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月の蘇る-6-  作者: 蜻蛉
第三十五話 悪夢
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10

 また、血の臭いがした。

 今度は街に近い道だというのに。

 波瑠沙が顔を顰める。朔夜の目は沈む。

 ここまでいくつ子供の変死体を見てきたか。

 その度に己を責める朔夜を励ましつつここまで来た。

 またか、と思いながら。

 道の端にそれはあった。

 岩陰に隠れるように。しかし、長い黒髪が隠れ切れなかった。

 その無念を、誰かに伝えるように。

「朔」

 馬を降りる朔夜を緩く止める。

 よせば良いのに、わざわざ見に行く。

 見た所で何が出来る訳でもないのに。埋葬している暇も無い。

 ただ、記憶に留めるより無いのに。

 しかし彼は見ずには居れないようで。

 岩陰に回って、足を止めた。

 その横顔から、血の気が引いた。

 波瑠沙も横に並び、それを見る。

 女だった。

 まだ大人になり切らぬ歳だろう。あどけない顔は可憐な面影を残したまま蒼白に染まって。

 矢張り、身は裂かれていた。

 裸に剥かれ、陵辱された上で。

「なんてことしやがる…」

 波瑠沙は呻いた。その横で。

 身が崩れた。地面に手をつき、吐き出せるものをその場に吐いて。

 しかし呼吸はままならない。過呼吸だと気付いて、波瑠沙はその身を抱き起こして目を背けさせ、口を手で塞いだ。

「落ち着け」

 低い声で言い聞かせる。

 見開いた目は別のものを見ている。過去の残像を。

「朔、あれはお前には関係無い。大丈夫だから。落ち着け」

 荒いが呼吸は戻ってきた。代わりに体が震えだす。

「華耶…」

 苦しい呼吸の中で呼ぶ。

 母親ではなく、華耶を重ねて見ていたのか。

 波瑠沙は少し意外に思いつつ、その両方かも知れないと思い直した。

 何にせよ目の毒だ。

「行こう、朔。ちょっと離れて休もう。立てるか?」

 支え起こそうと体勢を探っていると。

 朔夜ははっとした顔をした、かと思うと庇うように腕を広げた。

 その腕と、背中に、短い矢がそれぞれ突き立った。

「なに!?」

 すぐさまその体を支え直して岩陰に隠れる。屍と場所を分け合うように。

 改めてその矢を見る。吹き矢だ。

 戻った呼吸が再び浅くなる。手足が細かく痙攣していた。

「毒矢か…!?」

 思うようにならぬ動きで頷くと、ぐったりと身を預けてきた。

 ちらりと背後の気配を伺う。四の五の言っていられる事態ではない。敵が来たらその時だ。

 二本の矢を抜き、傷口に口を付ける。

 吸って、血ごと吐き出す。しかしもう遅い。これでは間に合わない。

 そうしている間に気配が近付く。

「ちょっと辛抱してろ」

 耳元に告げて、岩に背中を預けさせて。

 刀を抜き、飛び出した。

 手近に居た一人を斬り、飛んできた毒矢を避けながら次の一人を斬りに走る。

 斬り伏せた所で再び毒矢が飛んできたが、翻した衣に当たって落ちた。

 その出所に走る。慌てて立ち上がる影がある。

 一閃して斬り倒し、まだ息のある口に問うた。

「何の毒だ!?」

 相手はにやりと笑って、すぐ事切れた。

 背後に冷たい気配を感じて刀を振る。

 高い金属音。相手の刀は飛んでいた。が。

 敵の口は笑っている。

 その向こうから、己を狙う無数の矢尻が。

 舌打ちする。

 尚悪いのは、朔夜は敵の腕の中にあった。

 その力が無いのか、意識が無いのか、ぐったりとして抵抗する気配が無い。

「そいつをどうする気だ!?」

 噛み付かんばかりに叫んで問う。

「桓梠様への贄だ」

 その怖気の走るような答えはともかく。

「国軍か…?」

「否、あの方の私兵だよ」

 道理で手際が良い筈だと頭の片隅で褒めてやりながら。

 波瑠沙は動いた。同時に矢が飛び交った。

 女の身に無数に突き立つと思われた矢は、しかし空を虚しく飛んで行った。

 しかし一本だけ腕に突き立った――身を守る為にわざと腕で受けた矢を物ともせず、彼女は動きを止めなかった。その予期せぬ動きによって殆どの矢を躱したと言って良い。

 先刻刀を弾き飛ばした男の首を掴んでそれを盾に、敵の中へ突っ込む。

 その力量に敵全員、特に掴まれた本人が驚いた。驚いている間に弓兵の中に投げ込まれた。

 彼女は刀を振るいながら走る。朔夜を抱えて去ろうとしている男の元へ。

 再び弓弦が引かれる音。

 そんな事はもう構っていられなかった。もう少しで朔夜に手が届く。

 男達は察して進路を変えた。

 その瞬間、弓は引かれた。

「っ!」

 今度こそ万事休すと思われた。

 波瑠沙は身を反転させて矢に構えた。が、数が多過ぎる。

