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見習いレーヴェと青い髪の魔女

作者: 黒姫彩歌

「それはとてもすてきなことだなって思うの」


 そう言った彼女は、消えてしまった。

 誰に聞いても行き先は知らないという。


 カレンデュラのお茶は、消化不良に。

 風邪をひきかけたら、エキナセアのハーブティーを。

 ジュニパーベリーには殺菌作用があるから、瓶詰めを作るときに重宝するわ。

 ベラドンナには注意して。瞳を輝かせることもできるけど、使いすぎは毒よ。

 ヒヨスは酔い止めになるけど、幻覚症状も起こすから気をつけてね。

 煎じ薬を作る鍋に涙が落ちそうになって、慌てて顔を上げた。

 泣かないで、レーヴェ・ムジカ。今するべきなのは、泣くことじゃない。

 この煎じ薬は、たばこ屋のおばあさんの分。

 ハーブティーのストックはどれだけあってもいい。

 そろそろ街の娼館に、堕胎薬を卸す頃じゃないかな。

 幻覚剤には取り扱い要注意の札を下げておく。

 そんなことを教えてくれた青い髪の魔女は、笑顔の記憶だけを残して、レーヴェの前から消えてしまった。

「あぁ、薔薇の花びらを摘んでこないと」

 花の育て方も、精油の作り方も、彼女から教わった。

 まだまだ、教わらないといけないことは山ほどあった。本から得られるだけの知識では、どうにもならないことがたくさんある。

 ひとつひとつ流れる雲から明日の天気を読むのも、レーヴェには八割くらいしか当てられない。あと少しが届かない。

 レーヴェはまだまだ見習いだった。動物を使役することもまだできない。黒猫のデリラは、レーヴェよりよほど知識が豊富だ。

 それでもデリラは辛抱強く、レーヴェの仕事を見守ってくれている。自分の主人の姿が消えたというのに、落ち着き払って取り乱した様子も見せない。

『いつか帰ってくるさね』

 口数少ないデリラが、レーヴェに言った。それが嘘ではないと信じたい。

 今朝もレーヴェは夜明け前から畑に出ていた。朝露の残る柔らかい葉を摘んで、薬草茶にするのだ。ペパーミント、レモングラス、タイム、バジル、レモンバーベナ、オレガノ、レモンバーム、フェンネル、アップルミント、その他いろいろ。

 小さな煉瓦の小屋の裏庭には、ハーブも花も、たくさん育っている。全部、青い髪の魔女から譲り受けたものだ。いや、レーヴェは譲られたとは思っていない。帰ってくるまで預かっている、そう思っている。

 だから荒らしてはいけないと思っているし、荒らされてはいけないと思っている。

 朝一番のお客様は、決まってリウマチの薬を取りに来るたばこ屋のおばあさんだ。

「レーヴェや、まだ畑かね」

 孫娘を呼ぶような、優しい声。

「おはようございます、イヴォンヌさん。薬はもうできてますから、お茶をいれますね。朝ごはんにドライフルーツの揚げパイはいかがですか?」

「商売が上手になったもんだねえ。パイにイチジクは入ってるかい」

「もちろんです。バターを多めに塗ったパート・フィロは、イヴォンヌさんに教えていただいたレシピですよ」

 たばこ屋のおばあさんは、レーヴェが修行を始めたほんの子どもだった頃から、この小さな小屋に毎朝来ている。たばこ屋を開けない日曜日には、よくおやつを作ってくれた。いつの間にか、作る側が逆転していた。

「フランツィスカからは手紙も来ないのかい」

 レーヴェは目を伏して、首を振った。

「そうかい。魔女ってのは、難儀だねえ」

 揚げパイを口に運びながら、たばこ屋のおばあさんは静かに言った。摘んだばかりのミントの入ったモロカンティーは異国の香りがする。二人は紅茶の香りに、青い髪の魔女への思いを寄せた。

