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月の蘇る-6-  作者: 蜻蛉
第三十四話 梁巴
26/53

4

 筆を持つ手は止まっていた。

 我が子に返事を書かねばならない。でも一体何を?

 返せる言葉が無かった。己にかける言葉すら見つからないのだから。

 春音の手紙。

『母上へ。

 春音はよんさいになりました。おとのまーまと、かいりのおじさんがおいわいしてくれました。おとうともできました。なまえは里音だそうです。おれとおなじ音のかんじなのですぐおぼえました。いまは花音といっしょに里音のせわをしたり、あそんだりしています。

 でもほんとうはさくにあそんでほしかったです。もっともっといっしょにあそびたかったです。かたなのけいこもしてほしかったです。でもさくとはーさはたびにでました。しばらくかえってこないそうです。つまらないし、さみしいです。

 さくはかえってきたら、いっしょにははうえをむかえにいこうっていっていました。はやくかえってきてほしいな。

 でも、いちばんはやくかえってきてほしいのは母上です。春音ははやく母上にあいたいです。

 いい子にしてたらあえるって、おとがいうからいい子にしています。ほんとはたくさんいたずらしたいんだけど。

 じゃあ母上、げんきでね。またおてがみください。

            春音より』

 朔夜は行ってしまった。

 止められなかった。難しいとは分かっていたけど。夢の中で彼も言っていた。

 それを裏付けるような桧釐からの報告も読む。近況の羅列で感情を伺わせない。官吏らしい無駄の無い手紙。

 返事。我が子に返す言葉。

 引き続き、良い子にしていてね。

 いたずらなんかしたら駄目だよ。そんなことしたら桧釐のおじさんに叱って貰うからね。

 妹と弟を大事にしてね。たくさん可愛がって。花音とはそろそろ兄妹喧嘩しているかな。

 やっぱり筆は下ろせない。溜息の中で考えてしまう。

 こうして見ると、春音は普通の親兄弟に囲まれた幸せな子だ。何の不自由もなく暮らして。

 自分の存在が余計だった。

 私が母として名乗らなければ。

 忘れてくれたら良いのに。

 朔夜は一緒に迎えに行こうって?

 本当に?

 それなら帰って来るという事?

 ――否。

 春音を納得させる為だけの約束だ。実現させたい気持ちはあるのだろうが、可能かどうかは別問題。

 彼は分かっている筈だ。もしこの城まで辿り着いたとしても、その実現は難しい。

 それこそ、実力行使でもしない限り。

 事を大きくして他の犠牲を出す事になるから諦めた。自分も、彼も。

 でも、或いは、彼ならば。

 待っていてと言われた。

 必ず、迎えに行く。

 それは繍で桓梠に捕らわれた時に言われたそのままで。

 彼は言葉通りに迎えに来てくれた。

 自分が死ぬ覚悟で。

 だから、駄目なのだ。

 朔夜は実現させてしまう。どんな無理も無茶も押し通してやってしまう。己の破滅を恐れずに。

 そうなるくらいなら、この歪でも安定した状態で永遠を過ごした方が良い。

 だけど、それは全て今の危急を乗り越えられればの話。

 ――今のあいつは止められない。

 夢の中で夫は言った。

 自分が生きていればと、悔しい思いをして見ているのだろう。

 ごめんなさい、と彼に言う。

 私では力が及びませんでした。でも生きて欲しいと願うのは勝手でしょうか。

 首を横に振る。

 朔夜は死なない。何があっても。

 だから、やっぱり、春音の元に帰る筈。

 私の声が届かないその代わりに、未来への希望であるあの子の声は届く筈だから。

 突然、扉が開いた。

 目を見開いて入ってきた人物を見遣る。

 執務中である筈の王では有り得なかった。しかし他にこんな不躾な入り方をする者は居ない。

 その考えもまた甘かったと、その姿を見て悟った。

 灌王室皇后、燿蘭(ヨウラン)

