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棺が作られ、遺体はそこへ入れられた。
燈陰がかつて開墾していた裏山の空き地に、韋星の指示で彼の部下達と巡宗の手で火葬する為の木組が作られている。
まだ感情では何も理解したく無かった。朔夜は目を背け続けるべく、誰も来ない長屋の奥に引っ込んだ。
表には灌王が来ていた。お陰で騒がしい。
華耶は憔悴し切った心身に鞭打つように義父の応対をしている。
一人逃げている我が身が、彼女だけには申し訳無かった。
戸が開いて、暗い部屋に光が差す。
今日も憎い程の秋晴れ。
昨日が雨だったら良かった。外にも出れないような大雨だったら、こんな事には。
考えても栓の無い事ばかりで。
次第に行き着く感情に気付きつつある。
あの男さえ、いなければ。
だがまだ、直視する気力が無かった。
「朔」
開いた戸から波瑠沙が滑り込んできた。
「そろそろ物を食え。倒れるぞ」
粥の入った椀を見て、昼時なのだと知る。丸一日以上何も食ってない。
自嘲した。酒だけでは許して貰えないらしい。
「…置いておいて。そのうち食うよ」
「食わんだろ、それは」
溜息を吐きながら正面に座る。
「もう一刻もすれば火葬が始まるってよ」
眉間に僅かに力が入った。
だがもう、泣く事も出来ないような、そんな顔で。
闇の中でやっと息をしている。
「区切りだよ。今のうちに会ってこい。粥は無理に食わなくて良いから、それだけは」
「もういい…夜中に死に顔は見たから」
「朔」
「放っておいてくれ。…ごめん」
もう一回、溜息を吐いて。
「正直、分かんねーわ。そこまでになる人を亡くした事が無いから。香奈多さんの時は勿論辛かったけど、そこまでじゃない。そんなに己の全てだと思える友人に会った事が無いしな」
黙って波瑠沙の言葉を聞く。
「そういう意味ではお前、幸せだったんだよ。己の全てだと思える友に出会えるなんて、誰にでもある事じゃない。ましてや向こうも同じ事を感じてたなんてさ。男女の仲でもそうそう無えぞ。お前のその姿見てたら、正直負けたって思うわ。そこまでになれる自信は無い。勿論お前の事は愛してっけど、お前とあいつ程にはなれないんじゃないかって思う」
朔夜は小さく首を振って否定した。
波瑠沙はふっと笑う。
「それがお前の優しさだよな」
身を寄せて、肩を抱き、頭を抱え込んで。
「だから、その支えを失くした反動は凄まじいんだろうなって思う訳。昨日はああ言ったけど、心の整理はゆっくりやれば良い。ただ死なない程度にやってくれ。頼むからさ」
未だ表情の無い顔を両手で支え、覗き込む。
「治るまではずっと、壊れないように抱えてやる。またお前の笑う顔が見たいから」
何も写さない虚無の目から、涙が一滴、すっと落ちた。
「泣けば良いのに」
緩く首を横に振る。もうその力も無いとばかりに。
波瑠沙は椀を引き寄せて、匙から一口己の口に含んで、朔夜の口へ運んだ。
拒絶はされず、どうにか飲み込んでくれる。
繰り返して、体を保つ糧を入れさせて。
表がまた騒がしくなった。出棺の時が近いのだろう。
「どうする?行ってみるか?」
怯えたように強く首を振る。
友の体が燃え落ちる様など目に出来ないのだろう。
震える体を抱き締めて、言ってやった。
「分かった。お前の分も別れを告げてくるわ。その間大人しく待っとけよ。良いな?」
頷く。
本当に憔悴して声も出せないのだろう。泣くに泣けない息遣いが見ていて心苦しい。
銀髪を撫で、立ち上がる。
そのまま項垂れている。動く力も無いように。
刀はいつも通りに装着している。取り上げておくべきか、少し考えて。
だがそれだけの自由は与え、結果は受け入れてやろうと思った。刺しても死ねないのは分かっているから。
寧ろそうやって藻掻く力も今はまだ無いのだろう。
動かない丸まった背中。ただでさえ小さいのに、ますます小さく見える。
「朔」
少しだけ顔を上げる。
「何か伝えておきたい事はあるか?」
横顔を見せ、考えて。
「…あいつ、最期に、またなって言ったから」
