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世界は僕に優しくない。魔王を倒した対価がこれですか?  作者: ころん


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第6話 煉獄の揺り籠


 ふと、目が覚めた。


 どれくらい眠っていたのかは分からない。

 一瞬のような気もするし、永遠に近い時間を泥の中で過ごしていたような気もする。

 まぶたが重い。手足が鉛のように動かない。

 まるで、腐った蜂蜜の沼の底で、溺れながら微睡んでいるような、酷く不快な覚醒だった。


 暗い。

 目を開けても、閉じても、変わらない漆黒。

 上も下もない。重力さえも曖昧な、無重力の闇。

 ここは僕の箱の中だ。


「……ん、ぐ」


 身じろぎをしようとして、気付く。

 身体が、ベトベトする。

 汗じゃない。もっと粘り気のある、コールタールみたいな冷たい液体が、僕の全身にまとわりついている。

 いや、まとわりついているだけじゃない。

 皮膚の毛穴から、傷口から、身体の内側へと侵入してきている。


 気持ち悪い。

 吐き気がする。

 胃袋の中に、腐った泥を無理やり詰め込まれたみたいな圧迫感がある。

 僕は咳き込んだ。

 喉の奥に詰まっていた黒い塊が、ゴボッという音と共に吐き出される。

 口の中に広がるのは、鉄の味。

 錆びた鉄と、古くなった油、そして腐った肉を混ぜ合わせたような、冒涜的な味だった。


 寒い。

 暗い。

 怖い。


 僕は本能的に、温もりを求めた。

 そうだ、セレナ。

 僕は彼女と一緒にここに入ったはずだ。

 僕の一番大切な、世界でたった一つの宝物。


 慌てて腕の中を確かめる。

 感覚のない右腕は動かないけれど、左腕の中に、確かな重みがあった。

 硬くて、少し冷たいけれど、愛おしい質量。


 あった。

 なくしてない。

 よかった。


 安堵で、涙が出そうになった。

 外の世界は怖かった。空からガラスが降ってきて、地面から泥が湧いてきて、みんな壊れてしまった。

 でも、ここなら大丈夫だ。

 ここには僕たちしかいない。


 僕は暗闇の中で、愛しい人の髪を撫でようとした。

 指先が、彼女の頬に触れる。


 ――冷たい。


 氷のように冷たい。

 それに、なんだか感触がおかしい。

 柔らかかったはずの肌が、乾いた革みたいに硬く、ざらついている。

 滑らかだった銀色の髪が、ゴワゴワと固まって、絡みついている。


 そして。

 頬を撫でていた指が、顎のラインを越えて、首筋へと差し掛かった時。


 ズルリ、と。

 指が、濡れた断面に滑り込んだ。


「……え?」


 思考が、凍りついた。


 断面?

 どういうこと?

 なんで、首の途中で終わっているの?

 身体は?

 この下にあるはずの、温かい肩や、胸や、手足は?


 僕は震える手で、周囲をまさぐった。

 少し離れたところに、大きな塊があった。

 手触りで分かる。彼女の胴体だ。

 服の感触。リボンの感触。

 でも、動かない。

 心臓の音がしない。

 それどころか、鼻を突く匂いがする。

 甘酸っぱいような、腐った果実のような、あの独特の死臭。


「あ……」


 記憶が、濁流のように押し寄せてきた。


 そうだ。

 ピエロだ。

 あの笑う化け物が、長い腕を伸ばして、セレナの首を掴んだんだ。

 ブチブチブチッという、布を引き裂くような音と一緒に、僕の宝物を壊したんだ。

 ゴミみたいに捨てられた彼女は、石畳の上を転がって、僕の目の前で止まった。


 死んだんだ。

 セレナは、もう死んでいるんだ。


「う、そだ……」


 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

 だって、ここに入れたら安全だって思ったのに。

 しまっておけば、直せるって思ったのに。

 死んだら、もう動かないの?

 もう笑わないの?

 「リオン」って、呼んでくれないの?


