40th.love:絶望
それは、彼女との別れを意味していた。彼は二人とも別の使命があることを淡々と説明した。もう一人男が現れて、私は彼についていくことになった。一番最初に現れた男は細身で理知的な印象を与えたけれど、私の前でどんどん進んでいく彼はどこか屈強そうな印象があった。彼は道の途中、いくつかの質問をした。
「武道の経験は」
「銃器を扱ったことは」
「運動神経はあるか」
ない、あるいはわからない、と答えるしかなかった。その言葉の意味は彼女から教わったけど、それを実際に利用したことはなかった。運動神経、といわれても人間のときと猫になったときとでは違いがあるだろう。彼は一旦立ち止まり、私へと振り向いた。なめ回すように私を見て、小さく溜め息を吐いた。私がその理由を説明しても彼は答えなかった。そういうことになっているのだろう。きっと、彼女がどうなったのか聞いても答えないだろう。少しずつ何かを諦め始めていた。やがて、何を諦めていたのかも忘れた。
どれほど歩いていたのだろう、もうどの道を歩いたのか忘れてしまった。やがて大きな通りに出て、そこには白いバンが停まっていた。人波を彼は進んでいく。かき分けることもしない。彼の前には自然に道ができる。不思議に思いながら、彼の後ろを進んだ。あまり、恐怖心はなかった。彼女との別れを引きずっているだけ。バンに乗り込むと、車はすぐに動き出した。運転手が待機していたらしい。私はぼんやりと外の風景を眺める。そうしていると彼が眠くないか、と聞いてきた。眠くないと答えると、小さな白い布──正確には、布に染みこまれた液体──をかがされた。抵抗もできないまま私は眠りを強制された。
目が覚める。そこはそれなりに綺麗な部屋だった。荷物は私の鞄ぐらいで(中身は出されていて、検閲されたようだった)、本棚や机の上は空で、気になる匂いもなかった。フローリングの床が足に冷たい。宿を提供されたのかと思ったが、それにしてはやりかたが強引すぎると思った。薬までかがされて、ようこそいらっしゃいませなんてことありえない。
とりあえずこの部屋を出ようと思った。まずなんでこんなことをされなければいけなかったのか、説明がほしい。私はドアノブを回して扉を開けようとした。……案の定というべきか、それは開けられなかった。内側に鍵はなく、外からしか鍵は扱えないようだった。窓はあったものの、細い格子で囲まれていて、道具でも使わなければそこから出られそうになかった。興味が、畏怖に変わっていく。無理矢理寝かされたのも、ここがどこにあるのかわからせないようにするためだろう。私はこの組織が私に何をしようとしているのか、彼女はどうなってしまったのか理解できず、その恐怖に怯え始めていた。
暴れたところでどうしようもないと悟った私は部屋の真ん中で三角座りをしていた。自殺するための道具もなかったし、しようとも思わなかった。空腹を覚え始めたころ、ノックの音がした。私は勢いよく顔を上げ、そこへとまなざしを投げる。そこには私とあまり背の変わらない女の子がいた。ただずいぶん大人びた表情をしている。私は逃げたいと暴れるには空腹過ぎた。力なく彼女の元に近づき、なぜ私がここにいるのかと理由を尋ねた。彼女はただ首を振った。答えられないのか彼女にもわからないのかは知りようがない。彼女は私に洋服を手渡した。彼女が着ているものと同じ、濁った緑色の軍服、だった。
それに着替えると、私についてきて、と口数少なに指示した。途中、もう一言付け足す。
「ここから逃げようなんてこと、考えないほうがいい」
私はうまく答えられず、頷いただけだった。
コンクリートを打ちっ放しの廊下を進み、階段を下り、広い場所へと出る。何十個と適当に並べられた丸いテーブル、横のほうには大きな厨房、食事の匂いからここは食堂だとわかった。そこには同じ服装の人たちがたくさんいた。男女の人数は半々ぐらいで、若い人から初老の人まで広い年齢層の人がいた。ただ年齢が上がるごとに男性の割合が増えているような気がした。彼女に促されるまま、配膳場所まで向かった。彼女の身振りを真似しておかずを皿へ盛りつけていく。最後に厨房担当の方から白米をもらった。彼女は空いているテーブルを見つけて、そこへ案内した。
