21th. love:ランチ
耳に入る音が雨の音じゃなくて、換気扇の回る音だと気がついたのは目が覚めてからのことで、清華さんは申し訳のなさそうな顔でうつむいていた。ボクは身体を起こし、清華さんからここが従業員の休憩室だということを教えてもらった。古い型の家電は汚れが目立っていて、テーブルの上にはカップラーメンの容器が置いてあった。箸は容器の上。
ボクはソファに寝かされていて、窮屈な姿勢をしていたせいか、少し身体が痛かった。ボクは背伸びを一つして、心配そうにする清華さんの頭をなでた。……少し気恥ずかしいのは、彼女の素肌を見てしまったからというより、二人であんなところに入ったことを他の人に知られたからという理由のほうが大きいからかもしれない。
従業員のかたは仕事に戻ってしまったらしい。帰りに礼を言っておこう、と思った。恥ずかしはあるけれど、黙って帰るのはよくない。
ボクたちはもう少しだけここに残ってから行くことにした。ボクたちのような一般客がここにいてはいけないような気がしたが、ゆっくりしていっていいと言われたらしい。きっと無害に思われたんだろう、そして実際に無害だ。彼女がコーヒーを入れてくれる(それぐらいの備品だったら使ってかまわないといわれたそうだ)。スプーンで粉をすくい、それがさらさらとコーヒーカップに流れていく。ポットのお湯を入れ、小さなスプーンでかき混ぜる。
「律は、角砂糖三つだったよな」
うん、と頷きを返す。彼女はもちろん何も入れない。カップを置くと、こと、と乾いた音が部屋に響いた。換気扇の音がうっすらと流れる有線をかき消す。ボクは冷めるのを待ってから一口ずつ飲んだ。
彼女の身体を思い出す。清華さんの腕、いや、腕だけじゃない。身体の所々に彼女が隠した傷と同じようなものがいくつかあった。薄紫色の痣は最近つけられたようなものじゃない。だから彼女自身もそれに対して無防備になっていたのかもしれない。ボクは迷った。今がその理由について訊くタイミングなのか……違うような気がした。今日はせっかくのデートなのだし、お互い気分を害したくはない。だからボクは違う話をすることにした。
「そういえば、そろそろおなか減ったね」
そう言いながら、おなかをさする。ふふ、と清華さんは目を細めて笑った。
「そこはぬかりないぞ。今日もお手製のお弁当を用意してきた」
今日は少し大きめで、二段積みのそれを箱だけ見せ、またしまう。きっとおかずも用意してきたんだと思う、いつもはサンドイッチだけだから。ボクの気分もだいぶ落ち着いてきたので、ここをおいとますることにした。ボクは彼女とコーヒーカップを洗って、一緒に店へ戻ることにした。まだ清華さんも会計をすていなかった。
「それにしても、女の子同士で何してたんですかぁ?」
待っていたのはニヤニヤ顔の店員さんだった。清華さんがしどろもどろになって下着が似合っているか確認してもらっていただけだと答えたけれどあまり信じてもらえなかったようだった。赤くなりながら二人は店を出た。
ビルを出ると、店内以上の喧噪が溢れていた。側の道路は混んでいて、車たちはエンジンを不服そうに鳴らしながら先へ進まないものかと待ちくたびれているようだった。クラクションの音から逃げるように、ボクたちは喧噪から離れていった。
歩いて五分ぐらいで着く河川敷。昼の高く、明るい太陽を浴びて川は光の粒で溢れていた。ランニングをする短パン姿の老人、犬に散歩をさせられている女の子とそれを優しい目で見守る女性。さっきの騒音を忘れてかのように、静かな時がここには流れていた。
ボクたちは食事ができるテーブルとベンチを見つけて、そこで昼食をとることにした。彼女がお弁当を広げて、ボクはプラスチックのコップに二人分の飲み物を用意する。冷えた紅茶。外に出て熱さを感じていたので彼女の判断は的確だった。律儀にボクたちは食事の挨拶をして、パンを口にする。今日は少し豪華に、クラブサンドだった。
「お手軽で、しかもおいしい。片手で作業はできるし、これ以上の料理は存在しないだろう?」
彼女はまるで自分が考案者かのように胸を張る。ボクはなんだかおかしくて笑ってしまった。おかずにも手を出す。唐揚げは噛むと同時に肉汁が溢れて、チーズの入った卵焼きはほんのりと塩味がついていてとてもおいしかった。
二人で昼食に舌鼓を打っていると、一匹の猫がやってきた。首輪はなく、どうやら野良らしい。清華さんはタコさんウインナーをつまむと猫のほうへ放ってやった。うまくキャッチする黒の野良猫。満足そうに背伸びをして、ぶらりとどこへ行ってしまった。彼らはのんきなのか、必死なのか、ぼんやりとそんなことを思った。考えることはあるんだろう。でも多分ボクたちとあまり変わりない。ボクたちだって毎日そんなことを考えて生きているわけではないのだから。そう結論づけて、ボクは清華さんとの会話に戻った。
最後のクラブサンドに手をつけたボクに、彼女がぼそりと言った。
「こうやって、外で誰かと食事するのは久しぶりだな」
親は共働きで、滅多に家に戻ることはないらしい。お互いにすれ違いの暮らしで、家に帰ってきても夜中だったりして、ろくに親の顔も見られていないという。
「だからって夜遊びしていい理由になんかならないんだけどな」
笑う清華さん。自嘲じみていて、どこか切なくて、ボクはそれをごまかすようなことしか言えなかった。それ以外、ボクにはどうしようもなかった。
「でも、そうじゃなかったらボクたちは逢えなかったんだよ?」
そうだな、確かにそうだ、噛みしめるように彼女は繰り返した。