ウシを食べにいかないか?
「ウシを食べに行かないか?」
竹川に言われて、俺は顔をしかめた。
「ケモノ肉はちょっと……」
ウシという生き物が、かつては食用として飼育されていたということは知っている。別に俺は潔癖症というわけじゃないから、その時代に生きていたらウシだってブタだってトリだって食ったと思う。
だけどタンパク資源の主流が昆虫食となったいまの時代、ケモノ肉を食べる文化は廃れて久しい。ケモノ肉を食わせる店が無いわけじゃないが、それはゲテモノ好き御用達であり、一般人には敷居が高い。
ところが竹川は自他共に認める相当なゲテモノ好きで、ゲテモノ料理をウリにしている店を見つけてきては、なぜか俺を誘うのだ。
「他に誘うやついないのかよ、なんか、ゲテモノ同好会みたいなやつとかさ」
「そんなのいないよ、いたって、よく知らないやつと飯食うなんて嫌だよ」
「ゲテモノは平気なのに、変なところ繊細なんだな」
俺は手の中にあるコーヒーを飲み干して、その紙カップをクシャリと握りつぶした。時計を見上げれば、休憩時間はあと5分ほど残っている。仕方なく、潰れたカップを弄びながら竹川の顔を見る。
「まあ、見知らぬやつと飯食うのが嫌だってのはわかったよ、でも、なんで俺を誘うんだよ?」
「一番見込みがあるからだよ」
「なんだよ、見込みって、ゲテモノ喰いの才能があるとか?」
「そう、あるね、才能。だって、海の魚を食いに行った時に、うまいって言ってたじゃないか」
「ああ、あれか」
去年の研修旅行は熱海だった。ゆっくり温泉に浸かったあとの宴席で、並べられた料理の中に刺身があった。
魚は日常の食卓に上るほど一般的な食材ではないが、珍味として海辺の観光地なんかで出されることがよくあって、だからケモノ肉ほどの忌避感はなかったし、確かに大喜びで食った記憶はあるが。
「まあ、あれは確かに美味かったよ、だからってケモノ肉が平気かどうかとは関係ないだろ、なんていうかケモノってさ、なに食ってるかわかんなくて気持ち悪い」
時計を見上げれば休憩時間はあと2分、そろそろこの話を切り上げたいところだ。
だけど、竹川はグッと身を乗り出して俺を説得する気満々だ。
「なに食ってるかわかんないっていうんならさ、魚の方が気持ち悪いじゃないか、海の中を泳いで海藻や、小さな虫や、もしかしたらゴミなんかも食ってるかもしれない」「ケモノだってそうだろ、豚なんかは、残飯を食わせて育てるらしいじゃないか」
「それはむちゃくちゃ昔の話だよ、食用のケモノは、ちゃんと衛生管理された専用の施設で、穀類や芋なんかを食わせて育てるんだ、ムシ肉並みに衛生的だぜ?」
「わかった、わかったよ」
ここで否定と説得を続けるには時間が足りない。すでに休憩終わりまで秒針で数えるほどなのだから。
「今回だけだ、一回だけ付き合うよ」
「本当か!」
「ああ、本当だ、だけど、本当にこれ一回きりだからな」
まあ、一回くらいならゲテモノも悪くない、少なくとも話のネタにくらいはなるだろう——そう思いながら、握りつぶした紙コップをゴミ箱に投げ入れた。
俺と竹川は畜産試験場の研究員だ。ここでは新たな畜虫の可能性を求めて、数十種類のムシが飼育されている。午後の作業は畜虫たちへの餌やりがメインだ。
体育館のように広い部屋には大きな水槽が13基、目視確認がしやすいようにガラスで作られている以外は、一般の畜虫場で使われている飼育枡と同じ大きさに作られたものだ。縦横は二メートル、高さも二メートル——二メートル四方のガラスの水槽。
俺は水槽のガラスに顔を近づけて、中を覗き込んだ。ここに入っているのはナコゾコキリムシ——食虫として品種改良を重ねて作り出された、ミルワームの亜種である。見た目こそミルワームのままだが、終齢まで育てると成人の脚くらいの大きさになる。今はまだ二齢虫だが、それでも大きさは大人の腕ほど。
水槽の中ほどまで隙間ないほどみっちりと詰め込まれたナコゾコキリムシは、ガラスをひっかくようにして身を泳がせていた。仲間の誰よりも多く餌をもらおうと、押し退けあい、折り重なり、絡み合って、ウネウネと無限に蠢く。
竹川が部屋の隅に積み上げられた配合飼料の袋と、手元のリストを丁寧に見比べていた。
「ナキゾコキリムシにはオオカワの配合飼料を食わせてくれ、ニシカワの乾燥朴葉に比べて食いが悪いって報告があってな、その辺、よく観察してくれ」