 嫌だ。

 そんなの嫌だ。

 一人ぼっちは嫌だ。

 暗いよ。怖いよ。

 ねえ、起きてよ。お願いだから目を開けてよ。

 結婚するって言ったじゃないか。

 ずっと一緒だって言ったじゃないか。


「う、あ、ああああああああああああああああッ!!」


 絶叫が、喉を切り裂いてほとばしった。

 暗闇の中で、誰にも届かない悲鳴が木霊する。


 痛い。胸が痛い。

 心臓を素手で握りつぶされる、雑巾絞りみたいにねじ切られているみたいだ。

 息ができない。

 苦しい。

 殺してくれ。誰か僕を殺してくれ。

 こんな地獄みたいな世界で、目なんか覚ましたくなかった。

 なんで僕だけ生きてるんだ。

 なんで僕だけ、こんなに温かいんだ。

 僕が死ねばよかったのに。


 僕は自分の喉をかきむしった。

 爪で皮膚を裂き、血が出るまで引っ掻いた。

 死にたい。

 今すぐ死んで、彼女のところへ行きたい。


『……やかましい』


 頭の中に、低い声が響いた。

 耳から聞こえる声じゃない。

 脳髄に直接、汚い泥水を流し込まれるような、不快な響き。


 僕の身体を侵食している、あの泥の声だ。


『目覚めたかと思えば、泣き喚きおって。……不愉快だ。貴様の安い絶望など、聞き飽きたわ』


 泥がうごめく。

 僕の内臓を突き上げるようにして、黒い塊が暴れだす。

 僕の身体に入り込んだ異物が、僕の主導権を奪おうとしている。


『死にたいなら、我に食われろ。その魂を寄越せ。そうすれば、その苦しみからも解放してやるぞ?』


 泥が内側から膨れ上がり、僕の気道を圧迫する。

 首を絞められる苦しみ。

 肺が潰される圧迫感。


 殺される。

 でも、それでもいいと思った。

 もういいや。

 セレナがいない世界に、未練なんてない。

 このまま溶かされて、消えてしまえばいい。


 そう思って、身体の力を抜こうとした時。


 ――プチッ。


 脳の奥で、何かが切れる音がした。

 極限まで張り詰めていた糸が、限界を超えて弾け飛ぶ、乾いた音。


 フッ、と視界が白くなった。

 熱かった胸の痛みが、急に遠くなる。

 溢れていた涙が、ピタリと止まる。

 張り裂けそうだった悲しみが、どこか遠い場所へ行ってしまった。


 代わりにやってきたのは、ふわふわとした、現実味のない浮遊感。


「……あれ?」


 僕は首を傾げた。

 暗闇の中で、パチパチと瞬きをする。


 なんで泣いてたんだろう。

 なんで喉が痛いんだろう。

 変なの。


 お腹がムズムズする。

 あ、泥だ。泥さんがお腹の中で動いてる。

 遊ぼうって言ってるのかな。

 でも、ちょっと痛いよ。

 乱暴にしちゃ、めッ。


「……こら」


 僕は自分の背中に手を回した。

 背骨のあたりが熱い。

 泥さんが、そこから外に出ようとして、硬い棘になっているのが分かる。


 いけないんだ。

 順番を守らなきゃ。

 僕の身体から勝手に出ていこうとする悪い子は、お仕置きだ。


 僕は、背中の皮を突き破って飛び出しかけている棘を、両手で掴んだ。

 自分の背骨とくっついているのが分かる。

 脊髄と繋がっている、大切な柱。

 でも、関係ない。

 悪い子は抜かなきゃ。


「えいっ」


 僕は足を踏ん張って、思い切り力を込めた。


 ブチブチブチッ!!

 ベリベリッ!!


 生々しい音が響いた。

 神経が千切れる音。

 肉が裂ける音。

 骨が肉から剥がれる音。


 ものすごく痛い。

 目の前がチカチカするくらい痛い。

 雷に打たれたみたいに、全身が痺れる。


 でも、スッキリした。

 手の中には、僕の背骨と、黒い金属が混ざり合った、ギザギザの棒がある。

 僕の血と、泥の液で濡れていて、湯気を上げている。

 剣みたいで、かっこいい。


『ぎゃああああああああッ!? き、貴様、なにを……!?』


 頭の中で、泥さんが悲鳴を上げている。

 ふふ、驚いた?

