18th. love:キスと、スキと、ありがとう。
次の日の朝、ボクの教室に訪れた美緒先輩にしおりを渡した。何をどうしたとかは別に説明しなかった。先輩の瞳は段々と輝きを増し、やがて潤みだした。
「どうやって見つけたですかりっちゃんくん! ほんとうにありがとう!」
小さな身体でボクに抱きつく。なぜか教室がどよめいた。ボクは頭を撫でながら今度はなくさないようにね、と微笑みを彼女へ浮かべた。さらに教室は盛り上がりを見せる。百合だ、百合だ、と意味がよくわからない単語が飛び交いはじめる。
「うん、ちゃんと大切にします!絶対に手放しません!」
なくしたというより猫にとられたのかと思い出したけれど、いまさら言い直すのも野暮かなと思ってやめた。ふと顔を上げる泣き顔。……なんか胸にくるものがあった。説明できないけど。
と。
唇から伝わる熱。目を閉じる間もなく、ボクはそれを目の当たりにすることになった。なんか取り巻きがえらいことになっているけれどボクにはそれを鎮める余裕もなかった。口づけた彼女は首をかしげ、にこりと笑った。
「ありがとうです、りっちゃんくん」
それを告げると彼女はとたとたと教室を去っていった。しおりは胸ポケットの生徒手帳の中。ボクは取り巻きがちょっとした騒動をはじめても立ちつくしたままだった。
……何も集中できなくて、ただ黒板を書き写すだけで今日の授業は終わった。放課後あわてて美緒先輩のいる教室へと向かった。教室を出て突き当たりを左に折れる。というかその方向以外に行きようがない。中央廊下を走り抜けて再び左折しようとしたとき、悲劇は起こった。
着地と同時に、踏みつけた違和感。もう一歩前へ進んで、後ろを振り返る。おお、みたことあるな君。うん、しゃーしゃー言ってどうしたのって、うわあっ!
のんきに話している場合じゃない!踏まれたことに腹を立てたのかボクに襲いかかってきた。ボクは再び床を蹴り上げた。
振り向きながら逃げ、蛇のスピードがゆるんでから早足をやめた。さすがに戦意を喪失したんだと思う。正直そうであって欲しい。
「どーしたんですかりっちゃんくん」
相当大きな叫び声を上げたんだと思う。目をまん丸にさせているのは美緒先輩と清華さんだった。そして。
「うひぃっ」
頬を蛇の舌でなでられる。真剣に死を覚悟した。
「おどろくなー、おどろくなーってマロンも言ってるですよ」
むしろたべちゃうぞー、たべちゃうぞーじゃないのかな、うわ、冷静にツッコミを入れちゃうボクってなんなの。
「そんなー、さすがにおなかが破裂しちゃうですよ」
可能だったら食べるの!?その問いに美緒先輩は答えずにほくそえんだ。清華さんはマロンを指先でなでながら疑問をボクに投げかけた。
「そういえば、こんなところまできてどうしたんだ、私に何か用か?」
はっと用事を思い出す。ですから舌でぺろぺろするのはもう勘弁ください……!
「いや、美緒先輩に確認したいことがあって……」
「ん?美緒にですか?」
ボクは頷く。特にそういう空気を出していたわけじゃなかったけど、何か察してくれたのか、清華さんは部活があるからといって先に廊下を歩いていった。
「とりあえず、さっきはごめんなさい」
マロンに対する失礼を詫びる。それはマロンちゃんにしてくださいと当然の答えが返ってきた。蛇に謝っているボクって何なの?それを考えるときっと辛くなると思ってやめた。
「あの、朝のキスのことなんですけど……」
何であんなことをしたのか、彼女に訊くと彼女は意外そうな顔をした。口に手を当てて、首をかしげる。
「うーん、あんまり気にしないでくださいです。なんというかですね、嬉しかったのでやっちゃったです。心のそこからの感謝を伝えたくて、こういう感じになっちゃいました」
そうして自分で作ったげんこつを頭に当てる。舌を出してえへ、と笑った。
「あ、思いつきなのでそんな気にしないでくださいよ……でも」
でも? とボクは聞き返してしまった。
「好きな人にしかこんなこと、しないんですからね?」
思わぬ一言にくらっときてしまう。いや、こんなんじゃダメだ。だって、彼女はあくまで先輩なのであって、恋人じゃないんだ。ちゃんと関係は整理しておかないと、いざとなったとき大変だ。
「なに考え込んでるですか?」
