10th. love:Love is not game.
部活があるというので美緒先輩とは途中で別れた。彼女の背中を見送ると小さく清華さんが溜め息を吐いた。
「本当に元気な人だな」
その瞳はどこか優しくて、まるで妹を思う姉のようだった。ボクはそうですね、と頷きを返した。体育館へと続く廊下からは斜めに日が差し込んでいて、影はより濃い色を付けていた。二人はそこから背を向け、玄関へと歩き出した。
今日は美術部の活動はないらしい。よく考えれば、みんな部活動をしているのに何もしていないのはボクぐらいのものだった。ボードゲーム部の部室ってどこにあったっけ?生徒手帳を取り出し、部活教室の位置を確かめる。第一理科室。いかにもその手のゲームが隠されていそうな場所だった。
部長がどこにいるかわからなかった(むしろ顔すら思い出せなかった)ので、教務室まで行って鍵を借りた。突然の活動に教師が訝しげになるのもよくわかる。変なことにだけは使うなよ、と余計な釘を差された。何を想像しているんだろう。
「なんか悪いことをしているみたいだな」
踊るような口調で清華さんが言う。誘ってみたら目を輝かせて首肯した。どうせ家に帰っても暇だし、退屈しのぎにはちょうどいい。教室に向かう廊下の途中でそう理由を明かしてもいた。
鍵を開け、教室へと入る。思いのほか薬品くささはない。ボクは教師に言われたとおりの棚を探して、また鍵を使った。がたつきのある戸をスライドさせる。いくつかのゲームが出てきた。何かできるゲームはあるか清華さんに尋ねる。彼女はオセロを選んだので、下校を促す放送があるまでそれで遊んだり、談笑したりして暇を潰すことにした。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。何で時間は一定に感じることができないんだろう。あるいは、楽しい時間こそゆっくり流れてくれればいいのに。痛みや辛さなら一瞬だけでいい。二人でオセロを片付け、戸棚に鍵をかける。彼女は教室の扉に背中を預け、ボクを待ってくれているようだった。
教室を出ようかと促して、彼女の様子がおかしいことに気付いた。歯切れの悪い返事をしながら、決して譲ろうとはしない。どうかしたのか尋ねてもちゃんと答えてはくれなかった。カチャ、と音がする。
「なぁ、鍵を閉めたら、もう誰もこれないよな?」
その確証はできないのに、ボクは納得していた。それよりも、彼女の考えがわからなくて、ボクは首をかしげてしまう。
「いや、もう帰りましょうよ」
清華さんの目が潤む。次の瞬間、ひしと抱きしめられた。
「我慢しなきゃっていうのはわかっているんだ、でも、まだ私にはそれができそうにない」
ボクは彼女が暴走するのを必死に押さえた。このまま流されてもいいような気はしたけれど、どこでもそういうことをするのはさすがに節度がなさ過ぎる。だから、なだめた。言い聞かせるように言うと、反抗心なのかほっぺをつねってきた。痛くない。
「つまらんな。私はてっきり雰囲気にやられるかと思ったんだが」
どうやらボクを試していたみたいだ。そのことに気付いてボクも仕返しでほっぺを掴んでやる。お互いに手を離し、ボクは不機嫌なつもりでつぶやいた。
「ボクは雰囲気に恋するわけじゃありませんから」
言ってくれる、と彼女は笑った。そしてもう一度抱きしめてくれた。うんうん、と何度も頷く。
「やっぱり、私の選んだ人だな」
「どういう意味ですかそれ」
さて、なんだろうなととぼける彼女。今度は素直に扉を開け、ボクが鍵をかけた。部として機能しているうちはたまにこようと思った。外は薄暗くなっている。二人でいられるまで手を繋ぎながら、ボクたちは家路を辿った。
最近ぐっとかわいくなった、とかあさまに言われた。その言葉とお手製のフレンチトーストの甘さが混ざり合って、ボクは幸せな気分になる。朝のニュースは相変わらず暗い出来事ばかりだったけれど、それでもコーヒー牛乳は甘い。コップなみなみと注がれたそれを飲み干し、食器を片付けようとした。ちょっと待って、とかあさまが立ち上がり、ハンカチをポケットから取り出した。
口元が汚れていたらしく、優しく拭われた。まだお子さまね、とたしなめられる。高校生にもなってこんなことをされるのはどうかと思うけれど、おせっかい好きなかあさまにされるがままになってしまう。最後に彼女はおどけたように、頬にキスをした。びっくりして思わずとびのく。ふふ、と口に人差し指を当てるかあさま。……ほんと、いたずら好きなんだから。ボクは照れをごまかしながら食器を洗い、着替えをしに自分の部屋に戻った。
玄関に続く廊下でかあさまが呼び止めた。指で自分の頬をさわり、何か考え事をしているようだった。ひとつ頷き、口にする。
「りっちゃん、もしかして今──恋をしてる?」
この人がわからないことなんて何一つないんじゃないだろうか。何でわかったのか素直に気になった。
「恋ってね、人を変えるとても強力な魔法なのよ」
私も色々な恋をしているからわかるの。もちろん、愛してるのはパパだけよと付け加える。パパは今出張中で家にいない。ボクも大好きだから早く帰ってきてほしいなと思った。ボクにいろんな服を着せてそれを写真に撮るという趣味だけは何とかしてほしいけど。魔法か……。清華さんも魔法にかかった一人なのかな。頬がゆるむ。ぼおっとしているとかあさまに遅刻するわよと指摘され、あわてて家を飛び出した。青空はボクに届きそうもないぐらい高いところにいた。
どうやら走る必要はなさそうだと判断して速度を緩める。息を整えているといきなり腕に抱きつかれた。今日は苺の髪飾りが揺れるボクよりも背の低い女の子──美緒先輩だ。この時間ぐらいになると顔を合わせることになるらしい。もうやっているかもわからない商店街を通り過ぎる。通学路だから人はいたけれど、この通りに用のある人はもういないのだろう、シャッターはほとんど閉められていた。
「美緒が子供のころはこの時間帯もにぎやかだったです。町は変わってしまうです」
神妙そうに彼女がシャッターを見やる。ボクは語る彼女を見ていた。
「変わらないものもありますけどね」
「それは、もしかしたら、もしかしなくても美緒のことをいってますか?」
おもちみたいに頬を膨らませる彼女がかわいらしい。ほう、と溜め息を吐いた。
「正直、お姉様がうらやましいです。背は高いしかっこいいし、美緒の持っていないものをたくさん持っているですよ」
でも、胸は先輩と変わらないよと口走ってしまう。朝から何を言っているんだ。ちょうど坂にさしかかったところだった。
「朝から何を美緒に吹き込んでいるのかな?」
背中がざわついた。恐る恐る後ろを振り向くと腕組みをしてさぞかしご立腹のようすの清華さんがいた。眉間に皺が寄っている。口元は笑っているというよりも引きつっている。ボクは彼女のオーラに動けずにいた。まさしく蛇ににらまれた蛙だ。
先輩は彼女を見つけるやいなや飛びついていったので攻撃は免れた。怒りが戸惑いにかわり、また姉妹に戻る。ボクは遠巻きにそれを見て、先に学校へ向かおうとした。仲睦まじいことはいいことだ。それを先輩は逃げ出したと思ったらしく、清華さんの手を取って走り出した。すぐに追いつき、ボクの手を掴む。
「先に行っちゃダメですよー、三人で仲良しなんですから」
満面の笑みを浮かべる彼女は自分の言葉にうんうんと頷いた。