 僕の新しいおもちゃだよ。

 痛いことしたから、お返しだ。


「あげる」


 ドスッ。


 僕はその骨の剣を、自分のお腹に突き刺した。

 お腹の中で暴れている泥さんに向かって、深々と。

 自分のお腹を貫通して、背中まで突き抜けるくらい、思い切り。


『グ、オオオオオオッ!?』


 泥さんがのたうち回る。

 面白い。

 刺すと変な声を出すんだね。

 もっと聞きたいな。


 抜いても、すぐに背中は治った。

 新しい骨が生えてくる。

 『自己再生』って便利だなあ。


 ザザッ……。


 不意に、頭の裏側で不快なノイズが走った。

 暗闇に浮かぶ、青白いステータスウィンドウ。

 かつて見慣れたはずの画面が、虫に喰われたように歪んで明滅している。


【 スキル『自■再■』ガ、■■シマす 】

【 ■■……ERROR…… 】


 文字が、溶けるように崩れていく。


【 ≪不死身の処刑台デッドマン・スパイン≫ 】


 ふうん。よく分からないけど、これなら、いくらでも遊べるね。


 僕は笑いながら、自分の背中から新しく生えてくる骨を引き抜いては、自分のお腹に突き刺した。

 ザクッ。ザクッ。

 痛い。楽しい。痛い。楽しい。


 ねえ、セレナも見てるかな。

 見て見て、すごいでしょう。

 僕、自分の骨で戦えるんだよ。


 暗闇の中で、僕は一人でケタケタと笑い続けた。

 腕の中の動かないセレナをあやしながら、自分の身体を壊して遊ぶ。

 それは、とても幸せな時間だった。

 悲しいことなんて、何一つない、幸せな時間。


 ――でも、それは長くは続かなかった。


 ふと、我に返る瞬間が来る。

 痛みが、快楽から苦痛へと反転する。

 目の前の死体が、「眠っているセレナ」ではなく、「殺された恋人」に見える瞬間が来る。


「……あ、あぁ……」


 手には、自分の血にまみれた背骨。

 腹には、自分で開けた風穴。

 そして腕の中には、生首。


 狂気。

 異常。

 地獄。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 僕は泣き叫びながら、床に頭を打ち付けた。

 死にたい。消えたい。

 なんでこんなことしてるんだ。

 僕は人間じゃない。化け物だ。

 こんな汚い手でセレナに触っちゃいけない。


 絶望の淵で、僕は嘔吐し、泣き濡れ、意識を失うまで自分を傷つける。


 そしてまた、ブレーカーが落ちる。

 「あれ? 何してたんだっけ」

 幼児に戻る。

 笑い出す。


 その繰り返し。

 終わりのない、地獄の反復横跳び。


 時間は、意味をなさなかった。

 ここには太陽も月もない。

 一秒が永遠のように長く、百年が一瞬のように過ぎ去る場所。


 僕は、泣いて、忘れて、笑って、また泣いた。

 それを何回繰り返しただろう。

 千回? 万回?

 分からない。数えるための頭も、もう溶けて混ざり合ってしまった気がする。


 お腹が空いた。

 とてつもなく空いた。

 何か食べたい。


 でも、ここには何もない。

 セレナは食べちゃダメだ。大切なものだから。

 じゃあ、泥を食べよう。

 僕の身体にへばりついて、僕を食べようとしているこの泥を、逆に食べてしまえばいい。


 僕は、自分の右腕を形成している黒い影を、左手で掴んで引き剥がした。

 泥は「やめろ」とか「触るな」とか言っている気がするけど、無視だ。

 

 ガブッ。


 影に噛み付く。

 口の中に、砂利のような食感が広がる。

 美味しくない。

 鉄錆の味と、古い機械油の味。


 でも、噛んでいると、頭の中に映像が浮かんでくるのが面白かった。


 見たこともない景色だ。

 空が燃えている。

 海が沸騰している。

 僕たちとは違う形をした生き物たちが、逃げ惑っている。

 翼の生えたトカゲのような種族。

 全身が宝石でできた巨人たち。

 高度な科学文明を持っていた小人たち。


 それらを、空を覆う13の影が、無慈悲に焼き払い、踏み潰し、笑いながら食事をしている。

 星を砕き、命を啜り、次の星へ。


(あ、これ、泥さんの記憶だ)


