19th.love:初体験。
……夢を見た。雨の中、ボクは独りで泣いている。意味もない言葉を叫び続けて、その内喉が潰れて声はかすれる。その言葉は最初には意味があったはずなのに、最後には喃語と何も変わらなくなっていた。
雨はその叫びすらもかき消す。まるで口を塞ぐように。伝わらない言葉が地面に叩き付けられて砕けて壊れる。ボクは地面にむかって拳を叩き付けた。痛みが鈍く伝わり、それでもボクはそれをやめない。やがて腫れるボクの手からは赤黒く、濃い血が流れはじめる。神経が麻痺して、運動が止まる。しゃくり上げるボクは空を見上げる。頬に流れるものが涙なのか雨粒なのか、もうよくわからなかった。
その目を閉じて、世界から遮断する。ボクというアイデンティティは認められない。ボクはボクでしかないはずなのに、型にはまらなければいけない。それは今のボクにとっては悪夢に他ならなかった。誰もいない世界で、ボクは崩れ去っていく。何を、どこで間違ってしまったのだろうか。そればかりが頭の中を駆けめぐっていく。
冷たい身体が小刻みに震える。指先は何かを求めて動いている。何を求めているのか、誰を求めているのかは分からない。そもそも、ボクがどうしてこんな世界にいたのかも。ボクは静かにこの世界から身を沈めた。もう、何も聞こえない。これ以上は何も求められない。求めようがない。誰かの泣き声も、もう過去の話だった。
……痛みでその日は目が覚めた。ベッドから転げ落ちるほど寝付きが悪い覚えはなかった。鳴らない目覚まし時計を見つめる。世間一般的に昼前。あと二時間ぐらいで昼の番組が始まる。
「って落ち着いてる場合じゃない!」
階段を駆け下り、顔を洗った。朝食なんて食べている暇なんかない。あ、でも化粧はしなくちゃ……。どう考えても間に合いそうになかったので、清華さんに断りのメールを送った。数分後、文面からしてご立腹な内容の返信が返ってくる。携帯ごしに謝りながら、大急ぎで着替え(服は前日に用意してあった)、ボクはかあさまの三面鏡へと向かった。
「あらあら、グロスが曲がってるわよ」
立ち上がろうとするボクを再び座らせ、彼女がメイクの直しをしてくれた。メイクはちゃんとやらなきゃダメ、とたしなめられる。
「例えば、あなたの好きな人がだらしない格好できてごらんなさい?私なら幻滅しちゃうわ。まあ、パパのファッションセンスは最高だけどね」
さすが、かあさまの選んだ人だけある。確かに、彼女の一言も一理あるなと思えて、黙って彼女の言うとおりにした。それからは大あわてで家を飛び出していった。かあさまが傘を持っていくように忠告していたけど、急いでいたせいでボクはそれを忘れてしまった。悪夢と一緒に、置いてきてしまった。
バスに映ったボクの姿を目に焼き付けて車内へと乗り込んだ。日差しに映える白のノースリーブのポロシャツ。下はスカートにしようか悩んだけど、結局クリームのパンツにした。居眠りしてしまわないように、外の流れていく風景を眺めていた。今日も天気はよく、散歩する子供連れやカップルをよく見かけた。会ったらまずなんて言おう。そんなことをぼんやりと考えながら、法定速度で進むバスに揺られていた。
清華さんはバス停で待っていた。待合い席に座って、待ちくたびれている様子だった。バスの窓越しに目が合う。ボクはいつの間にか混み合ったバスに辟易しながら彼女の元を目指した。レディーススーツを着た彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「むむ」
「えー、と」
「むむむ」
「ジュースおごります」
よろしい、とすました顔で言われる。ボクはあわててすぐ近くにあった自販機でコーヒーを買った。もちろんブラック。謝りを入れながら手渡す。
「なんていうか、遅刻はダメだよ、遅刻は」
