09「産声の響く夜」
痛みが、徐々に鈍いものに変わっていく。背中が熱い。心臓が脈打つ度、傷が疼いた。
痕は、残るだろうか。
「俺は、金糸雀を売る気も、捨てるつもりもない。欲しいから、手に入れたんだ。離れたくないから、迎えに来たんだ。……一緒に、いこう?」
ようやく、伝えたかった言葉を吐き出す。
金糸雀を抱く腕は、みっともない位に震えていた。
痛みなのか、緊張なのか、恐怖なのか、それとも、待ち構える未来か。
見えざる力が、俺を震わせていた。
「……してる?」
金糸雀が、俺の腕と同じ位震えた声で呟く。それはあまりにも小さく、聞き取ることができなかった。
身を屈めて、彼女の口元に耳を寄せる。彼女もまた、俺の耳に口を寄せた。
柔らかな吐息が、くすぐったい。
「かなりあを、愛してる?」
そう問う声は、ひどく疲れているように聞こえた。
震えのせいかもしれない、涙のせいかもしれない。
恐らく、違うけれど。
金糸雀は、いや、「かなりあ」は、本当に疲れたのだろう。幾度も繰り返してきたその問いに、その問いを繰り返す自分に。
信じられないくせに、求めるからだよ。
知らないくせに、知ったふりするからだよ。
当てもないのに探し回るから、草臥れるんだ、かなりあ。
馬鹿だなぁ、お前は。
「ねぇ、あやは?」
背から顔、顔から首へと、冷たい掌が愛おしそうに撫でてゆく。小さな手に、体温も、鼓動すらも吸い取られそうだった。
「愛してる?」
答えられるはずがなかった。
もし仮に、ここで俺が肯定した所で、かなりあを更に疲れさせるだけだ。
愛情を望んでいるのに、受け入れることはできない。
この無為で憐れな営みを、俺は断ち切ることができるだろうか。
できる限り優しく、小さな手を包む。
「わからないよ」
「……?」
彼女は、俺にどんな答えを期待したのだろう。
予想外の答えに戸惑うように、彼女は首を傾げた。
丸きり少女の仕種だが、内に抱えるモノは、どす黒く重たい。ともすれば、闇に同化してしまいそうな程。
「かなりあ、愛ってなぁに?」
普段の金糸雀を真似て、尋ねてみた。
そこに答えがあるかのように、俺の眼の中を凝視する。
そんな所には、何もないよ。俺だって、愛なんか知らないのだから。
多分失敗した笑みを浮かべて、肩を竦めてみせる。
「わからないだろ? 俺も知らないんだ」
「えっ?」
かなりあの目の色が変わる。恐らく、「金糸雀」に入れ替わったのだろう。
どこか嬉しそうで、好奇心に充ち溢れた瞳は、間違いなく彼女のものだ。
金糸雀に気付かれぬよう、細く安堵の溜息を吐く。
「あやはにも、知らないことがあるの?」
「たくさんあるよ。俺が持っているのは、本の中の知識だけ」
書物は知識の結晶、人類の至宝。
そう思って生きてきたが、いつの間にか、信じることができなくなっていた。
知らないことが多すぎる。
わからないことが多すぎる。
身に降りかかる不幸は、俺の中の知識では対応しきれないものばかりだった。
頭が破裂しそうな程詰め込まれているくせに、肝心の時には何の役にも立たない。
それでも、捨てることはできないのだ。知識を捨てれば、俺には何も残らない。
「愛は、本には書いてないの?」
「書いてあるには、書いてある。でも、人の感情は複雑すぎて、文字では語れないものだから」
「ふぅん、難しいのね」
「うん、そうだな」
「あやはにわからないのだったら、私にわかるわけがないね」
寂しそうに微笑む。諦めの、笑顔。
ほら、わからない。何で、諦めるんだよ。何で、そうやって卑下するんだよ。
何で、俺たちは、辛いのに笑ってしまうんだろう。
「一緒に、答えを探しに行かないか」
「?」
「俺と一緒に、中央へ行こう。たくさんのモノを見て、たくさんの人と話して、そこから答えが得られるかもしれない。愛が何なのか、わかるかも」
説得力ゼロの推測論。でも、縋ってみたくなる。
理論尽くめの知識部役人に、あるまじき行為だが。
「四方セカイを回るから、南方も、西方も、北方も行くよ。この世界の全てを見られる旅」
「……世界って、広いのよね」
「すごく、広い。多分、金糸雀が想像してるよりも、ずっと」
ほとんど花屋から出ることのない花売りに、世界の大きさが想像付くとも思えなかった。
もっとも、三〇日間で回れる世界が大きいのかどうかは、よく知らないが。
再び背中に灼熱感が走った。意識してのことか否か、彼女が傷を撫でる。
「あったかい」
胸に埋められた顔も、背に回された手も、微かに触れる脚も、震えていた。
「寒い?」
「怖い」
「……何が?」
「世界は私を、小さな、汚れた、弱い花を、受け入れてくれるかな。飲み込まれて、消されてしまわないかな。あやはの暖かさもわからなくなったら、どうしよう」
「金糸雀」
「神様は、世界は、私を許さないかもしれない。汚れてるのに、自由だとか愛を求めて、なんて身の程知らず……」
違う、金糸雀は汚れてなんかない。
神が、人が、世界が、汚したんだ。
金糸雀にここまで言わせて、世界は彼女に何を望んでいるのか。
「大丈夫、守るから。俺も自由に生きることを許されてないけど、金糸雀は守るよ。相手が誰でも、何でも、金糸雀を傷付ける全てのモノから守ってみせる。役人の能力は、人を守る為にあるんだよ」
「ありがとう、あやは。でも、私は、『人』じゃないの」
嗤った気がした。
伏せられた顔は見えなかったけれど、彼女は嗤っていた。物である己を、蔑んで嗤った。
「明日になったら、『人』になれる。戸籍を作りに行こう」
これで、彼女の悲しみの一つは消してやれるだろう。
今までの人生で二回目位のことだったか、役人であることに感謝した。感謝する相手も、知らないけれど。
「嘘……」
「本当。花売りから解放されるし、もう消耗品扱いされることはない。金糸雀といられて、俺は幸せな気持ちになれた。だから、お返し。幸せになってくれたら、嬉しい」
よくもまぁ、と自分でも思う。
嘘は吐いていないが、全てを明かしたわけでもない。都合の良い部分だけ、掻い摘んで話をしている。
やっぱり俺は、腐ってるんだ。
「ああ……」
金糸雀は手で顔を覆い、床に崩れた。長い髪が、彼女を守るように包んだ。
「本当に、解放されるの? 花屋から出られるの? 『人』になれるの?」
「うん、全部本当だ。夢じゃない」
彼女は、声を上げて泣いた。生まれたばかりの、赤子みたいに。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
この日、この瞬間、生まれ変わったのかもしれない。
「ありがとう、ありがとう、あやは」
ひとしきり泣き終えるまで、嗚咽混じりに、ずっとそう言っていた。
約一か月ぶりの更新です(・_・;)お待たせいたしました(?)
「金糸雀」と「かなりあ」、二重人格発覚です。ええ、まったくもって予定外ですよ(汗)
彩羽の隠し事は追々明かされていきますので、お楽しみに。
本日は、もう一話更新します。そちらも、お楽しみに。今までとは違う作風になってしまっていますが、はてさて……(^_^;)