第10話 最初で最後の遠足、あるいは楽園のボイラー室
翌朝。
アヴァロンの空は、憎たらしいほど晴れ渡っていた。
窓から差し込む陽光が、白いシーツを眩しく照らす。
俺はベッドの上で、舌打ちをして起き上がった。
「……眩しすぎんだよ」
この部屋は快適すぎる。
空調は完璧、寝具は最高級、空気には微かに花の香りが混ぜられている。
この「作り物めいた平穏」に浸っていると、自分が腑抜けになりそうな気がした。
「……散歩してくるか」
俺は支給された勇者の服――フリルとか金ボタンがついたふざけた服――を無視して、日本から着てきた黒いTシャツとチノパンに着替えた。
剣も持たない。どうせ俺のスキルは盾だ。身一つあればいい。
ただ、少し外の空気を吸って、頭を冷やしたいだけだった。
部屋を出て、長い廊下を歩く。
まだ朝早い。晴人や咲は、真面目に朝練でもしてるんだろう。
誰にも会わずに宿舎を出ようとした、その時だ。
「おっはー。龍也、どこいくの?」
背後から、アリスの能天気な声がかかった。
ダボッとしたパーカーに、ショートパンツ。手には派手な色のドリンクを持っている。
「……便所だ」
「嘘つけ。靴履いてんじゃん。さてはアレでしょ? 抜け駆けして『大人の店』とか行こうとしてんでしょ?」
アリスがニシシと意地悪く笑う。
こいつの発想は常に俗っぽい。
「バーカ。そんなんあるかよ」
「あるよ絶対! 貴族のおじさんが言ってたもん、『裏通りには刺激的な店もある』って! ズルいズルい、アタシも連れてってよ!」
「はぁ? お前なぁ……」
俺はため息をついた。
こいつを撒くのは面倒だし、騒がれて晴人たちに見つかるのもダルい。
「……ただの散歩だ。面白いモンなんて何もねぇぞ」
「いーじゃん! 晴人くんたち真面目すぎてつまんないし、結衣ちゃんはイイ子すぎて誘えないし。龍也なら共犯にしてくれるっしょ?」
アリスは俺の腕にまとわりついてくる。
だが、俺もこの息詰まる「正義の味方ごっこ」の空気に嫌気が差していたのは事実だ。こいつの軽薄さは、ある意味で毒抜きにはなる。
「……勝手にしろ。ただし、うるさくすんなよ」
「やった! 冒険冒険〜!」
アリスは遠足気分のまま、スキップ混じりについてきた。
この時の俺たちはまだ、自分たちが開けようとしている扉の向こうに、何が待っているのか想像すらしていなかった。
俺たちは整備用通路を使い、人目を避けて市街地の外縁部へと向かった。
表通りは相変わらず清潔で、光に満ちている。
だが、あてもなく歩いているうちに、人気のないエリアに迷い込んだ。
「ねー龍也、ここ何もないじゃん。店どこ?」
「だから店なんてねぇって言ったろ。……ん?」
ふと、鼻をつく臭いがした。
華やかな香水の匂いの下に隠された、鉄錆と、オイルのような臭い。
俺はその臭いに引かれるように、路地の奥へと進んだ。
そこには、高いフェンスで囲まれた一角があった。
【危険:第4区画管理エリア・関係者以外立ち入り禁止】
厳重な魔法錠がかけられている看板。
「魔力汚染区域」という文字が見える。
「え、ここ入るの? 廃墟じゃん」
「なんか妙じゃねぇか? 楽園のど真ん中に、汚染区域だぞ」
「言われてみれば……。もしかして、隠しダンジョン的な?」
アリスの目が輝く。
俺も、単なる好奇心だった。
この完璧すぎる都市の「綻び」を見つけたいという、軽い気持ち。
俺はスキル『反逆の城塞』を発動し、鍵を物理的に破壊した。
ギギギ……と、錆びついた蝶番が悲鳴を上げて扉が開く。
途端に、強烈な臭気が漂ってきた。
「くさっ! 何これ!」
アリスが鼻をつまむ。
「……行くぞ」
俺たちは地下へと続く螺旋階段を降りた。
深く潜るにつれ、気温が下がり、湿度が上がっていく。
壁には黒いシミがこびりつき、足元はぬかるんでいる。
階段を降りきると、そこには巨大な地下空間が広がっていた。
頭上を走る無数のパイプ。唸りを上げる巨大な歯車。
アヴァロンのライフラインを支える、巨大な工場地帯だ。
「うわぁ……なんか、映画のセットみたい」
アリスが小声で呟く。
だが、そこに「人」の姿が見えた瞬間、彼女の表情が強張った。
