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月の蘇る-6-  作者: 蜻蛉
第三十四話 梁巴
28/53

6

 今までの事が嘘だったかのようによく眠っている。

 体力的にも疲れ果てて限界だった所に、安心して眠れる場所が現れたのだから必然なのかも知れない。

 故郷は己に牙を向けないと分かったから、安心したのだろう。

 波瑠沙は隣を起こさないように起き上がった。そう言えば結局、裸のままだ。そういう話にもならなかった。案の定そのまま眠ってしまったから。

 流石に肌寒い。自分の衣を羽織って、相手のは毛布の上から掛けてやった。

 炉の火は灰になっていた。薪を置いて、新たに火種を入れる。

 時間に余裕はある筈だ。今日一日寝かしたって良いだろう。どう考えても心身の回復が優先だ。

 ぴったりと閉めていた戸を開ける。眩しい朝の光が差し込んだ。

 輝く郷里。目を細め、微笑む。

 あいつを産み、育んだこの場所は、きっとあいつを生かしてくれるだろう。


 手紙を見せられて、両親はやっと息子が泣きじゃくる理由を知った。

 華耶は春音を捨てた。そういう言い方はしたくないが、彼自身はそう感じている。

 一方で自分達への手紙には、素っ気ない程簡潔に彼女はこう書いている。

 次期灌王鵬崇王子を養育する事になりました。こちらの心配は無用です。春音をよろしくお願いします。

「どういうつもりなんだろ」

 肩を落とし気味に桧釐は妻に聞いた。

 里音に乳を含ませながら、彼女はきっぱりと答えた。

「決まってるじゃない。華耶ちゃんは権力を選んだのよ」

「権力?」

 彼女に一番似合わぬ言葉だ。

「灌の王様は愛人だらけなんでしょ?その中でのし上がっていくには、子供を産む事、その子供を王位に近付ける事。こんなの後宮の常識よ」

「そうだけど」

 彼女にそれは出来ない。

「だから、王位の定まっている王子様を養育して女達の上に立つ事を選んだ。違う?」

「そんな事が出来るのか?皇后を差し置いて」

「出来るでしょう?彼女の容姿と気立てなら。王様はもうぞっこんなのよ」

 夫は顔を顰める。当然だ。彼女は主人の最愛の人であり、自分の憧れの人だ。

「女は強いのよ。あなたが思ってるよりずっと。でも勘違いしちゃ駄目。彼女は夫の事を忘れて捨てた訳じゃない。寧ろ守ろうと思えばこそ、体は他の男にやった。そうだと思う」

「分からん。それで守れるものがあるのか」

「あるじゃない。目の前に」

 壁越しにも春音の泣き声は聞こえてくる。付き添う十和もかける言葉を無くして泣くに任せるより無い。

「考えようによっては、彼女は灌王とその次の王様をも手中に納めた事になるのよ?」

「…権力か」

「灌を手懐ければ戔もついて来る」

 そこまで計算しているのか。あの、純朴で美しかった彼女が。

 春音を守る為。その為だけ?

 まだ奥がある気がする。

「女は怖いとはよく言ったものだが」

「怖いとは失礼ね。強いのよ」

「敵も多く作るだろう。大丈夫なのか」

「直接手出しは出来ないでしょう。何せ王の愛妾なんだから。その上で戦っていく気なんじゃないかしら」

「…強いな」

 そこは認めて、改めて手紙を見る。

 一体、どういう感情でこれを書いているのか。

 想像は出来ない。ひしひしと決意だけは伝わる。夫と幼馴染がそうであるように、己も修羅の道をゆく、と。

「何か出来る事は無いか」

「私達に出来るのは、春音を立派に育てる事。いつでも国王になれるようにね」

「お前…!?」

 そこまで考えてなかった。

「何があるか分からないわよ?都から人を呼んで頂戴。北方語を教えられる人」

「そこまで!?」

「芸は身を助くって言うじゃない。あの子の父親くらい堪能になったら将来何かと使えると思うわ。でも、都から睨まれたら面倒だから、あくまで内緒でね。都に対してはあの子は王に相応しくない子という事で通します」

