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月の蘇る-6-  作者: 蜻蛉
第三十四話 梁巴
27/53

5

 まだ雪の残る山道を辿る。

 進めば進む程に白の面積は広くなる。道幅は狭く、険しく。

 そして進む程に朔夜の口数も減った。喋る体力も惜しいのかも知れない。

 最早、薬は少しも体に作用しなくなって、一晩中夜空を眺めている。

 ものを口にしても、気分が悪くなって吐き出す。今は塩を溶かした水だけで生きているようなものだ。

 それでも目の底はぎらぎらと光っている。

 己の生きる意味を見据えるように。

 波瑠沙はそんな相方から目を逸らし、馬上から上を見上げた。

 行く手に聳える白い山脈。

「梁巴はどのへん?」

 軽く訊くと、朔夜の手が一方を指差した。

 今進む方向より右手側に、山脈が低まった場所がある。

 急峻な山脈の中で、唯一通行可能な場所。

 それ故に独立を保ちながら独自の発展を遂げるも、人々の欲望がそれを許さなかった場所。

 今や、忘れ去られた戦場。

 そこで生まれた――

「来た」

 短く波瑠沙が告げた。

 その彼女の居た場所に矢が通り抜ける。

 大きく体を馬上で(かし)げてやり過ごし、背中の刀を抜いた。

 矢の雨。大刀を振り回し、叩っ斬っていく。

 そこを無事に切り抜けると、二撃目は無かった。

 朔夜の姿は既に無い。代わりに木の上から人の首が落ちてきた。

 恐怖を誘う光景だが、波瑠沙は鼻で笑って刀を構え直した。

 行く道と来た道、そして横の山林から一斉に敵が飛び出してくる。

 総勢で百は下るまい。二人相手に、だ。

 向かってきた敵に馬上から刀を一閃させる。右に左に、わらわらと縋り付く敵を一掃していく。

 その輪の中に、銀色の刃が落ちてきた。

 弓兵を片付けた朔夜が樹上から飛び降りてきたのだ。着地しながら敵を斬り下ろし、直ぐに刀を薙いで目前の敵を仕留める。

 上から波瑠沙の大刀が、下から朔夜の双剣が敵を攻めてゆき、圧倒的な人数の差がありながら二人に傷を付けられる者は居ない。

「退け!撤退だ!」

 輪の外から号令が掛かった。この不可思議な形勢不利は逆転不能と見たのだろう。

 去ってくれるなら別に良いやと、波瑠沙は敵が逃げるに任せた。

 馬上から見る顔はどれも怯えていた。誰しもこんな訳の分からない任務で命を落としたくはないだろう。

 撤退の号令を潮に彼らの顔に安堵が過った。

「行けよ。もう来んなよ」

 戯けて彼らの背中を言葉で押してやる。もう刀を動かす気は無い。それでも歯向かってくる者が居るのなら別だが。

 逃げ去っていく。

 その背中を。

 銀の風が切り裂いた。

 朔夜は逃げる敵を仕留めつつ誰よりも速く走り、号令を掛けた敵の司令塔へと向かって行った。

「仕留めろ!殺せ!」

 焦る声が兵を動かす。

 それを嘲笑うかのように。

 血潮が高く舞った。

 双剣と、見えぬ刃が次々と残る敵を片付けてゆく。

 退却してきた兵は行き場を失い、それでもまた戦う者と何処へともなく逃げる者とに分かれた。

 殺せと怒鳴る声だけが響く。指揮も何も無い。

 戦ではない。殺戮の場。

 兵が残り少なくなって、率いていた将は馬首を返した。漸く逃げねばならないと気付いたのだ。

 何故だ、と声に出さず叫んでいる。敵は一人なのに。それも、見た目には年端の行かぬような小さな子供。

 朔夜は相手をしていた雑魚をさっさと蹴散らし、馬を走らせかけた将へと見えぬ刃を飛ばした。

 背中から血を噴いて落馬する。馬は勝手に故国目指して走って行った。

 倒れた視界に、そのたった一人の敵の顔が入ってきた。

 造形は子供のそれでありながら、蒼白の顔と銀髪が人間離れした雰囲気を出している。

 碧眼は何処か虚ろでありながら、炯々と光っている。

「苴軍だな?」

 少年の声で悪魔は訊いた。

 頷く。何でも良い、この恐怖から逃れたい。

