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月の蘇る-6-  作者: 蜻蛉
第三十二話 葬送
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 棺が作られ、遺体はそこへ入れられた。

 燈陰(トウイン)がかつて開墾していた裏山の空き地に、韋星(イセイ)の指示で彼の部下達と巡宗(ジュンソウ)の手で火葬する為の木組が作られている。

 まだ感情では何も理解したく無かった。朔夜は目を背け続けるべく、誰も来ない長屋の奥に引っ込んだ。

 表には(カン)王が来ていた。お陰で騒がしい。

 華耶は憔悴し切った心身に鞭打つように義父の応対をしている。

 一人逃げている我が身が、彼女だけには申し訳無かった。

 戸が開いて、暗い部屋に光が差す。

 今日も憎い程の秋晴れ。

 昨日が雨だったら良かった。外にも出れないような大雨だったら、こんな事には。

 考えても栓の無い事ばかりで。

 次第に行き着く感情に気付きつつある。

 あの男さえ、いなければ。

 だがまだ、直視する気力が無かった。

「朔」

 開いた戸から波瑠沙が滑り込んできた。

「そろそろ物を食え。倒れるぞ」

 粥の入った椀を見て、昼時なのだと知る。丸一日以上何も食ってない。

 自嘲した。酒だけでは許して貰えないらしい。

「…置いておいて。そのうち食うよ」

「食わんだろ、それは」

 溜息を吐きながら正面に座る。

「もう一刻もすれば火葬が始まるってよ」

 眉間に僅かに力が入った。

 だがもう、泣く事も出来ないような、そんな顔で。

 闇の中でやっと息をしている。

「区切りだよ。今のうちに会ってこい。粥は無理に食わなくて良いから、それだけは」

「もういい…夜中に死に顔は見たから」

「朔」

「放っておいてくれ。…ごめん」

 もう一回、溜息を吐いて。

「正直、分かんねーわ。そこまでになる人を亡くした事が無いから。香奈多(カナタ)さんの時は勿論辛かったけど、そこまでじゃない。そんなに己の全てだと思える友人に会った事が無いしな」

 黙って波瑠沙の言葉を聞く。

「そういう意味ではお前、幸せだったんだよ。己の全てだと思える友に出会えるなんて、誰にでもある事じゃない。ましてや向こうも同じ事を感じてたなんてさ。男女の仲でもそうそう無えぞ。お前のその姿見てたら、正直負けたって思うわ。そこまでになれる自信は無い。勿論お前の事は愛してっけど、お前とあいつ程にはなれないんじゃないかって思う」