彼女は何も語ろうとしなかった。ただ一言、おいしい?と投げかけてくれたのが印象に残った。私を気にかけていないわけではないと思えた。発言をここでは制限されているんだ、と聞かされた。実際、ここでしゃべっているのは年齢の高そうな男の人たちと厨房にいる人たちぐらいのものだった。
初めての食事はとてもおいしかった。もちろん、まずいものを食べたことがなかったので比較しようもなかったが。食事が終わるとまた彼女の後ろをつけいてさっきいた部屋に戻った。しばらく休んでいるといい、と彼女はつぶやくように言って、扉を閉めた。鍵の閉まる音。また私はとらわれの身になった。
その日は、それ以降の訪問者もなく終わった。私は備え付けのベッドで眠った。次の日、日が上がってからノックの音がした。朝食かな、と思って顔を上げる。案の定、昨日の女の子が顔を出してきた。昨日と同じように食事をとると、彼女は違う部屋へと案内した。私の部屋とは違う、幾分か立派な造りの扉だった。彼女がノックをする。低い男の声がして、扉が開いた。促され、部屋に入る。
大きな机、黒く大きな椅子に座っていたのは初老の男性だった。横にはスーツを着た女性が待機していた。彼はいいよ、と隣に並んでた女の子に声をかける。彼女は一礼して部屋を出て行った。重そうな音がして、扉が閉まった。私は視線を前に戻し、彼を見つめる。一見した限りでは優しそうなおじさんといった風貌で、むしろ軍服が似合わないぐらい優しい細い目をしていた。人当たりのよさそうな彼は自分の手を組んで、私に顔を下げた。
「昨日は手荒な真似をしてしまってすまない」
……謝られても仕方がない。私はなぜここに連れて行かれたのか、その理由が知りたかった。単刀直入に、それを訊いてみた。彼は顔を上げ、首を振った。
「すまないが、それに答えることはできないのだよ。ただ、君についての情報は把握している。君はしばらくここで使命を果たしてもらう」
私はまず名前を与えられた。イズミ・ミオ。どういった字を書くかとかは教えられなかった。そして、使命を与えられた。
「君には、特務部として任務を果たしてもらうことになる」
任務とは、何なのだろうか……?私の胸は怖いぐらい高鳴って、唇は震えて言葉にならない。彼は柔和な表情を崩さないまま、答えた。
「任務は、暗殺だ」
アンサツ……その言葉が焦点を結ぶには時間がかかった。意味のある単語だと気付いたとき、はっと息を飲んだ。この人は、私に人殺しをしろと言っている……!私は首を振って、それはできないと否定した。彼の表情が曇った。
「君には身寄りがない、だから私たちが生活を保障すると名乗り出たんだ、君が使命を果たすかわりに。別にここを出て行ってもかまわない、ただこの場所を知った以上生かしてはおけん」
横で待機していた女性がいいのですか、しゃべってしまって、と声を出す。語気が少し荒い気がした。なに、答えにはなってないと涼しい声を出す男。
「もちろん私たちが訓練をし、その上で任務に参加してもらう。そう難しいことではないから安心していい」
安心?それは、訓練に?それとも、人殺しに……?彼は聞こえなかったふりをして、話を続けた。
「ここに来たからには心を決めて望むこと。我々は、人の望みを叶えているだけなのだよ」
……部屋を出ると、さっきの女の子が待ってくれていた。彼女は自分の名前を告げた。ユノ。名字はない。フルネームを与えられるのは限られた人たちなのだという。ここでは以前の名前を奪われ、この組織としての名前で生きることになる。私はこらえきれなくて、彼女に訊いてしまった。
「あなたは、人を殺したこと、あるの?」
彼女は答えなかった。