 急所だけは守ろうと刀を立てた。

 だが。

 矢は、急速に力を失ってそこに落ちた。

 見えない壁に阻まれたように。

 そして同時に、逃げていた一行の断末魔が響いた。

 事態を全て飲み込めぬままその方へ目をやる。

 男の首が高々と飛んだ。

「朔…朔夜!」

 一声高く呼んで、駆け付ける。

 首を失った男の腕から投げ出され、地面に叩き付けられたまま動かない。

 目は薄っすらと開いていた。が、相変わらず呼吸は苦しいまま。

 抱えようにも、腕に突き立った矢が邪魔をした。

 舌打ちして、まずは残った敵を睨む。

 その視線に敵は怯んだ。その前の一連の出来事に恐れをなしていたせいだろう。

 波瑠沙は立ち上がって片手で大刀を振って見せた。

「死ぬか?」

 及び腰の彼らは一歩後退り、我先にと逃げ出した。

 それを全て見送らず、溜息一つ溢して。

 一思いに矢を抜いた。

 血が噴き出る。こちらまで毒矢でないのは幸いだった。

 布を裂き、歯を使って止血して。

 再び朔夜に向き直る。

「大丈夫か?」

 普通は大丈夫と言える状況ではないが。

 恐らく致死性の毒ではないと思われる。殺す気なら向こうはとっくにそういう素振りを見せている筈だ。

 何か言おうとした口が、しかし言葉にならず諦めて閉じられた。

 唇も舌も痺れているのだろう。波瑠沙は今度こそその身を抱き上げた。

 布を巻いた腕からまた血が滲む。だが構わなかった。

「月が出るまでの辛抱だ。とりあえず水辺を探そう」

 毒を薄める為に大量の水を飲ませるのだ。出来る事と言えばそのくらい。

 片手に朔夜を、もう片手で二頭分の馬の綱を引きながら、山の中を歩く。

 せせらぎの音に足を止めた。辿って行くと、小さな滝と滝壺による池があった。

 水は澄んでいる。小魚が池の中で遊ぶ。

 竹筒に水を汲み、寝かせた体に飲ませる。

 先刻より少し容態は落ち着いてきたようだ。水を飲む事は出来た。

 まだ日は高いが、今日はこのまま野宿となるだろう。

「朔、大丈夫だから。寝とけ」

 頬を撫でながら言うと、瞼が閉じられた。

 ふうと息を吐く。波瑠沙としてもこれで人心地つく思いだ。

 思い立って、近くの細竹を小刀で切った。

 朔夜の長い髪の毛を数本拝借して先に結び付ける。抜く時痛かったのか、寝顔がちょっと顰められた。

 竹を削って針状にし、それに髪の毛の先端を括り付けて。

 泥の中を掘って蚯蚓を見つける。竹の針に刺して、完成。

 たぽんと池の中に針を落とした。

 時間はある。身動きは出来ないから、この食糧調達方法は持ってこいだろう。

 軍に居た頃、休日に釣りに連れて行って貰って覚えた。男達はこんな退屈な事をよく出来るなと思いながら見ていたが。

 何事も経験は役に立つものだ。程なく魚が食いついた。

 泥を掘って水を引き込み石を積んで、天然の生簀とした。

 釣果をそこに入れて行く。

 一人につき三尾も居れば足りるだろうか。後で串に刺して丸焼きにしてやろう。

 朔夜は目覚めて食べられるだろうか。これが口に出来るようになるまで、ここで休んでも良いのだが。



 自ら死ぬ事は諦めた。

 何度やっても結果は同じなのだと分かって、流石に馬鹿らしくなった。

 そうなると良心の呵責すらくだらないものになって、人を殺す事に何も思わなくなった。少なくとも、表面上は。

 今回は市街戦だった。

 苴国境の街を取り戻せと――しかし、その街が実際はどちらの領地なのかは知らない。山を超えた麓にあるのだから、普通に考えれば向こうの領地の筈なのだが。

 だがそんな事はどうでも良く、言われた事を熟すだけ。

 影にその場所に連れて行かれ、苦戦している味方が退いたその入れ替わりに、敵に襲い掛かる。

 呆気なかった。敵は全く油断していた。

 当然だ。既に繍軍を蹴散らしたと思っている所に現れたのは、一人の子供に過ぎないのだから。

 それが自分達に害をなすものだとは考えておらず。

 次々と刃の餌食になった。

 まるで梁巴だった。

 簡単に男達は死んでいく。愉しくなった。次々と命を奪って。

 はっと我に返る。

 また、屍が積み重なっている。

 それにもう何かを考えるのも怠かった。考えるだけ無駄だと、もう知っていた。

 重たい体を休める場所を探す。厩の戸口が開いていた。

 寝藁の中に身を埋める。

 華耶がひょっこり顔を出して、みーつけた、と。

 昔同じ事をしたような、かくれんぼの夢を見ながら。

 黎明と共に目が覚める。

 人の歩く気配がある。敵かと慌てて身を起こした。

 戸口からちらちらと見える鎧は繍軍のものだ。占領の為に調べているのだろう。安心して起き上がる。

 こんな所で油を売ってはいられない。起き上がると同時に身の上にあった物が藁の上に滑り落ちた。

 拾って、紙包みを広げる。