 朔夜は小さく首を振って否定した。

 波瑠沙はふっと笑う。

「それがお前の優しさだよな」

 身を寄せて、肩を抱き、頭を抱え込んで。

「だから、その支えを失くした反動は凄まじいんだろうなって思う訳。昨日はああ言ったけど、心の整理はゆっくりやれば良い。ただ死なない程度にやってくれ。頼むからさ」

 未だ表情の無い顔を両手で支え、覗き込む。

「治るまではずっと、壊れないように抱えてやる。またお前の笑う顔が見たいから」

 何も写さない虚無の目から、涙が一滴、すっと落ちた。

「泣けば良いのに」

 緩く首を横に振る。もうその力も無いとばかりに。

 波瑠沙は椀を引き寄せて、匙から一口己の口に含んで、朔夜の口へ運んだ。

 拒絶はされず、どうにか飲み込んでくれる。

 繰り返して、体を保つ糧を入れさせて。

 表がまた騒がしくなった。出棺の時が近いのだろう。

「どうする?行ってみるか?」

 怯えたように強く首を振る。

 友の体が燃え落ちる様など目に出来ないのだろう。

 震える体を抱き締めて、言ってやった。

「分かった。お前の分も別れを告げてくるわ。その間大人しく待っとけよ。良いな?」

 頷く。

 本当に憔悴して声も出せないのだろう。泣くに泣けない息遣いが見ていて心苦しい。

 銀髪を撫で、立ち上がる。

 そのまま項垂れている。動く力も無いように。

 刀はいつも通りに装着している。取り上げておくべきか、少し考えて。

 だがそれだけの自由は与え、結果は受け入れてやろうと思った。刺しても死ねないのは分かっているから。

 寧ろそうやって藻掻く力も今はまだ無いのだろう。

 動かない丸まった背中。ただでさえ小さいのに、ますます小さく見える。

「朔」

 少しだけ顔を上げる。

「何か伝えておきたい事はあるか?」

 横顔を見せ、考えて。

「…あいつ、最期に、またなって言ったから」

 伏せていた目を開き、見上げて。

「同じ事を伝えてやって。…きっとまた、会えるんだ」

 波瑠沙の口元に笑みが灯る。

「そうか。分かった」

 頷き返した朔夜の口にも、仄かな笑みが浮かび、消えた。

 戸を閉めて、廊下を歩き出しながら。

 堪らず泣いた。いつかのあいつの貰い泣きを揶揄いながら、自分のものは止められなかった。


「惜しい事よのう」

 棺を覗く義父の後ろで項垂れる事しか出来ない。

 相槌を打つのも疲れてしまった。最低限の挨拶と礼だけ。あとは黙っている。

「佳人は長生きせぬとは言うが、もう少し生きても良かったんじゃないか、婿殿。のう?」

 王が喋るのに任せる。しきりに惜しんでくれるのは良いが、本心かどうかは分からない。

鵬岷(ホウミン)にも会わせてやりたいが、間に合わぬよのう。まあ先日は最後に会えたからの、それは良かったよ」

 春音がとたとたと近付いてきて棺を覗く。

「とーと、なんではこにはいってるの?」

 華耶は答えられず黙って子の頭を撫でた。

 母から答えは無いと悟って、血の繋がらぬ祖父を見る。

「それはの坊や、お前の父はこの箱に乗って空の向こうに行くからじゃよ」

「おそらのむこう?」

 小さな手が青空を指差す。

「そうよ。人は死んだら皆、空の向こうに行くんじゃ」

 春音は唇を尖らせた。

「うそつき」

「うん?」

「とーといってたもん。ずっとしゅんおんのそばにいるって、いってたもん!」

 華耶が抑え込むように小さな体を抱いた。

 反発するように大きな声を出す。

「おそらのむこうなんかいかないよ!とーとはここにいるもん!てならいして、あそぶんだもん!いやだよ、はこになんていれないで!」

 泣き出した。華耶はただただ抱き締める事しか出来ない。己の嗚咽を噛み殺しながら。

「賢過ぎるのも辛いものよの。似てしもうたの、そういう所まで」

 王は棺の中に語りかけ、立ち上がった。

「何かあれば遠慮せず城に来るが良い。落ち着いたら必ず顔を出せよ」

 義理の娘に告げ、外へと向かった。

 従者が続く。彼が去ると、急に長屋の中ががらんどうになった。

 波瑠沙は廊下に続く出入り口に立ってその様を見ていた。

 己の涙を拭き、華耶の隣に座る。

 その背中を撫でる。彼女は小さく礼を口にした。

 誰もが辛い。辛過ぎる別れ。

 巡宗と燕雷がやって来て、棺の蓋に手をかけた。

 燕雷は一つ息を吐き、時に叱り励まし、笑い合ってきた友に言ってやった。

「じゃあな。お前はよくやったよ」

 こいつが居なければ、故国に戻り、己の過去を清算しようとは思わなかった。

 蓋をしようと浮かせたが、波瑠沙はそれを止めた。

「燕雷、もう少し待ってやれ。まだ別れを言えてない人が居る」

 祥朗と夲椀(ホンワン)が、やっと棺の前に並び座った。

 夲椀の腹はもういつ産まれてもおかしくない程に張っている。だが、間に合うかなと言った龍晶の危惧は当たってしまった。

 兄の前で、祥朗は崩れた。

 子供のような泣き声だった。ただただ泣く事しか出来ないという様だった。

 そこに妻といずれ会える子が居る事は、この光景の救いだ。

 燕雷は波瑠沙の横に座った。

「朔は?」

 彼女は苦笑いで首を振った。

「駄目だ。あいつは」

「立ち直れねえか」

「仕方ないよな。時間はかかるだろうが、付き合ってやろうと思う」

「うん…頼むよ。お前しか出来ないから」

