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月の蘇る-6-  作者: 蜻蛉
第三十五話 悪夢
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 月明かりの下、草を褥に眠る。

 全身の火傷を治す為に裸の身を寝かせている。

 意識は無いが、寒かろうと思いなるべく寄り添って眠りながら。

 一日目は目立った変化は無かった。だが軽い所は治ったように見えた。

 二日目、確かに変化が見えた。出血していた箇所や黒く焦げた肌の色が赤く治り始めた。

 三日目。全身は赤い痣に覆われるのみになった。

 そこまで全く朔夜は目覚めなかった。

 でも波瑠沙は何処かで安心していた。これまでの苦辛を思えば、心ゆくまで眠って傷を癒して欲しい。

 四日目。

 眠っていた波瑠沙は隣の動きに気付いて目を覚ました。

「朔」

 上体を起こしていた。

 月明かりに白い肌が浮かんでいる。

「気が付いたか」

 自分も上体を起こして隣に並んだ。

 違和感に気付いた。

 いつも懐に忍ばせている短刀の重みが無い。

 はっとしてその手元を見る。

 刃が月明かりに光った。

 赤い光だった。

 声にならぬ声を上げてその顔を見る。

 顔と言うより。

 首。

 首筋から、赤い筋が幾本も川を作って。

 胸の上に流れ、脚を伝って地面に吸い込まれていく。

「お前…!」

 半分だけ覗く瞳は暗く、口は軽く開いたまま。普段赤い唇は真っ白に。

「なんてことを…!?」

 流れる血を止めねばならないと思った。

 咄嗟に、傷口に唇を当てていた。

 舌で傷を抑える。それでも溢れる血を飲み下して。

 頼むから、癒えて欲しい。

 死なないで。

 力を失った体が倒れてきた。

 支えて、抱え込んで。

 出血は止まっていた。


 火傷は治った。所々痣は残るが、白い肌に戻るのも時間の問題だ。

 それよりも意識の混濁の方が問題だった。目覚めれば己の身を斬ろうとする。

 その度に抱えて押さえ込む。日に日にそれに抵抗する力も強くなった。

 そして泣き喚く。泣くだけ泣いて、力尽きて、また意識を失う。

 今もどうにか抑え込んで寝かせた所だ。

 普段はこんな力なんて無い癖に、容赦の無い力で暴れられて力を込めていた腕が痛い。

 大きく溜息を吐いて、眠った顔を見下ろす。

 涙にぐしょぐしょに濡れ、恐怖に歪んでいる。息遣いは荒いまま。

 喚く端々の言葉で彼が今何を見ているのか想像するしかない。

 離せ、殺せ、と叫びながら。

 どうして死ねない、と。

 悲痛な疑問。

「私が死なさないからだよ、朔」

 顔を撫でて、額に口付けする。

 歪んでいた顔の力が抜けた。

 ふっと笑って。

 立ち上がって雨戸を開ける。薄暗い密室では息が詰まる。

 夜の風が優しく庵の中を満たした。

「燕雷」

 そこに立っていた男は、にっと笑って片手の瓶を掲げて見せた。

「息抜きが必要だろう?」

 波瑠沙は微笑して頷いた。

 雨戸を全て開け放ち、縁側に並び座って。

「今日で何日目?」

 燕雷が問う。

「八日目」

 波瑠沙が即答し、杯を煽った。

 繍軍を掃討し、意識を失ってから、八日。

「長いな」

「いつもはこんな事無いのか」

「心臓が止まってる訳じゃないなら、すぐに目は覚める。寧ろ怪我の治りが間に合わなくて動けないのが常だが」

「こんな錯乱状態になる事は?」

「うーん。見た事は無くは無いけど、こうも長く続くのは初めてだ」

「そうか…」

 その理由は分かる。

「龍晶の事もあるが、やっぱりあいつは母親の事で打ちのめされているんだと思う」

「思い出した記憶でか?」

「うん…。譫言の端々で、自分だけ生き残った事に罪を感じてるんだ。本当は一緒に死ぬ筈だったのかも知れない」

 驚きを含んだ目で見返し、ゆっくり正面に直って杯を干すと、一言呟いた。

「燈陰もそんな事を言っていたな」

「そうか…。あいつの父親が…」

「でも奴はその場に居た訳じゃない。何があったのかは正確には知らない。だから今まで朔も知らなかった」

「その記憶が甦ったんだな。あの刀を見た事で」

「刀?」

「生家に落ちていた。錆びた短刀。自分のものだったらしいけど」

