(短編・完結)二度目の人生の笑わない公爵
目に止めて下さってありがとうございます。
ふんわり設定ですがお許し下さいませ。
私は生まれたての我が子を抱いた。私は知ってる。この時が幸せの絶頂だと。
元夫と息子の気配が遠くなる。次に人生があるとしたら、私は失敗しない。そう決意して目を閉じた。
*…*…*
目を覚ますと見知らぬ天井が見えた。いや違う、これって天蓋ね。ベッドの上に付いているやつ。なぜわかるのかと言えば、お姫様が貴族の王子様に溺愛される物語を読むことが前世のユリエの趣味で唯一の癒しだった。
侍女メイの声がする。
「ソフィー様、おはようございます。旦那様は先に食堂へ。お坊ちゃまもお目覚めですよ」
「メイ。いつもありがとう。起こしてくれて。支度の手伝いをお願いしますね」
「下女のわたくしにはもったいないお言葉です」
「あなたはわたくしの侍女。自分を下女とおとしめるのはよして。それにあなたは字を覚えるのが早くて賢いわ」
「奥様、ありがとうございます」
メイが頭を下げ、着替えを手伝う。重ね着するドレスにもずいぶん慣れたけれど、複雑な服は侍女の手伝いがないと着られない。
身の回りの世話をしてくれる彼女達の存在はありがたい。だからどんなに身分が低い侍女の名も覚えて、毎日一言は使用人全員と言葉を交わしている。
姿見に映るソフィーはゆるく巻いた赤毛と色白の肌。新緑色の瞳が鮮やかで、胸の膨らみも申し分ない夫人だ。
二階から食堂へ降り、部屋の一番奥に座る私の夫に深々と礼をする。
ソフィーの夫、サウザンド領ジョージ・ラロンド。遠くでもわかる赤みを帯びた金髪を後ろで束ねる。領地に流れる清流のように青い瞳。健康的な肌と真っ直ぐな鼻梁に薄い唇。上質なオフホワイトのベスト付きスーツが良く似合う。
「ジョージ様、おはようございます。お待ち頂いて嬉しいわ。お心の広さに感謝いたします。お隣、ご一緒してもよろしいですか?」
公爵の夫は読んでいた新聞を折りたたむと、給仕に合図を送った。彼の斜め横にテーブルウェアがセットされるのを見計らい、背筋を伸ばして優雅に席につく。
沈黙は前世で慣れた。でも今はちゃんと隣に座らせてもらえる。こうなるまでに半年かかった。
沈黙は金なりとは言うが、沈黙では心理的な距離は離れるばかりだと前世の元夫から学んだ。
「ジョージ様、今日のお召し物もとてもお似合いね」
少しだけ垂らした長めの前髪が揺れた。夫は視線を朝食に落として沈黙している。袖口から私が知らぬカフスリンクスが見えた。胸がチクリと痛むけど、気にしちゃだめだ。
「そのカフスもジャケットに良く合うわ」
「私の服装をいちいち覚えるより、社交パーティで挨拶する諸侯の顔と名前を覚えておくように」
「はい、もちろん。それでも夫の素敵な姿を喜ばない妻がどこにいましょう。あなたのセンスは王城で一番よ」
チラっと夫の視線が私に向いたタイミングでニコッとほほえむ。対する夫は無表情だ。
相手の笑顔が無くとも満面の笑みを忘れずに。夫を持ち上げることも忘れない。顔を合わせれば必ず話すことが大切で、服のコーディネートを覚えているのは、話題作り。前世で失敗した私なりの処世術なのだ。
「ソフィーは変わったな」
「ご不快でしたか?」
「いいや。笑顔で褒められ不快な男がいるなら会ってみたいものだ。今夜は早めに帰る」
「嬉しいわ、ありがとうございます。でも無理はなさらないでね」
理解ある妻を言葉で表明して、とどめの笑顔をもう一度。ジョージ様はそれでも笑わない。心が折れかけた時もあるけど、前世でスマイル無料のパートをしていたので、お客様だと思って笑顔を出して乗り切った。
朝食が始まる。食事の速度は優雅に夫に合わせる。なるべく楽しそうに、ため息なんてもってのほか。
でも今日は自然と両頰が上がるわ。
『ソフィーは変わったな』か……記念に日記へ書かなくちゃ。この一年、本当に長かったわ……
一年前に目覚めた日の事を懐かしく思い出す。