 紙袋に瓶に詰めた膏薬を入れて、ゆっくりと朝食を摂るイヴォンヌの隣にレーヴェは腰掛けた。ブルネットの巻き毛が一房、膝の上に落ちた。

「フランに預かったここを、わたしは守るだけよ」

 にこりと笑うと、化粧っ気のない顔でも愛らしい。デリラが膝の上に軽やかに上がってきて、撫でろと催促をする。

 カラン、と鈴の音がして、次の客が小さな店に入ってきた。今日も一日忙しくなる。朝日が窓から差し込んできた。

 小学校が終わる時間になると、子どもたちが小銭を握りしめてレーヴェのところに来る。

「今日のおやつ、なあにー?」

「リンゴが手に入ったから、リンツァータルトよ。食べ終わったらおうちのお手伝いに戻ること、いいね」

 はーい、と声を揃える子どもの前に、レーヴェは切り分けたタルトの皿とミルクティーの入ったマグカップを置いていく。青い髪の魔女も、昔からここでずっとこうしてきた。

「ねぇレーヴェ、レーヴェは魔法使いなの?」

 ラズベリージャムを口の端につけて、大きな目をきらきらと輝かせて聞いてきた。学校で何か習ったのだろうか、それともそんな話題が出たのだろうか。

「違うわ、ダニエラ。魔法使いと魔女は違うの。でもわたし、まだ見習いなのよ。フランが戻ってきたら、またフランにたくさんのことを教わるの」

「分からないよ、魔女も魔法を使うでしょ?」

 レーヴェはダニエラの口の端をリネンのハンカチでぬぐった。ラズベリーの紫色がうつる。

「魔女は魔法を使わないわ」

「だって、レーヴェの薬は風邪だって痛いのだってすぐに治してくれるのに」

 曖昧にレーヴェは微笑った。子どもには難しいのかもしれない。

 魔法使いは奇跡の技で人を助けたり、人を苦しめたりするけれど、レーヴェたち魔女は違う。

 薬を作ったり、化粧品を作ったり、お茶を作ったり。そういうのは奇跡じゃない。レーヴェはフランツィスカから、フランツィスカはその師匠から、ずうっと何代も、何代にもわたって伝えられてきたものだ。それは知識の賜物だ。

 魔法使いはレーヴェたち魔女をただの人だと思っているだろう。聞いたことがないので分からないけれど。

 だけれどそれはきっと間違いじゃない。

 それでもレーヴェには――いや、少なくとも師匠であるフランツィスカには、知識がある。代々伝えられてきた秘密のレシピが山のようにある。

「探し物のおまじないはできるわ。嫌なやつへの仕返しもね」

 ウィンクをすると、ダニエラは隣に座る少女たちと一緒にきゃははと笑った。

「レーヴェ、それってステキなことだよ」

 ダニエラは人一倍おしゃべりで、知りたがりだ。物怖じせずにレーヴェに接する。それはかつて、レーヴェがフランツィスカにそうしたように。

「素敵でも、それはわたしたち魔女のすることからはちょっと外れているの。できなくないけど、違うの。分かるかしら?」

「奇跡の技は、魔法使いのもの。魔女はあたしたちの隣にいてくれる人。そうママが言ってたよ、でもどっちもすごいってことに変わりはないのに」

 すごいと言われると、面映ゆい。すごいのはフランツィスカで、レーヴェではない。ただ、ここを守っていることを許されるような気がして、少し嬉しい。

「ねぇレーヴェ、あたしもいつか魔女になる。そうしたら、あたしの師匠はレーヴェだね」

 反射的に、首を横に振った。そんなの無理だ。

「わたし、まだ見習いなのに……」

「でもねレーヴェ、あたし、フランツィスカって人のこと、覚えてないの。そのくらい前から、レーヴェはここにいて、ここで魔女をやってる。継続は力なりってパパが言ってたよ」

 継続が力になるなら、レーヴェはもう本物の魔女になれている。

 作りかけのオールドローズのタッシーマッシーを手にして、言いよどむ。レーヴェは自分を本物の魔女だと思えていない。そんな自信がない。

 知識が必要なのだ。古くから受け継がれ、これからも受け継がれていくべき知識が、必要なのだ。

 人よりほんの少しだけたくさんのことを知っているべき魔女に知識がなかったら、魔女である意味がない。

「でもやっぱり、わたしにはまだ知識が足りないわ」

 タッシーマッシーに加えるハーブを、まだ選びきれていない。お守りには何が良いだろうか。

(フランはどうしてここにいないの。フランは何年、帰っていないの)

 混乱する。

 覚えていない?

