#1「断罪会見、監査ログを掲示しますわ」
王城大広間は、ため息を飲み込む器に似ていた。天井のフレスコ画は天使と鷹を描いているが、その眼差しはいつもより鋭い。貴族たちの扇が小刻みに揺れ、絹の擦れる音が波のように寄せては返す。
王太子セドリックが一歩進み出た。金糸の肩章が騎士の槍先みたいに光る。
「ミレイユ・アスコット、公爵家令嬢。君は学園において同級生エリナ・グレイスに度重なる嫌がらせを行い、さらに慈善金を私的に流用した。ゆえに本日をもって婚約を破棄する。証人は……」
「証言は要りませんわ。数字をご覧になって」
私――ミレイユは扇を閉じ、親指で骨の先を軽く弾いた。その仕草を合図に、天蓋の縁から薄金の光が垂れ、空中に透明な板が幾枚もひらく。どよめき。王城の魔導投影水晶が、私の固有スキル《監査ログ》と接続され、記録が表示される。
光のパネルには、簡潔な見出しと、日時、金額、関係者、裏付け資料のハッシュが並ぶ。淡々として、冷酷なまでに正確。
《監査ログ#00871:寄付金流用》
対象:王太子側近ディラン
日時:今月3日~今月17日
金額:合計12,400金貨
用途:私的晩餐・舞踏会衣装代
裏付:出納台帳写し(照合一致)/料理人ロドリゴ納品書(照合一致)
ハッシュ:9ec0a1bd…(公開鍵照合済)
《監査ログ#00889:課題代行の取引》
対象:エリナ・グレイス/“月桂館”写字生
回数:36
対価:宝飾品・現金
裏付:写本水準の筆致一致/寮監証言(形式証言)
貴族たちの扇が一斉に止まる。止まった扇は、沈黙の拍子木だ。
セドリックの口角が引きつった。「なんだこれは。魔術的虚構だろう」
「虚構なら、王城の水晶が弾きますわ。王家直轄の“公会線”に繋がっていますもの。記録は公開検証可能。今、王都の広場とギルドにも映っております」
ざわめきの色が変わる。広場。ギルド。つまり、これは生配信だ。
セドリックは視線だけで侍従に命じた。侍従が慌てて儀仗隊長に耳打ちする。儀仗隊長が首を振る。王城の公会線は、断てない。なぜなら、断罪会見は“公開の場で行うこと”が慣例から法になったからだ。昔は噂が人を殺し、今は情報が人を守る。歴史は、少しだけ賢くなった。
私はもう一枚のログを開いた。空中の板に、揺らぎも誤魔化しもない文字列が並ぶ。
《監査ログ#00893:嫌がらせの実態》
対象:ミレイユ・アスコット→エリナ・グレイス
結果:“なし”
備考:接触記録ゼロ/第三者経由の伝聞のみ。エリナ側で偽装作成された手紙(筆致鑑定済)
「ご覧の通り、私からの嫌がらせはありません。むしろエリナ様は課題代行の対価として“教員の家族に贈り物を”という、たいへん器用な社会勉強をされている。若さとは、学ぶことを恐れない美徳でしてよね」
皮肉半分、本音半分。大広間の端から笑いが漏れ、誰かが喉で咳に変える。笑いは伝染するし、責任もまた伝染する。
エリナが前に出た。白いドレスの裾が震える。「わ、私は被害者よ! 公爵令嬢に逆らえるわけが――」
「逆らえますわ。あなたは何度も私の前で、教授陣を“買った”と自慢していました。残念ながら、その自慢もログに残っております」
《監査ログ#00895:自白ログ(音声→文字化)》
対象:エリナ・グレイス
発話:“成績なんて金で動くわ。だって皆、私の父の会社の株を持ってるもの”
日時:今月12日/学園庭園
「やめろ!」ディランが叫んだ。「それは私的な会話だ!」
「公職者の職務に関わる発話は、公会の監査対象ですわ。あなたは王太子側近として、寄付金の分配を担っておられた。……セドリック殿下、これらはすべて“改竄不能”です。ご存じないふりをなさるのは、少し無理がありますわね?」
セドリックの視線が、刃こぼれした刃物みたいに私を撫でた。「それでも、君の態度は公妃にふさわしくない。王家は品位を守らねばならない」