*…*…*
この新しい世界に目覚めた私は大混乱だった。「異世界転生です」「私は日本人」と叫んでも、遠巻きに見る使用人達。医者が呼ばれ、心因性の混乱と記憶喪失との診断が降りたもの、屋敷に留まる許可が降りてホッとした。
それまでのソフィーは繁華街の飲食店で護衛と飲み歩いていた。公爵は権力で醜聞を揉み消し、ソフィーは屋敷内での謹慎を言い渡されて倒れたという。
「長男の事もある。今は公爵夫人としてあつかうが二度目はない。覚えておけ」
自ら説明した公爵の夫は冷たい瞳のまま部屋から出ていかれた。私は前世と同じバッドエンドを恐れた。
それからはとにかく人に会えば笑顔、感謝の言葉を忘れず、相手のことを褒めるように気をつけた。
一ヶ月後、息子と面会を許された。その時、公爵に頭を下げて知識を得たいと訴えた。息子の持つ絵本も読めなかったから。夫も「外に出ていくよりマシだな」と認め、教師と勉強道具が与えられて勉強を始めた。
真面目に勉強しつつ、使用人達を労う日々も悪くない。相手の身分関係なく、楽しそうに愚痴も聴き、相槌を打つ。
本当に接客業の経験があって良かった。私は前世で言って欲しかった言葉を使い、皆んなを労った。
そうして半年後、文字を習得した私は、中々姿を見せない夫に、感謝の手紙を毎日のよう書いた。辞典を引きながら言葉を選び、手紙は勉強にもなった。次第に書くことが楽しくなって、使用人にもお礼のメッセージカードを作った。
はじめは叱責と勘違いもされたけど、使用人にも文字を教えると誤解も解けたし、感謝もされた。
夫と食堂で食事を食べられるようになり、一番離れた席に座ることを許された。後で知ったが使用人達が味方になってくれたらしい。
*…*…*
そうして一年経った今、門の前までの外出を許された。門の前で王城に出仕する夫を見送る。
見送り後、散歩がてら使用人達に声をかけ愚痴も聴く。執事とは情報共有し夫の予定を確認する。彼には贈り物の準備も頼む。夫予定の把握は話題作りと、単純に彼の仕事内容に興味があったからだ。直接聞いてもいいのだけど、元夫が「束縛するな」と嫌がったので、ためらっている。
それに夫不在の間にハメを外すと勘違いされるのも嫌だ。
執事と話したら子供部屋へ。教育係の侍女に労いの言葉をかけ報告を聴き、五歳のアルフレッドを抱きしめる。
クセのある赤毛に愛らしい青色の瞳の少年だ。
「アルフレッド、お勉強を頑張っているのね。誇らしいわ」
「ありがとうございますお母さま。夕食後はご一緒できますか?」
「もちろん、良くてよ」
お母さまと呼ばれると、胸がチクっと痛くなる。産みの痛みは知ってもこの子を産んだ記憶はない。
それにユウマどうしてるんだろう……と思いつつ、抱きつく少年の赤毛をなでる。
子育ては教育係が担うので助かっている。貴族の子供と親は夕食後にしか合わないのが普通。親子ですら食事は別だ。一緒に食べるのは平民がすることらしい。
孤食には慣れている。息子に離乳食を食べさせて、シンクとコンロの間で立ち食い。一人で食べだすと家事を理由にテーブルから離れ、気づけばユウマと食卓につかなくなった。前世のユリエは上流階級じゃないのだけど。
その反省もあって、私は時間が許す限り子供に顔を見せに行く。
アルフレッドが不安そうに見上げる。そりゃそうね、母の姿をした私が「覚えてない」言ってから不安そう。もう毒親にはならないと誓ったのに。でもだから真っ直ぐな瞳で話しかけられたとき「覚えているわよ」なんて嘘を付きたく無かった。
「お母さま、どうしたの?」
「何でもないの。お茶の時間もご一緒しましょう」
「わぁぃ! ありがとうございます」
ぱああっと、あふれる笑顔が好きだわ。アルフレッドの笑顔に思わず顔がほころぶ。
笑顔で別れ、自室で昨日の授業の復習。文章法、礼儀作法、歴史、地理。文字はだいぶマスターしたけれど、難しい言い回しはまだ辞書に頼っている。