 なぜ。どうして。

 大切なことのような気がするのに。

(ううん、とても大切なことだわ)

 いったい何年、魔女見習いをやっているのだろうか。


 風が強く吹いている。

 こんな日はちらちらと星が陰って、とても星が読みにくい。

 旅をする人には、その旅が易いものであるように進言を与える。

 作物を作る人には、種をまく時期や間引くとき、収穫時を知らせる。

 レーヴェには、フランツィスカのようにうまく伝えることができない。湿布薬を作るのとは勝手が違うのだ。ハーブティを淹れられても、膏薬を作れても、それはほんの一時のこと。生きていくためには、足りない。

 風で雲が流れていく。上空に寒気が入っているとラジオがいっていた。けれどそんなことを聞かなくても、ちらちらと星がきらめいて雲が早く流れる夜は、冷たい空気が上にあることが分かる。そう教わった。

「フラン」

 青い髪の魔女は、今どこを旅しているのだろうか。

 タッシーマッシーは彼女のためのものだ。彼女の無事を祈るものだ。

「わたし、まだ星を読みきれないの」

 ボリジとニゲラを選んで、花束に加える。

 淡い赤に、青が勝つ。いや、それで良いのだろうと信じて、白のかすみ草も足す。

 にゃあ、と足元でデリラが鳴いた。

「ごめんなさいデリラ、あなたのマタタビのストックがなかったんだわ!」

『そんなものは後でいいんだよ、レーヴェ。それより嵐が来る。雲が速い』

 レーヴェは星空を見上げた。ちらちらと星が瞬くのは、風が強いから。その風が下に降りてくるということだろうか。

「薔薇に覆いをしてくるわ。薪も多めに部屋に入れておこう。デリラ、マタタビは嵐の後になっちゃう」

 ろうそくは貴重だ。油だって、貴重だ。だから村のみんなは日が暮れれば寝てしまう。

 星を読む魔女は、そうはいかない。ろうそくこそ滅多に使えるものではなかったが、広大な畑にはアブラナも植わっている。一年分の菜種油を作るのは、春の終わりの仕事だった。

「覆いが終わったら鎧戸も閉める。デリラは確認をお願い」

『ラウールの家は子犬が生まれたばかりだ。知らせておやり。小さな子犬は嵐に耐えられないだろう』

 そんなに大きな嵐か。

 レーヴェは不安を覚えた。

「急いで行ってくる!」

 どのくらい時間があるのか分からない。けれどすでに風は強くなってきている。

 髪をまとめていたピンが飛んで、黒い髪が風に流された。

空を観察するための露台から降りて雨よけの外套を頭からかぶると、古くて大きな自転車を引っ張り出した。

『こけるんじゃないよ』

 デリラの声を背中に聞いて、星明かりしかない夜の外へ出た。

 あんまりに久しぶりに自転車に乗るものだから、はじめはおっかなびっくりと、けれど感覚を思い出してしまえば思いっきりペダルを踏んで、寝静まった村へと向かった。

 街のように舗装された道ではない。石もあれば穴もある。草地もあればごつごつとした岩がむき出しの場所もある。何度も自転車の上で身体がはねた。

 見上げると、もう星のまたたきは見えない。雲が頭上を覆っていて、ひとつの明かりもない真っ暗な場所を、レーヴェは進むしかなかった。デリラの嵐の予報は当たるからありがたくもあったし、嫌でもあった。どうしてレーヴェ自身で気づくことができないのだろう。

 がつっと音がして、車輪が宙へ浮いた。はっと思ったときには、したたか身体を地面に打ち付けていた。

「こんなことで負けちゃダメ。わたしは魔女だもの」

 見習いであっても、なおさらフランツィスカの名を汚すわけにはいかない。

 自転車を起こして、再びサドルにまたがる。ペダルを踏んで、前へ進む。村の方向は間違っていないはずだ、においで分かる。

「ラウールさん!」

 たどり着いたのは、村の中でも端に位置する羊飼いの家。牧羊犬が、子犬を産んだのだと聞いたのは、おそらくダニエラからの情報だ。まったくデリラはよく聞いている。

 どんどんと扉をたたくと、寝間着姿の旦那さんが扉を開けてくれた。とはいっても明かりは貴重なので、蛍光石を手にかざしてぼんやりとしたあかりが顔付近をわずかに照らしているだけだ。

「これは……丘の魔女?」

「そうです、レーヴェ・ムジカです。嵐が……嵐が来るから、生まれたばかりの子犬を屋内へ。それから鎧戸を閉めるように、みんなに伝えてほしいんです。わたしまだ、畑を何とかしなくちゃならなくて」

