28th.love:戸惑いの心
転げそうになりながら一階まで降り、中庭に続く扉を開ける。緑の匂いが鼻をくすぐる。湿っぽい風。ボクは肩で息をしながら彼女の姿を探した。いつかのことを思い出す。あのときは彼女が何年生で、昼間どこにいるのか、ましてやボクと同じ学校の生徒だなんて思いもしなかった。だから学校中を走り回って、結局彼女に先に見つけられたのだった。ボクのことを子猫だなんて呼んで、胸パッドをもみしだいて……あのときの笑みが、今は涙に変わる。ボクのやっていることは間違いなのだろうか。でも、ボクが変わって、このボクを彼女が受け入れてくれたら。きっと、そこが本当のボクたちのスタートラインなのだろう。まだボクたちはそこにすら立ていない。
ボクは無人のベンチに腰掛けた。今までは隣に清華さんがいてくれた。ボクはこれからその幸せを取り戻さなければいけない。少しの時間だけそこで過ごして、立ち上がった。ここで待っていても、きっと何も変わらない。ここにいるだけでは何も手にすることはできない。ボクはこない彼女の姿を探しに再び足を進めることにした。
廊下に戻り、扉を閉める。振り返ると、そこに清華さんがいた。思わず、互いに息を飲む。そしてすぐ、彼女はボクに背を向けて逃げるように去ろうとする。ボクは彼女を呼びようと声をかけた。けれど、彼女は訊く耳を持ってくれなかった。話を聞いてほしいから、ボクは彼女に呼びかけながら彼女についていった。
「……ついてくるな」
「いやです、話を聞いてくださいっ」
誰をも遠ざけそうな冷たい口調に胸が軋む。ボクも懲りずに言葉を返す。それは胸の痛みを隠すため、それとたとえ今は嫌われても、きっと取り戻してみせる確信があったからだった……根拠はないけれど。
彼女についていくと、屋上まできた。基本的に立ち入り禁止で、人気もなかった。ここまで来て、彼女はやっとボクに振り向いてくれた。
そして、ボクの頬に痛みが走った。──清華さんは、ボクに平手打ちをした。瞳は涙で潤んでいて、ボクはそれが怒りなのか、悲しみなのか、そのどちらともなのか判断がつかなかった。歪んだ口元が、皮肉を口にする。
「君は、私を馬鹿にしてるのか?もういい、はっきり言うよ、私はね、『女の子としての逢坂律』が好きだったんだよ。私をただ優しく包んでくれるだけでよかった、ただ君は笑っているだけでよかったんだよ……。それなのに、なんなんだ、それで私が変われるとでも思ったのか?外見でしか判断できない私を、本気で好きにさせようとしたのか?君に抱かれかけてよくわかったよ、男なんて、結局女に傷をつけるだけつけて自分はいい思いしようっていうことがね、もっと早く気付いていれば、繰り返さずにすんだのに……」
まるで支離滅裂だよ、清華さん。論点はすり替わっている上に、ただわがままと文句を並べているだけだ。彼女に何があったかはまだわからない──薄々感づいてはいるけど──。でも、その言い分はまるで間違っている。それだけはよくわかる。やっぱり、苦労するのはこれからだ。それに、ボクだって思う。そんなことを言われたところで、ボクの気持ちに変わりはない。だから、それを見越した上で、言ってやる。ボクは内心を悟られないように目線を彼女から少しずらした。
「じゃあ、別れましょう。今度は素敵な女性を捜してくださいよ」
息を飲む彼女。それをすぐ隠し、清華さんは溜め息混じりに言った。
「そうだな……こんな関係、うまくいくわけがなかったんだ」
沈黙はすぐ、予鈴でかき消される。ボクは先に屋上を去った。外は雨の匂い……ボクの一番嫌いな匂いだった。
教室に戻ると、純平が珍しく困ったように眉尻を下げていた(そして、それは彼にとても似合っていなかった)。ボクが首をかしげると神妙そうに言葉をボクにかけた。
「律、なんかあったのか……涙でぐしゃぐしゃになってるぞ」
ボクはあわててブレザーの袖口で指摘されたものを強引に拭う。
「また誰かに文句つけられたのか?誰だ、また俺が懲らしめてやるぞ」
違うよ、違う。あのころのような弱さ、もう今のボクにはないんだ。だから、純平が怒る必要はないんだよ……彼の優しさと強さに礼を言いながら、彼をなだめる。純平は納得がいかない表情ながらもボクの言うことを聞いてくれた。でも、けして何があったかは言わなかった。彼は、そのことを最も話してはいけない人だから、地雷を踏むわけにはいかない。
教師が何か説明している。ボクはぼんやりとしか聞いていなくて、何を言っているのかはわからなかった。彼が黒板に何か記号やら表やらを書き記している。何を示しているのか頭に入らないまま、黒板の内容をノートに書き写していた。そうして授業が進んでいく。
ボクは一つのことだけ考えていた。どうやったら彼女は彼女自身の傷と向き合うことができるのか、ボクがどうやれば彼女にそういうふうにさせることができるのだろうか。ボクは彼女に何を示すべきなのか。誠実でいること、と言葉にすることは簡単だけど、その誠実さをどうやって示すのかそれだけを必死に考えていた。
何も考えたくなくて、ボクは理科室で一人になろうと思った。どうせ今日も人がいないんだ。いつものように鍵を取りに行くと教師になぜかさっさとやれと怒られた。腑に落ちないまま理科室に向かう。ボクはそこに着いてやっと肝心なことに気付いた。そこは女生徒だらけでえらいことになってた。ボクの姿を見つけて群がってくる。正直逃げたかったです。ええと、部長ってどこの誰だったっけな……?