作法は習って実践の繰り返し。歴史と地理はノートまとめをして、見返して暗記。ノートをめくっていると、ラミエル先生がご到着。客人を出迎える作法がさっそく試される。
「サウザンド公爵夫人、昨日の建国史をお教え願えますか?」
「はい、ラミエル先生。ラージャン国王陛下の十二代前、聖王シャンジャンは聖剣トウバンジャンを……」
なぜ何たらジャンが多いの? 歴史と辛いものは苦手だから「ラララーとシャンと当番しました」なんて語呂を作り、歴代の王様を中華風イケメンにしてノートに描きつけ、お昼ご飯。
その後、侍女の目を盗みスクワット、腹筋、腕立て伏せをするのは美容のため。お腹が出た事をレスの理由に今回はされたくない。
日傘をさして午後は庭園を散歩。もちろん手には諸侯の名前とイラストをつけた暗記カード。
覚える事がありすぎて嫌だけど、全ては諸侯が集まる夏の夜会のためだ。
夏の集まりに良い思い出はない。他人みたな親族と顔を合わせて無難な話題を探り合い、お姉様方のマウント合戦に耐えて、おせっかいにおべっかを返す。社交も同じだと春に思い知った。前回は病気を理由に乗り切ったけど。次は夫に恥をかかせられない。
『お前のせいで俺が恥をかいた! 家の事もまともにできんのか!』
名前を間違えまくった私に、公爵は、前世の元夫のような下品な言葉は言わなかった。それでも美男子に憐れむ目を向けられ、警告アラートが脳内で響いた。
そう。この美男子に見捨てられたら人生が詰む。笑わなくても推せるミステリアスで麗しい佇まいは誰もが狙う玉の輿だ。
その顔を引き継いだアルフレッドの笑顔は最高なのだけど。父親のジョージ様はいつも澄ましていた。
お茶の時間になった。
アルフレッドと復習がてら歴代王名のクイズ。領地と爵位名クイズもして楽しく過ごし、余ったお菓子は教育係の侍女にあげた。その後で執事に頼んでいた夫への贈り物のタイピンを受け取る。
最初の反省と頑張りは生き残る事が目的だった。でも今は夫に少しでも好かれていたいと思う。
前世で愛されなかったからか、私はどこかで欲張りになった。
夕方早く帰るといった夫はまだお戻りにならない。屋敷の外にも女性がいるという噂は本当なのかも……夕食時はいつも落ち込む。ランプを持つメイを従え、薄暗い門の外で待つ。馬車の窓から夫が顔を出した。
「ソフィー、なぜ門の前で立っている」
「ジョージ様、おかえりなさいませ。少しでも早くお会いしたくて。屋敷までご一緒しても?」
「あぁ、構わんよ」
公爵家のボルト城は広大な敷地にあって、門から玄関まで徒歩で十五分かかる。
馬車に乗り込むと、夫の斜め前に座る。
「ジョージ様、お役目お疲れさまでした。これはささやかですけれど、お召しの物に合うと思って用意させました」
薄い暗がりの中でも夫が息を呑むのがわかった。それでも黙って、小箱を開ける。
「私が目覚めてこの一年、あなた様への感謝を忘れたことはございません。簡単な文章も不自由なく読み書きできるようになりましたし、色々と覚える事ができましたわ」
「これはタイピンか」
「ええ。何が良いか悩みましたけれど……指輪はまだ重たすぎるかと思いしてタイピンに」
「ソフィ」
「ご迷惑でしたら、返却します……っ」
左手の甲にジョージ様の初のキス。良かったけど、心臓に悪いわ。
「こちらへ来るか?」
私は柔らかく微笑む。知らない女物の香水を感じたら気絶する自信がある。
「受け取って頂けただけで、十分です。それにアルが玄関で待っていますわ」
「そうか……」
ほいほいと誘いに乗らないでやんわり断る。優しい時ほど要注意。相手に求めすぎては駄目だと前世で思い知った。
少し暗くなる気分も、玄関で優雅に出迎える彼の息子に癒される。お礼にアルの物覚えの良さを父親の前で褒めておく。
三人でお茶を飲み、寝かしつけにきた侍女を労い、おやすみのキスをアルの額に落とす。気づくと夫がまた黙って見ていた。額にキスなんて貴族の子息にいけなかった? 後ろ向きな気持ちを変えるため覚えた諸侯と領地を暗誦して見せ、質問をする。地理の復習かつ博識な夫との話題作りだ。