「何を驚いた顔をしているの?」

 馬鹿にする笑みで彼女は言った。

「いえ…あまりに突然だったので」

 言い返すと、高笑いが降ってきた。

「それはこちらが言いたいわ。突然、挨拶も無くこの王宮に住まっているのは誰よ?」

「非礼はお詫び致します。この室より外に出る事は許されておりませぬ故、何卒ご容赦を」

「鍵も掛かってないのに?籠の中の鳥の方がまだ賢いわ。それとも与えられる餌に満足して飛ぶ事も忘れてしまった?あなたはそのような愚かな鳥?」

 視線を伏せて答える。

「飛び立った所で行く場所も無いというだけです。すぐに元の籠に戻されるでしょう」

「嘘をおっしゃい。売女の癖に」

 目を見開く。俯いたまま。

 怒りは表に出る寸前で飲み込んだ。

 何を言われても仕方ない。この人だって、哀れな女なのだ。

「あら、手紙?子供からの?」

 春音から贈られた、宝物のような一枚を、その手が取った。

 持たないで、と内心で反発する。あなたが触れて良いものじゃない。

 声にはならない。してはいけない。

「お情けのように与えられた子供でも可愛いもの?理解出来ないわ。実の子でも可愛いとは思わないのに」

「血の繋がりが無くても可愛くて仕方ありません。己で産んだ子ならば尚更でしょう。皇后様はお幸せです」

「私が母親失格だと言いたいの?」

「決してそのような事は」

 睨み付ける目は、嘲笑に代わった。

「母親になんかなりたくないわよ。勝手に他人の幸せを定義しないで頂戴。虫唾が走るわ」

「失礼致しました」

「私の幸せを邪魔しているのはあなたよ。分かっているの?分かっているわよね?それでいてその傲岸不遜な態度。夫を亡くしたばかりで悲嘆に暮れる未亡人とは思えないわ。まるで今の地位を前から狙っていたみたい」

「そんな筈ありません!それをしていたのはあなたの…」

 夫だと言いそうになって。

 どうにか堪えた。

 そんな事は分かっているとばかりに燿蘭は高笑いした。

「そうやって猿みたいにすぐ怒るのは変わってないわね。でも図星なんでしょ?怒るって事は。今の生活が楽しくて仕方ないんだわ、あなたは。王から王へ体を売って国を傾ける女。灌をどうやって滅ぼすつもり?答えなさいよ」

 唇を噛んだ。何も言ってはならないと思った。

 まともな言葉など彼女には届かない。捻じ曲げられて、更に鋭利な言葉となって周囲を傷付ける。

「こんな手紙」

 破ろうとした手が、止まった。

 華耶が止めようと動いた訳ではない。彼女は内容を読んで手を止め、唇を吊り上げた。

「そう。そういうこと」

 一人納得する言葉を告げながら、手紙を卓上に戻す。

 権威を示したいだけの大きな指輪を嵌めた手で、紙の上をなぞり、指を止めて。

「この、さく、って人」

 ぞっとするような憎悪の笑みを上げて。

「忘れていたわ。あなたに間男が居た事」

 その言い様に目を剥く。

 怒りはしかし、表には出せなかった。

 今度は皇后を哀れんだからではない。自分の感情が言葉を詰まらせた。

 朔夜に胸の傷を見せて。

 出来れば、そのまま。

 抱いて欲しかった。

「あなたの夫…戔王には愛人のように可愛がっていた悪魔が居ると聞いていたけど。あなたの幼馴染ですってね?三人でどういう関係だったんでしょう。興味があるわ。もしかしてあなた、夫から全然相手にされて無かったんじゃないかしら?だってそうよね、女みたいな見てくれの実は、本当に男じゃなかったって言うもの」

「謹んで下さい!彼への侮辱は許しません!」

 初めて華耶は怒りを露わにした。

 それすら可笑しい事のように皇后は高笑いする。

「ねえ、図星なの?教えて頂戴よ。あなたの夫が枕を共にしていたのはどっちなの?」

「私です!」

 怒りのままに華耶は言った。

「彼と朔夜はそんな関係じゃない!純然たる親友です!あなたの汚れた妄想を押し付けないで!」

「ああ可笑しい。汚れてる?でも事実でしょ?抱けもしない女を抱く訳ないじゃない。苴で何があったか知ってるわよ?化けの皮が剥がれたんでしょう?馬鹿な王子達に悦んで辱められてたんでしょ?子供の頃から兄に教えられてたお陰だって」