 燕雷は考え、首を捻った。

 他人が考えた所で仕方ないのだが。

「治るんだろうか」

 疲れた声で彼女は問うた。

 燕雷は彼女の杯を満たし、飲ませて。

「夜泣きの赤子の番は代わってやるよ。お前はゆっくり休め」

 ふっと笑う。

「赤子だな。本当に。でかい赤子だ」

「もうちょっと可愛げが欲しいよな」

「それもそうだが、早く成長して欲しいもんだ」

「ま、確かに」

 大人になろうと無理に抑え込んでいた心に大きく皺が寄ったのだろう。

 その反動だ。この動きは。

「別に可愛いままでも良いんだけどな」

 ごろんとその場に横になる。

「風邪ひくぞ」

「ひかねえよ、私は」

 瞼を閉じたかと思うと、すぐに寝息が聞こえた。

「なかなかに無防備だな、お前」

 苦笑して言い、部屋の奥に畳まれていた毛布を取って掛けてやる。

 雨戸を閉めて、酒の続きを味わいながら。

 朔夜に進む意思が無くなれば、戔軍はこれ以上深入りはしたくないだろう。それが宗温の考えだ。

 実際、この数日で彼は進軍に懐疑的になっている。これ以上やる意味がありますか?と。

 苴への付き合い程度に出兵はせねばならないが。

 それで良いんじゃないのかと、燕雷も思い始めた。元々気乗りのしない戦だった。

 朔夜の強硬な意思があるからここまで進んだだけで。

 もう良いだろう。これ以上苦しまなくても。

 夜半。

 酒に酔って眠っていた。

 その傍らに置いた刀に伸ばされる手。

 刃を抜く。

 この首を、斬らねばならない。

 そう約束したから。

 二人同時に。

 痛みが走り、血が迸る。

 駄目なんだ。母さん。

 それだけじゃ、俺は死なない。

 この首を全部斬らなきゃ。

 力を込めて。己の手で己の首を取ろうと。

「馬鹿!」

 背中に強い衝撃が走り、離れた刃を持つ手ごと続いて蹴られた。

 刀が床に落ちる。更に伸ばしかけた手より先に、その束を蹴り飛ばして。

 刀は滑り、手を逃れ、壁にぶつかって止まった。

 目を見開いてその様を凝視して。

 前にもこんな事があった。

 前?前――いつ?

 あの時も、大事な人を亡くした。

 誰だっけ。いつだっけ。

 忘れてはならない、とても大事なこと。

 とても大事な、あの日々。

 あいつの笑顔。

 全てが。

 これまでの全てが、鮮やかに脳裏に甦った。

 首の傷口を布で抑えられながら、背後から身を抱かれた。

「馬鹿」

 息を吐き、少し笑って。

「ごめん」

 囁いた。

 意識が遠退き、前屈みに倒れかけた身をぐっと後ろに引き寄せられる。

 彼女の体温を感じる表面と、冷えていく己の芯を感じながら。

「止血が間に合わん…!死ぬなよ!」

 燕雷の声は既に遠い。

「雨戸を開けろ。月明かりを入れてくれ」

 波瑠沙が彼に言った。戸を開ける重い音が庵を揺らした。

 差し込む、仄かな明かり。

「大丈夫だよ。死にやしない。寝てろ」

 頷いたのか、意識が落ちたのか。

 夢も見ずに眠った。


 朦朧としたまま二日過ごした。

 粥を口の中に流し込まれて現実に戻る。

 波瑠沙が椀と匙を持って口元を注視している。

 飲み込んで、口を開く。

 繰り返しているうちに、冷え切っていた己の体温が戻るのを感じた。

 首筋の鋭い痛みも。

「波瑠沙」

 掠れ、呼気だけの声。

 彼女は少し驚いた風に目を見開いて、そして頷いた。

「戻ってきたな」

「うん…」

 頷くという行為は固定された首では出来ず、言葉で応えて。

「つまらない言い訳を聞いてくれる?」

 彼女は微笑んだ。

「お前が喋れるなら」

 懺悔の時だ。

 何から言うべきか。

「俺と母さんは心中しようとしたんだ。お互いに刀を持って、お互いの首を斬ろうとした。…いや、斬った。確かに斬ったんだ。だから母さんは死んだ。俺の手で」

 淡々と喋りながら、涙が落ちる。

「そうしなきゃならない訳も分かっていた。母さんは散々男に犯された後だったし、俺は数え切れない程の人を殺していた。生き延びても首を落とされるだけだし、母さんは地獄の続きを見るだけ。なら、ここで死んだ方が良いって、子供でも分かった。父さん…燈陰は戻って来ないからもう死んでると思っていたし、なら家族みんなで向こうに行こうって。その方が絶対に幸せだって、そう信じて」

