33th. love:カスレタ コエ
特に誰もいない授業中の図書館はお気に入りの場所だった。司書の人が黙って解放してくれた。柔らかな笑顔の似合う初老の女性で、彼女と話をすることも多かった。彼女は決してボクがこういうことをしている理由を訊いたりしなかった。だからなお、安心してそこにいることができた。
本はよき友達となってくれた。ボクにたくさんのことを教えてくれた。同学年の人たちが知らないことに対してとても雄弁でわかりやすく語ってくれた。かつ勝手に結末をしゃべることもなく寡黙でいてくれる。インクの匂い、本棚の木の匂い。それに優しく包み込まれるとき、ボクはとても幸せだった。
授業についていけなくなることはなかった。教師はプリントを渡してくれて、それに追いついていれば特に何も言わなかった。気付けばボクは特別クラスに編入されていて、どこにいてもいいようになっていた。……どうでもよかったのかもしれない。そのままのクラスにいて、問題が大きくなるよりはマシだと思ったのかもしれない。今思えば、腐っている体勢だったけど、今更もう、笑い話にしかならない。
ボクは学校が始まるまで適当に(例えば、まだ寂れていなかった商店街とかで)時間を作って、本鈴が鳴ったのを見計らって学校へ入っていった。少なくともこれで生徒と鉢合わせることはない。放課後、夕暮れが終わりそうになったら保健室のベッドから起き上がった。保健室の先生としゃべることはなかったけど、どちらかというと否定的な態度を取っていたみたいだった。ただ、ボクはもといたクラスより高い点数をとっていたから教師に文句を言われることはなかった。要は、目の上のたんこぶだった。
この生活がいつまでも続けばいいと思っていた。やっと歯車がかみ合ったんだ。誰も傷付かなくて、どこにも問題ないじゃないか。今更、元の授業に戻れるわけがないんだから。でも、終わりは静かに近づいていた。ある日、図書館に向かっていると司書室に案内された。ストーブで暖められた部屋は心地よくて、うとうとしてしまいそうだった。司書の先生は珍しく困った顔でボクを見つめていた。なんでだろう、とボクはその理由を尋ねる。彼女は言葉苦しそうに、ボクに告げた。
もう図書館は使わせてあげられないと、先生は首を振った。逃げ場所が一つ、なくなった。ボクがそうしていたことを、苦情として誰かが連絡したらしかった。ボクのことなんて忘れ去られていると思っていたのに、ひどい仕打ちだった。
保健室に向かう。ここなら、まだ大丈夫だと思ったから。けど、保健室の先生はボクに冷たい言葉を告げた。銀縁の眼鏡がボクを拒絶する。言ったことは司書室の先生と同じだった。ボクは特別クラスにしかいられなくなった。いわゆる『問題のある児童』をまとめたクラスだった。ボクには彼らのどこに問題があるのかわからなかった。授業らしい授業もなく、ボクは遊んだり突然叫び出す彼らを横目にプリントを解き続けていた。
隅に追いやられたようなこの教室で、ボクは窮屈だった。ボクが何者なのかわからなくなる過程で、自分というものが希薄になっていくような気がした。ボクはぼんやりと辺りを見回した。彼らは楽しそうには見えなかった。ボクと同じ、どうすればいいのかわからずにもがいているようだった。
一人で何かを考えることが多くなった。知識だけは多かったから、空想をそれが手伝ってくれた。ボクは何者なのかを考えることはやめた。とりあえず置いておくことにした。もし空を飛べたらとか大ざっぱで子供じみたことから、この世界の他にはどんな形の世界があるのか、それをボクたちが、影でも見ることができるのかとか今のボクには考えられないことまで、その空想は幅広かった。それを考えるだけで楽しかった。
その日も、ぼんやりと空想にふけっていた。その学年で学習する内容はだいたい勉強し終わっていて、その知識を忘れることもなかった。だから今日も一日中ぼんやりと過ごすつもりだった。教卓の横に椅子を置いて座る教師は本を読んでいる。騒いでいる児童をときおりたしなめる以外はずっと本を読んでいた。
誰からも傷付けられることのないこの場所はひどく心地がよかった。心地がよすぎて、感覚が鈍磨していく。そのことにすら気付かずに緩い時間の中を泳いでいく。そのうち深海魚のように目が見えなくなるんじゃないかと思った。ただ生きるために生きる、そこに目的なんてない。一日をなんとかやり過ごして、それを重ねて……それからはどうしようか、どうすればいいかなんてことも考えていなかった。
終業のチャイムが鳴って、教室を出る。ボクはそこからすぐの裏口から、逃げるように学校を出て行った。後ろから誰もついてこないことを確認して、やっと足を緩める。こんな生活がいつまで続くんだろう。このごろはあまり眠れなくなっていた。何かに監視されているような気がして、目がさえてしまっていた。目の下のくまをこすりながらボクは下校路を辿っていた。一人だと思っていた。このまま、やり過ごせると思っていた。
けれど、立ち止まった交差点、赤色の信号機の下、人がいた。彼はボクを睨み付ける。大柄な彼はそのときのボクにとっては恐怖の象徴だと思った。だから怖くなって逃げ出した。驚いたように目を見開いた彼の表情を横目にしたあとは脇目もふらずにただ前に走っていった。けれど、ろくに運動をしていないボクが逃げ切れるわけがなかった。結局追いつかれて、腕を捕まれた。まるで悪夢の再現だ、と思った。怖さが現実のものになってボクは叫ぶ。どうにかなってしまいそうだった。ボクという片鱗がぼろぼろとはがれて、中身のない自分をさらけ出されるような気分だった。
泣き叫ぶのが辛くなって、ボクはそれをやめた。彼はボクを強く抱きしめている。恐怖が徐々に安心感に変わっていく。こうやって誰かの胸に落ち着くのは久しぶりのことだった。ボクは静かに顔を上げた。見覚えがある顔なのに、誰だか思い出せない。世界から心を閉ざすようになって、ボクは人の名前や顔を忘れるようになっていた。
彼が自己紹介をする。マエダジュンペイ……やっぱり、思い出せない。ボクが首をかしげると、ボクを抱きしめる力が弱くなった。マエダジュンペイ、と彼の名を言葉でなぞってみる。自分の声がかすれてしまっていることに初めて気付いた。両親の前では気丈に振る舞えていたのに。