感覚処女
奇数週の土曜日。
隔週で公休の水曜日。
退社後19時からの1時間。
人が少なくなる14時頃の雑談。
あの頃、二人きりで会えるのは私が公休日のときだけ。それ以外は、仕事中人目を避けながら話したっけ。話せないときは、ずっとLINEしていた。酷いときは丸一日し合っていたこともあった。初めは鬱陶しいくらいの束縛も、慣れてくれば可愛く思えた。すべては、暗黙の了解かのような約束だった。
一方的に終わりを告げられた後も、その習慣に何度も反応してしまう。期待しても鳴らない内線と、通知のこない携帯。呼ばれない名前。それを習慣づけたのもあなたで、この関係を始めたのもあなたなのに。
「遊びにきましたよーっと!」
「あ、そうですか」
「反応の薄さ…」
14時半すぎ。営業さんはほぼ外出して、この階には目の前でハハハと笑う彼…春日さんしかいない。机に向かい座る彼を、手で振り払いイスを奪った。上席のそれはふかふかしていて座りがいがある。一般事務である私の硬いイスとは大違いだ。
「みんな出ちゃいましたね」
「まあ良い季候だしね」
「お昼寝してんですかね…」
「俺みたいに?」
そうそう、と言って一緒に笑う。あの頃の私達と重なって見えて、切ない音で心臓が微かに鳴った。それを顔に出さずに、勝手にパソコンを開く。基本何を見ても怒らない姿勢は、変わっていない。以前、給与明細を見ているときに覗いたって隠されなかったっけ。
検索履歴でも見てみよっと、なんて悪い心が働く。動かしたマウスの思考に気付いたのか、私の手の上から大きくて少し硬い手が覆いかぶさってくる。
「駄目だよ」
「なんで?エロ動画でも見てるの?」
「そうそう」
「どんなやつが好きなの?」
「そうだね…」
そう言いながら私と手を絡ませてくる。その温もりがひどく懐かしくて、ひどく恋しい。そう思う自分に溜息が出るのに、握り返してしまう手が憎らしい。…何ヶ月も前に終わらせたのは誰だった?でも理性は弱すぎて、本能にすぐ負けてしまう。
結局、後で痛い目を見るのは私なのに。
後ろに立った彼は、一緒に画面を覗くように私の顔の真横で、重ねた手のまま、マウスを動かす。左手は、私の左腕を厭らしく撫でている。…いつぞやの行為を思い出させるようだ。下心からくるであろうその行動さえ、分かっていても、求められているのは身体だけなのに。錯覚して、良い方向に捉えてしまう。都合の良い女に、自分から成り下がるだけだというのに。
「皐月も、そろそろしたいんじゃない?」
「……馬鹿なの?」
「本当はしたいって思ってるくせに」
「思ってない」
強がっちゃって、と腕を撫でていた手は太腿を楽しんでいる。左手で叩いても、あまり効果はないらしい。…彼は、分かっているのだ。あまり強く否定しないこと、彼に敬語で話していないことが、それの答えだということを。
私だって分かってる。いけないことだということ。彼にもうそんな感情はないこと。ただの性欲処理係で、それ以上に私は必要ないということ。
……なのにどうして、この感情は消えてくれないのだろう?
上司と部下として、ああなる前のように仲良くしたいだけだ。一緒にランチに行って、あの人がどうだこうだ笑って話して、雑談ばっかりしちゃったりして、それでまた同期に怒られたりして……。
「ね、今度またデイユース行こうよ」
「……次の水曜?」
「いいね。予約するからさ」
ダメだダメだと何度も思ってるのに、頷いてしまう自分をどうか殺してください。繰り返したってマイナスを更に掘るだけなのに、この感情が抑えきれない。見えた後悔を、味わうだけなのに。
何度も味わって辛かった経験だというのに、毎回新鮮に繰り返してしまう。二度と繰り返したくないと願うのに、分かっているのに、始まること止められない。中途半端に昔のままだから、叶いもしない期待が息を弾ませて、あの頃に戻りたい自分が本能と化す。
「今日もかわいいね、皐月」
マスクに手を掛けた彼は、口元を見せるようにずらした。久しぶりに見た彼の口元は、髭を剃った跡が肌の黒さと相まってちょっと汚く見えた。なのに可愛いと思う感情がいて、私はやっぱり頭が可笑しいのだと思う。
触れた唇は、都合の良い女再開の合図。
頬に掛かった彼の左手に光る銀色に、目を伏せて。