「わかった」
リストの端にボールペンでシャッシャッとメモを書く竹川は真顔だ。ついさっき嬉々としてゲテモノの話を語っていた男と同一人物とは思えないくらいに真剣な、『研究員の顔』である。
竹川は味覚が鋭い。澄み切っているというか、切れ味があるというか、試食の時に飼料の違いまでぴたりと当てるほどの並外れた味覚を持っている。あのゲテモノ喰いが食に対する探究心の表れであると考えるならば、彼ほど優秀な研究員はいないという事になる。
「まあ、コストの問題さえなければ、乾燥朴葉で育てた方が断然美味くなるよね。肉にした後も朴葉の香りがほのかに残るし」
言いながら竹川は、オオカワの飼料袋を無造作に開けた。朴葉の匂いが辺りに漂う。
「匂いは悪くないんだけどね、やっぱり、抗生剤が入っているせいかな」
竹川は指先で飼料を摘んで口に放り込んだ。
「うん、やっぱり少しえぐみがあるね」
これには流石の俺もドン引きだ。
「うわ、食った……」
「だって、別に毒性のある原材料を使っているわけじゃないし、食っても平気だろ?」
「まあ、食ったからって死ぬわけじゃないけどさあ、だからって、ムシの餌を食うか?」
「いや、逆でしょ、自分が食べないようなもの食って育てた肉、食べたいと思うの?」
「あ〜、それはちょっと嫌かも」
「だろ、ムシ肉が好まれるようになったのは、それが理由の一つだよ」
そしてこれこそが、俺がウシを食いに行きたくない一番の理由だ。
人間が飼育している畜虫の多くは虫種ごとに決まった種類の植物しか食べない。ナコゾコキリムシも原種は雑食性であったが、交配と選別を繰り返して朴葉を好んで食べるように改良されている。つまり配合飼料を作るにも原材料は一種類ないしは二種類の植物のみ、そこに栄養補助剤や抗生剤が少々。それを食って育つ畜虫の腹の中はクリーンだ。
それに比べてウシは、ちょっとばかり不潔なイメージが付きまとう。というのも、俺がウシを見たのは小学校の遠足で行った動物園の隅っこの、うらぶれたふれあいコーナーでのことで、それこそ何を食っているかわからない状態だったからなのだが。
動物園では干草を与えているということで、飼い葉桶には稲科の植物を乾燥させたものが無造作に突っ込まれていた。他にもとうもろこしや大豆やフスマなんかを食べるそうで、干草の下には正体の知れない粉末が乾いてダマになったものがこびりついていた。匂いもひどかった。狭い柵の中には両手に余るほどの大きな糞がいくつも転がっていた。一緒に入れられた羊や山羊の糞、それにケモノの体臭が混じりあって鼻を覆いたくなるような不潔な匂いがしていたことを覚えている。
それに比べるとムシは、大きなブロイラーの真っ只中にいても、植物特有の青臭さしか感じない。糞もケモノに比べると乾燥しやすく、適切な管理さえすれば腐敗したりすることもない。清潔感が断然違うのだ。
「だけど、昔はムシを食う方がゲテモノ喰い扱いだったんだってさ、なんでかわかる?」
そう言いながら竹川は、飼料袋を小さな昇降機に載せた。この昇降機は二メートル上まで飼料袋を引っ張り上げ、そこで中身を水槽の中にぶちまける仕掛けになっている。
ウンウンと唸るようなウインチの音と、乾いた飼料をぶちまけるバサリという音が響くと、水槽の中のナコゾコキリムシが一斉に鎌首をもたげる。誰よりも早く餌にありつきたいと身をくねらせ、隣を押し退けて我先に、上へ上へ這い上がる。無数の体節が擦れ合う音は枯れ葉を踏む音に似て耳に心地よく、良質な飼料を食ってムチムチと太った体はいかにも旨そうであった。
水槽の中の騒乱を観察しながら、俺は竹川に言葉を返す。
「食いつけない食材だったからだろ、野生の虫なんてせいぜいが指先ぐらいの大きさしかないんだから、食用にするためのまとまった数を確保するのが難しかった、だから実用的なタンパク質資源として普及しなかった、畜産大学で、そう習ったぞ」
「まあ、それもあるけどさ、見た目がグロテスクだからって敬遠されていたらしい」
「グロテスクかなあ、そんなに。それだったら、ケモノ肉の方がよっぽどグロテスクじゃないか、屠殺する時には赤い血が流れるんだろ」
「だからさ、そう思うのは、俺らがケモノ肉を食いつけないからでさ、食ってしまえばどうってことはないんだよ」