伏せていた目を開き、見上げて。
「同じ事を伝えてやって。…きっとまた、会えるんだ」
波瑠沙の口元に笑みが灯る。
「そうか。分かった」
頷き返した朔夜の口にも、仄かな笑みが浮かび、消えた。
戸を閉めて、廊下を歩き出しながら。
堪らず泣いた。いつかのあいつの貰い泣きを揶揄いながら、自分のものは止められなかった。
「惜しい事よのう」
棺を覗く義父の後ろで項垂れる事しか出来ない。
相槌を打つのも疲れてしまった。最低限の挨拶と礼だけ。あとは黙っている。
「佳人は長生きせぬとは言うが、もう少し生きても良かったんじゃないか、婿殿。のう?」
王が喋るのに任せる。しきりに惜しんでくれるのは良いが、本心かどうかは分からない。
「鵬岷にも会わせてやりたいが、間に合わぬよのう。まあ先日は最後に会えたからの、それは良かったよ」
春音がとたとたと近付いてきて棺を覗く。
「とーと、なんではこにはいってるの?」
華耶は答えられず黙って子の頭を撫でた。
母から答えは無いと悟って、血の繋がらぬ祖父を見る。
「それはの坊や、お前の父はこの箱に乗って空の向こうに行くからじゃよ」
「おそらのむこう?」
小さな手が青空を指差す。
「そうよ。人は死んだら皆、空の向こうに行くんじゃ」
春音は唇を尖らせた。
「うそつき」
「うん?」
「とーといってたもん。ずっとしゅんおんのそばにいるって、いってたもん!」
華耶が抑え込むように小さな体を抱いた。
反発するように大きな声を出す。
「おそらのむこうなんかいかないよ!とーとはここにいるもん!てならいして、あそぶんだもん!いやだよ、はこになんていれないで!」
泣き出した。華耶はただただ抱き締める事しか出来ない。己の嗚咽を噛み殺しながら。
「賢過ぎるのも辛いものよの。似てしもうたの、そういう所まで」
王は棺の中に語りかけ、立ち上がった。
「何かあれば遠慮せず城に来るが良い。落ち着いたら必ず顔を出せよ」
義理の娘に告げ、外へと向かった。
従者が続く。彼が去ると、急に長屋の中ががらんどうになった。
波瑠沙は廊下に続く出入り口に立ってその様を見ていた。
己の涙を拭き、華耶の隣に座る。
その背中を撫でる。彼女は小さく礼を口にした。
誰もが辛い。辛過ぎる別れ。
巡宗と燕雷がやって来て、棺の蓋に手をかけた。
燕雷は一つ息を吐き、時に叱り励まし、笑い合ってきた友に言ってやった。
「じゃあな。お前はよくやったよ」
こいつが居なければ、故国に戻り、己の過去を清算しようとは思わなかった。
蓋をしようと浮かせたが、波瑠沙はそれを止めた。
「燕雷、もう少し待ってやれ。まだ別れを言えてない人が居る」
祥朗と夲椀が、やっと棺の前に並び座った。
夲椀の腹はもういつ産まれてもおかしくない程に張っている。だが、間に合うかなと言った龍晶の危惧は当たってしまった。
兄の前で、祥朗は崩れた。
子供のような泣き声だった。ただただ泣く事しか出来ないという様だった。
そこに妻といずれ会える子が居る事は、この光景の救いだ。
燕雷は波瑠沙の横に座った。
「朔は?」
彼女は苦笑いで首を振った。
「駄目だ。あいつは」
「立ち直れねえか」
「仕方ないよな。時間はかかるだろうが、付き合ってやろうと思う」
「うん…頼むよ。お前しか出来ないから」
「ああ」
吐く息と共に言う。
やっと一つ大きな傷が癒えてきたと思ったら、また更に大きく裂けて血が流れだした。
今度はどう治してやれば良いのやら。
「朔夜、呼ぼうか」
華耶がぽつりと言った。
「やめとけ。今は春音よりわがままぼーずになってるから」
波瑠沙が言って、幼子の頬を指で突いた。
「はーさ、もう!」
一丁前に怒る。それにちょっと笑って。
「済まんな。あいつが一番辛いなんて、言っちゃいけないんだが」
「ううん。分かってる。彼が一番愛してたのは、朔夜との時間だった」
波瑠沙は息を吐きながら頷き天を仰いで、そうだなと呟いた。
庭に韋星が現れた。潮時だろう。
再び燕雷と巡宗が蓋を持った。波瑠沙もそれに加わった。
相変わらず眠っているだけのような美しい顔を見て。
「お前の友が言ってたよ。またな、って」
