6th. love:Peace Of Mind
「この人、まだ起きませんね」
よくよく冷静に考えれば、この状況はあまり喜ばしいものじゃない。とはいうものの、放っておくわけにもいかないし、
「ほっておけ」
と、提案する前に答えがきた。汚いものを見るような目つきで──もっとも、彼女にとってはそうだと思う──それを一瞥する。
「自業自得だ。女子供に手を出そうとするやつは死ねばいい」
さらりと恐ろしいことを言ってくれる。こめかみに皺を寄せ、視線をそれからそらす。清華さんはボクを見るころにはすっかり笑顔になって、ボクに目を細めた。さあ行こう、とボクの手を取り促す。教訓、清華さんを怒らせると怖い。
最初に会ったときに履いていた黒のタイトパンツ、灰色の上着の上にジャケットを羽織っている彼女は凛々しく、夜の闇に溶けることなく歩みを進めていた。手を繋いでいるからはぐれることはない。さっきまで感じていた寒気も彼女がいれば気にならない。
「今日はちょっと寄りたいところがあるんだ」
そう言う彼女はどこか嬉しそうで、語尾が弾んでいるようにも思えた。大通りを堂々と歩く清華さんと、恥ずかしさで下を向くボク。この二人は道行く人にどう映っているんだろう。それとも誰の目にも映らず、風景の一部にちゃんとなれているんだろうか。よくわからなかったけど、彼女がいてくれるから不安にならずにすんだ。ボクが彼女に目をやると、彼女もボクと目を合わせてくれた。そこで立ち止まり、道端でぽつねんと突っ立っている自販機を指さした。
「あそこで一休みしよう」
気を遣ってくれたのかもしれない。歩いて数分も経っていなかったから疲れてはいなかったけれど、その言葉に甘えることにした。彼女は無糖のコーヒー、ボクが果実入りのオレンジジュース。自分で買おうと思ったら清華さんに断られた。やっぱり温かな飲み物にしとけばよかったと舌を出すと彼女が苦笑した。とりとめのない話をして、今度は手を繋がずに、目的地まで歩いた。
大通りをまっすぐ、駅からはずいぶん遠ざかる。目の前に四車線の大きな橋が見えたら、その手前の信号を渡って左へ折れる。ぐっと人気が少なくなった。時折タクシーがボクらの横を徐行して、やがて遠ざかる。それぐらいのものだった。裏路地に入り、目に入る古ぼけた看板は切れかかったライトで照らされていた。そのいくつかを通り過ぎて、彼女の足が止まった。
店内に入ると人の良さそうな若い女性が出迎えてくれた。ダイニングバーよろしくの店内には他にお客さんはいないようだった。小声で清華さんに尋ねると親戚が開いているお店だということを教えてくれた。ボクたちはカウンターに座る。キッチンではいかつい男性が小さなコップを丁寧に拭いていた。
「マティーニ」
「嬢ちゃんにはまだ早いぞ」
そう言いながら、カクテルグラスに紅色のシロップと砕いて細かいかけらになった氷を入れ、硝子ビンに入った液体をそこへ満たした。小さな泡がかわいらしく揺れる。
「これは何?」
一口飲んだ彼女が不思議そうにグラスを見つめる。
「シャーリー・テンプル」
そう言って、マスターは簡単なレシピを彼女に教える。アルコールが入っていないと知って不服そうに目を細めると、彼は豪快に笑った。
「そんな顔をするお子様にはぴったりだろう? んで、おまえさんはどうするんだ」
どうする、と言われてもこんなお店には来たことがないし、お酒の知識もないので悩む。どうしようかと思いあぐねていると清華さんが助け船を出してくれた。
「プッシー・キャットを出してやってください」
「わかってるじゃないの」
にんまりとするマスター。正直大熊が口を開けたのだと思いました、はい。彼が色鮮やかないくつかの液体と氷をシェーカーに入れてかき混ぜている間、さっきのママさんは棚をいじっていた。やがて懐かしさを含んだ音楽が流れ出す。
「ベイカーブラザーズのセカンドか、悪くない」
「さやちゃん詳しいわねー」
カウンターに置いてあったタンブラーを片手にママさんは瞳を輝かせる。
「私が好きなのは、彼らのように狙って懐かしいサウンド作りをする人たちなんです。ただ古いだけのものとか、ただ新しいだけものにはあまり興味がない」
そうグラスを空けた彼女はおかわりを頼む。了解したマスターがボクの元にグラスを置いた。赤みがかったオレンジに、スライスされた果実が飾られている。甘酸っぱさがなぜか胸を締め付けた。ちびちびと飲みながら、なぜこれを頼んだのか気になった。
「マスター、『プッシー・キャット』ってどういう意味なんですか?」
そう訊いた途端、またもや意味深な笑顔を浮かべ、ヒゲをさする。そしてボクの横で清華さんは難しい顔で口元を歪ませていた。酔ってもいないはずなのに、彼女の頬が赤くなる。
「さあな、あとで嬢ちゃんに訊いとくれ」
その通りにしようと思い、その質問は先送りすることにした。しばらく音楽に身を委ねる。清華さんは二人と音楽や身の上話をしていた。段々とぼんやりしてくる。睡魔がまとめて、一気に襲ってきたみたいだった。
……肩を揺らされるまで、ボクは寝ていたらしかった。眉尻を下げ、軽い溜め息をつく清華さん。
「置いてけぼりにしてしまったか、その──かわいい子猫ちゃん」
頬をかく。ボクは一瞬きょとんとしたあと、何を言われたかはっきりした瞬間に熱が上がった。こういうときに浮かぶ言葉なんて、何もない。マスターは腹を抱えて笑い、ママさんが彼を酔い半分に止めていた。
また来る、と彼女が二人に別れの言葉を告げ、店を出た。少しお酒の匂いがする。ごまかすように彼女はガムをかみ始めた。ボクにも一粒くれる。苦く、冷たい。目がさえたところで、清華さんはボクに尋ねた。
「夜中で歩くようになったのはいつごろから?」
それは高校に入る前の春休みからだったから、ごく最近の話だ。この姿で夜道を歩いてみたかったと話すと心底からとも思えるほどの溜め息をついた。
「さっきみたいな経験をしたのは?」
それは実は初めてだった。注意深く行動していたつもりでいたし、あまり危ないところに行かないようにしていた。
「では私みたいな女性に襲われたことは」
私みたいな、というかいきなり壁に追い詰めて唇を奪う人なんてあなた以外知りません。そう言っても最初は納得しない彼女。真剣なやりとりをする前に二人とも笑えてきてしまった。
「そうだな、たしかにそうだ」
二人は違う方向の列車に乗って、一緒に帰った。そして日付が変わる前にボクたちは別れた。