 泥さんは、色んなところを旅してきたんだね。

 でも、やってることは酷いな。

 壊して、殺して、食べて。

 それが彼らにとっての「日常」であり、「遊び」なんだって。


 ふうん。

 僕たちの世界も、その中の一つに過ぎなかったんだ。

 セレナの命も、彼らにとっては、道端のアリを踏み潰したくらいの感覚だったんだ。


 正気の時の僕は、それに激怒した。

 「許さない」と叫んだ。

 「殺してやる」と誓った。


 狂気の時の僕は、それに呆れた。

 「汚い遊び方だなぁ」と軽蔑した。

 「お行儀が悪い子は、掃除しなきゃね」と笑った。


 怒りと軽蔑。

 熱さと冷たさ。

 それもまた、僕の中でごちゃ混ぜになっていく。


 僕はガツガツと影を食べた。

 食べれば食べるほど、身体が熱くなる。

 力が湧いてくる。

 溶けてなくなったはずの右腕が、黒い泥で再生していく。

 

 足も生えてくる。

 でも、人間の足じゃない。

 黒くて硬い甲殻に覆われた、鋭い爪を持つ怪獣みたいな足だ。

 背中からは、常に新しい骨が突き出し、剣山みたいになっている。


 泥さんは、最初は抵抗していた。

 僕の精神を支配しようと、あの手この手で攻撃してきた。

 影の中に隠れて不意打ちをしてきたり、僕の記憶をいじくってセレナの悪口を言わせたりした。

 「その女はお前を愛してなどいなかった」とか、「お前が弱いから死んだんだ」とか。


 うるさいなぁ。

 そんなの知ってるよ。

 僕が弱いから死んだんだ。

 だから、強くなろうとしてるんじゃないか。

 お前を食べて、お前の力を全部もらって、最強になるんだ。


 僕は、影の中に逃げ込んだ泥を、影ごと引きずり出した。

 

 キキキッ……ガガガッ。

 

 まただ。また、不快な音がする。

 頭の中で、システムが悲鳴を上げている。


【 ■告:■■ガイな異■ヲ■■…… 】

【 ―――…… 】


 目の前のウィンドウが、赤黒いノイズに塗りつぶされる。

 うるさいな。文字が邪魔で、美味しくない。


【 『無限■納』ハ、■■ニ捕食サレマシタ 】

【 ≪虚数捕食ヴォイド・イーター≫ 】


 空間だろうが、魔法だろうが、神様の意識だろうが、全部「餌」として認識する暴食の権能。

 うん、これなら全部食べられるね。


 ズズズズ……。

 影をすする音が、暗闇に響く。


 いつしか、泥は抵抗をやめた。

 諦めたのか、それとも僕の一部になることを受け入れたのか。

 僕の影の奥底にうずくまり、小さくなって震えているだけの存在になった。

 たまに「化け物め……」って呟く声が聞こえるけど、もう怖くない。

 だって、僕の一部だから。

 


 暗闇の中で、僕は実験を始めた。

 暇だったからだ。

 それに、どうしても試したいことがあった。


 僕の『栽培』スキル。

 植物を育てるだけの地味なスキルだったけど、今の僕には神様の泥(アポクリファの因子)が混ざっている。

 これを使えば、植物以外も育てられるんじゃないか?


 例えば、セレナとか。


 僕は、自分の太ももの肉をナイフで削ぎ落とした。

 痛いけど、すぐに治るから平気だ。

 その肉片に、泥を混ぜて、こねる。

 『栽培』発動。

 イメージするのは、命の芽吹き。


 ボコッ。ボコボコッ。


 肉片が脈動し、膨れ上がった。

 でも、それはセレナにはならなかった。

 赤黒い肉の塊から、歪な手足が生えた、醜い小人が生まれただけだった。


「キシャーッ!」


 小人が僕に噛み付いてきた。

 失敗だ。

 僕は小人を踏み潰した。

 プチッ。


 また失敗。

 やっぱり、命を作るのは難しいな。

 神様の力を使っても、死んだ人は生き返らないのかな。


 ブツン、と何かが切れる音がした。

 また視界の文字が歪む。


【 『栽■』……『■培』…… 】

【 ≪死霊苗床パラサイト・ブルーム≫ 】


 ……まあ、いいか。

 僕は何度も何度も、自分の肉を切り落とし、こねて、育てた。

 肉の人形。

 骨の兵隊。

 影の従者。


 気がつけば、僕の周りには、無数の失敗作たちがうごめいていた。

 彼らは僕を親だと思って慕ってくる。

 「主よ」「主よ」と、言葉にならない声で擦り寄ってくる。


 ……うるさいな。

 耳障りだ。

 せっかく作ったけど、こんなに騒がしいとセレナが起きちゃうじゃないか。


 僕は、足元の影を睨みつけた。

 ただ、「黙らせたい」と強く願っただけだった。


 ズズッ……。


 すると、僕の影が、まるでコールタールのように沸騰し、勝手に鎌首をもたげた。

 僕が命じたわけじゃない。

 僕の苛立ちに呼応して、影が意思を持って暴れだしたのだ。


 シュルルッ!