「あら、殿下。品位とは“人に迷惑をかけない程度の見栄”と同義ではございませんわ。私は国家の出納を整え、学園の不正を是し、働く者に正当な支払いを行う。“品位”は勘定からも育ちますの」
押し問答は好きではない。数字は短い。数字は、必要な分だけ喋る。
私は最後のパネルを開いた。これは、私自身の監査だ。
《監査ログ#00901:ミレイユ・アスコットの出納》
収支:黒字(利子除く)
寄付:孤児院・病院へ計画的拠出(監査済)
対人:下僕への過剰業務なし/罰則なし
教員:贈与なし/講義への正規対価支払い
沈黙は、最初の鐘より重い第二の鐘だ。誰かが咳払いをし、誰かが扇を畳む。王城の高窓から、薄い雲を透かした光が床を斜めに滑った。
「……それでも、君は婚約者として、王家に楯突いた」
「真実を提示することが楯突くことなら、王家は真実に弱すぎますわ」
正面から言った。これは危うい言い回しだと自覚している。だが、いま必要なのは繕いではなく転換だ。世の中には、痛む関節を一度きちんと鳴らさないと歩けない局面がある。
セドリックは深く息を吸い、吐き、そして宣言した。
「婚約は破棄する。だが、追放ののち、王都への立ち入りを禁じる。辺境の廃領“ソルトヘイヴン”を管理せよ。三年で財政を黒字化できなければ、アスコット公爵家の爵位を返上すること」
会場が揺れた。辺境中の辺境。塩湖は枯れ、湿地は病を呼ぶ。誰もが逃げ出す土地。
私は小さく会釈した。「よろしゅうございます。条件は“公開”のもとで。私の監査はすべて公会線で配信します。国民にも、領民にも、殿下にも、同じ情報をお見せする。言い訳の余地が残らない設計を、これより導入いたしますわ」
「国の内情を晒すつもりか!」
「隠すに足る信用が、いま王家に残っておりますかしら」
視線が交錯する。セドリックの指が空を掴むように強張り、ゆっくり離れた。王は老齢で、この場では言葉を持たない。王妃は扇の陰で瞳を閉じている。ディランは歯噛みし、エリナは私を睨みつける。どれも、数字に置き換えるにはあまりに人間的な、濁った感情の色だった。
私は扇を開き、軽く振った。魔導パネルが次々に閉じ、最後にひとつだけ残る。それは“今後の監査予定”だ。
《公開監査スケジュール》
#1:王都学園・課題代行および成績評価フロー(一週間後)
#2:ギルド関税および手数料の透明化(二週間後)
#3:王都出納局・寄付金の仕分け(四週間後)
#4:辺境“ソルトヘイヴン”初期KPIと予算案(三週間後)
パネルの下に、小さく“公開質問受付”の文字が踊る。私は視線で侍女のアメリアを促す。彼女は会場の隅に設けた講壇に歩み寄り、透明な箱を掲げた。箱の中で、紙片がふわりと舞う。王都の広場から、ギルドから、そして遠い村々から、質問が公会線で届いている。
「……なぜ、お前はそこまで公開にこだわる」
セドリックが問う。王太子の声にしては、少しだけ個人的だった。
「非公開では、努力が“見えない”。見えない努力は報われません。報われない努力は、やがて正直者から削っていく。私は、正直者が損をしない世界を、少しだけ見てみたいのです」
これは綺麗事だと、私自身がいちばん知っている。人は数字だけでは動かない。だが、数字は嘘も守る。ならば、先に数字で守ってしまえばいい。自省と矛盾が背中合わせでも、歩けるなら前だ。
「ミレイユ様……」
背中から、低い声がした。振り返ると、鎧を着た男が跪いている。漆黒の外套、銀の留め具。辺境騎士団長エド・ラングレー。噂ほど無骨ではない眼差しが、奇妙に真っ直ぐだった。
「“ソルトヘイヴン”に戻るのなら、護衛は私が務めます」
「まあ。うちの領には、まだ騎士団が残っていましたのね」
そう言うと、会場のどこかからくぐもった笑いが起きる。私の冗談は、たぶんほんの少ししか面白くない。けれど、緊張の糸が一瞬だけ緩む程度には効いたらしい。
