11=本当の理由
「……ちょっと待ってて」
十分経った後、待機画面ではなくなったものの、しばらく裏でバタバタしている感じが配信に乗った音声から伝わってきた。その時から、このタイミングで何か起こるとしたら一つしかないだろうなとは思っていた。そもそもこのメン限配信が始まる時点で、予定外のことが一つ起きていたのだ。
「ごめん、るりが話してくれることになったから、今準備してます」
「行ける。何から話せばいい?」
それはあまりにも突然だった。リスナー全員の心臓がいったんぎゅうっ、と握られたような感覚に陥ったことだろう。私がそうだったのだから間違いない。リョウカちゃんの声に混じって透き通るようなその声が聞こえた時、一気に配信の空気が変わった。
「るり……!」
「るりじゃない」
「……!」
「わたしは一般人です。……虹ノ宮るりに、声が似てるだけの」
他人に対するイメージというものは、簡単に変わる。ファンにとってはどこかすっきりしない幕引きを迎え、長らく目撃情報すらネットに流れなかったその声は、今の私にはもはや『虹ノ宮るり』のものには聞こえなかった。間違いなく、『府中里奈』に置き換えられてしまっている。それでもその声に、魅了されていることに違いはない。『虹ノ宮るり』の近況が分からなかったこの二年間、私はずっとこの声で聞いたことのない言葉が発せられるのを待っていたのだ。私の心にぽっかりと空いてしまった穴は、その声がなければ埋めることができない。
るりちゃん本人が登場したとあって、コメント欄の流れる速度が一気に上がる。私も「るりちゃん!?!?!?」とコメントしたが、1秒もしないうちに画面外へ流れてしまう。誰か私のコメントをリアルタイムで確認できたかどうかも怪しいくらいだった。
「わたしはもう、『虹ノ宮るり』を名乗れない。彼女はもう、二年前のあの時で時間が止まってるから……それでも、あの時は取り乱してて言えなかったことを、今日言えたらいいなと思ってます」
私は彼女が駆け抜けた三年間を思い出す。あの時どんな配信をしていたか。どんなことを言っていたか。どんな歌を歌って、どんなことを伝えようとしていたのか。リョウカちゃんやみなもちゃんの言っていた通り、るりちゃんはバラエティ寄りの企画にはあまり参加していなかった。それは忙しい高校生活と両立するためには仕方なかった、ということだろう。
「まずは……虹ノ宮るりという一人の女の子を覚えてくれて、ありがとう。あの子は別に自己肯定感が低いわけでもないし、純粋に歌うことが好きで、その相手はわたしのおばあちゃんだった。おばあちゃんはいつでもわたしの歌を褒めてくれたし、将来は歌手になったらいいっていつも言ってくれた。今だからそれはお世辞のうちなんだって分かるけど、小さい頃はその言葉が、本当に嬉しかった」
これはるりちゃん自身が、何度もしてきた話だ。彼女は典型的なおばあちゃんっ子で、どんな歌を歌っても、つまりおばあちゃんが知らない歌を歌おうと、聞き心地のいい声質や、変に背伸びしすぎずに出している雰囲気を褒めてくれたそうだ。自分の歌にある程度自信が持てているのはそのおかげだという。デビュー当時から上手かった歌は、虹ノ宮るりとして活動を開始して、レッスンを受け始めたことでさらに上達していった。カラオケで高得点が出るような、原曲とどれだけ一致しているかといったベクトルでは測れない、歌の上手さがそこにはあった。
「最初はそれが原動力だった。褒めてもらえるのが嬉しかったし、たとえリスナーに批判されたとしても、それは素人の意見だから、受けさせてもらってたレッスンの先生のアドバイスの方が正しいんだって、割り切ることもできてた。でも一通り褒めてもらって、レッスンを何回受けても上達したって思えなくなった時に、何のために今これをやってるんだろうって、考えるようになった。みんなに歌ってるところを見てもらうために始めたんだ……って考えるのが、もうきつくなってさ。だからまだ楽しいって思えるうちに、みんなに覚えてもらっているうちにやめた方がいいんじゃないかと思った。……これが、表向きの理由」