 泣いているが、不思議なほど息は落ち着いていた。

「…結果は見ての通りだよ。それだけじゃ俺は死ねなかった。母さんだけが死んでた。それを俺は…死ねなかった俺はじっと見てた。頭も体も止まってた。馬鹿だよな。その時にすぐ後を追えば良かったのに」

 出来なかった。

 呆然と、現実か悪夢か分からない場所で息をしていた。

「燈陰はそこを見たんだろう。呼びかけられたような気がする。でも動けなかった。声も出せなかった。丁度今までの俺と同じだ、…あの時の続きを俺は見てた。だから死ななきゃ、って…」

 疲れを感じて瞼を閉じ、遠くに行きかけた意識をどうにか戻して。

「だから、馬鹿な事をしてた。ごめん。迷惑かけた」

 波瑠沙は頷いた。

「よく、分かったよ」

 頬を、両手で包まれる。

「だけど朔、それはお前のせいじゃない。お前は母さんを殺したんじゃないよ。それは彼女の考えだったんだから。その望みに手を貸しただけだろ」

 光を失って久しい目を、じっと一点に留めて。

 そう言って欲しかった自分を、殺したい気分で。

「お前が死ねなかったのは、それも母さんの願いだよ」

 ゆっくりと息を吐き、瞼を閉じる。

 耐え切った心が、休息を求めている。

「おやすみ」

 幼い頃に聞いた母の声に重なった。



 野山や川で遊ぶ楽しい夢から放たれて。

 現実は、痛みと共に襲ってきた。

 首筋の痛み。触ると、赤い粉粒が指に付いてきた。瘡蓋が爪に弾かれて、また血が滲んだ。

 怪我。何の怪我だっけ。

 思い出しながら意識をもう少し外側に向ける。

 転がる床に赤い液体が広がり、頬を濡らし、衣を染めていた。

 なんだ、これ。

 更に視線を巡らせる。

 目の前で誰かが倒れていた。

 誰かが。

 一度訝しんで眉を顰め、よく見ようと身を起こした。酷く重怠かったが。

 倒れている顔を見て。

 それが誰なのか、何があったか――思い出せない。

 ただ、起き上がろうとした時、自分の手の中に何かがあって邪魔だと思った。

 視線を下ろす。

 血に濡れた短刀。

――俺が持ってた?

 そして、この人を?

 なんで?

 え?

 この人はだれ?

 いや、その前に。

 おれは、だれだ?

 全身が震えだした。歯が鳴る程に。

 背後で物音がして、びくりと大仰に体が反応した。

 振り返るのも怖かった。

 人殺しだと言われる。絶対に。この状況では。

「朔夜」

 誰。その名前は。

「お前――」

 その先の問いは聞けなかった。

 耳を塞いだ訳ではない。発せられる事が無かったのだ。

 更に遠くで、ざわざわとした物音が聞こえた。

 声の主は舌打ちして、がちゃんと派手な音をさせて床に何かを落とした。

 己の横に、刀が置かれていた。

 そのまま黙って立ち去る。酷く急いで。

 置かれた刀の意図など汲み取れる筈も無く。

 その場で呆然とし続けた。

 やがて、物音はそこら中に広がり、すぐ近くで人の足音と声が聞こえてきた。

「女と子供は連れ帰れ!男は殺せ!銀髪の者は生きて捕えろ!」

 何度も呪文のように繰り返される叫び。

 銀髪。

 ぎこちない動きで己の髪を摘む。

 白銀の輝きは、血と泥で汚れていた。

「居たぞ!」

 すぐ背後で怒鳴り声が上がった。

 大人の足が、己を囲んだ。

「お前か、苴軍を壊滅させたという者は」

 一体、何の事だろう。

「信じ難いな。子供だ」

 ぐっと顎を掴まれ持ち上げられる。

「そこの女とそっくりだな。親子か」

「母親を殺された衝撃で硬直してるのか?」

「いや…首を斬られている。短刀だ」

 男達の目は、少年の右手に集まった。

 血に濡れた短刀を力無く握っている。

「自分の母親を殺したのか」

 嘲るような口振りで。

 何を言われているのか――理解は出来ない。

 だが、頭のどこかで、その言葉は刻まれた。

 いつか理解すべき言葉だと。

「連れて行け」

 男達が動かぬ身を抱え、持ち上げる。

 幾つもの屍が転がっていた。それらを踏んで男達は進む。

 何も思わなかった。

 炎と血の海の中に舞い散る桜だけは、綺麗だなと思った。


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