「もう止めてください!」

 耳を塞いで叫んだ。

 悔し涙が溢れる。

 耳を塞ぐ手を掴んでずらし、脳裏に吹き込むように。

「笑わせて貰ったお礼に良い事を教えてあげる。苴と戔は、共同で悪魔退治をするそうよ?」

 えっ、と。

 絶望の声が、口から微かに漏れた。

「灌もそれに乗るように陛下に進言してあげるわ。だってあなた、悪魔を使って灌を滅ぼすつもりでしょう?そうはさせないから」

 反論など出来なかった。

 何も向こうの言い分に正しさなど無いのに。

 声が出なかった。恐怖が震えになって。

「あら?間男を失うのが怖い?それはそうよね。もしかしたらあなたも悪魔に連なる者として処されるかも知れないもの。良い気味だわ」

 手首を掴んでいた手を離し、開いた手を横にして首に当てる。

「早く死んで頂戴ね」

 微笑んで、皇后は踵を返した。

 自分が首を打たれる事など何でもない。

 でも、朔夜が。どうして。

 彼が何をしたと?

「仲春…助けて」

 止められなかった代償?

「朔夜を…」

 卓上に手を組んで、己の腕の中に泣き崩れた。

 大きな悲しみを胸に秘めながら、太陽のように笑っていた。

 そんな彼に罪など無い。

 罪は、彼を追い詰める世界の方に。

 いつしか日が暮れていた。

 涙は止まらなかった。言葉にならない悔しさが水に姿を変えて止めどなく溢れた。

「何をそんなに泣いておる」

 王が背後に立った事も気付かなかった。

 気付いたのは、肩に置かれた手が下へ滑り、懐の中へ入ってきたから。

 意図しない息が漏れる。悔しさに拍車を掛ける。でも。

 その腕に縋り付く。

「お願いがございます」

 灌王は笑みを浮かべた。

「後で聞いてやろう」

 頷き、立ち上がって、自ら帯を解きながら寝台へ向かう。

「何でもします。させて下さい」

 待っていた瞬間が訪れたという、男の勝ち誇った笑い。

 そんな事で悔しさなど感じない。もう。

 これまで拒み続けていた足を開いて。受け入れて、腰を揺らす。

 籠の中の私に出来る事。惨めだけど、そういう生き物だから。

 嬌声は男の優越感を満足させる。恥じらいも消して声を上げる。精神的にも身体的にも快楽に溺れさせる。

 それが私に出来る戦い方。

 もう、彼を待っているだけという事は出来ない。

 ねえ朔夜?

 私、もう、守られるだけの女じゃないんだよ?

 あなたは望まないだろうけど。

『春音へ

 あなたが良い子にしていると知れて母はとても嬉しいです。これからも於兎母さんと桧釐父さんの言う事をしっかり聞いて、良い子にしていて下さい。いたずらは、ほどほどに。

 私からのお手紙はこれで最後。もうお手紙が書けません。あなたからのお手紙は読みたいけれど、それが叶うかどうか。

 やっぱり書かないで。あなたのお母さんは於兎さん。私は赤の他人。忘れて下さい。

 私はずっとあなたの事を覚えています。永遠に。私の大好きな、小さな龍。

 さよなら。

                    』



「あの二人を死なすのは、あんたにとっても避けたい事じゃないのかい?」

 哥王宮。王に対する無礼な口調を咎める者も居ない。二人きりの居室。

 女王は辛そうに瞼を伏せている。手元には書状が開かれていた。

 波瑠沙は燕雷の意に逆らって救援を求める言葉など何一つ書いていなかった。

 それを聞かされても、やっぱりかとしか思わなかった。半ば予想していた事だ。

 気位が高く、頭の回る彼女が故国に迷惑を掛けるような弱音を吐く筈が無い。

 それでそういう台詞になった。

 こうなったら直接哥王を動かすしかない。

「燕雷さん」

「なんだ?」

「自分の事ならともかく、他人の生死に関与する事は…私達にとって禁じ手ではありませんか?だからこそ私は龍晶陛下を救う事が出来なかった。それに関する伝言も出来なかった。私は宇宙の規則に則って彼を見送りました」