「誰の命令?」

 答えねば。そうでなくては、殺される。

「陛下だ。直々に、陛下からの命令を承った」

「どうせ王様の後ろに誰か居るんだろ」

 それは比喩ではなく、見た光景そのままに男は答えた。

「皓照殿…」

 朔夜は刀を振り下ろした。

 心臓は一撃で貫いた。抜いた刀を、また突き落とす。

 滅多刺しにして。

「何の意味があるんだよ、それ」

 冷静な波瑠沙の声に口元を歪めて。

 力が抜けて、座り込んだ。

 風が血に濡れた銀髪を散らす。

 返り血に染まる顔に表情は無い。

 死人のようだった。

「自分で殺しに来れば良いのに」

 その顔のまま吐き捨てた。

「皓照が?」

「奴じゃないと俺は死ねない」

 波瑠沙は否定せず、隣に座って肩を抱き、頭を抱えた。

 泳がされている。申し訳程度に兵を送りながら。

「丁度良いじゃねえか。戦うべき敵は繍だろう?」

 答えず――答えられず、一度彼女の中に深く身を預けた後、立ち上がった。

 林の中で草を食んでいた馬を取りに行く。

 その後ろ姿を見ながら波瑠沙は息を吐く。

 もう、己の敵すら見失っている。

 見ているのは、己を殺してくれる存在。

 終わりにしてくれる誰か。

 馬に跨って朔夜は帰ってきた。

 行く手を見据える。

 雪を抱く山は、静かに待っている。


 日暮れを受けて、雪解け水が小さな流れを作る傍らに夜営の支度を始めた。

 火を焚かねば凍えてしまう。枯れ木と枯れ草を敷き詰めて火種を放ったのは波瑠沙だった。

 相方はもう動けなかった。膝を抱えて顔を伏せている。

 浅くとも眠りに落ちていれば良いが、聞こえる息遣いは嗚咽に近かった。

 毛布を背中に掛けてやる。前面は焚火が赤く照らしていた。

 布を水に浸して絞り、返り血に固まる銀髪を拭いてやる。

 艶を戻した銀色は、炎の色を反射した。

 華耶に切って貰ってから半年あまり。長さは肩より下になった。風に光りながら靡く、波瑠沙の一番好きな長さだ。

 髪留めの組紐を解いてその手に握らせる。

 由来は聞いている。子供の頃に華耶とお揃いで作ったのだと。

 彼女を救えない無念すら、今の彼には後回しなのだろう。

 立ち向かう山は屹立している。その全容が見えない程に。

「朔」

 呼び掛けて、顔を上げさせた。

 汚れた顔も拭いてやる。

 目の光は消え去っていた。ただ、虚ろな穴。

 吸い込まれそうな奈落にも思えて。でも、一緒に飛び込んでやる気は無い。

 自分は上で命綱を握っている。今やそういう関係。

 横になるには底冷えが酷いので、座ったまま二人で毛布を巻きつけて体温を分け合った。

 澄んだ空気の中で瞬く星は綺麗だった。


 どれくらい殺したのか。

 手当たり次第に人を斬った。斬り続けた。それが誰なのか最早関係無かった。

 化物、と呼ばれた。同時に飛んできた刃物は身を斬った。

 赤い血が溢れる。赤いんだ、と意外に思いながら。

 痛みは無かった。次の瞬間、その相手の息の根は止まっていた。

 無意識に身は苴軍の本陣に在った。敵がたくさん居るところを目指していたらこうなっていた。

 生ける者が居ない。

 敵が居なくなった。つまんねーの、と嘲笑って。

 傷は服に血染みだけを残して消えていた。

 疲労感が襲う。その場に倒れる。

 燦然と輝く星空の下で、篝火が延焼して燃える炎に照らされる桜が花を散らしている。

 綺麗だな、と思った。

 散り落ちた花弁は血の海に浮かんだ。

 こう美しい地獄で息絶えるなら悪くないだろう。

 それは己が命を奪った敵に対してか、それとも自分自身なのか。

 判然としなかった。でもこのまま死にたいとは思った。

 それは叶わぬだろう。誰に何を言われた訳でもないが知っている。この身は死なない。

 濁流に流されても生きていた経験は既にある。否、一度死んで蘇った。その違いは自分の中ではっきりと分かっていた。

 俺は死なない。死ねない。

 じゃあ、皆は?