どうやら竹川は、ウシを食うという行為に対する俺の忌避感を遠ざけようとしているらしい。
「そもそもムシだって血は流すじゃないか、赤くはないけどさ。結局、どっちも他の生き物の命を食うという行為に変わりはないんだよ、見た目がちょっと違うってだけの話さ」
「メチャクチャな極論だな」
「そうかな、真理だと思うけど」
「まあ、そんなにワーワー言わなくっても約束は守るよ、一回ぐらいなら、ウシを食うのも悪くない」
「一回と言わずにさ、トリを食わせる店とか、ブタを食わせる店も行ってみないか。少し変わったところでウサギを食わせる店なんてのもあるぜ」
「そういうのは、ウシを食って平気だったらな。なにしろ俺はケモノ肉なんて初めて食うんだから」
「まあ、そうだな」
「それより、ほら仕事仕事、3号水槽は、比較用の生朴葉で間違い無いな?」
「ちょっと待ってくれ、確認するよ」
竹川がバインダーに挟んだ記録紙をパラパラとめくっている間、俺は水槽の中をなんとなく眺めていた。ひととおり餌を食べ終えたナコゾコキリムシは、お互いの体に残った朴葉の残り香を舐め合うようにぬらぬらと絡み合って動く。思えば、哀れな生き物だ。
昆虫食の屋台骨を支える十数種類の蓄虫は、全て人が交配と選別を繰り返して作り出した飼育専用種だ。原種とは大きさも、見た目も、モノによっては性質すらも違う。
例えばサガラニアローカスト。原種はイナゴであり、これは昆虫食が一般的になる前から伝統食として一部地域で食べられていたものを畜虫化したものだ。原種は大きくなってもせいぜいが10グラムほどの小さな虫だが、サガラニアローカストは小さくても3キロほどの大きさに育ち上がる。管理飼育しやすいように羽根は退化しており、性質はおとなしい。イナゴ類は体が触れ合うほどの密集環境で育てると体色が黒化して攻撃的な性格に変質するのだが、そうした『群生体』への変化も起こらない。
誰かが憐れんで野に放ったところで、おそらく生きてはいけない。
ただ食用になるだけの脆弱な種、それが畜虫。
ならばかつて畜獣と呼ばれていた生き物たちはどうであったのだろうか。ケモノ肉を食べる文化が廃れて久しい今となっては、それを確かめる術はないが。
俺は動物園の、一番奥まった場所にひっそりとある、薄汚れたふれあい動物園を思い浮かべた。そこで柵の中に閉じ込められて、飼い葉桶に顔を突っ込んでいる薄汚れた牛の姿を思った。人に食われることのない、怯えのない平和な光景を思った。
なんだか急にナコゾコキリムシが哀れに思えて、俺は水槽のガラスを指の節で軽く叩いた。
その振動と音に驚いた何匹かが大きく身を縮めた——。
次の休日、俺が竹川に連れてこられたのは、県内で一番大きな繁華街だった。表口はJR本線の大きな駅を覆うようにして建てられた駅ビルを中心に、細々としたビルが立ち並ぶビル街だ。ビルの足元にはアーケードをかけた昔ながらの商店街がずっと遠くまで続いていた。
竹川は怪訝そうな顔をした俺をみて笑った。
「なんだよ、意外か?」
「ああ、意外だ、もっと県境の山の中にある掘立て小屋みたいなところに連れていかれると思ってたからさ」
「俺はそういう店の方が雰囲気があって好きだけどな、初心者にはかなり敷居が高すぎるだろ」
そういって竹川が案内してくれたのは、雑居ビルの2階にある小さな店だった。一階は小さなテラス席がある若い子が好みそうなカフェであったし、その2階にある店も当然のように小洒落ていた。
入り口にはKEMONOバルと焼き文字を入れた板が下がっている。アンティークに見えるように加工してあるが、真新しいものだ。中に入ればレンガを貼った壁に脚の長い椅子、壁には額装した古いポスターが一枚貼られていて、ちょっと張り切って外食しようという日に来るようなランクの店となんら変わりない。
席に着いた竹川はまずビールと、数種類の料理を勝手に注文してくれた。別に文句があるわけじゃない、ウシ料理初心者の俺がメニューを見たって、どんな料理が出てくるのか予想もつかないのだから。
竹川はビールを飲みながら、出てくる料理をいちいち説明してくれた。
「こっちはヤキニク、要するにウシ肉のソテーだな、あとハンバーグ、こっちは歯応えは違うけど、ムシ肉で作ったハンバーグとさほど変わらないから、初心者でも食べやすいだろう、それに、ローストビーフだな」