 黒い蛇となった影が、小人たちの首に次々と巻き付く。

 キュウゥゥ……と、空気が漏れるような音がして、小人たちが苦しそうに暴れる。


 また、頭の奥が焼け付くような音がした。


【 『隠■』……『■明』…… 】

【 影ガ……■■ヲ……裏切リマス…… 】


 視界の端で、文字が溶けて混ざり合っていく。


【 ≪影法師の反逆シャドウ・リベリオン≫ 】


 ……ふうん。

 どうやら影は、僕の言うことをよく聞く、いい子に進化したみたいだ。


 そのまま影に押さえつけさせて、僕は一番近くにいた失敗作の頭を掴んだ。


 ガブッ。


 うん、美味しい。

 泥よりずっと、生き物に近い味がする。

 お腹も空いていたし、ちょうどいいや。


 僕は、親を慕って集まってきた失敗作たちを、片っ端から影で捕まえて、口の中に放り込んだ。

 自分の肉で作ったものを、自分で食べる。

 永久機関だね、これ。


 そうやって遊んでいるうちに、だんだん分からなくなってきた。


 僕は今、正気なんだっけ?

 それとも狂っているんだっけ?


 泣く時間が、どんどん短くなっていく。

 「悲しい」と思う前に、忘れるようになった。

 「痛い」と思う前に、傷が治るようになった。

 「おかしい」と思う前に、それが当たり前になった。


 正気と狂気の境目が、溶けてなくなったのだ。

 大人と子供が、融合したのだ。


 もう、叫ぶことはない。

 もう、泣くこともない。

 ただ、静かな事実だけがそこにある。


 セレナは死んだ。

 僕も死んだ(人間としては)。

 外の世界には、悪い奴らがいる。


 ――あいつらは、邪魔だ。

 ――僕の庭を汚す雑草だ。

 ――だから、草むしりをしなきゃいけない。


 それは、燃えるような復讐心ではなく、

 「部屋が汚れているから掃除機をかける」くらいの、淡々とした義務感だった。



 そして。

 長い長い微睡みの果てに。

 最後の目覚めがやってきた。


 スッ、と意識が晴れた。

 泥のような眠気も、狂気の中で暴れ回っていた激情も、波が引くように静まっていた。

 心は、驚くほど澄み渡っていた。

 まるで、嵐が去った後の夜空のように。


 僕はゆっくりと瞼を開けた。

 暗闇の中でも、視界ははっきりとしている。

 右目に宿った『神蝕眼』が、この場所の状況を静かに伝えてくる。


(……800年、経ったのか)