王城の大扉が開く。外の光が一段と強く差し込んだ。私は裾を持ち上げ、会釈して歩き出す。扉の向こう、白い午下がりの匂い。遠くで鐘が鳴り、広場のざわめきが、鴉の羽ばたきみたいに立っては沈む。
廊下で、アメリアが小走りに追いついた。「お嬢様、生配信の視聴者数、いま十万を超えました。ギルドから“手数料監査やってください”って……投げ銭が山のように」
「投げ銭は受け取りません。監査は公共財ですもの。……でも、質問の統計は取っておいて。人気のあるテーマから、先に資料を準備しますわ」
「承知しました」
角を曲がると、若い男が待っていた。栗色の髪を短く刈り、胸元に安い羽ペンを挿している。庶民の服だが、靴は磨かれている。
「監査官見習い、ルカ・ヴァレンです。書記として志願します。数字は、誰にでもわかる言葉だと、あなたが証明してくれた。僕は、その通訳をやりたい」
私は彼の目を見た。真面目で、少しだけ野心がある。野心は嫌いではない。野心のない正直者は、風に負ける。
「ようこそ。払える給金は、最初は高くないの。代わりに、署名の順番はあなたが先」
「署名の順番?」
「監査報告書の著者名よ。功績は共有、恥は分割。うちの流儀ですわ」
ルカは笑い、アメリアは肩を震わせた。エドは、笑ったのかどうか分からない顔で頷く。三人の足音が、私の足音と重なる。廊下の石は冷たく、音は規則正しい。規則は、安心だ。
大扉を出る前に、私はもう一度だけ、扉枠の影で立ち止まった。振り返ると、王太子と目が合った。遠いが、届く距離だ。
「殿下」
「なんだ」
「次の“公開監査”で、あなたの“努力”も提示できるといいですわね」
彼の眉がわずかに動いた。怒りとも、羞恥とも、期待ともつかない。人間の感情は、数値にするには多すぎる顔を持っている。だからこそ、面白い。
私は光の中に踏み出した。王都の空はひどく青く、広場に設置された大きな水晶板に“本日の公開監査予定”が流れている。野次馬、商人、職人、子ども。皆が立ち止まり、口々に好きなことを言っている。
「学園からだってさ」
「ギルドの手数料、やばいってマジ?」
「投げ銭は?」「投げ銭は公共じゃない」
私は小さく笑った。空は、見上げる角度で広さが変わる。これから向かう辺境の空は、たぶんもっと低く、もっと広い。
馬車が待っている。扉に貼られた紙に、殴り書きの字で“ソルトヘイヴン行き”とある。誰の字だろう。雑だが、まっすぐだ。
「行きましょう」
私は乗り込む。アメリアが続き、ルカが資料箱を抱え、エドが無言で対面に座る。車輪が石畳を叩き、王都がゆっくりと後ろに流れ出す。私は膝の上で扇を畳み、目を閉じた。脳裏では、すでに最初のKPIが並ぶ。
徴税率、支出の偏り、労働時間の分布、病の発生率、水質、土壌塩分濃度、堤防のひび割れに沿った地図。数字と地図が重なり、音になる。私は音楽が苦手だが、数字の音楽なら少しはわかる。
「お嬢様、最初に何から?」
「倉庫の鍵を数えます。鍵は、いつも足りないのに余っているから」
アメリアが笑う。ルカがペンを走らせる。エドが窓の外を見て言った。
「荒野の向こうが、あなたの領地だ」
「なら、荒野を地図の一ページ目にしましょう。白紙は、書くためにあるもの」
馬車は揺れ、私は扇の骨で膝を一度だけ軽く叩いた。拍を取る。始まりの拍。断罪は幕引きではなく、開演のベルだ。数値で世界を更生するだなんて大風呂敷を広げたけれど、実際にやることは単純だ。ひとつずつ見えるようにして、誤魔化しを減らし、努力に見返りを貼る。それだけだ。
広場のざわめきが遠ざかる。王都の塔が小さくなり、風が変わる。塩の匂いが、どこからか微かにした。
——公開会見は、次回。ギルドの取り分から参りましょう。数字は短い。けれど、痛快には十分ですわ。