーツを持っている。
「あ、晴人くん! 龍也も! ねー、ここのスイーツ超美味しいよ! 食べなよー」
「ありがとうアリス。後でいただくよ」
「龍也もさー、そんな隅っこで暗い顔してないで楽しみなよ。せっかく勇者になったんだし、アタシら最強なんでしょ? 人生イージーモードじゃん」
アリスは無邪気に笑う。
彼女にとって、今の状況は「ラッキーなイベント」なのかもしれない。
荒垣は肉を飲み込み、ナプキンで口を拭うと、アリスを見上げた。
「……お前は気楽でいいな。調子に乗って足元掬われんなよ」
「は? 何それ、キモッ! アタシは大丈夫だしー」
アリスはケラケラと笑って、また令嬢たちの輪に戻っていった。
荒垣はため息をつき、ジョッキの水を煽る。
「……あいつ、状況分かってんのか?」
「彼女なりの処世術だよ。不安を隠しているのかもしれない。……荒垣、少し風に当たらないか?」
僕は彼を誘って、バルコニーに出た。
喧騒が遠ざかる。
夜風は冷たく、少しだけ鉄の匂いがした。
ここ、空中聖都アヴァロンは、雲の上にある。
手すりから下を覗き込んでも、真っ暗な雲海が広がっているだけで、地上の様子は見えない。
だが、知識としては知っている。
「――この下は、地獄だってね。」
さっき、神官長に詳しく聞いた話だ。
「雲の下には、800年前から変わらない『神の化身』が跋扈する魔境が広がっている。そこに住む人々は、アヴァロンに入れなかった人たちの子孫で、毎日死と隣り合わせで生きているそうです」
結界のほころびから漏れ出した神の泥。それが化身となって人々を襲う。
地上の人々は、常に恐怖に怯えながら暮らしている。
「……切り捨てられても仕方のない場所だ」
僕の言葉に、龍也が眉をひそめた。
「切り捨てられても仕方ない、だと?」
「ああ。考えてもみてくれ。800年前、アベル様は優秀な人間と、生存可能な大地を選抜して空に逃げた。それは種の保存として、極めて合理的で正しい判断だと僕は思う。リソースには限りがある。全てを救おうとすれば、共倒れになるだけだ。船が沈む時、救命ボートに乗せる人間を選ぶようなものだよ」
僕はグラスを傾け、雲海を見下ろす。
これが僕の正義だ。
全員は救えない。ならば、より多くの、より価値のある未来を救うために、残酷な決断も下さなければならない。
感情論で動いて全滅するより、非情な計算で生き延びる方が、結果的に正義なのだ。
「……で、俺たちがそこに行って、下の化け物を『掃除』してこいってわけか」
「人聞きが悪いな。これは『秩序の維持』だ。僕たちはシステムの一部として、世界を安定させる義務がある。化身を減らせば、結界への負荷も減り、このアヴァロンの安全もより強固になる」
荒垣は僕をじっと見つめ、吐き捨てるように言った。
「義務、ねえ。……化け物は掃除するが、そこで逃げ惑ってる人間には『仕方ない』で終わりかよ」
彼の目には、明確な嫌悪の色が浮かんでいた。
「俺には、この都市の連中が、安全な場所から高みの見物をして……下で死んでいく人間をあざ笑ってるようにしか見えねぇけどな」
「……君は、物事を斜めに見すぎる 」
「事実を言ってるだけだ。安全な空の上から、地獄を見下ろして『可哀想に』って酒を飲む。……その神経が気に食わねぇって言ってんだ」
荒垣は手すりを強く握りしめた。ミシミシと音が鳴る。
青臭いな、と思った。
理想だけで世界は回らない。誰かが泥をかぶり、冷徹な計算の上でシステムを維持しなければ、平和など一瞬で崩れ去る。
彼はまだ子供なのだ。現実の厳しさを知らない、ただの反抗期。
「君も、その力を無駄にするなよ。システムに反抗しても、何も生まれない。ここで上手く立ち回ることが、皆を守ることにも繋がるんだ」
「はいはい、生徒会長様のご高説は身に染みるぜ」
荒垣は肩をすくめ、僕から視線を逸らした。
その目は、再び眼下の闇を見つめている。
分かり合えないな。
彼は個人の感情を優先し、僕は全体の利益を優先する。
決定的な溝が、そこにはあった。
「行くぞ、荒垣。みんなが待ってる」
「ああ、行くよ」
僕たちは煌びやかな広間へと戻っていった。
光溢れる会場。笑顔の人々。
これが守るべき世界だ。この輝きを絶やさないためなら、僕はどんな汚れ役でも引き受けてやる。
アベル様が作ったこのシステムは完璧だ。僕たちがその部品として機能する限り、この楽園は安泰なのだから。
この時の僕はまだ知らない。
この完璧に見えるシステムに隠された、さらなる歪みを。
龍也のあの冷めた目が、鋭い直感に裏打ちされたものであることを。
そして、僕たちの運命が、予想もしない方向へと転がり落ちていくことを。
――これが、僕たちが「異邦人」として招かれた、最初の夜だった。