「…分かった。お前がそういう覚悟なら」

「私だけの覚悟じゃないわよ。華耶ちゃんの覚悟よ」

 女は強い。桧釐は頭の中で繰り返した。

 於兎は満足した里音を寝かせると、襟元を直して立ち上がった。

「さ、王子様にも覚悟を決めて貰いましょ」

 まだ四歳だぞ、と反対しかけたが、飲み込んだ。

 多分これは歳など関係ない。早く己の行く先を定めた方が勝ちだ。

 わあわあと泣く声は、実母を目にして途切れた。

「龍起殿下」

 於兎は敢えてそういう呼び方をした。

 聞き慣れぬ呼び名を一番身近な人から聞かされて幼い顔は戸惑っている。

「あなたのお母様は、あなたを捨てた訳ではありません。賢いあなたには分かる筈。あなたを強くする為に、あえて突き放したのよ」

 泣き顔は不満そうに顰められる。四歳に解る話だろうかと桧釐は訝りつつ後ろで見ている。

「強くなるには、いつまでも母に甘えてたらいけません。自分で起き上がってごらんなさい。泣いても良いし、助けてって誰かを呼ぶのも良いの。とにかく自分の力で一歩踏み出すの。分かる?」

 こくりと頷く。そして訊いた。

「つよくなったら、母上はかえってくる?」

「もちろん。でも、自分の力で呼び戻すのよ。あなたが王様になればそれができる」

「おうさまに…」

「でも今はあなたを王様にしたくない人がいっぱい居て睨んでる。だから、あなたが強くなるまでは王様になりたいなんて言っちゃいけない。そんな振りもしてはいけないのよ。他人の前では、馬鹿な子の振りをするの。あなたの賢さを見せてはいけない。出来るかしら?」

「そうしないと、王様にはなれないんだね」

「そうよ。でも家の中ではたくさんお勉強して、刀の稽古もたくさんしなさい。そうすれば王様になれるから。ねえ、あなた?」

 突然振られた桧釐は頷くしか出来なかった。

 疑念と反論は沢山あるが。

 桧釐の内心など知らず、春音は立ち上がると自分の木刀を持ち出した。

「おじさん、けいこしてよ」

 初めて正面から何かを頼まれた。

「勿論、やってあげるわよね?」

 於兎に念を押されるまでもない。

「まずは北州で一番強い男にしてやる。若い頃の俺のようにな」

 笑って、自分の木刀を取りに動いた。


 高級な墨の香りに包まれて、二人並んで手習をしている。

 帝王学が記された、ずっと昔の書物を写し書く。

 華耶には分からない言葉だらけだったが、鵬崇は慣れたものでさっさと終わらせた。

「若様は流石でございますね。私なんてほら、まだ半分もいってないのに」

 十一歳の少年は笑って、華耶の筆をひょいと取った。

「良いんです、こんなもの。休憩がてらお茶にしましょう」

 少年は言って、後ろに控える女官に茶の準備を申し付けた。

「私を育ててくれるというから、厳しい先生が来るのかと思ってたら、一緒に勉強をしてくれる人だとは」

 華耶は恥じらって笑った。

「ごめんなさい。私がお教え出来る事なんて何も無いから、せめて一緒にお勉強をと思って」

「嬉しいんです。私はそういう人が欲しかった。兄上も戔に行ってしまったし、弟達も一緒にはして貰えないから」

 澄んだ瞳を向けて、彼はにっこり笑う。

「兄上が羨ましかったんです。婚礼の時にご挨拶させて頂いて、こんなに綺麗で優しい人が居るのかと思ってたから。兄上があなたを母上と呼べると知って、私も一緒に戔に行きたいと思っていました」

