36th.love:不器用な心
ボクの家にほど近い公園。大人数で遊ぶには適していないそこには少ない遊具と木のベンチが置かれていた。夕方より暗く、街灯がちらほらとつき始める。ボクは約束の時間よりも早く来て、彼の到着を待っていた。正直、どう切り出そうか悩んでいた。聞き出したところでどうしようかとも思った。どちらにせよ、ボクは怒らなくてはいけない。誰のためなのかはうまく答えられる自信がなかったけど。
約束の時間に五分遅れて彼はやってきた。ジャージ姿ということはさっきまで部活をしていたということだろう。案の定、部活で急に呼び出しがかかって遅れたことを伝えてきた。ボクは彼をベンチに案内した。
「それで、話って何なんだ」
腕を組んで腰掛ける彼の表情は引き締まっていて、いつもの馬鹿話ではないことを悟ったようだった。うん、と小さく頷き、ボクは質問を投げかけた。
「正直に答えて。……純平は、清華さんと付き合っていたんだよね」
一瞬、瞳が曇ったようだった。深い溜め息に混じらすように、ゆっくり言葉を吐いた。
「ああ、そうだ」
「どういうきっかけとか、何があったとかは清華さんから聞いた」
愚痴をこぼすわけでも、表情を変えるわけでもなく、純平はぼんやりと遠くを眺めていた。ボクは言葉を続ける。
「なんで、清華さんに暴力を振るったりしたの?」
なんで、と言葉を繰り返す彼。何度かその言葉を口の中で小さく転がして、また深い溜め息をついた。ボクは彼が説明を始めるまで待ち続けた。
「なんでなのか、俺にもわからない」
ふっと、抑えていた怒りが沸点に達した気がした。無意識に立ち上がり、彼の胸ぐらを掴んでいた。彼はボクから目をそらしてつぶやいた。
「殴りたきゃ、殴れよ」
ボクは腕の力を抜いて、彼を解放した。怒りにまかせて殴ったところで、状況は悪くなるだけだ。彼は首元をさすりながら苦虫を噛み潰したような顔になった。
「俺は、菜月先輩を愛してた。誰にも、負けないぐらい。なのに、憎くなる瞬間があったんだ。なんでそうなるのか自分でも理解できない。ただ、その衝動が抑えきれなくなって、手が出てしまった」
どうして、こんな身近に不条理が隠されていたんだ、よりによって、純平がそういうことを言うなんて。ボクは納得がいかなかった。
「何かあったんじゃないの、人に何かをぶつけなければ耐えきれないほどの辛いことが」
ベンチに座る彼はとても小さく見えた。ただ見下ろしているだけなのに。ボクは彼の言葉を待った。理由がないなんて許されない、だってそこには救いがないじゃないか……!
重い空気が流れている。雨は午後の始めにやんだけど、また泣き出しそうにぐずついていた。ボクは気付かないうちに拳を握っていたことに気付いて力を抜いた。
「俺は、身勝手な人間だったんだ」
それは今でも変わらないな、と自嘲する純平は初めてボクにまなざしを向けてくれた。
「陸上部に限らねぇんだが、運動部の一年は『ボウズ』と呼ばれてな、ほぼこき使われる。まぁ先輩のはたいしたことじゃない。なぜか俺はタメのやつにも同じような扱いをされた」
思い出すように、何があったのか並べていく。
「部室の掃除やら片付けやらから始まって、気付けばパシリの仲間入り。なぜか俺の味方をするやつは一人もいなかった。そのうち、俺の態度が気にくわないと言い出すやつがいた。理由がわからないから聞き返した、そいつら、こう言いやがったよ……お前に幸せは似合わないって」
幸せ、とはきっと清華さんと付き合い始めたことだろう。それを快く思わない人間がいた。それは、どう見たって私怨だ。
「そいつら、俺のことをいきなりボコり始めてさ、その日は日が暮れるまで殴られ続けた。俺は手を出さなかった。そしたらこいつらと同じになっちまう、最悪、俺が被疑者になるかもわからなかったからな」
最初のうちは黙って殴られていた。そのことを誰にも言わず、一人で抱え込んでいた。でも、限界は誰にも訪れる。
「なんで、こいつといることで苦しい思いをしなくちゃいけないんだろうなと思うようになっていったんだ。だんだん、彼女が憎らしくなっていった。おかしいだろ、菜月先輩は何も悪くないのに。でも、当時の俺は、彼女と別れることで痛みから解放されると思ったんだよ」
そこからは清華さんから聞いたとおりだった。嫌われるような行為をわざとして、それでも彼女は動かなかったから、暴力に走った。
「でも、彼女は離れるどころかより近づくようになってきた。俺のためなら何でもやるから、私から離れないでくれって、泣いてせがんだ。俺はだんだんいたたまれなくなって、謝るようになっていた」
そのうち、彼は煙草を吸うようになった。苦くも心を安らげるにはちょうどよかった。彼女を傷付ける道具にもなった。彼女がどれだけ傷付けば、彼女は目を覚ましてくれるのか。いつの日か部員に暴行されることよりもそっちのほうが気に掛かり始めていた。
「そして、俺は暴行事件を起こした。彼女の首を絞めたんだ。あまりに彼女が安らかな顔をするから、俺のほうが怖くなった。彼女の強い希望で、立件されることはなかった。ただ、停学をくらった。名目上は喫煙だったけな。まぁ、ここもあいつから聞いてるんだろ?」
ボクは一つ、首肯した。
「もうどうでもよくなっちまって、部員を数名ずつ呼び出して今までの鬱憤を晴らしてやったよ。今思えば、俺はぼろぼろだった。何もいらないと思った。いっそ死んでしまおうかとも思った」
でも、律がいたからな、と笑う。その微笑みはとても不格好でどこか引きつっていた。でも彼らしいな、と思った。
「それは思いとどめて、でも、これからどうしようか悩んでいた。今更部活にも戻れないと思っていたし、停学中は家でぼんやりしているか外をぶらつき回っていた、そんな矢先、美緒ちん──和泉美緒に会ったんだ」
もう二人は彼女と知り合っていた。ただボクは清華さんと美緒先輩が友人(といっても当時は彼女の片恋慕だったっけ)だということを知らなかった。
「彼女は出会い頭、俺に平手打ちをした。誰に殴られるより、彼女のそれが一番痛かった。ぼろぼろに涙を流し、俺に怒りをぶつけた。俺は虚しくて、彼女の言葉を飲み込むしかなかった。でも、虚しかっただけの胸が、どこか満たされていくような気がして、溢れて、涙になった」
ボクは、彼に何ができるだろうと思った。もしかしたらボクにできることなんてないのかもしれない。なんとなく確信する。もう、純平が一人になる必要はないことを。美緒先輩がもっと近くで彼を見守ってあげてほしいということ。
「俺は、当分一人で生きることを決めた。これは戒めだからな」
ボクは、それは違うよ、と言ってあげた。もう、一人じゃなくていいんだよ。彼と別れたあと、ボクも家に戻った。明日、最後にもう一つやらなければいけないことができた。ボクが唯一、できること。