「アンチョビ伯アダルベルト・ピエモンテのバーニャカウダ領はどんな特産がありますの?」
「肥沃な土地で野菜がよく採れる」
「知らなかったわ。ジョージ様は辞典のようになんでもご存じね」
と言った具合に。なぜ領地名と爵位名が前世の料理名なのかという謎は残るのだけど。
執事が日報を言いに来たら、退席のタイミング。急いで湯浴みと肌のお手入れにマッサージ。香油を塗られたら、寝る前のヨガは前世からの習慣。今日一日の話題を日記に書き留め、反省と改善点を洗い出す。
その後は椅子で読書して夫を待つ。今読んでいるのは植物学。花の名前や花言葉が話題作りに良いかと思って。執務と入浴を済ませた夫がやってくる。
「待たせたなソフィー。今日も頼めるか?」
「もちろんですわ」
本を閉じて柔らかくほほえむ。ベッドサイドの小瓶を取って準備しているとジョージ様がローブを脱ぐ。束ねていらした赤毛を解かれて、寝台に伏せて。広いお背に香油を垂らしてモミモミ。引き締まったお背中を上へ下へ。たくましい腕と牡鹿の脚みたいな筋肉の足首から尻へサワサワ。ジョージ様の腰がピクリと動いて期待を寄せるけど……それ以上の進展はない。
それでもいいの。触れさせてくれるありがたみを私はかみ締めている。
*…*…*
この世界で目覚めてから半年後、一緒の寝室で眠るようになった。それでも公爵は「先に眠ればいい」と宣言された。広いベッドの左右に分かれて眠る日々がしばらく過ぎた。
ある晩、夜中にベッドに腰掛けた公爵が肩に手を当て腕を回す夫を見て、「肩叩きしましょうか?」と言った事がマッサージの始まりだ。
「肩たたき? なんのことだ?」
「肩の周りをマッサージして凝りを解すことですわ」
「医者でもないのにそんなことができるのか?」
あやしむよりも体験すれば分かると説得し、肩叩きを施術した。銭湯でマッサージのパートをしていた事もあるので、揉みほぐしは得意だ。だけど元夫にはしなかった。前世ではしてあげたいと言う思いが沸かなかったのに、ジョージには自然と口をついてでた。
これは下心なのかしら。たしかに同じベッドで眠り、たくましい上半身の裸体があれば私でもムラムラする。
でも下心はすぐに消え、なぜ声をかけたのか分かった。
カチカチに凝っているジョージ様の肩に触れていると、ストレスと疲れでガチガチだった前世の私、ユリエの肩に重なった。
「背中からほぐしましょう」と私は本格的にマッサージを始めた。ローブの上からのマッサージ。一週間後には効果を実感したらしく素肌の上からでも触れさせて下さるように。頼まれることが単純に嬉しくなり、足のマッサージも加わった。
今はマッサージすると規則正しい寝息が聞こえるまでになった。夫婦のふれあいは無いが、心を許されている気がして嬉しい。
枕元のランプを消し、私は寝具の中へ滑り込む。
薄暗い明け方、身体が火照った気がして目が覚める。ジョージ様はローブを羽織って起こしたところだった。
「起こしたか。まだ朝には早い。眠っていろ」
「起きられるのでしたら、わたくしも起きますわ」
「まだ使用人は寝ているよ。私は昨夜残した執務をしに行く」
「ありがとうございます」
「なぜ礼を言ったのだ?」
「大切な執務を途中でやめてまでわたくしのところへ来て下さって、嬉しかったので」
「……そうか」
寂しさを感じながらも、お願いは怖くて言えない。
散々断られてきた前世が美しい姿のソフィーでも邪魔をする。
仕方なく、ジョージ様の残香があるシーツを引き寄せて眠った。
*…*…*
季節は夏になった。馬車に揺られて王城へ夫と向かい、テンメンジャン陛下へ夫に続いてご挨拶をする。諸侯にも順繰りに挨拶を済ませていく。今のところボロは出てない。
挨拶を終えると夫は諸侯の元へ。情報交換の邪魔はできない。ノンアルを求めに行こうとしたら、猫なで声が背後から聞こえた。