「まあ。お上手を仰いますね。私はどうお返ししたものやら」

「母上とお呼びしても良いですか?」

「願ってもなき事です。どうぞ、お好きに」

 無邪気に笑って彼は運ばれてきた茶に手を伸ばした。

「灌の特産品です。特に南部産は美味しいですよ。土が良く合うんだそうです」

 香り高い緑の匂いを嗅いで。

 賢く自国の知識も豊富だが、如何せんまだ幼い。

 人恋しいのだろう。これまで両親の愛情を受けてきたとは思えないから。

 鵬岷も同じようだった。だが兄と違うのは、この子は実の母親の愛情を全く知らない。そういうものだと思っている。

 母とは、己を取り巻く大人の一人に過ぎないと。

 日中は彼に付き添い、夜の挨拶を交わすと自室に戻る。

 王の入室と共に、妾としての顔をする。

 憎悪は忘れ、淫らな時を過ごしながら。

「鵬崇が母と呼んだと聞いたぞ」

 女官からの報告があったのだろう。

 喘ぎながら頷く。

「若様がそう呼びたいと」

「良い事じゃ。お前の寂しさも癒されよう」

「陛下とこうして交わっておる以上、寂しくは思いません」

()いことを言うようになったの」

 そこからは自由に喋らせては貰えなくなった。断続的に高い声を上げて、相手を満足させる事に集中する。

「心変わりの理由は是非知りたいものだな。最初は石のように頑なだったのに」

 今は答えられない。考えておけという事か。

 急に外から扉が叩かれた。声を抑える。

「なんだ。かような時に」

「大変申し訳ございません。しかし、火急の用にて」

 入ってきた武装の男は淫らな二人の様を目に入れぬよう跪き俯いて告げた。

「皇后陛下がお倒れになったとの(よし)。高熱でお体が弱っておられ、是非とも今すぐ陛下にお会いしたいと仰せのようです」

「なんだ、そんな事か」

 王はあしらった。言いながらの動きに華耶は耐えられず声を上げた。

「後で行くと伝えよ」

「は。失礼致しました」

 男が去ると、王は笑った。

「我慢せずとも良いのに」

 恥じらいに顔を染めて首を横に振る。

「ま、じき慣れる」

 終えても王は動く気配が無い。

「皇后様は大丈夫なのですか」

「どうせ嘘だ。いつもの手だ」

「はあ…それならば良いのですが」

 そうやって何度も彼女を泣かせるうちに、あのねじ曲がった性格が生まれたのだろう。

「戔では事の最中に急用など入らなかったのだな」

 この王はそれだけ底意地が悪い。

「優秀な女官が居りましたので」

 あっさりと華耶は返す。

「その頃が恋しいのではないのか」

「そうではないと申し上げれば嘘になります。しかし時は戻せませぬので」

「ならば更なる快楽に身を沈める事にしたか」

「愛ゆえにございます。生ける者の為に」

「成程」

 心変わりの理由はそれで満足したらしい。

 しかし続く言葉に華耶は鋭く息を吸った。

「皇后が言ってきおった。灌も悪魔狩りに参加せよ、と」

 恐々、王の顔を見て。

「如何なされるのです」

「お前はどう思う」

「なりません」

 言い切った。

「皇后様は私への当て付けで言っておられるのです。先日、はっきりとそう聞きました。そのような事で国を動かし、犠牲を出すなど愚かです。お止め下さい」

 王は探るように見返してきた。

「お前、あの悪魔殿の事をどう思うておる?」

 そうだ。それが重要なのだ。

 だからこんな回りくどい方法を取った。

「過去の事は過去の事。今は、陛下の側女としての私しか居りません。何とも思っていません」

「本当に?」

「あなた様が私をそうしたのでしょう?」

 挑むように言うと、男の満足気な笑みが浮かんだ。

 抱かれながら、耳元に囁く。

「悪魔の恐ろしさは、私もよく知る所…。兵を出してはなりませぬ。犠牲を出しては…」


 温かな陽を浴びて、雪も心も解けてゆく。

 ぬかるむ草原の中を歩き、朔夜は吸い込まれるように一つの場所で足を止めた。

