25th. love:変わりゆくこと
キッチンに響くのは水の音で、それに隠れるようにもう一つの音がした。そこに清華さんはいた。肩で息をしている。胃液の匂いが強く鼻につく。ボクは彼女を楽にさせようと背中をなでる。
「……でくれ」
ボクは聞き返す。彼女はボクを払いのけた。その勢いでボクは背中を強く冷蔵庫にぶつけた。
「触らないで、くれ」
腕で口元を拭う彼女は誰の目から見ても明らかなぐらい怯えていた。全身が、身震いしている。
「君は違うと思ったのに、あの人と同じことを言うんだな」
「え……」
「男はみんな、ウソツキだ……あんなの、苦しいに決まってる……怖い……苦い……君は……怖い……」
頭を抱え、一つの言葉を繰り返し始める。怖い怖い怖い怖い……。支離滅裂な状況で、彼女が破綻してしまいそうになっていた。
清華さんは虚ろに同じ言葉を繰り返していたかと思った矢先、突然発狂したかのように叫び出した。ボクはなすすべもなく、彼女が疲れ果ててその場で眠るまで、ただ立ちつくして待ち続けるしかなかった。ボクはそれでも彼女に手を差し伸べなければいけなかったんだろうか。答えは出なかった。
眠った彼女を抱きかかえて、ベッドへと運んだ。清華さんはじっとりと汗をかいていて、ボクはそれをタオルで拭ってあげた。ベッドのシーツには彼女が強く掴んでいたんだろう、皺が寄っていた。いつかボクがはがした毛布をかけ直す。眉を寄せた彼女はときおり辛そうな寝言をつぶやいていた。ボクはパジャマを脱いで、着替え直した。置き手紙を書こうかと思ったけど、なにを書けばいいのかいけないのかわからなくて、結局ペンを置いた。そして、この家を出た。
外では、雨が地面を打ちつけていた。コンクリートに雨音が落ちる音は群れになってボクの耳と胸を責める。綺麗な旋律に聞こえた小さなころが懐かしい。暗闇に姿を紛らせた雨粒は、あっという間にボクを濡らす。夢の中のボクと、今のボクがシンクロする。でも……涙は出なかった。彼女の絶叫を受け止めるだけで、ボクの心は損なわれてしまったかのように空洞に感じていた。
……胸が痛いのに、その悲しみを表現する手段がない。暗闇がボクを奪う。雨に打たれ、ボクはひざまずいた。ボクは夢の中の自分になりたくなくて、必死にボクを取り戻そうとする。ボクにできることは何なのか、どうしたら彼女を変えることができるのだろうか。ボクは奇跡を信じない。でも、悲劇なんかいらない。すべては、二人を取り戻すために。
そういうふうに考えられてからは、ボクはだいぶ落ち着くことができた。再び立ち上がり、夢の中の自分と決別する。ここでうずくまっていても何も変えられないんだ。変えるためには動かなくてはいけない。悲しみに暮れていいのはヒロインだけだ。ボクは、誓わなければいけない。彼女を変えるんだ。例えそれがボクの自己満足でエゴだったとしても、ボクは彼女の笑顔を取り戻さなければいけない。
そのかわり、ボクには目をそらすことができない事実があった。そこはボクが変わらなければいけないところだ。そりゃ、彼女の初めてにボクはなりたかった。でも、そうじゃないからとしてどうなるっていうんだ。ボクが彼女を好きな気持ちは今もこれからも消えることはない。それによって辛い思いをしたのなら、ボクが忘れさせてあげたいとまで思った……ボクは経験ないし、それをうまくできるかどうかなんてわかんなかったけど。
彼女が変わるためには、きっとボク自身が変わらなければいけないんだと思う。ボクが変われば、きっと彼女も変わってくれる。そんな簡単に切れる絆だとは思えなかった。いくつかの日々を越えて、ボクたちはここまできた。ここまでこられたんだ。きっと難しくない。ただ、時間がかかるだけだ。ボクは深く深呼吸した。ボクは変わっていく。
次の日、昼近くに目が覚めた。タイミングよく携帯が鳴り、それは清華さんからのメールだった。しばらく逢うのはやめよう──そんな内容のものだった。今のうちは仕方ないだろう。彼女だって、気持ちを整理する時間ぐらいほしいのだと思う。ボクは心穏やかに、承諾の返事をした。彼女がどういうつもりなのかはわからない。けど、二人に時間が必要だったのはわかっていた。ぱたん、携帯を閉じて、ボクは新しい朝に挨拶をした。
ダイニングに置かれたテーブルには朝食には遅い食事が置かれていた。かあさまが最後の盛りつけを終え、椅子に座った。ボクも向かい合わせに座る。うまく切り出せるかな、パンをくわえながら考える。食事が終わってから、ボクは話すことにした。
「かあさま、ボク、決めた」
首をかしげる彼女の顔はとても優しく微笑みを浮かべている。ボクは一呼吸置いて、切り出した。
「やっぱり、ボク、男の子として生きるよ」