 母さんは?

 起き上がる。久しぶりに完全に人へ戻ると、背負う空気だけで身が潰れそうだった。

 ふらふらと立ち上がって。倒れそうな体と、屈しそうな足を叱りながら。

 生まれ育った村へと戻った。


 肩を寄せ合う隣から寝息が聞こえた。

 波瑠沙は座りながら器用に眠っている。何処でも眠れるのは軍人としての慣れと鍛錬だろう。

 そういう自分も寝ていた。疲労が頂点に達して気を失っていただけだと思うが。

 彼女の硬質な肉体に寄りかかりながら、燃え続けている火を眺める。

 夢として記憶は蘇り続けている。だけどこの先を見る勇気は無い。

 この目が一体何を見たのか。己の頭が自己防衛として抜け落とした記憶を、直視したくは無かった。

 ただ、自分には選べない事だ。嫌なら眠らなければ良いのだが、こうして拒み続けていても生身の体である以上こうして意識を失う訳で。

 正気を保ち続けられるのだろうか。

 俺が、俺のままで。

 それが叶わぬ事を何より恐れている。

 大丈夫だ、と。

 懐かしい声が聞こえた。

 その声で聞きたかった言葉。ずっと。

 あいつは近くに居てくれる。

 目を閉じる。噛み締めるように、耳朶の奥でその響きを繰り返して。

 ――朔夜。

 大丈夫。きっと。お前は守れるよ。


 二日、山道を登り続けた。

 木々が鬱蒼と繁る分、夕刻になると闇が迫るのが早い。

 表向きに戔と繍に国交が無くなって久しいせいで、人々が行き来する事が無い。だから道も整備されていないのだろう。

 近年ここを行き来したのは、藩庸ら反体制派だろう。

 珠音もこの道を通って桓梠の元へ行った筈。

 桓梠もまた、この道を通って戔に入っていたのか――

 刀を抜いていた。

 馬上から届く草を斬りつける。

 枯れ草と葉を芽吹かせようとしていた茎がいっしょくたに荒れ狂う風の中に舞った。

「何イラついてんだよ」

 当然、波瑠沙に見咎められる。

「別に」

「まあこっちも別に良いんだけどさ」

 切羽詰まった相方とは対照的に、余裕の笑みを浮かべながら。

「香奈多さんの時はお前、散々馬鹿話で私を引っ掻き回した癖に、自分の事になるとこれかよ。狡いんじゃねえの?どうせなら楽しく行こうや」

「馬鹿話?」

「そう。あの時みたいにさ。こんな時に何言ってんだって話がしたい」

 それを無視せずに考えだすからこの相方は面白い。

 負い目があるから少しでも返したいのかも知れないが。

「思いつかない…」

「まあ考えて出来ることでもないよな」

 笑って、馬を寄せると腕を伸ばした。

 肩でも抱く気なのかと待っていると、急に人差し指が頬を突いてきた。

 完全に油断していて「ふあっ」と変な声が出る。

 けけけっと悪戯娘は笑った。

「大人になるとつまらんから、餓鬼のままで居てくれ」

「えー…」

 顰める顔は本気で嫌がってはない。

 口の端に笑いを残している。

 あれだけ餓鬼を否定していながら、いざ脱却となると多少寂しいものらしい。

「お前と馬鹿やってんのが一番楽しい」

 波瑠沙は言って、すぐ首を振った。

「一番は違うか。一番は、お前の体をいじめてやる時に恥ずかしそうに浸ってる顔を眺めてる時かな」

「そういう事言う!?」

「良いじゃん。二人きりなんだから。あ、そういう時のお前は自分で思ってるより百倍可愛い顔してるぞ」

「いやいやちょっと、そんなの言われたら恥ずかしくて出来なくなる」

「やるのはこっちだし?お前は受けときゃ良いんだよ」

「そうじゃなくて!」

 久しぶりに血色が戻った。耳まで赤く染まっている。

 こうじゃなくちゃと波瑠沙は笑う。

 これぞ馬鹿話だ。あの時の借りは返してやった。

 先刻まで滾っていた怒りは何処へやら。それで良いのだ。

「今夜くらいそろそろやらせろよ」

「嫌だよ寒い」

「あっため合うもんだろ?裸のまま寝なきゃ良いんだ」

「絶対、お前は面倒がるもん。賭けても良い。絶対そのまま寝る」

