8=確信と最後の一線
どの界隈であれ、オタクという生き物は供給元のコンテンツが意図せぬ形で断絶することを異常なまでに警戒していると思う。二次創作なんかは、コンテンツそれ自体を盛り上げるコンテンツである一方、度を過ぎると大元のコンテンツを終わらせかねない、紙一重なところを突いていると思う。世の中のVTuberのいかがわしいイラストがそこかしこで出回っているのもそう。二次創作はグレーゾーン、なんて言葉があるが、本当にそうだと思う。
「……あ、いや、その……えっと」
「……」
言うなれば、虹ノ宮るりというVTuberが引退宣言をした時。あの時感じた絶望、悲しさ、虚しさ。そういう負の感情でがんじがらめにされた感覚に似ていた。金縛りに遭ったかのように、言葉が出てこない。何を言えばこの場を切り抜けられるのか、そもそも切り抜けることができるのか。唇を噛みうつむく里奈ちゃんを前にして、私は何もできなかった。
「その、……忘れて? あの、その……今のはほんの出来心っていうか……まあ気になるのは気になるけど、気にするほどでもないっていうか……その、ほら。えっと……」
ダメだ。どんどん墓穴を掘っている。どうして私はこうも、里奈ちゃんを傷つける言葉しか絞り出せないのだろう。自分が忌まわしかった。
「えっと……」
「……ごめん、わたし帰るね。お泊まりって言ってたのに、ごめん。また、……来るから」
「あ、ちょっと」
「ごめんね」
里奈ちゃんが荷物をぐちゃぐちゃにカバンの中に突っ込んで、パジャマの上からうちに来た時の服とズボンを着て出て行ってしまった。止める間もなく里奈ちゃんは家を飛び出し、追いかけなきゃと気づいて外に出るも、すでにどこに行ったか分からなくなってしまっていた。確か里奈ちゃんの家はそう遠くないところにあったはずだから、危ない目に遭う心配はほとんどない。ないのだが、そういう問題ではない気もする。
「……そりゃ、そうだよね」
後から冷静になって考えてみれば、里奈ちゃんが気持ちをぐちゃぐちゃにするのは当たり前だ。ネガティブな理由ではない、と言い続けて引退したからには、それ相応の「人には言えない理由」が裏にあるはずで、ずかずかと里奈ちゃんの聞いてほしくないところに踏み込んだ私のデリカシーがあまりにも足りなかった、と言わざるを得ない。
ただだからと言って、里奈ちゃんにあんなこと言うべきじゃなかったな、というところで思考停止するわけでもなかった。虹ノ宮るりが引退した本当の理由は?実は事務所の先輩や同期からひどいいじめを受けていたのか?あるいはもうVTuberとしてやりきったとか、燃え尽きてしまったとか?
「ん……」
スマホに通知が入った。「ごめん」――里奈ちゃんからの短いメッセージだった。こちらこそごめん、ととっさに返そうとして、手が止まった。返してもいいのか?それは里奈ちゃんがるりちゃんと同一人物だと分かっていますよ、と本人に知らせることにならないか。私の方からそれを言うのはまずくないか。頭の中が申し訳ないような、悲しいような、複雑にぐるぐるしていた。
「……」
ふと思い立って、私はYouTubeを開いてるりちゃんのチャンネルのページを開いた。そこには引退3Dライブの配信アーカイブを最後に、時が止まった場所があった。
るりちゃんが引退してからもう二年経っているが、事務所の厚意でチャンネルは残されている。しかも解雇のようなマイナスな理由ではなく、あくまで本人の希望による引退であるため、るりちゃんのアカウントは本人こそ操作できないものの、事務所側が今も管理している。さらにフリーチャットと称してファンどうしがあれこれチャットを送り合える場が設けられている。上限は数百円だがスーパーチャットも送れるようになっており、るりちゃんのことを大事にし続けてくれる事務所を支援できるようになっている。
「フリチャもやんなくなったな……」
フリーチャットは活動中の子も開設している。つまりリョウカちゃんやみなもちゃんもやっていて、たまに本人が覗きにきてくれるので、当然そちらの方が活気がある。それでもるりちゃんのフリーチャットはまだ人が来ている方で、深夜早朝でなければ、だいたい誰かしらが反応してくれる。とはいえ、あと三年くらい経って、るりちゃんの引退から五年ともなればそれもなくなるだろうが。
るりちゃんのフリーチャットは主に、他のVTuberさんやライバーさん、YouTuberさんがるりちゃんの話をした時に、そのアーカイブや切り抜き動画のURLを貼って共有する場になっていることがほとんど。というのも、虹ノ宮るりというVTuberの三年間を懐かしむのは、引退して最初の一年でファンがやり尽くしてしまったから。私もそのクチで、みんながこの広いYouTubeの海の中で見つけてきたURLを貼り合うようになってからは、すっかりフリーチャットを開かなくなってしまっていた。
「……あれ」
なぜ里奈ちゃんを怒らせ悲しませてしまった直後にこんなことをしているのだろうと、私は自分の神経を疑う。たぶん、るりちゃんが引退した理由を自分の中で納得する形で欲しくて、無意識的にやってしまっていたのだ。つまりネガティブな理由ではない、という彼女の言は、私にとってとても納得できるものではなかった。そんなものがフリーチャットで見つかれば苦労しない。でも、そのページを開いて懐かしさに浸るだけで、十分な気もした。
「これ……リョウカちゃんとみなもちゃんの」
さすがに引退して二年ともなれば、るりちゃんの話をするVTuberさんは少ない。URL貼り合戦も、五日前で更新が止まっていた。その最後に貼られたリンクの動画は、リョウカちゃんとみなもちゃんの切り抜きだった。
『あたしのメン限で、今度虹ノ宮るりについて話します。聞きたいこととか、あればマシュマロ置いとくのでぜひ。コメントでもいいからね』
『突っ込んだ質問でもいいよお』
『コンプラ的にダメなのは読まないけどね。ちょうどあの子が引退して二年くらいだし、一応連絡とかも取ってるから、みんなが知らないるりを見せられたらな、って思います』
『メン限なのはごめんなさいだけど、やっぱり事情も知らない人が誹謗中傷するのからは守らないとな、って。るりちゃんを応援してくれてた人にこそ、聞いてほしいなって思います』
『時間は、一週間くらい後の5月3日、20時から。あたしとみなもの方でも告知するから。これを機に、今月だけでもいいので、あたしのメンバーシップに入ってくれると嬉しいです。もちろんるりを話に出すから、るりにもきちんとお金は出します。そのあたりは安心してほしい』
配信の日付は明日。もう少し見るのが遅ければ、手遅れになるところだった。メンバーシップは入る手続きをしてから、それが反映されるまで少し間がある。私はもう、その配信を見届けることしか考えていなかった。スマホに入っていたお金で、そのままリョウカちゃんのメンバーシップに入るボタンを押すのに、ほとんどためらいはなかった。
もしかしてリョウカちゃんがるりちゃんとしての里奈ちゃんに予定を聞いていたのは、このためだったのか。その日は里奈ちゃんを追い出す形になったことに対する罪悪感と、里奈ちゃんがるりちゃんと同一人物だと確信する最後の一線を越えそうな恐怖に似た何かで、なかなか寝つけなかった。




