05「金糸雀」
女中に案内され、金糸雀の部屋に入った。わざわざ案内されなくとも、部屋の位置は把握しているのだが。
花売りも稼ぎがそれなりになってくると、個室が与えられるようになっていた。
部屋に焚き込められた、名も知らぬ香が鼻先をかすめる。
薄暗い室内で、金糸雀は髪を梳いていた。灯りに照らされた髪が、艶々と光を弾いている。
手にしている櫛は、いつか俺が贈った物だった。花と鳥が彫りこまれたあの櫛を見た時、彼女に似合いだと思ったのだ。俺が来ることがわかっていたから、わざわざ出してきたのか?
俺を認めると、灯りを背にしてにっこりと笑い、姿勢を正す。先程館主に叱られたことは、引きずっていないようだった。
彼女が軽く頷くと、後ろに控えていた女中は一礼して去って行った。稼ぎ頭の貫禄が、少し垣間見えた。
「久しぶりだね、あやは」
人がいる前では「西條様」、二人きりの時は「あやは」。
俺が望んだことだ。誰かに呼んでもらわないと、自分の名前を忘れてしまいそうで怖かった。
敬語も止めさせた。
畏敬の眼で見られるのが嫌いだし、自分が「人」であることを忘れたくないから。俺は、「神」なんかじゃない。
「ん」
「ふふ、それだけ?」
花屋に来るのはだいぶ慣れたつもりだが、金糸雀と二人で会う瞬間はどうしても緊張してしまう。金で彼女を買った後ろめたさのせいかもしれない。いつも、自分が恥ずかしくて俯いていた。
勢い、返事が無愛想気味になる。
俺の上着を受け取るために、金糸雀はすっと立ち上がった。空気が揺れ、部屋の物とは違う香りが触れる。
金糸雀の、匂い。
久々のそれは、思いの外、身体の奥深く浸透して、静かに熱を孕ませる。使った例はないけれど、麻薬ってこんな感じか。
……こんな馬鹿なことを考える程、俺は彼女を欲していたのだろうか。
上着を手渡した後も、俺は立ったままでいた。気分がざわついて、腰を下ろす気になれなかったのだ。彼女の衣擦れの音が、神経に爪を立てて落ち着かない。
「あやは、それも預かる?」
「え?」
金糸雀の指差す先には、婚姻届が入った封筒があった。慌てて取り落としそうになる。
「いやっ、これは……」
「あ、ごめんなさい。お仕事のものだった?」
「いや、違うけど……」
「じゃあ、なぁに、それ?」
「いや、何というか、まぁ、個人的なものだから」
「見せて、なぁに? 新しい『本』、持ってきてくれたの?」
子供みたいに純粋な彼女は、好奇心が強い。「なぁに、それ?」が口癖なくらいだ。花屋の外には滅多に出してもらえない生活を考えれば、仕方のないことだと思う。
知識部勤務の俺は、当然ながら無駄に知識が多い。金糸雀にとっては、おもちゃ箱も同然に映っているだろう。
本来は、役人以外に知識を与えることは禁じられているのだが、障りのない程度に話してやっていた。
もちろん、知識の結晶である『本』を渡すことなどもっての外。役所にバレたら、いかに中央役人であろうとも、恐らく首が飛ぶ。さすがにそこまでする勇気はなく、金糸雀には俺が紙に書き写したものを渡していた。だから、正確に言うと「本」ではなく、ただの紙の束でしかない。
一切の教育を受けていない花売りが文字を読めるはずもないのだが、他のどんな贈り物よりも、その手製の「本」を喜んでいた。
「知識とは、分け与えるためにあるのだ。役人が占有すべきではない」
父さんがよく言っていたものだ。知識部の役人にあるまじき発言だったが、凛とした眼で語る姿がひどく立派に見えて、好きだった。
「いや、そうじゃない」
「あやは、さっきから『いや』ばっかり」
いたずらっぽい顔で、くすくす笑う。
その表情が愛おしくて、つい手を伸ばしてしまった。
白いであろう頬に、微かに触れる。
柔らかな温もりが、冷えた指先を溶かしていった。代わりに俺の冷たさが、彼女を浸食していく。
「冷たい。外は寒いの?」
小さな二つの掌で、頬に当てられた手をそっと包み込む。今まで、何百人もの男にこうしてきたのだろう。そう思わせる程、ごく自然な動作だった。
「……ああ。少し、冷える」
「どうしたの? 今日は何だか、変だよ。主様に何か言われたの?」
「いや」
「ほらまた。『いや』って言う」
「……」
自分で自分がおかしくて、口元が綻んだ。
さっさと婚姻のことを切り出して、出立の準備をしなければならないのに、一向に切り出せない。かといって平静を装うこともできず、この体たらくだ。
天下の役人が、花売りの子娘相手に見抜かれて、馬鹿げてる。
俺が笑っても、金糸雀はつられなかった。さっきまで笑っていたのに、今度は悲しそうな顔をする。くるくる表情が変わるところも気に入ってはいたが、今は胸を締め付けられた。
「あやは、どうしたの? 何かあったでしょう」
「……」
さて、どこからどう話したら良いものか。
やっとこさヒロインの金糸雀嬢が登場です!
金糸雀が彩羽を呼ぶ時に「あやは」なのは、わざとです。おつむが足りてない感じを出したかったので。