「私もそう思う」

「駄目じゃん。なんだよさっきの無意味な提案は」

「お前が一人で着ておけば良いんだろ」

「離してくれないじゃん!基本的に!」

「そのくらいの隙は与えてやるよ。しよーがないから」

「何がしょーがないだ!?」

 くだらなくとも凍死回避の為のそれなりに命懸けな言い合いをしていると、突然視界が開けた。

 木々が途切れ、広場のような場所に出る。

 焼け焦げ、朽ちかけた人家の跡が点在している他は、柔らかな草花で地面は覆われていた。

 夕陽を受けて、全ては橙色の優しい紗幕で覆われている。

 朔夜は馬を止めて、呆然とその光景を目にしていた。

 思っていたより――否、全く思い描いていなかったその光景は美しかった。

「ここがお前の故郷?」

 彼は小さく首を振って、その光景から目を離さず答えた。

「俺の村はまだ奥。もう少し行ったところ」

「行ってみるか」

 一瞬、怯えた目をしたが。

 頷いた。この光景にそう決めさせられた。

「梁巴はいくつかの村から出来ていた。互いに交流して、大事な事は代表者が集まって決めてたんだ。祭りの時は皆でその村に集まって、飲み食いしたり踊ったりして」

 知らず、言葉が溢れていく。子供の頃の楽しかった思い出が。

「それで俺も笛を吹いてた。皆が喜んでくれる。あの輪の中に入るのが楽しかった。一番好きだった」

 波瑠沙は笑みを浮かべて黙って聞いている。

「他の事では月神なんて呼ばれて変な扱いを受けてたけど、夜になって皆が踊り出せば平等だから。楽しかった。華耶がいつも隣に座って、笛を聴きたいからって」

 しょうがないなという笑い顔で波瑠沙は頷く。

「どれだけ今まであの夜に戻りたいと思ったか…」

 また視界が開け、一つの集落だった場所が姿を現した。

 今度こそ、完全に馬を止めた。

 落ちるように下馬して。腰まである草の中を泳ぐように走って。

 そのまま、草の中に沈んだ。

 波瑠沙も馬を降り、ゆっくりとその横へ歩み寄る。

 黄金色の草原。真っ白の雪を時々残しながら、それは何処までも続いている。

 焼け残った黒い跡は、白く優しく覆われている。

 きらきらと川が流れる。夕陽色に染まりながら。

 故郷に包まれて、朔夜は泣き崩れていた。

 恐れていた混乱は無かった。負の感情は何一つ湧かなかった。

 山河はただただ、優しかった。

 波瑠沙は隣に座って、震える肩を抱く。

「行こう?庵が建ってる。今夜は良い宿があったな」

 泣きながら立ち上がる。肩を抱かれて歩く。

 庵はまだ新しく見えた。誰かがこの地で住まおうと建てたのだろう。

 誰か――そんなの、一人しか居ない。

 庵の近くに、石を積んだ墓があった。

 一つ大きな墓標に、知った人の名前が刻まれている。

 その前で、頭を垂れた。

 華耶を。あなたの娘を。

 守って下さい。俺の代わりに。

 庵の中は板間が一つで、炉が切られている他は何も無かった。唯一、古い布団が端に押し込められている。

 波瑠沙は炉の中に火を入れて、布団を広げて点検した。

「まだ使えそうだよ」

 夜の支度はそれで整った。

 ちろちろと燃える火の前で温もり、まだ生きている井戸から水を汲んできて、旅と戦いに汚れた身を互いに清めた。

「なんか…あれだな、お誂え向きと言うか。誰かがこうなる事を予測して建てたみたいだ」

 波瑠沙の言葉に頷いて、朔夜は少し笑って答えた。

「そうだと思うよ。あいつはこうなる事を予測してた」

「あいつって?」

 分かるだろう、と笑って見せて。

 既に服を脱いでいた身を寄せ合い、腕を絡ませ合って。

 甘く、囁くように声を出しながら、一つの身となって褥の中に倒れる。

 やっと。

 両親に面と向かって言えそうだ。

 一生を共にしたい人が、こんな俺にも出来たんだよ、と。


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