通路の脇に、ボロボロの服を着た人々が座り込んでいた。
泥のように汚れた顔。虚ろな目。
彼らは一様に痩せ細り、その肌には奇妙な黒い紋様が浮き出ている。
「な、なに……この人たち……」
「……見ろ。首」
俺が指差した先。
重い魔石を運んでいる子供たちの首には、金属製の首輪が嵌められていた。
時折、首輪が赤く光り、子供たちが苦悶の表情で胸を押さえる。
「……奴隷、ってこと?」
アリスが俺の服の裾をギュッと掴む。
震えている。さっきまでの冒険気分は吹き飛んでいるようだ。
俺たちは物陰に隠れながら、さらに奥へと進んだ。
臭いが強くなる。
この臭いの発生源を突き止めれば、この街の「裏の顔」が分かるはずだ。
通路の最奥。
「関係者以外即時処分」と書かれた、禍々しい鉄扉があった。
中から、機械の駆動音と、人の話し声が聞こえる。
「……開けるぞ」
「え、無理無理! 帰ろうよ龍也!」
「ここまで来て帰れるかよ。……見るだけだ」
俺はアリスを背中に隠し、扉を数ミリだけ開けた。
隙間から、中の様子を覗き込む。
そこは、広い実験室のような場所だった。
部屋の中央に、床から天井まで届く太いガラスの筒が、10本ほど並んでいる。
シリンダーの中は、ドロドロとした黒い液体で満たされていた。
「……なにアレ。墨汁?」
アリスが覗き込んでくる。
その時。
一人の白衣を着た男が、3番目のシリンダーの前でレバーを引いた。
「排出」
ブシュゥゥゥッ!!
蒸気と共に、シリンダーの中の黒い液体が抜け、ガラス戸が開いた。
中から、何かがドサリと床に落ちた。
俺とアリスは、息を呑んだ。
落ちてきたのは、人間だった。
いや、「人間だったもの」だ。
全裸の男。だが、皮膚は炭のように黒く変色し、手足の先は結晶化して崩れている。
目玉は溶け落ち、口からは黒い泡を吹いていた。
ピクリとも動かない。
「おい、3番のフィルター、完全にイカれてるぞ。炭化しちまってる」
「チッ、またかよ。最近の『素材』は脆いな。動力炉の出力上げなきゃなんねぇのに」
作業員が、死体の足を無造作に掴む。
そして、部屋の隅にあるダストシュートへ、ゴミ袋を捨てるように放り込んだ。
ゴト、ゴトン……と、死体が落ちていく音が響く。
「ひっ……!?」
アリスが小さな悲鳴を上げ、俺は慌てて彼女の口を塞いだ。
心臓が早鐘を打つ。
なんだあれは。今、人を捨てたのか?
「次、入れろー」
作業員の声。
別の扉から、兵士に引きずられて、小さな男の子が連れてこられた。
まだ10歳くらいだ。ボロボロのワンピースを着て、泣き叫んでいる。
「いや! いやだぁ! ママぁ! 助けてぇ!」
「うるせぇ。暴れんな」
兵士が少年の腹を殴る。
少年が「うぐっ」と呻いてくずおれると、そのまま髪を掴んでシリンダーの中に放り込んだ。
手足に拘束具が嵌められる。
口には呼吸用のマスク、身体には無数の管が突き刺される。
「やだ……やだ……痛いよぉ……」
ガラス戸が閉まる。
作業員が、事務的にパネルを操作する。
「汚染マナ注入」
ゴウン……!
床下のパイプから、あの「黒いヘドロ」がシリンダー内に充填され始める。
ヘドロが少年の身体を覆っていく。
そして、俺たちは見た。
ヘドロが触れた瞬間、少年がビクンと痙攣し、白目を剥いたのを。
管を通して、ヘドロが少年の体内に直接流し込まれているのだ。
「ああああああああああッ!!??」
マスク越しに、くぐもった絶叫が響く。
少年の白い肌が、見る見るうちに黒く染まっていく。血管がどす黒く浮き上がり、今にも破裂しそうだ。
少年は狂ったように暴れるが、拘束具は外れない。
作業員たちは、その地獄絵図を見ても眉一つ動かさない。
むしろ、手元のモニターを見ながら会話している。
「よし、濾過率は正常だ。これならアヴァロンの出力も安定するだろ」
そして。
少年の身体を通過して、頭上のパイプへと吸い上げられていく液体は――
黒い色が抜け、キラキラと輝く「純粋な青い光」に変わっていた。
「……あ」
俺は、言葉を失った。
何が起きているのか、さっぱり分からねぇ。
化学実験? 拷問?