「ああ」

 吐く息と共に言う。

 やっと一つ大きな傷が癒えてきたと思ったら、また更に大きく裂けて血が流れだした。

 今度はどう治してやれば良いのやら。

「朔夜、呼ぼうか」

 華耶がぽつりと言った。

「やめとけ。今は春音よりわがままぼーずになってるから」

 波瑠沙が言って、幼子の頬を指で突いた。

「はーさ、もう!」

 一丁前に怒る。それにちょっと笑って。

「済まんな。あいつが一番辛いなんて、言っちゃいけないんだが」

「ううん。分かってる。彼が一番愛してたのは、朔夜との時間だった」

 波瑠沙は息を吐きながら頷き天を仰いで、そうだなと呟いた。

 庭に韋星が現れた。潮時だろう。

 再び燕雷と巡宗が蓋を持った。波瑠沙もそれに加わった。

 相変わらず眠っているだけのような美しい顔を見て。

「お前の友が言ってたよ。またな、って」

 その姿は覆われた。

 また、いつか。

 会えるんだろうか。二人は。

 そうであって欲しい。

 棺が運ばれる。

「生まれ変わって私に会いに来るんだって」

 隣に立った華耶が言った。

 その顔に、小さな笑みがあった。

「だから、その時には朔夜にも会えるよ」

 波瑠沙も笑みを浮かべて頷いた。

「成程な。それが良いや」

 丘の上で煙が上がった。

 棺が燃える。

「たすけて!とーとがもえちゃうよ!」

 春音が悲鳴を上げた。

 華耶の手から波瑠沙が幼子を取り上げた。

「先に降りるわ。朔も心配だし」

「うん…お願い」

「はーさ!たすけて!」

「大丈夫だよ。お前の父さんはもう、お前の近くに居る。見えないだけ」

 言いながら丘を降りる。炎に背を向けて。

「いやだ!みえるとーとがいいもん!」

「そりゃそうだよ。当たり前だ。だけど」

 辛く息を吐く。

 いつかは受け入れられる。その筈なのだけど。

「父さんを助けられない私は悪いやつだ。叩け。好きなだけ叩いて良い」

 小さな手の攻撃など痛くも無い。

 耳元で泣き喚く声の方がよっぽど痛い。

「強くなれ、春音」

 彼に代わって言ってやる。

「お前の父さんが超えられなかった壁を、お前はぶち壊して生きろ」


 誰も居なくなった長屋をふらふらと出て、裸足のまま庭に立った。

 丘から上がる煙を見上げる。

 あの煙に乗って、あいつは。

 立ち続ける力は無く、そこにへたり込んだ。

 貧民街で二人、煙を見上げた日を思い出す。

 己のせいで――少なくともあいつはそうだと思い込んで、死なせてしまった街の人々を火葬する火。

 初めて戦に行く、その前で。

 あいつは言った。貧民街の医師に。

 生ける者を頼みます、と。

 死なせてはならない奴だった。

「…戻って来い…」

 生き残った者の為に。

 俺の為に。

 どうか。

 夢であれば良い。覚めたら、初めて戔に向かう道中であれば尚良い。

 あの時皓照から聞きそびれた、人を不死にする方法を知って。

 そして最初からやり直したい。もう一度あいつに会って、喧嘩して、殴られて。

 哥との戦では記憶を無くさないように戦おう。そうすれば悪魔になる事は無かった。あいつを苦しめる傷を与える事は。

 そしてもう一度共に長旅をしよう。命懸けの旅だったし苦しい局面ばかりだったが、今思えば楽しかった。轡を並べて道を切り開く事は。

 そしてあの反乱――今度こそあいつの兄貴を死なせずに済ませるのだ。彼は改心していた。反省していた。だから、生かしてやりたかった。兄弟として、あいつと語らう時間を持たせてやりたい。

 白骨化した母親との再会。そればかりはどうしようもない。何の力にもなれない。芥子の薬を吸わせない事くらいか。

 今の俺は、あの時のあいつだろう。

 近くに居てやる事しか出来ない。あの時の俺の苦しみは、今の波瑠沙か。だけど彼女は強い。俺とは違う。

 そして戴冠、華耶との婚姻。二つの式の記憶は、一際輝く幸せなもの。

 きっと俺は死ぬ時、あの光景を思い出す。

 お前もそうだったのかな。思い出していたんだろうか。

 泥沼から抜け出した先にあった、信じられない美しい景色を。

 北部への旅。その後。

 あの時、悪魔に取り憑かれなければ。

 こんな事には。

 離れてはならなかった。選択肢は無かったが、とにかくあの時悪魔を蘇らせた事が最大の失敗だった。

 戔とあいつを追い詰める要因になってしまった。

 少なくとも、戦さえ起こさせなければこの国に追いやられる事は無かったのだ。肺を患って絶望させる事も無かった。勿論、新たな心の傷を負わせる事も。

 だがこの一年で希望は見えていた。朔夜はそう思う。

 穏やかな生活を通して、病の進行と体の衰弱は免れなくとも、心は確実に癒えていた。

 春音を可愛がり、華耶を愛して。

 毎日たわいの無い話をして。

 一番幸せな日々が。

 こうして突然終わってしまった。

 煙を見上げていた目を閉じる。

 夢を見ていても仕方ない。

 俺は、俺の、弔いをしなければ。

 立ち上がる。納屋へと歩き出す。

 どうしてこうなったのか、知らねばならない。

 あいつの為ではないかも知れない。それでも良い。

 こうして生きるしか、悪魔である俺には出来ない。


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