その原因を作ったのはあなたでしょうが……。つぶらな瞳がボクをのぞき込む。彼女はボクの気持ちをを知ってか知らずか頭を抱え込むボクに微笑んだ。
「そうだ、たまには美緒に付き合ってくださいです」
彼女に手を引かれ、きたところは図書室だった。ちらほらと学習している生徒がいるぐらいで、読書をしている生徒は見受けられなかった。ボクは彼女に誘われ、貸し出しカウンターの中に入っていった。
「え、ボク図書委員じゃないんですけど」
「今日はもう一人の担当の方がお休みなのです。だから手伝ってください」
うーん、それはボクを引っ張り込む前に言ってくださいね?どうにしろ、先輩の頼みには断れないんだけど。貸し出しカウンターに人がくることは滅多になかった。昼間は忙しかったらしい(そのときは別の生徒に手伝ってもらったという)。昼間の生徒は部活動があったためかわりにボクが選ばれたということだった。本当はボクのクラスまでわざわざ迎えにきてくれるつもりだったらしい。全くの走り損だったということだ。
資料を借りに一人の生徒が訪れる。ボクは貸し出しカードと貸出期限のかかれている紙に日付のはんこを押した。紙を本に挟み、生徒に渡す。慣れないセリフに声がうわずった。生徒が図書室を出て、ボクは溜め息をついた。
「よくできましたですよ」
いやまあこれぐらいだった何とかなるけど……。彼女は貸し出しカードをクラス別になっている小さな棚の中に置いた。こと、と音がしたけれどみんなの集中力はそれぐらいでは途切れないようだった。ボクは彼らの邪魔にならないように本を選び、読書のための本を選んだ。あまりすることはないので、と彼女がそうするように勧めてくれたのだった。特に何も考えずに文庫本を選び、カウンターに戻ってそれに目を通した。そのあと何人かに対応をしてチャイムが鳴った。ボクらは最後に本棚を軽く整理して、図書館をあとにした。
「今日は本当にありがとうです、……んー、なんか一日中ありがとうって言ってた気がするです」
その通りかもしれない。ボクがそう笑うと先輩も微笑んだ。彼女となら、またきてもいいかな……そんなよこしまなことを考えたりも、した。
三人しかいない放課後の第一理科室で、ボクは選択をする。選択の結果は一人以外には分からない。条件の揃ったカードはもういらない。そしてボクは選択させる側になる。彼女はボクの顔を窺う。ボクは彼女が何を選んでもかまわなかったんだけどわざと難しい顔をしたり大げさに安堵したりして楽しんだ。
手持ちのカードは二枚。条件は揃った。ボクはカードを捨て、宣言した。
「よしっ、一番乗りー」
「えー、ずるいですー」
「あとは美緒との一騎打ちか」
不服そうな少女と自信満々な女性。二人の選択と結果を眺めることにする。一人がカードを引く。あ、今一瞬顔が曇った。彼女は黙ってカードをかき混ぜる。お互いカードが揃えば上がりという状況。二枚のカードをじっくり眺め、真剣な表情で少女がカードを引いた。そしてガッツポーズ。
「やったー!奇跡の大逆転ですー!」
両手を挙げて喜ぶ美緒先輩とは裏腹に、清華さんは心底悔しそうだった。小声で何かをつぶやき、自分の世界に入っている。ボクはそんな彼女にカードの山を押しつけて、シャッフルするように頼んだ。
「ああ、分かってる。やればいいんだろやれば。くそ、まさか私が負けるだなんて……」
いや、結構な敗率ですよ清華さん。
「というか、くそ、とか女の子が言っていい言葉だとは思えません」
「むむ、気をつける……何で律の言葉には説得力があるんだ?」
「それはお姉様の好きな人だからでしょうー?」
さりげなくそういうことを言える美緒先輩もなかなかの説得力です。確かに、信頼におけない人や自分と関係ない人の言葉って耳に入ってこないもんなあ。でも、こんなボクが女性に文句を付けてもいいものだろうか。そこは深く考えないことにした。照れをごまかすようにシャッフルする手つきが大きくなる清華さん。ボクは次は何のゲームをするか美緒先輩に訊いた。
「んーもう一回ババ抜きをやりたいです」
この先輩幼女はババ抜きと七並べと神経衰弱しかできないと言っていたけど、ボクにしたらそれで充分だ。カードを混ぜ終えた清華さんがカードを机に滑らせながら振り分ける。同じカードがやたら多い気がした。