 僕はその事実を、不思議と落ち着いて受け止めた。

 人間としての時間は、とうに過ぎてしまったらしい。

 けれど、僕の身体は老いていなかった。

 神の因子と混ざり合い、何度も壊れては治ることを繰り返した結果、僕の時間はここで止まってしまったようだ。


 僕は、自分の身体を見た。


 半分は、人間の肌色のままだった。

 けれど、もう半分は違っていた。

 右の肩口から胸を通り、左の腰へと抜けるように、漆黒の帯が走っている。

 それはまるで、夜の闇を切り取って肌に縫い付けたような、禍々しくも美しい「神の痕跡」だった。

 黒い部分は硬質な光沢を放ち、僕の身体を斜めに分断するように螺旋を描いている。


 人間と、神。

 その二つが、継ぎ接ぎになって一つになっている。

 それが今の僕の姿だった。


「……馴染んだね」


 声に出してみる。

 少しだけ低くなったけれど、それはやはり、僕の声だった。


 僕は、左腕の中へと視線を落とした。

 800年間、どんなに狂っても、どんなに暴れても、ここだけは守り続けてきた大切な場所。

 そこには、確かに重みがあった。


 けれど、そこに「彼女」の姿はなかった。


 さらさらと、指の隙間からこぼれ落ちる感触。

 銀色の砂。

 美しい、星屑のような灰。


 やっぱり、そうだよね。

 驚きはなかった。ただ、静かな納得だけがあった。

 僕と泥が殺し合いをするような過酷な環境で、人間の身体が800年も保つはずがない。

 彼女は、耐えきれずに形を変えてしまったのだ。


 カラン。


 灰の山の中から、乾いた音がした。

 僕はそれを拾い上げる。

 少し錆びついた銀の指輪。

 赤い種が埋め込まれた、あの約束の指輪。


 残ったのは、これだけ。


 涙は出なかった。

 でも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 ああ、そっか。

 セレナは、一番綺麗なものになったんだね。

 不純物がなくなって、ただ純粋な「想い」だけの形になったんだ。


 少しだけ、寂しいな。

 これじゃあ、外に出てもキスができない。

 「頑張ったね」って、頭を撫でてもらうこともできない。


 ……ううん、大丈夫。

 形が変わっても、セレナはセレナだ。

 別の方法で、一緒にいよう。


 僕は懐から、小さな小瓶を取り出した。

 かつてポーションが入っていた空き瓶だ。

 そこに、こぼれ落ちそうになる銀色の灰を、一粒残さず、大切に集めて入れた。

 彼女の全てを、この瓶の中に。

 最後に、指輪も一緒に入れて、コルクで蓋をする。


 カチリ。


 小瓶を振ると、サラサラと優しい音がした。

 灰と指輪が混ざり合い、わずかな光を受けてキラキラと輝く。

 とても綺麗だ。

 まるで、小さな銀河を詰め込んだみたいだ。


「……おはよう、セレナ」


 僕は小瓶にそっと口づけをした。

 冷たいガラスの感触。

 でも、僕には分かった。この中には彼女がいる。

 これなら、もう二度と誰にも傷つけられない。

 僕のポケットで、僕の心臓の一番近くで、永遠に安らげる。


 その時。

 空間が、ギギギと悲鳴を上げた。


 天井に白い亀裂が走る。

 ピキ、パキ、パリンッ。

 維持限界だ。

 僕という異物が大きくなりすぎて、この狭い箱ではもう抱えきれなくなったのだ。


 亀裂から、眩しい光が差し込んでくる。

 800年ぶりの、外の光。


『……出るのか?』


 足元の影の中から、声がした。

 アポクリファだ。

 かつて神と呼ばれた彼は、今や僕の影の中に住む、小さな同居人になっていた。

 僕に食べられすぎて、もう僕に逆らう力もないみたいだ。


「ああ、出るよ」


 僕は立ち上がった。

 ボロボロだった服の代わりに、自分の影を纏ってコートにする。

 風になびく黒髪。

 身体を斜めに走る、黒い神の帯。

 そして、右手には、先ほど自分の背中から引き抜いたばかりの「黒楔」が握られている。

 僕の骨と神の金属が融合した、反りのある黒い刀身は、どんな名刀よりも鋭く、血に飢えているように見えた。


 僕は、光の差す方へ顔を向けた。

 右目は赫く、左目は黒く。

 その瞳に宿るのは、燃え盛る怒りではなく、静かで透き通った決意だった。


『外は……変わっているぞ。我らの同胞が支配する、地獄になっているはずだ』

「知ってるよ。お前の記憶データですべて把握済みだ」


 僕は淡々と答えた。

 恐怖はない。

 ただ、やらなきゃいけないことが、はっきりと見えていた。


「行こうか、セレナ」


 僕は胸のポケットを軽く叩いた。

 瓶の中で、サラサラと彼女が返事をした気がした。


「少し、掃除をしてくるよ」


 僕たちの世界を汚した害虫ども。

 僕たちの幸せを、ただの遊びで踏みにじった連中。

 その全員の魂に、刻み込んでやらなきゃいけない。


 僕から奪ったことへの代償と、

 逃げ場のない、本当の絶望の味を。


 僕は光に向かって手を伸ばした。

 空間が、ガラス細工のように砕け散る。


 長い長い揺り籠の時間が終わり、

 静かな復讐劇が幕を開ける。

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