ぴたり、と空気が張りつめて凍る。まるでそれが真実であるかのように、るりちゃんが話していたからだ。画面の向こうで、リョウカちゃんとみなもちゃんも息をのんでいるのが分かった。誰にも打ち明けたことがないことを話すつもりで、今画面の前で話しているのだと思うと、こちらまで固まってしまう。
「……大丈夫。本当の理由って言ったって、大したのじゃないから。……本当はもっと、どす黒くて、わがままで、それこそ誰にも言えないような、理由だから」
もちろん、リョウカちゃんもみなもちゃんも、それに相槌を打つことなどできない。正直にしばらく間が空いたあと、るりちゃんの声が再びYoutubeに乗った。
「おばあちゃんに歌を歌って褒められて、みんなに聞いてもらって上手いって言われて、嬉しかった。それが全部、ただの承認欲求なんだって、気づいちゃった。歌が上手くなるとか、配信で気の利いたことが言えるとか、リョウカちゃんやみなもちゃんや、他の先輩後輩たちと仲良くなるとか、全部わたしにとっては二の次だったんだって。わたしにはポリシーとか、VTuberになって何がしたいとか、何を届けたいとか、そんなのがなかったんだって思うと、このまま続けてていいのかって考えるようになってね」
「るり……」
「勘違いして欲しくないのは、わたしが二人を嫌いだったわけでは、断じてないってこと。リョウカちゃんもみなもちゃんも、先輩たちみんなも、わたしがVTuberをやっていなければ絶対にできなかった友達だし、そういうのとはまた別の問題だから。でも、わたしは虹ノ宮るりを愛してくれる人がどれだけいるかってことさえ、どうでもよかったのは事実」
「そんなことないって、るりちゃん」
「ごめん、みなもちゃん。正直、わたしもクリーンなVTuberで居続けたかったけど、これがわたしの心の本当の奥底にある、どうしようもないくらい情けない気持ちだから。配信で嘘ばっかり言ってたってわけじゃ決してないけど、本当の私はこんな人間なんだって一回自覚してからは、すごく苦しかった」
「そんな……」
「だから、このままじゃダメなんだって思った。承認欲求なんて一時的に満たされるだけで、なくなるなんてことはない……満たされれば満たされるほどどんどん大きくなるものだから。VTuberっていうお仕事を、自分の承認欲求を満たすツールとしてこのまま使い続けちゃいけないと思った。だからすぐにでもVTuberをやめることに執着していたし、みんなに知らせるのも突然になったの」
本当の気持ちを打ち明けるところまで、るりちゃんらしかった。るりちゃんはいつでも自然体でいることを心掛けていたし、周りの先輩たちもそれを意識してくれていた。だからこそ、るりちゃんの告白は間違いなく事実なのだ。承認欲求は誰しもが持っているもの。しかしるりちゃんのそれは、自分で受け入れるにはあまりにも深く、暗すぎたということだろう。
「このことは今初めて打ち明けたけど、運営さんも薄々分かってたんじゃないかな。だからペナルティとも取れる厳しい条件を提示してきたし、わたしもそれを受け入れた。どうか運営さんのことを責めないでほしい。これは、100%わたしのせいだから」
るりちゃんの言葉は、その後に小さくありがとうございます、と続いて途切れた。るりちゃんがしゃべっていたのはほんのちょっとだったはずなのに、その密度はめまいがしそうなほどに濃かった。
空白の二年を経て打ち明けられたのは、るりちゃん自身が三年間のVTuber活動を卑下していなければ出てこないような言葉の数々だった。しかし、本当にそうなのだろうか?るりちゃんの活動は、本当にそう締めくくらなければならないようなものだったのだろうか?私は考える。
「……違う」
仮にるりちゃんの言うような価値しか、あの三年間になかったのなら。今もこうして名前を覚えられているようなVTuberにはなっていないはずだ。その後配信に乗っていた声を、私はほとんど覚えていない。言いたいことだけ言って、気持ちの整理をさせてほしいと告げてるりちゃんが通話を切ったのだけ聞いて、私が家を飛び出したからだ。




