03「花屋(2)」
ちょっと長めです。見辛くて申し訳ないです<(_ _)>
館の中に入ると、不協和音が一層強く押し寄せてくる。酒と煙草と化粧の匂いがごちゃ混ぜになった独特の空気が、肺に絡みつく。ねっとりと重く、これだけはいまだに慣れなくて、つい顔をしかめた。
「これはこれは、西條様」
目敏く俺の姿を見つけて、館主が奥からすり寄ってきた。正確には近寄ってきただけなのだが、商売根性見え見えのいやらしさがそう見せる。役人は一般民と比べ物にならない上客なのだから、無理もないことだ。落としていく額が違う。
「しばらくお見掛けしなかったので、心配しておりました。金糸雀も寂しがっていましたよ」
「いや、まあ、仕事が立て込んでたもので」
館主に言われて、花屋に来るのも久々だと気付いた。
答え方は曖昧になってしまったが、実際最近は不自然に仕事量が多かった。今思えば、中央異動の前触れだったのかもしれない。
「左様でございますか、お疲れ様でございます。今日も金糸雀を御所望で?」
いかにも殊勝そうに御機嫌を伺う館主の頭に、平手打ちの一つでも喰らわせてやりたい気分になってくる。いちいち芝居がかった行動が、所長とそっくりだ。ついでにハゲかかった頭も。
「ああ、空いてるか?」
空いている方が稀なのだが、一応聞いてみた。金糸雀は売れっ子だから、引っ切り無しに客がやってくる。馴染みの薄い客だと、今日は無理だと追い返される者までいるのだ。
「申し訳ございません、今は。もうそろそろお時間ですが、空けさせましょうか」
花屋は時間制になっていて、大抵一時間単位で料金が定められている。お相手の花売りの稼ぎ具合によって、指名料は異なった。彼女はこの館一番の稼ぎ頭で、当然指名料も最上級だ。役人にとっては痛くもない額だが、一般民には結構キツい値段になっている。
それを考えると、権力を振りかざして、お楽しみの時間を邪魔するのは気が引けた。
まあ、待ち時間が長い場合は空けさせることも時々ある。少し金を握らせてやれば、ほとんどの連中が退いてくれるものだ。相手も役人であった場合は通用しないので、おとなしく待つか引き上げることにしている。
「少しなら待つよ。その間に、あなたに話がある」
「はあ。私に、でございますか?」
館主はきょとんと目を丸くする。案外、愛嬌のある顔をしていた。
所長にもこんな一面があればいいのだ。……いや、前言撤回。脳が想像するのを拒否している。多分、気持ち悪くて仕事にならない。
人払いを、と申し出ると、館主部屋の一角に通された。部屋の中にもう一つ部屋があるような奇妙な造りで、中には椅子が二脚とテーブル一つの簡素な応対セットがあった。
向かい合って腰を掛ける。
「改まって、何のお話ですかな?」
愛想の良い笑みの下に警戒心を忍ばせて、館主が言った。
「実は今日、中央行きの辞令が出ましてね」
「ほほう! おめでとうございます」
「どうも。そこで折り入ってご主人にお願いがあるのですよ」
一応頼み事をする手前、口調が丁寧になった。それがまた、館主の警戒心を煽る。
花売りは、館主に所有権がある。比喩ではなく、この世界で彼女達は「物」として扱われているのだ。 自分自身を商品に、金を稼ぐ。誰よりも厳しい状況に置かれている花売りが、誰よりも下等に扱われる。
こういうのを、悲劇、というのだろうか。
ともかく、現時点で金糸雀はこの薄らハゲの所有物であり、俺が彼女を伴侶として迎えるには、コイツの許可が必要だということだ。
「何ですかな?」
恐らく、こちらの要求を察知したのだろう。目付きが急に鋭くなった。事前に察してもらえた方が、幾分気が楽だった。
「お察しかとは思いますが、金糸雀を譲って頂きたい」
言いながら、テーブルに手をついて身を乗り出す。ここで下手に出ては、足元を掬われてしまう。というか、いまさら引っ込みがつかないのだから、後は押すしかない。
「いくら西條様の頼み事とはいえ、それは……。御存知でしょうが、金糸雀はうちの稼ぎ頭ですし、アレを目当てに通って頂いているお客様も少なくないですからなぁ」
案の定、館主は眉根を寄せてやんわりと拒否した。
金糸雀が抜けてしまったら、この花屋の収入は大きく落ち込むだろう。今いる他の花売りに、彼女の代わりを張れるような者はいない。館主が承知しないのも当然だ。
「ええ、わかります。要は、彼女が抜けても補えるだけの額があればよろしいのでしょう?」
この時俺は、今まで生きてきた中で、ずば抜けて最悪の笑みを浮かべていたに違いない。悪魔というものが存在するならば、きっとこんな顔をしているのだろう。
鞄を手元に引き寄せ、テーブルの上でひっくり返した。ばさばさと乾いた音を立て、札束の山が築かれる。いくつかは、載り切らずに床へ零れた。
館主は、予想に反して無反応に近かった。狂喜するかと思っていたのだが。
「乱暴なやり方で申し訳ない。明日の朝には中央に発つので、時間がないのですよ」
なおも無言を貫く館主の方へ札束を押しやると、彼の口が少しずつ開いていき、ついに顎が外れんばかりに大きく開かれた。どうやら、目の前の大金に驚愕するあまり思考が停止してしまったらしい。
それもそうだろう。一般民がこれほど巨額の金を目にすることなどあり得ないのだから。一般民男子の人生を十五回程繰り返して、やっと手に入る位だ。金糸雀の稼ぎぶりが窺える。
「ここへ来る前に、金融部から下してきました。金糸雀が『枯れる』までに稼ぐ金額に引けは取らないはずです」
花売りが仕事場から退くことを「枯れる」という。「花屋」にしろ「花売り」にしろ隠語を使うあたり、使う側の中途半端な後ろめたさを感じさせる。
花売りの寿命は、平均して二十五歳前後だ。物扱いの彼女達には戸籍というものが存在しないため正確な統計ではないが、大体どの花屋を覗いてみても、それ以上の年齢の者は見当たらなかった。余程若作りがうまいヤツがいれば、別だが。
枯れた花売りの全てが、生命体としての寿命を尽くしたとは言い切れないが、俺の知る限り命を終えた数の方が多い。病――精神的なものを含む――に倒れたり、客がつかなかったりで、館主に捨てられ朽ち果てる。
結局この世界では、親を失ったその日から、惨めな結末を迎えることは避けられないのだ。ただ少し先延ばしになるだけ、更なる苦しみを味わうだけ。花売りの人生とは、そんなものだ。
「失礼致します。かなりあでございます」
控えめなノックの音が、室内に響いた。
はっとして、俺も館主もドアに振り返る。
――待て、金糸雀。
咄嗟のことで、声にはならない。瞬時に鼓動が速くなる。
金糸雀には、俺の汚い一面を見せたくなかった。
自分が金で取引されている所など、誰が見て喜ぶのだろうか。いや、彼女と会う時は金を払っているわけだから、別に今更という感じかもしれない。
これも、使う側の中途半端な後ろめたさなのだろう。実際に現金の受け渡しを目撃されるのは、かなりの抵抗がある。
俺がごちゃごちゃと考えている内に、ドアが開かれてしまった。
最悪だ。
次回はいよいよヒロインの金糸雀が登場ですっ。
そして彩羽のプロポーズ……の予定(笑)