その姿は覆われた。
また、いつか。
会えるんだろうか。二人は。
そうであって欲しい。
棺が運ばれる。
「生まれ変わって私に会いに来るんだって」
隣に立った華耶が言った。
その顔に、小さな笑みがあった。
「だから、その時には朔夜にも会えるよ」
波瑠沙も笑みを浮かべて頷いた。
「成程な。それが良いや」
丘の上で煙が上がった。
棺が燃える。
「たすけて!とーとがもえちゃうよ!」
春音が悲鳴を上げた。
華耶の手から波瑠沙が幼子を取り上げた。
「先に降りるわ。朔も心配だし」
「うん…お願い」
「はーさ!たすけて!」
「大丈夫だよ。お前の父さんはもう、お前の近くに居る。見えないだけ」
言いながら丘を降りる。炎に背を向けて。
「いやだ!みえるとーとがいいもん!」
「そりゃそうだよ。当たり前だ。だけど」
辛く息を吐く。
いつかは受け入れられる。その筈なのだけど。
「父さんを助けられない私は悪いやつだ。叩け。好きなだけ叩いて良い」
小さな手の攻撃など痛くも無い。
耳元で泣き喚く声の方がよっぽど痛い。
「強くなれ、春音」
彼に代わって言ってやる。
「お前の父さんが超えられなかった壁を、お前はぶち壊して生きろ」
誰も居なくなった長屋をふらふらと出て、裸足のまま庭に立った。
丘から上がる煙を見上げる。
あの煙に乗って、あいつは。
立ち続ける力は無く、そこにへたり込んだ。
貧民街で二人、煙を見上げた日を思い出す。
己のせいで――少なくともあいつはそうだと思い込んで、死なせてしまった街の人々を火葬する火。
初めて戦に行く、その前で。
あいつは言った。貧民街の医師に。
生ける者を頼みます、と。
死なせてはならない奴だった。
「…戻って来い…」
生き残った者の為に。
俺の為に。
どうか。
夢であれば良い。覚めたら、初めて戔に向かう道中であれば尚良い。
あの時皓照から聞きそびれた、人を不死にする方法を知って。
そして最初からやり直したい。もう一度あいつに会って、喧嘩して、殴られて。
哥との戦では記憶を無くさないように戦おう。そうすれば悪魔になる事は無かった。あいつを苦しめる傷を与える事は。
そしてもう一度共に長旅をしよう。命懸けの旅だったし苦しい局面ばかりだったが、今思えば楽しかった。轡を並べて道を切り開く事は。
そしてあの反乱――今度こそあいつの兄貴を死なせずに済ませるのだ。彼は改心していた。反省していた。だから、生かしてやりたかった。兄弟として、あいつと語らう時間を持たせてやりたい。
白骨化した母親との再会。そればかりはどうしようもない。何の力にもなれない。芥子の薬を吸わせない事くらいか。
今の俺は、あの時のあいつだろう。
近くに居てやる事しか出来ない。あの時の俺の苦しみは、今の波瑠沙か。だけど彼女は強い。俺とは違う。
そして戴冠、華耶との婚姻。二つの式の記憶は、一際輝く幸せなもの。
きっと俺は死ぬ時、あの光景を思い出す。
お前もそうだったのかな。思い出していたんだろうか。
泥沼から抜け出した先にあった、信じられない美しい景色を。
北部への旅。その後。
あの時、悪魔に取り憑かれなければ。
こんな事には。
離れてはならなかった。選択肢は無かったが、とにかくあの時悪魔を蘇らせた事が最大の失敗だった。
戔とあいつを追い詰める要因になってしまった。
少なくとも、戦さえ起こさせなければこの国に追いやられる事は無かったのだ。肺を患って絶望させる事も無かった。勿論、新たな心の傷を負わせる事も。
だがこの一年で希望は見えていた。朔夜はそう思う。
穏やかな生活を通して、病の進行と体の衰弱は免れなくとも、心は確実に癒えていた。
春音を可愛がり、華耶を愛して。
毎日たわいの無い話をして。
一番幸せな日々が。
こうして突然終わってしまった。
煙を見上げていた目を閉じる。
夢を見ていても仕方ない。
俺は、俺の、弔いをしなければ。
立ち上がる。納屋へと歩き出す。
どうしてこうなったのか、知らねばならない。
あいつの為ではないかも知れない。それでも良い。
こうして生きるしか、悪魔である俺には出来ない。