いや、もっとタチが悪い何かかもしれない。
下から来た汚ねぇ泥が、あの子の中を通って、上に行くときは綺麗な光になってる。
その代わり、あの子の身体はボロボロになっていく。
隣で、アリスが口元を押さえて崩れ落ちた。
生理的な嫌悪感が限界を超えたんだ。
彼女は胃の中身を床にぶちまけた。
酸っぱい臭いが広がる。
でも、アリスは吐くのを止められない。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、震えている。
「いや……嘘……あの子、あの子……」
アリスの指差す先。
シリンダーの中の少年は、黒い泥にまみれながら、白目を剥いて痙攣していた。
さっきまで「ママ」と叫んでいた口からは、泡と血が溢れている。
「なんで……? なんであんなこと……」
アリスが俺に縋り付く。
助けを求めている。俺が「あれは悪い夢だ」と言ってくれるのを期待している。
だが、俺は首を横に振ることしかできなかった。
「やだ……やだぁ……帰りたい……日本に帰りたいよぉ……」
アリスは子供のように泣きじゃくった。
当然だ。さっきまで「冒険」だとはしゃいでいた普通の女子高生が、いきなりスプラッター映画みたいな場所を見せられたんだ。
腰が抜けて、立てなくなっている。
ガシャーン!
物音に、作業員が気づいてこちらを向いた。
「誰かいるのか!?」
「チッ……見つかった!」
俺はへたり込むアリスの腕を掴み、無理やり引きずり起こした。
「アリス、立て! 逃げるぞ!」
「あ、足が、動かない……!」
「クソッ、乗れ!」
俺は腰が抜けているアリスを背負った。
重い。だが、ここで捕まるわけにはいかない。
俺たちは迷路のような通路を、転がるように駆け抜けた。
後ろから怒号が聞こえる。
魔法弾が飛んでくる。
俺は『反逆の城塞』を背面に展開し、全て弾き返した。
「うあああああああん!」
背中でアリスが泣き叫ぶ。
俺たちは死に物狂いで階段を駆け上がり、光の届く地上へと脱出した。
地上に戻った時には、空は毒々しいほどの茜色に染まっていた。
路地裏のゴミ箱の陰で、俺たちは肩で息をしていた。
アリスは地面に座り込み、膝を抱えて小さくなっていた。
化粧は涙で落ち、いつもの勝気な表情は見る影もない。
ただの、怯えきった女の子だ。
「……はぁ、はぁ……」
「……うぅ……グスッ……」
アリスのすすり泣く声だけが響く。
俺は何も言えず、ただ壁を殴りつけた。
拳の痛みで、どうにか正気を保とうとする。
ふざけるな。
ふざけるなよ、クソ野郎ども。
これが楽園か?