「ご機嫌よう。サウザンド公爵夫人。調子はよろしくて? 春頃は頭痛で人名を忘れていたわね。サウザンド領は妻も働くほど忙しいのかしら?」
フリルたっぷりのドレスで誤魔化す豊満な身体に、うやうやしく最上の礼の作法を披露する。
「ペイザンヌ卿エシャロット・エッグさま。お心遣い感謝します。ペイザンヌ領では夏の暑さで卵不足とか。領民の卵の値上がりで大変ですね」
「平民は魚卵を食べればよろしいのよ。あら失礼、サウザンド領は魚料理しか食さないのかしら?」
しまったわ。つい世間話つもりが皮肉として受け取られたらしい。夫がいつの間にか戻ってきた。
「ペイザンヌ公爵夫人は卵無しの菓子を考案されたとか。領民のため日々研究とは頭が下がるな」
「まぁ、サウザンド公爵様。お褒め頂き嬉しいわ。卵入りのケーキとの味の違いの比較をして、近づくように心がけていますの」
つまり卵買い占めて公爵夫人が値上がりを誘発してたのね……今夜日記帳にメモして反省しないと。
私の夫に向けて、まつ毛をバチバチさせてアピールする、ペイザンヌ夫人。涼しい笑みを浮かべる夫に胸が痛い。私には冷笑すら浮かべて下さらないのに……。優美な眉を上げて、夫が夫人に声をかける。
「健康のために魚料理もオススメしますよ。ペイザンヌ公爵も私のように長く妻と添い遂げたいでしょうから」
急にグッと腰を引き寄せられてびっくり! 夫に脇を抱え込まれて私は思わず顔を赤くする。
「そ、そうね。たまには さ、魚もよろしいかも、ね」
サウザント公爵夫人はぎこちない微笑みを浮かべ、額から大量の汗を拭うと壁際へ立ち去った。
「ソフィー。売られたケンカは買っても良いが、後で貴方が苦労する。沈黙は金だ」
「ありがとうございます。ジョージっ…」
あごをクイッとつかまれた、私は目をしばたいた。唇があたたかい。美男子の夫の顔が離れていく。
大広間、諸侯の前で、キスされた!
混乱して、思わず五七五になったけれど、間違いなく優しいキスだった。でもなんで? 真意を問うように夫へと目を向ける。
「完璧に諸侯の名を覚えた貴方への褒美だよ。それと壁ぎわの虫払いもしたくてね」
虫払い? チラリと広間の壁際を見ると、夫との関係が冷え切り愛人探しにご執心のご婦人達が悔しそうにハンカチに噛みついている。視線を夫へ戻して、あぜんとする。
いたずらっぽい少年のような魅力的なほほえみがあった。
ぽろっと涙が目尻から落ちる。
屋敷内では笑わなかった夫だ。諸侯の名前を暗誦して見せた時だって「まだ本番じゃない」と無表情だった。だからこんな風に笑うのを私は知らなかった。
そもそも「夫」の笑顔は、ユウマを腕に初めて抱いたときが最後になった。
この世界で目覚めてから今まで、公爵のジョージが私に笑顔を向ける事はなかった。
頰を伝う私の涙を見て、夫の麗しい眉根が寄る。
「人前で私からキスされるのは嫌だったのか?」
「いいえ」
手袋の指先で頰を軽く押さえて涙を拭き取ると、ジョージに視線を向けた。
「あなたの笑顔を初めて見られたのが嬉しいの」
夫は青い瞳を見開き、やがて口元に弧を描く。
「ソフィー。かわいい事を言うようになったな」
か、可愛いだなんて。今までそんな言葉ひと言もなかったのに……。
予想を上回る言葉に涙がまたポロリ。
いけないわ。今度は夫が妻を泣かせたと恥をかかせてしまう。
ジョージは手袋を外して、指先で涙をぬぐう。
「休憩しに行くか?」
「ええ。その方がよろしいですわね。失礼し……っ」
思わず言葉を飲み込んだのも、お姫様抱っこされたから。私は慌てた。給仕も口をあんぐり開けて見ているわ。それにサウザンド公爵夫人は卒倒し、壁の虫の貴婦人達も青い顔をしている。
「ジョージ様っ、皆が見てますわ」
「構わんさ。君を愛している事を見せつけてやる」
ええええーっ!
『愛している』ですって?
夫に夕立の雷でも落ちたのではないかしら?