 燕雷は睨みつつ、はあ、と気の抜けた返事をした。

「俺に予知能力は無いんでね。そんな壮大な話は理解出来ないが…。でも、人としてのあんたが出来る事はあるんじゃないか?俺はそうしてくれと頼みに来た」

 明紫安は難しい顔をした。

「人として?何が出来ましょうか」

「いやいや、それは王様が考えてくれよ…」

 一国の王になどなった事が無いから、何が出来るかなんてさっぱりだ。

「燕雷さん、私の目は既に答えを見ているのですよ?」

 息を飲み、思わず真顔になる。

 未来。二人が生きるか死ぬかの、答え。

 だから何もしようとしないのか――否。

 そんな事があってたまるか。事の始まる前から諦めるなど。

「波瑠沙は娘同然じゃないのか。人の親なら子の危機に何が何でも助けようとする筈だ」

「軍を出す訳には参りません。出来る事は限られています」

「そんな事は分かってるよ!」

 怒鳴って、溜息を吐いて。

「済まん。あんたが悪い訳じゃないんだが」

「お気になさらず。王で居ながら無力な私が悪いのです。龍晶陛下と同じ悩みですね。この事、教えて差しあげれば良かった。私は決して卓越した存在ではなく、あなたと同じ悩みを抱えていますよ、と」

 燕雷は遠くを見ながら頷く。

 それで彼の無力感はいくらか救われていたかも知れない。全てがもう遅いが。

「何度繰り返しても後悔ばかりです」

 若葉の芽吹き始めた紅葉の木を仰ぎながら彼女は言った。

「運命を変える事は出来なくとも、もっと何か出来たのではないかと…そう自問自答する日々です。あなたには分かって頂けると思います」

「ああ。そういう後悔ばかりだ」

 そこから自分は始まったのだから。

「波瑠沙にお伝え下さい」

 女王は振り返って告げた。

「窮したら、いつでもあなたの家に帰っていらっしゃい、と」

「…帰れるのかな」

 母の顔で、彼女は微笑んだ。


(わらわ)に後宮を勝手に出るなと!?誰がそのような事を!?」

 燿蘭が金切り声で叫ぶ。

「陛下です、皇后陛下」

 無情に答える兵。彼を中心に近衛兵の列が出来ている。

 後宮と王宮の間での事。

「何故に陛下がそのような…」

 叫ぶ声は不意に止まった。

「あの女…」

 その気付きに(うなず)くように、兵は言った。

「本日より鵬崇(ホウスウ)王子の養育は王宮にて行われます。御承知おき下さい」

「我が子まで取り上げようと言うのか!?」

 兵は告げるだけの事を告げて去って行った。

 後ろで、女の怨嗟の声が響いている。

「だって、皇后様は我が子が可愛いと思えないそうです。鵬岷陛下の二の舞にしては可哀想ですから」

 夜、顛末を聞いた華耶は王にそう言った。

 既に一度目を終え、互いに寝そべりつつ身を寄せながら。

「鵬岷には確かに可哀想な事をした。鵬崇に会ってみて如何だった?」

「素直で可愛らしいお子様ですね。すぐに好きになりました。愛情の注ぎがいもあるというものです」

「戔の子に代わりそうか?」

「ええ。あの子の分も愛情を注いで良き王に育てます」

「お前が言うなら間違いないな。しかし親としての愛情は全て鵬崇に向けても良いが…」

「分かっております。女としての愛は、全てあなた様に」

 それを具体で示すように、男の体の上に覆い被さった。

 狡い?裏切り?いいえ、全て計算の上。

 生き残り、生き残らせる為なら何でもする。

 清らかなままで生きていけないのがこの世界だから。

 仲春、朔夜。私を見限ってくれて良い。

 でも私はあなた達を失えない。だから。

 いつか、遠いいつか。二人で馬鹿な私を笑ってくれたら嬉しいな。


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