「カード混ざってないと思いません?」
「むむ、それは美緒の気のせいだろう」
まあ、よくカードを切っていたし。ボクたちは二回戦を始める。楽しくて、淡い時間。こうやって清華さん達と遊べる時間も一年ないんだなと思うと少し胸が痛くなった。おかしいね、消えてしまうわけじゃないのに。
チャイムが鳴って、ボクたちははじき出されるように校舎を出た。美緒先輩は楽しそうにはねながら下校路を進む。ボクもそんな彼女につられて笑みをこぼした。やがて彼女ははねるのをやめ、ボクと清華さんの方に振り向いた。
「今日はとても楽しかったです」
ひまわりが咲くのはまだまだ先だけど、夏のそれに負けないぐらい、満面の笑みを浮かべた。その表情を浮かべながらも、先輩は溜め息をついた。
「それに、君たちならきっとずっと、仲良しでいられると思いますです」
すっかり表情の曇った彼女が気付けばいた。無理矢理作った笑顔、頬が引きつっている。
「実はですね、美緒は二人を監視していたですよ。本当にりっちゃんくんはお姉様にふさわしい人なのか。ちゃんと見極めたかったんです。……でも、そんなこと、杞憂でした」
ボクと清華さんの手を取り、二人手を繋ぐようにと促した。そうして、美緒先輩は手を離す。
「美緒はお二人とは仲良しなお友達に戻るです。恋人じゃ、ありません。だからどうか。お二人は恋人になってください」
彼女は清華さん、と名前で呼んだ。
「怖がらないでください。りっちゃんくんは決して『あんなこと』はしません」
どうかお幸せに。分かれ道で美緒先輩は笑顔を浮かべながらそう言った。彼女は本当に助けなければいけない人を見つけたと言った。ボクはその言葉に頷きを返すぐらいのことしかできなかった。
美緒先輩が去ったあと、ぽつりと清華さんが口にした。
「私は、君に謝らないといけない」
本当は、彼女に心が揺れていたことを告白した。
「この関係が、ずっと続けばいいと思ってたんだ。そんなの、いつかはおかしくなることになるって分かっていたのに。私は、ずるい人だ──っ」
ボクはその弱音をキスで塞いだ。街中で人がいたにもかかわらず。近い距離で彼女を見つめると彼女は涙を流しはじめた。
「それなら、ボクも同じです。みんなが同じ気持ちでいられたらよかった。いつかは選ばなければいけなかったのに、そこから逃げ出したのはボクです」
謝りながら、ボクは彼女の涙を手で拭う。
「美緒先輩はすごい人です。やっぱりかなわない」
そうだな、と頷く清華さん。誰だって、願ってしまう。変わらないことを。いつまでも続くことを。それを望んでしまうのに、美緒先輩は違う未来を選択した。新しい使命を見つけて、その使命を果たすために。
清華さんとも別れて、ボクは我が家に戻る。今日も暖かな灯がともる場所。この場所からも、ボクは巣立っていかなければならない。いつまでも、ボクたちは子供ではいられない。
次の日の朝。いつものように商店街で、いつものように美緒先輩に会う。いつものように笑顔の先輩に、笑顔で挨拶を返す。いつもと違うのは、急に抱きついたりすることがなくなったぐらいか。いつもの先輩で、ボクは内心安堵した。
途中で清華さんとも合流する。朝から強い日差し。そろそろ雨の多い季節になる。ボクたちは横に並びながら登校した。教室に三人で入る……って、二人は違う教室でしょうが。
「私は純君に用事があるです」
「私も律と世間話が……」
まあ、いいですけど。遅刻しないでくださいねと二人に釘を差した。昨日話していた人のことってもしかして純平のことなんだろうか。ボクは気を遣って席を立った。
「今更のことなんだが、私たちって、昼間にその、デートしたことはないよな?」
……意外だった。マスターの店に行ったり、市街地周辺をぶらぶらと散策することはあったけれど、そのどれもが夜のことだった。ボクは二つ返事で頷いた。
「じゃあ、しよう、デート」
変な誘い方だな、と思ってボクは吹き出してしまった。怒られながらボクは予定を相談する。あんまり遊べる場所はない街だけど、二人でいるだけで充分楽しい。遊びに行く日は週末に決まった。予鈴が鳴り、先輩達はあわてて教室へと走っていった。遊ぶ時間が違うだけなのにボクの心は浮かれてしまってどうしようもなく、頬のゆるみが純平に指摘されても直せなかった。