いいわけとかしたら余計に怒るだろうなと思って黙って彼女の話を聞いていた。話はほどほどで終わって、立ち上がった。立ち上がろうとしたボクの前にきて、そのまま覆い被さってきた。額に小さな感触。
「うわ、こ、こんなところでしないでくださいっ」
「いいだろう?減るもんじゃないし。これで許してやるんだから、かわいいものじゃないか」
「でも、白昼堂々とキスするなんて……」
なんか大胆すぎる。ただでさえ人が多いのに、バス乗り場なんて昼間、人がいないことなんてないのに。実際、こんなボクらに視線が集中していた。どう考えても程度の過ぎた女同士のじゃれ合いだった。
「それなら、夜ならいいのか?」
その発言はこの場では不適切すぎます!いやどこで言ってもダメだから!にやけ笑いの清華さんを促してこの場を去ることにした。ほんと、彼女にはしてやられている。まだ昼食には若干の余裕があるとのことで、清華さんの買い物を先にすますことにした。河川敷の近くに建てられた複合型のビルには、たくさんのブランドショップが入っている。建物中央に設置されたエスカレーターに乗って上の階へ行く。彼女の足は小物を多く取り扱っている店で止まった。
彼女は迷いなく先へ進んでいく。ボクはきたことのない店だったので店先から見物することにした。女子高生や若いカップルが客層の中心で、商品も女性をターゲットにしているようだった。アロマやマグカップ、キーホルダーやネックレス、どれもかわいらしかったりどこか女性的な雰囲気を演出していた。
彼女は時計のコーナーにいた。視線をちょこまかとさまよわせて、やがて肩を落とす。
「どうしたんですか?」
「いや、どうやら私の探してた時計は売り切れてしまったようだ」
店員さんに訊いてみたものの、商品は一点もので、取り寄せも効かないらしい。ボクはよしよしと彼女の頭を撫でた。こういうときはどうしようもない。せっかくだから、とボクはペアのネックレスを買ってあげることにした。二つ組み合わさって一つの絵になるなんていうクサいやつだ。
意外とボクの彼女は気分屋なのかもしれない、いや、今までボクが気付いていなかっただけかも。すっかり上機嫌になった清華さんは鼻歌を歌いながらすぐ近くの楽器店へ向かった。あれ?
「清華さん、なんか楽器でもやってるんですか?」
「ん、話していなかったな。趣味でピアノをやっているんだ。もう習ってはいないけどな」
鍵盤楽器の置いてあるコーナーで彼女は試奏がてら、白鍵に触れた。思いのほか音が大きく、音量を調整して弾き直す。猫ふんじゃったでも弾くのかなと思ったら全く違った。彼女の演奏に場がどよめきはじめる。両手は器用に鍵盤を移動する。演奏上の都合なのか、詳しくないボクにはよくわからなかったけどたまに交差をさせていた。
たまたま隣にいた大人の男の人がニコライ・カプースチンの作品だと教えてくれた。と、言われてもボクにはよくわからなかったんだけどね。弾き終わった彼女は予想外の拍手に驚きを隠せないようだった。
彼女はピアノ雑誌の最新刊を買って、さらに違う店に向かう。ボクは荷物持ちを申し出たがその必要はないと断られてしまった。もう一つ寄りたい店があるんだ、と案内をしながらボクの隣を歩く。空いた手をボクの指に絡ませて繋ぐ。彼女の手は冷たく柔らかく、赤ちゃんの肌のような繊細さを感じた。
ここだ、と言って清華さんは立ち止まる。ボクの行ったところのない場所だ。だって、いつもかあさまにそういうのは買ってもらっているし……。
「どうした?」
いや、その、ボクあれだし、さすがに恥ずかしいっていうか、いいのかなここにきて。店内をざっとみる。シンプルな白から派手な柄のものまで、たくさんの衣装が飾られている。その衣装のすべてが肌着──ショーツとかブラとかキャミソールとか──だった。