 ひげ面が頷いた。

「嵐か。ひどくないといいが……羊の厩舎も戸締まりをしておこう。レーヴェ、ありがとう」

 暗くて良かった。こけてきっと泥だらけだ。

「お礼なら、今度お茶を飲みにいらっしゃって。いいえ、お菓子を買いに来るだけでもいいわ」

 はははと笑ったラウール氏は、レーヴェの肩を一回叩いた。

「寄らせてもらうよ。レーヴェの畑は年寄りどもの生命線だ、死守してくれよ」

 微笑んだ顔は見えなかっただろう。頭を大きく下げてから、自転車に乗ってきた道を戻った。慣れた道というのはありがたい。見えなくても何とかなる。

 何とかなる、はずだった。


 やっぱり何かに乗り上げて、自転車から派手に投げ出された。

 今日は厄日だ。

「いったーい! もう!」

 なに、と自転車を探した手に触れたのは、柔らかな塊だった。明らかに無機物ではない。

 さわさわとまさぐると、布の手触りと、肌の手触りと、髪の手触りと。これは人だと思った横っ面に、大きな雨粒がたたきつけられた。

「やだちょっと!」

 かろうじて抱えられる人らしきものを自転車に引っ張り上げて、自分の着ていた外套を掛けた。意識を失った人間ほど重たく脆いものはない。

 ぱしぱしと叩きつけてくる雨粒は大きく、雹かもしれないと思うほど痛かったけれど、何とかいきだおれていたまれびとを自転車に乗せて、小屋までたどり着いた。

「デリラーこの人見てて! わたし薔薇に覆いかけてくる!」

 すたんと床に降りてきたデリラが、目を丸くした。いや、そんなのはレーヴェには見えないのだけれど、驚いた雰囲気だけは伝わった。

『青い髪!』

「え?」

 蛍光石で照らされた小屋の玄関は、暗い。人間のレーヴェの目には、色など分からない。

『フランだ!』

「えええ!」

 デリラを信じないわけではない。ただ、デリラに告げられたのがあまりにあんまりな人だったので、驚くしかなかったのだ。

『暖炉に火を熾しておくから薔薇を覆っておいで』

 どうしよう、と足踏みした。玄関でわたわたしていると、足元にしずくで水たまりができる。

『お前さんはここを守るんだろう?』

 はっとした。顔を上げて、レーヴェは机の上にたたずむ黒猫の金の瞳を見た。穏やかで、優しくて、安心できる力強い光は、いつも変わらずそこにあるものだった。

 外套の上にビニールでできたレインコートをかぶった。最近は便利なものができたものだ。その恩恵にあずかることは多くはないけれど、あえて避けるばかりでも生きていけないと思うから、そういうふうに便利なものはありがたく使わせてもらうようにしてきた。額の上にひさしがついていて、目を保護してくれるようになっているそれは、大きな雨粒からレーヴェを守ってくれた。

 いくつもの薔薇の株に覆いを掛けて、ミツバチの箱をとりあえず雨の当たらない四阿の中に入れてから、レーヴェは空を見上げた。

 雹の予報なんてできなかった。嵐になることだって、デリラが教えてくれなければ村のみんなに知らせることもできなかった。なんて未熟なんだろう。

 大きな雨粒か雹の粒か分からないが、当たると痛いそれに阻まれて、雲の動きがよく見えない。収穫前の麦は無事だろうか。

「それよりも、フランだわ」

 村から続く細い道に倒れていたフランツィスカ。この小屋を目指していたのかもしれないと思うと、気付けなかった自分が歯がゆい。再び玄関に飛び込んで、水滴のしたたるレインコートとすっかり濡れて重たくなった外套を脱いでコート掛けに掛け、泥だらけのブーツも脱いで部屋履きの木靴に履き替えた。

「デリラ!」

『まったく、火蜥蜴が言うことを聞きやしない。レーヴェや、火を熾しておくれ』

 小屋の中は寒々しかった。

古いテーブルクロスを暖炉の前に敷いた。その上に、ソファからクッションをいくつも運ぶ。

意識を取り戻さない青い髪の魔女の濡れた外套をはぎ取って、テーブルの上に投げた。泥を吸って重たくなったスカートとペチコート、それからブーツもキッチンへ向かって放り投げて、たばこ屋のイヴォンヌおばあさん手作りのショールを、ドロワーズだけになったフランツィスカの腰に巻き付けた。