 黒く焦げた柱がどうにか立っている。その上に積もっていた雪は溶けて雫を降らせていた。

「…ここ」

 波瑠沙は何も言わせず頷いた。表情を見れば分かる。

 泣きそうに歪む顔は、ここに住んでいたその頃のままの顔だろう。

 覚束無い足取りで中に入っていく。尤も、柱があるという以外は外と何も変わらない。草花を掻き分けて、何もない空間を彷徨い歩く。

 それでも、探せば物質はまだ残っているもので。

 その場に座り込んだ朔夜の手には、泥に塗れた食器の欠片があった。

「母さんの作る料理は何でも好きだったよ。でも野菜がちょっと嫌いだったから、それを言ったら燈陰に怒られた。それが面白くて野菜嫌いが身に付いちまった」

「あーあ。親父は余計な事したんだな」

「他には何にもしない癖にさ」

 また、辺りを見回して。

 錆びた刀が落ちていた。

 鞘に入った形で。刃渡りはすらりと長い。

「その駄目親父の刀だ」

 抜こうとしたが、中まで錆びついていて無理だった。

 思い出せない。これは置いて行ったのか。別の刀を持って行った?そんなに持ってたっけ。

 波瑠沙が手を伸ばしてきたから渡した。

 彼女の力で錆は動いた。

 刀身の全てが茶色に染まり、穴が開き、今にも崩れそうだ。

 朔夜は鼻で笑って、返された刀をその場に捨てた。

「何も残ってないよな。当たり前だ。もう十三年も前だから」

 寧ろ、何が残っていて欲しいと期待したのか。

 自分でも分からない。何を見たくて、或いは見たくなくて。

「良かった…何も無くて」

 空虚な安堵の言葉だった。

 言いながら、視線は一点に吸い込まれた。

 地面の中に、陽光に反射するものがある。

 目を見開いていた。頭の中では拒絶しながら、何故か手を伸ばしてしまった。

 短刀。

 鍔元だけが鉄の色を残して光を反射している。あとは錆びていた。

 血錆。

 気付いた途端、雷に打たれたかのように体が震えて。

 刀を手にしたまま地面に突っ伏した。

「朔!?」

 波瑠沙の手を恐れて逃げた。逃げて、転んで、口からは言葉にならぬ声を喚きながら、ぬかるみの中で手足をばたつかせて。

 一番、苦しい傷に相対したのだと、波瑠沙は悟った。

 見守るしか無かった。

 ここまでずっとそうだったように。

 力尽きて、地面の上にぐったりと四肢を投げ出して、荒い呼吸を繰り返す。

 錆びた短刀は手放していなかった。

「お前の刀か」

 上から波瑠沙は問うた。

 朔夜は頷いた。

 まだ震えながら、光の無い目は何かを見ている。

 過去の己を。

「思い出したのか」

 すぐには反応が無かった。

 意識ごと、過去に連れて行かれたような。

 波瑠沙は震える体に再び手を伸ばした。

 今度は拒まれず、寧ろ動く力も無く、ぬかるみから体は浮いた。

 庵に帰る。

 風呂桶に代わりそうな大きな盥を見つけたので土間に置いておいた。まだ使えそうな鍋も見つけていた。

 鍋で湯を沸かしつつ、泥に塗れた衣を脱がせる。

 目は開いているものの、一切自分の意思を無くしたように動く事は無かった。

 震えも止まっていた。虚脱した表情だけ。

 湯と水を盥の中に入れて、そこに体も入れて、泥の付いた手足を洗ってやる。

 嘘のように冷たかった体温が、少しずつ元に戻る。

 止まっていたかのように音を無くしていた呼吸も戻ってきた。

 洗いがてらに顔を撫でると、何かから解き放たれたように視線が動いた。

 揺れる瞳が今の状況を把握する。忙しなく動いた後、ひたと波瑠沙の顔を捉えて。

 再び苦しさに溺れそうな顔で言った。

「…俺だった」

 え、と顔を顰めて問い返す。

「やっぱり、俺が、この手で…」

 胸の中に押し当てられた嗚咽。

 包んでやるしかない。

 壊れないように。

 決して、壊さないように。


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