 最低限の食糧と、次の命令書。

 更に西に向かい、同じような市街戦を繰り広げている軍を援助せよ、と。

 何も思わず固い食糧を齧る。

 このくらい、日々の暮らしも自身の心も乾いてしまっていた。

 味気が無い。ただ生きる為のもの。

 梁巴か、と思い出す。

 どうせなら別れ際の地獄ではなく、楽しかった日々を追体験したかった。

 思わず母の手料理の味を思い出して、惨めな気分になって。

 忘れようと、思い直した。

 もう朔夜は居ないのだから。ここに居るのは、月。月夜の悪魔。

 徐々にその名は繍軍の中で浸透しつつある。実態は誰も知らぬまま、頼みにされる存在として。

 一方で、敵軍のごく少数が畏れをもって国に報告し、名を広めつつあった。だがまだ、遭遇した者以外には信じられていない。

 当の本人にはどちらもどうでも良く、出来ればもうちょっと美味いものが食いたいなと思うだけ。

 全て腹の中に納めて、寝藁から飛び降りた。

 昇った日の光の下を歩く。眩しい。頭がくらくらする。

 出来れば日が暮れてから歩きたかったが、街の中が煩くてこれ以上休む気になれない。

 静かな山の中で寝直してから西に向かう事にした。

 煩いのは繍軍の兵のせいだ。何がそんなに嬉しいのか知らないが、あちこちではしゃぎ回っている。

 朝から酒を食らっている者まで居る。やれやれと思いながら。

 女の悲鳴を聞いた。

 瞬時に身が凍りついた。

 思い出してはいけない何かが、頭の中で暴れている。

 悲鳴が、やがて、耳を塞ぎたくなる声となって。

 何か別の意識が――悪魔でもない、別の自分が体を動かした。

 許されない。こんな事。

 俺が壊す。壊してやる。

 こんな世界、全て。

 女を襲っていた男達を有無を言わさず斬った。

 恐怖に悲鳴を上げた裸の女を。

 醜いと、思った。

 こんなもの、見たくなかった。

 許さない。何もかも。

 みんな、殺す。


 過去と、過去が、混同した。

 混ざり合って、記憶は。

 俺が殺した。

 母さんを。その胸を裂いて。

 殺した。


 目覚めて、荒い息を吐いて。

 額から目にかけて、掌で押さえた。

 頭痛。でも息苦しさは治った。

「朔」

 波瑠沙の声で力が抜ける。

 ゆっくりと息を吐き、顔を起こした。

 焚き火の温もりと、食欲を誘う匂い。

「魚。美味いぞ」

 差し出された串を受け取って。

 笑う。弱々しくも、心から安堵した顔で。

「毒…消えたっぽい」

 慎重に言葉を吐き出す。そうせねばまだ、違和感が残った。

「嘘。まだ痺れてるだろ」

「ちょっとね」

 言って、少しだけ焼き魚の身に歯を立てる。

「お上品な食い方するなぁ。どこのお嬢様だよ」

 言いながら波瑠沙は豪快に食らいつく。

「だからまだ、痺れてんだってば」

「ほら見ろ」

 我が意を得たとばかりに笑って。

「ま、お嬢ちゃんは今更か」

「今更じゃねえよ」

「また化粧してやろうか?」

「やだー」

「満更でもねえ癖に」

 食い終えた串で指して笑う。

「美味いか?まだ食える?」

「うん」

 横取りされないうちに二本目にありつこうと、口から溢れるのも構わず食らいついた。

 あの頃これだけ美味いものを食っていたら、少しは人間らしく在れただろうなと思う。

 死ねないから生きていただけの日々。

 誰かの死の上に、どうしようもない生を長引かせながら。

 でも、今は。

 どうしようもなかったものが、意味のあるものに変わった。

 生きている意味。まだ分からないままだけど、感じる事は出来る。

 波瑠沙に顔いっぱいの笑みを向けて。

「すっげえ美味いよ。ありがとう」

 あの後、何度も同じ場面を目撃した。

 男は片っ端から斬った。女も巻き込む事が多々あったが、どうにか自分を止められる事もあった。

 その嫌悪感の正体が分からないまま。

 影に訊いた。何故あんな事を許すのかと。

 奴は当然のように答えた。

「欲しい物を奪うのは勝った者の権利だ。自分が奪われた物だというのにそれが分からないのか」

 奪われた物?

 言葉にして問い返したのか、顔に出ていたのか。それは忘れた。

 だが、それに対する答えだけは絶対に忘れられない。

「お前達は負け、我々が勝った。それゆえに、繍の物になった。お前は物だ。物がそのような偽善を口にする権利など無い」

 それで漸く知った。

 梁巴を奪ったのは、こいつらだと。

 繍も、桓梠も、憎むべき相手なのだと。

 だけどもう、遅かった。

 知らず奴隷になっていた自分は、主人に向ける牙を抜かれていた。

 ただ、生きる為に。

 虚しい日々を繰り返す己を、生かす為に。


  挿絵(By みてみん)


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