「あなたが大型犬ぐらいに大きくて暖かかったら、一緒にくるまってってお願いするんだけど」

 重たい毛の毛布をベッドから取ってきて、フランツィスカに掛けた。それから火打ち石で手早く暖炉に火を熾すと、濡れていない小枝と薪を暖炉にくべた。

「ええと、それから」

 周囲を見回したレーヴェは、窓から見える揺れる樹木を見てから、パンと手を合わせた。

「鎧戸!」

 吹けば飛びそうな小屋でも、飛んだら困る。対処はしておくべきだ。

 玄関の小窓に木で蓋をして鍵を掛けた。キッチンとリビング、ベッドルームに一カ所ずつのガラスの窓に、がたがたと風で揺れていた鎧戸をしっかりと閉めると、小屋の中はごうごうという風の音とぱちぱちと火のはぜる音しかしなくなった。

 長くてきれいだったフランツィスカの青い髪は、首のところでばっさりと切られていた。ぐっしょりと濡れた髪をタオルで拭いて、レーヴェは小さな頭をぎゅっと抱きしめた。

「手紙も何にもくれなかったのに、よりによってこんな日に!」

 青白い肌は、思い出の通りに美しい。ほっそりとしていて、月の光みたいだ。

「こんなに冷たくなって。無茶して。わたしたち魔女は、万能じゃないんだから」

 暖炉の火が赤くはぜる。デリラがそばに寄ってきて、丸くなった。

「フランのバカ」

 言いたいことはたくさんあった。でも、こんな状態のフランに何を言えるというのだろう。言葉を持たない存在のように、レーヴェはフランを抱きしめたまま、火の前で眠った。


「……ーヴェ、レーヴェ」

 優しい声は、デリラのものではない。イヴォンヌおばあさんがもうやってきたのだろうか。そういえば腰が痛いんだけれど、ドジをしてどこかで打ったんだろうか。

「起きてちょうだい、レーヴェ」

 少し寒かった。――すこし?

 はっと開けた目の前にあったのは、透き通る月の光の色の瞳。デリラの金ではない。

「……フラン?」

 青白い頬が、笑みの形を作った。

「覚えていて? 寒い夜には蜂蜜酒を飲むの」

 昔は薔薇色だった唇が青いところを見ると、寒いのだろうか。ごうごうという風の音はまだ聞こえている。暖炉の火は落ちていた。

「あ……わたし」

 毛布にくるまっていたデリラが、前足を突き出してのびをした。

「寝てた。火を熾さないと。嵐の準備なんて何もしてなかったの」

 木靴が床に当たって硬い音がする。かちかちと火打ち石で火をつけてしばらくすると、暖炉の小枝に火がついた。薪をくべると、フランが笑った。

「石炭は使わないのね」

「だって高いんだもの、それにこの小屋は小さいから薪で十分……フラン、今までどこにいたの。石炭を使うようなお屋敷にいたの」

「ふふふ、ないしょ。それより、嵐が読めなかったの?」

 レーヴェはぐ、と言葉に詰まった。

「だってわたしはまだ見習いだし……無理よ、全部全部、フランのようにやろうなんて」

「でも大きくなったわ。背も伸びたし、髪も伸びたし、立派になった。黒髪のおちびちゃんが、ちゃんと魔女に見えるようになったわ」

 褒めてもらえるのはくすぐったいのだが、嵐が分からなかったのは事実だ。まだ未熟なのだ。小さく顔を振った。

「フランが帰ってくるまではここを守ろうって。帰ってきたらまたたくさん教わろうって。ずっと、ずうっと、そう思っていたの」

 フランツィスカの豊かな胸に顔を埋めた。暖かい。けれど、なんだかおかしい。

「レーヴェ、あなたはもう立派な魔女よ。わたしはわたしを終わらせるために、ここに帰ってきたの。あなた、何十年ここにいたと思ってるの。自信を持って」

『まったく、不器用だねぇ』

 デリラがあくびをかみ殺した。前足で顔を洗ってから、軽やかにテーブルに上がる。

「そうよ、わたし不器用で、天気だって満足に読めなくて、独り立ちなんて」

「嵐はわたしが呼んだの。仕方ないわ、星を読んでも無理なんだもの。デリラが分かったのは、デリラがわたしの使い魔だから。――レーヴェ、よく聞いて。あなたはわたしの後を継がなくちゃならない。わたしはもう、生きてないんだから」