「……ねえ、龍也」
しばらくして、少し落ち着いたアリスが顔を上げた。
目は真っ赤に腫れている。
「アタシたち、どうすればいいの……? 見なかったことにするの……?」
「…………」
「あの子たち、助けなきゃ……でも、どうやって? 神官も、兵士も、みんなグルなんでしょ? 怖いよ……あんなの、無理だよぉ……」
アリスは弱音を吐き続ける。
当然だ。いきなりこの国の闇を見せられて、すぐに「戦おう」なんて思えるわけがない。
こいつは普通だ。正常だ。
狂ってるのはこの世界の方だ。
「……晴人くんには? 晴人くんに言えば、きっとなんとか……」
「言うな」
俺は遮った。
「晴人には言うな」
「なんで!? 晴人くんなら……」
「あいつは優等生だ。正義感が強い。……だからこそ、危ねぇんだよ」
俺は今の状況を冷静に分析しようと努めた。
「あいつは『アヴァロンの正義』を信じきってる。もし俺たちが『地下で子供が酷い目に遭ってる』なんて言っても、証拠がなけりゃ信じないか、あるいは真っ直ぐガレス団長や神官に確認しに行くだろう」
「そ、それは……」
「そうしたら終わりだ。俺たちは『精神錯乱を起こした』とか適当な理由をつけられて、隔離されるか……最悪、消されるかもしれない」
それに、と俺は続けた。
「結衣にも絶対に言うな」
あんな優しいヤツに、自分の住んでいる場所の裏側にあんな地獄があると知られたら。
結衣は耐えられないかもしれない。
「じゃあ、どうするのよ! アタシたちだけで抱え込むの!? 無理だよ、重すぎるよぉ!」
「抱えるんだよ。……今はな」
俺はアリスの肩を強く掴んだ。
「いいかアリス。俺たちは『共犯』だ。この胸糞悪い秘密を、俺たちだけで飲み込むんだ。……吐き出すなよ。吐き出したら、俺たちは殺されるかもしれない。」
「うぅ……ひっく……」
「今は、力を蓄える。俺たちが強くなって、このふざけた状況をどうにかできる時が来るまで、腹の中に溜め込んどけ」
アリスは泣きながら、それでも小さく頷いた。
覚悟を決めたわけじゃない。単に、他に縋る選択肢がないからだ。
俺と共有することで、かろうじて精神を保とうとしている。
それでいい。今はそれで十分だ。
俺たちは汚れた手で、小さく拳を合わせたわけでもない。
ただ、沈黙の中で、最悪の秘密を共有した。
宿舎に戻ると、けたたましいサイレンが鳴り響いていた。
緊急招集だ。
アリスは急いで着替えを済ませ、俺たちはリビングへ向かった。
そこには、既に武装した晴人たちが集まっていた。
晴人は輝く聖剣を腰に差し、凛々しい顔つきで俺たちを迎えた。
「遅いぞ、二人とも! どこに行ってたんだ! 探したんだぞ!」
「……ちょっと散歩だよ。なんだこの騒ぎは」
「地上の『パイプライン』で異常が発生したらしい! 化身の大群が押し寄せているそうだ!」
パイプライン。
その単語を聞いた瞬間、俺とアリスの身体が強張った。
あの工場に、汚染マナを送っている元凶のパイプ。
あの子供たちを殺している、諸悪の根源。
「ガレス団長からの命令だ。直ちに降下し、敵を殲滅。パイプラインを防衛せよとのことだ」
「防衛……?」
アリスが震える声で繰り返す。
顔色はまだ悪い。
「そ、それって……あのパイプを守るってこと?」
「当然だろうアリス。あれが壊れたら、アヴァロンのエネルギー供給が止まってしまう。多くの市民が困るんだ」
晴人は、真剣な表情で付け加えた。
「それに……これは最悪のケースだが、もしエネルギー供給が止まって都市の出力が落ちれば、このアヴァロンそのものが『墜落』する危険だってあるらしい」
「……は?」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の頭の中で、バラバラだったピースが最悪の形で噛み合った。
――『よし、濾過率は正常だ』
――『これならアヴァロンの出力も安定するだろ』
工場の作業員が言っていた言葉。
そして、晴人の今の言葉。
墜落。出力。濾過。
……そうか。そういうことかよ。
あそこでやってたのは、このクソでかい岩塊を空に浮かせておくための、純粋な燃料を作ってたんだ。
地上の汚れたマナじゃ、この都市は浮いていられない。
だから「フィルター」が必要だったんだ。
俺たちが踏みしめているこの大地は、あの子たちの死体の上に浮いている。
「さあ、行こう! 初の実戦だ。僕たちの力で、この街を守るんだ!」
晴人が先頭を切って歩き出す。
咲も、蓮も、そして不安そうな結衣も、それに続く。
俺は、その背中を見つめながら、吐き気を噛み殺した。
街を守る? 笑わせるな。
俺たちがこれから行くのは、地獄の釜の蓋を閉めに行く作業だ。
燃料が切れてこの都市が落ちないように、あの工場のラインを止めないために……俺たちは悪魔の手先となって働きに行くんだ。
「……行くぞ、アリス」
俺は小声で囁いた。
アリスは青ざめた顔で、それでも小さく頷いた。
「……うん。行かなきゃ。……行かなきゃ、変えられないもんね」
その言葉は、自分自身への言い訳のように聞こえた。
俺たちは武器を取った。
降下艇に乗り込む俺たちの眼下に、夕闇に沈む雲海が広がっていた。
それはまるで、俺たちを飲み込もうと口を開ける、巨大な怪物のようだった。
俺たちは、その怪物の胃袋の中へと、自ら飛び込んでいく。