「へえ、料理法自体は、ムシ料理とさほど変わらないな」
「そりゃあ、所詮は肉だからな」
「ふうん」
何気なくメニューを手に取った俺は、料理の値段を見て思わず「高っ!」と声を漏らした。
「なんだよ、この値段、普通のムシ肉屋なら、この三分の一の値段で腹いっぱい食えるぞ!」
竹川が少し焦った声を出す。
「いや、それは、コストの問題なんだ。例えば牛を1キロ太らせるには7キロの飼料が必要だったと言われているが、太りにくいことで有名なオオワモンヨトウムシでさえ、1キロ太らせるのに必要な餌の量は3キロ程度ですむ。どうしてもそのコスト差がさあ、価格に反映されちゃうんだよ」
「そういう、理由を聞いてるわけじゃなくってさ」
「あ、財布の心配か、それなら心配いらないぞ、ここは俺が奢るから」
「だから、それが負い目になって、次からはお前の誘いを断りにくくなるだろ」
竹川は悪びれることすらなかった。
「バレたか」
短い付き合いじゃないし、竹川の性格はわかっている。本人は悪気ない悪戯のつもりだろうし、ここの支払いは実際に出してくれるつもりだろう。次が断りにくい云々っていうのも親しいがゆえの冗談の応酬だし、ここで大人気なく叱りつけるつもりはない。
だが、気軽に奢ってもらうには心苦しい額だ。
「半分だすよ、ここは割り勘ってことで」
「いや、誘ったのはこっちなのに、それは申し訳ないよ」
そんなやりとりを何度か繰り返し、ならば次回の飲み代は全額俺が負担しようということで話がまとまった。
「よしよし、これで決まり、したら、早速ウシを食ってみてくれよ!」
竹川がこちらにハンバーグの乗った皿を寄越す。しっかりと小判型に固められて、縦横網目模様の焼き色をつけられたそれは、見た目だけならムシで作ったハンバーグとなんら変わりはない。
俺はハンバーグの端を箸で小さくちぎって、恐る恐る口に入れた。
「これは……」
竹川は何かを期待した顔でこちらをみているが、俺だって竹川ほどではないにしろ、何年も畜虫の食味検査をしてきたベテランだ、自分の味覚に嘘をつくようなことはできない。
「食えないわけじゃないが、臭みが強いな」
「ケモノの臭みってやつだよ、脂肪酸の匂いだ。ムシだって、独特の臭みがあるだろ」
竹川は箸で大きめにちぎったハンバーグを嬉しそうに頬張る。
「食べ慣れてくると、この匂いがうまみだと感じるようになるんだよ」
「そうか、まあ確かに、ムシだってクセの強い種類はあるからな」
「匂いが苦手なら、ヤキニクを食ってみるといい、ニンニクが効かせてあるから、食べやすいと思うよ」
確かにヤキニクはニンニクをたっぷり入れた味の濃いタレがついていて、肉の臭さはほとんど感じなかったが。
「うわっ、脂っこいな」
「そうだろうな、ケモノってのはムシよりも脂質が多い」
「体に悪そうだ」
「まあ、常食するにはな。こうしてたまに食うからいいんだよ」
竹川はヤキニクを二枚ほどまとめて口に放り込んだ。咀嚼音に脂の粘る音が混じる。
続いて箸をつけたローストビーフも、俺の味覚には合わなかった。パサパサしすぎていて、紙を食うような感覚が不快だったのだ。
記憶のどこかで、ふれあい動物園の匂いがした。ケモノの体臭と飼い葉桶にへばりついた穀物粉と、あとはお日様をたっぷり浴びた乾草の匂いが。
「結局、ウシは俺の口には合わないんだよ」
俺は結論づけた。竹川はそれに良しとも悪しとも言わず、困ったように眦を引き下げて笑っていた。
「で、どうよ、次はブタを食いに行こうと思うんだけど」
「いや、俺は遠慮するよ、やっぱり、ケモノ肉ってのは、ちょっとな」
「そうか、やっぱりな、いや、いいんだよ、ケモノ臭いっていうか、癖が強いだろ、だからまあ、好き嫌いは分かれるよな」
その店の支払いは、竹川がきちんと払ってくれた。表に出るとようやく赤提灯に火が入る、まだ宵の口だった。
俺は竹川に言った。
「ウシやブタを食うのには付き合えないけどさ、ムシならいくらでも付き合うぜ、どこかで飲み直そう」
竹川がニヤリと笑った。
「お、任せておけよ、俺はうまいムシを食わせる店にも詳しいんだ」
俺と竹川は極彩色のネオンがぎっしりと詰め込まれた細い路地へと足を向けた。どこからかムシを焼くうまそうな匂いが漂っていた。