 レーヴェはきょとんとフランを見上げた。シュミーズとドロワーズを身につけた青い髪の魔女は、月色の瞳でレーヴェを見下ろしていた。

「明日の朝には嵐はやむわ。そしてわたしは本当に動かなくなる。本当は森に入るつもりだったけど、そこまで身体が動かない。みじめね、呪いを受けた魔女は」

 分からない。わからない。

「どうして、フラン。呪いって、何」

「……イヴォンヌが生まれるよりずっとずーっと前、この村は飢饉に襲われたの。その屍毒を、わたしは魔女の法を破って、わたしの身体に取り込んだ。二百年目に呪いは成就して屍毒がわたしの身体から溢れてしまう。あなたでなければ呪いは解けないのに、わたしがここにいるとここは嵐にさらされてしまう。レーヴェ、あなたはわたしを焼かなくちゃならないの」

 魔法は魔女が扱っていいものではない。魔術となればなおさらのこと。魔女はただ、ほんの少し知識があるだけの、ただの人なのだから。

「フランは魔女ではないの、魔法使いなの、魔術師なの?」

 青い髪の魔女はゆっくりと首を振った。

「わたしは確かに魔女よ。でも、魔法も魔術も身につけている。望んだわけじゃないけれど、飢饉から村を救えたときには良かったと思ったわ。わたしはわたしを焼くことのできる弟子を育てなくちゃならなかった。ちょっと頼りないけど、レーヴェにならできるわ」

 青い髪の魔女は風の魔女。風を常に身にまとい、長い髪は風に揺れていた。

『フランツィスカ、風の魔女。他に呪いを解く方法は見つからなかったんだね』

 黒く長いしっぽをふうわりと揺らして、デリラが言った。

「ええ、探したけれどね。あの時は、レーヴェにわたしを焼けなんてこと、とても言い出せなかったわ」

「今なら、言えるの?」

 フランはきれいな顔で微笑んだ。

「だってこの村を壊せはしないでしょう? 泣き叫んだとしても、やってくれるって信じてる」

 レーヴェは、そんな信頼いらないと思った。だけれど、フランをこれ以上生き存えさせる方法も、この村を嵐から救う方法も、レーヴェには分からない。

「ねえレーヴェ」

 フランは黒髪の乙女の頭を抱いた。

「わたしの心臓はもう動いてない。気付いたでしょう。わたしの身体が溶けて流れて災厄を生む前に、お願い。わたし、たくさんのものをあなたに託すわ、だから受け取って」

 いやよとレーヴェは泣いた。泣きじゃくった。小さな子どもがそうするように、フランに頭を預けて大声で泣いた。

「――おやすみなさい、わたしの愛しい子。あなたがレーヴェ・ムジカで良かったわ」


 それがフランツィスカの最後の言葉だった。

 ことりと倒れた彼女の手足がどんどん黒く染まって、端からどんどん崩れていった。

 黒猫のデリラも、姿の端を解かしながら、火蜥蜴をレーヴェに渡した。

『不器用な青い髪の魔女の最後の願いさ。聞いてやっておくれ』

 わんわん泣きながら、レーヴェは外套を着て、レインコートを羽織った。暖炉から、火掻き棒で燃えさかる薪を掻き出した。火はファブリックに燃え移り、小屋の内側に移っていく。レーヴェはただ見ていることはしなかった。

 作りかけていたオールドローズのタッシーマッシーにリボンを掛けて、床に眠ったように横たわる、崩れて消えていくフランツィスカの胸に置いた。

「あなたの旅路が平穏でありますように、わたしの大好きなフランツィスカ!」

 レーヴェが小屋を出ると、小さな小屋は炎に包まれた。

「火蜥蜴さん、あなたの火で、すべてを灰にして」

 オレンジ色の蜥蜴が、燃えさかる小屋の方へ這っていった。

「あぁフラン、わたしのフランツィスカ。わたしはいつだってあなたを待っていたのに」

 小屋がすべて燃え落ちた頃、村人がひとり、またひとりとやってきた。

 イヴォンヌおばあさんが、レーヴェの肩を優しく撫でた。ダニエラが、レーヴェの外套をぎゅっと握った。

 レーヴェ・ムジカは涙をぬぐった。

 夜が明けた。

「あぁ、いい天気。これだけ澄んだ空なら、フランツィスカもデリラも迷わないわ。それってとても、すてきなことだなって思うの」


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