驚きで何も言えない私は、大広間を出て休憩室に運ばれ、長椅子に下ろされる。
思わず勘違いしかけたけど、夫の首元を結ぶタイに私の贈ったタイピンはない。
「そんな、愛しているだなんて……カフスリングスを渡したご婦人や、夕飯をご一緒なさったご婦人に失礼なるのでは?」
「バカな噂を信じたのか? 私が浮気していると? カフスは自分で買ったものだし、夕食に遅れたのは陛下に急に呼ばれたからだ」
「それでもプレゼントしたタイピンは一度も見ていませんし……」
「婚約から十年。結婚五年目で初めてもらった贈り物を夜会で無くしたくはないのだ。それでも私を疑うのか?」
怖い瞳で見下ろされて、シュルシュルとタイが外される。
しまったわ。前世では夫を疑って修羅場になったと言うのに! また首を締められてしまうの!?
「いいえ! 疑うだなんて滅相もない。わたくしはただ……」
「ただ……何だ?」
そうか、私は恐れていたんだわ。愛することを。愛して何も返ってこないことが怖かった。
「わたくしは、愛することがどんなことか忘れていたの」
「そうか。なら今から思い出せばいいさ」
ジョージ様は口で弧を描くと、タイを長椅子の背にかけた。そして熱烈なキスを私の唇に落としていく。
「ソフィー私もあなたに謝りたい。アルフレッドが産まれ『痛いのは嫌だ』と言われた言葉を丸呑みしていた」
「え……」
「今思えば、私があなたを求めなくなってから、あなたは羽目を外すようになったのかもしれない」
そうだったんだ。だから私が公爵夫人としてな醜聞を世間に晒しても大目に見て下さったのね。
手袋を外したジョージの手が私の頬に触れる。
「本当はずっと触れたかった。嫌なら無理は言わない」
「わたくしは触れて欲しいですわ」
じっと私を見つめた夫は長椅子の上で巧みな動きを見せた。
「……ジョ、ジョージ。それ以上は……人も来ますわ」
「すまない。今夜の諸侯への挨拶は済んだ。お暇しよう」
乱れたドレスを手際よく直すと、ふらつく私を夫はまたまたお姫様抱っこして馬車まで運ぶ。
「おろして下さいな。今度は病弱夫人の公爵と呼ばれますわ」
「なぁに病弱な公爵夫人との知れたら、無駄な茶会に呼ばれず、私の側にいられるだろう?」
吹っ切れた表情で明るく笑う彼に、私はただただ圧倒される。
そもそも噂は気にしないらしい。私の醜聞を権力で揉み消したのも、私の名誉を守るためだったと道すがら聞いた。
夫の笑顔に驚く諸侯と何度かすれ違ったが、堂々とジョージは王城を歩く。
馬車に乗ると、夫はドレスの中へ姿を消した。
屋敷の玄関で、気を失いかけた私が夫に担がれているのを見て執事は医者を呼ぼうとした。
メイが止めてくれたから良かったけれど。危うく恥ずかしい思いをするところだった。
ジョージは寝室でも巧みな動きをした。朝方にようやく解放された。
ベッドの上でジョージが私の髪を手ですきながら微笑む。
「私もどう接するか悩んでいた。羽目を外す以前の君にはなりたくないが、今の君にはなりたいと思うよ。ソフィー」
記憶を失う前のソフィーはジョージに隠れ愛人を作ろうとする壁の虫だったらしい。それに子にも無関心。夫と合っても無視は当然、使用人へも冷たく気難しい。内面を高めずゴロゴロしては、思い立ったように茶会に行き、他人を格付けして時間を浪費する。
あらら。茶会を居酒屋にすれば前世の元夫そのまんまだわ。
寒気がして身震いをすると、ジョージが優しく私を抱きしめた。
「あなたはかわいいく、とても頑張り屋だ。たった一年で冷えた私の心をと溶かすほどに」
「わたくしこそ……救われました。とは言え昔のわたくしがあなたを裏切って、ごめんなさい」
ジョージが私を見つめ、ためらうように口にする。
「悪いが、先に謝らなくてはならないことが一つある」
え。ここに来て実はやっぱり嘘だったの?
私はまた一気に不幸の底に落とされるの?
あんなに努力してきたというのに。これからもこの努力を続けようと覚悟を決めたのに?
ジョージ様が物言いたげに口を結ぶ。ごくりと私は唾を飲む。
「まだ足りない。節操がなくてすまないが」
夫が寝具を持ち上げた、視線を足元へ向け、気恥ずかしそうにほほ笑む。
目を見開いた私もつられてほほえむ。そしてほほ笑む余裕はあっという間に無くなった。
気を利かせたサラが起こしに来なかったら、わたくしは本当に病人になるところだったわ。
めでたし、めでたし。
甘々最高!と思われる方は★★★★★をお願いします。
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