その26
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ぼくは夕暮れのなか、ひとりで自転車をこいでいた。
一度家に帰って、ぼくは制服に着替えていた。
風景がびゅんびゅんと後ろに過ぎ去っていく。赤いポスターが貼られた木製の電信柱と、黄土色の丸っこい『躍進』が。
ぼくの国・日本民主人民共和国が。
アンナいわく、あと五年で滅びるわが祖国が。
見慣れた景色を走り抜けると、やがて目当ての場所に着く。毎日くぐっている校門に。
校門の守衛さんに身分証として人民手帳を見せる。人民手帳にはぼくの住所と顔写真と、ここの学生であることが明記されている。
もと下士官だという年をとった守衛さんが、鍵束を探しながらぶつくさと文句を言う。
「こんな時間に何の用だね」
「部活動です」
ぼくは正直に告げる。
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下駄箱で上履きに履き替え、一階の角を曲がり、中庭を横ぎる渡り廊下を通って、やがてぼくは、校舎の横手側にある第二部室棟にたどり着いた。
いい加減さびの浮いた外付けの階段をのぼって、手前から二番目の部室、落書きだらけの安普請の扉の前に、ぼくは立った。
ノックする。
「どうぞ」
久しぶりに聞いた声。
ぼくは扉を開ける。
もちろん。
そこには、確かにいた。
そこには、カールし放題の黒髪を持った少女がいた。好奇心でキラキラ輝く琥珀色の両眼はぼくを見ていた。
園丘アンナがぼくを見ていた。
香ばしいにおいが鼻をくすぐる。
すべてを見とおす園丘アンナは、部室にトースターを持ち込んでパンを焼いていた。
「火気厳禁だよ」
とぼくが床に山積みになった古雑誌類を指さして言うと、
「電熱トースターだからセーフ」
とアンナがマイルールを持ち出して笑った。
チン、と心地よい音がして、トースターが食パンを二枚吐き出した。
見計らったかのように。
いまこのときにぼくが来ることを知っていて、前もって時間を計って焼いていたかのように。
会話のタイミングまで考慮して。
もちろん。
「はい、これ」
アンナが差し出したのは、まだ封をされたままのマーガリンであった。
「大変だったんだよ、国営商店で二時間も並んだんだから」
ぼくはアンナにお礼を言って、マーガリンの封を切った。
ティースプーンの背を使って、黄色くやわらかい脂肪の塊をたっぷりすくい取る。
夢にまで見た感触。
あこがれとともに想像した香り。
たっぷりとトーストに塗りたくる。マーガリンはトーストの熱でとろりととけた。
思いきりかぶりつく。
カリカリに焼かれたパンの香ばしさとともに、乳製品の芳醇な香りが鼻を抜けていき――、ぼくはおえっ、とえづいた。
ダーミーイ・モスクイ!
祖父による十五年間の無意味な監視統制のすえ、牛乳、バター、マーガリン、ヨーグルトなどをほとんど食べずに育ったぼくの舌は、大正生まれの祖父のそれと同じく乳製品をまったく受け付けなくなっていた!
ぼくは堰が切れたように笑った。えづきながら。
アンナも吹き出した。いつの間にか手元に引き寄せていたゴミ箱を手渡しながら。
ぼくは言った。
「なんてひどい幕引きだ!」
アンナは言った。
「そういうものなんだよ!」
ぼくは無理にマーガリン付きトーストを飲み込んだ。
「おいしかった?」
もう一枚のトーストをはやくも平らげたアンナが訊いた。
「最高!」
ぼくは正直に答えた。
それは、自由の味だった。
アンナは、ぼくがトーストを飲み下したタイミングを見計らって、ぼくの肩に手を回し、情熱的なキスをした。
アンナのくちびるからも自由の味がして、ぼくは再度えづいた。
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「ねえ」
とぼくはアンナに話しかけた。
「んー?」
「クーデターで、同志書記長が助かった原因は、きみだろ?」
「分からない。そうかもしれない」
アンナは小首をかしげた。
「わたしは基本的に、未来の話をたずねられたら、いつも正直に答えることにしているんだ。例のアレのこともいろんな人に話したし、話すから、そのうちの誰かが同志書記長に耳打ちした可能性は――うん、あると思う」
「だと思うよ、たぶん」
そうでもなければ、地位も立場もある七十五歳の老人が、パレード中にバルコニーから飛び降りるわけがない。いくら本土決戦経験者だろうが。
ぼくは、そのときの同志書記長の気持ちを想像しようとしてみた。
おそらくは信頼する側近を通して伝えられる、信じがたい計画。未来視というばかばかしい情報ソース。しかし、自分の手持ち情報とも突き合わせてみると、まんざらたわごととも切り捨てられない。奇妙な符合に沸き立つ不安。そしてパレード当日、バルコニーで手をふっているときに、こちらに鼻先を向けつつある戦車が一両――。
不安? 困惑? もちろん。
興奮? 驚愕? ごもっとも。
だが、それだけではないだろう。
同志書記長は気づいたら飛び降りていたのだろう。ぼくのように。
そして一息ついた後、安堵したのではないだろうか。
未来を識るものが、少なくとも一人はこの地上にいてくれることに。灰色の未来が、一瞬だけでも白と黒に分かれたことに。
上尉がバールに現れたとき、ぼくは確かに安堵していたのだった。
同志書記長の太い眉毛が、ぼくの脳裏に思い浮かんだ。
同志書記長のまゆ毛に幸いあれ!
大変結構!
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「ごめん」
あんまり素直にことばが出たので、自分でもびっくりした。
それはあの日に言っておくべきことばだった。
何度も言おう言おうとして、でも今の今まで言えなかったことばだった。
「ぼくはきみが書いた『1984』を引き裂いたんだ。ごめん」
ぼくは頭を下げた。
「キミが謝る必要はないよ。強要されたんだから」
「だとしても、ごめん」
「いいよ、許す。それに――」
アンナはにっこりと、慈母のようにほほ笑んで、
「私こそごめん。それ、あたしのせいなんだ」
といった。
「え?」
「『1984』のことを生徒会に密告したのは、わたしなんだ」
ぼくはつむじをトンカチでぶん殴られたような衝撃を受けた。
「えあ?」とか「ふあ?」とか、そんなことばがもれた。
「わたしが自分で提出したの。わたしが書いたものだとわからないようにして」
「なぜそんなことを……いや、いい。なんて言うかはわかる」
「「そういうものだ」」
ぼくとアンナは唱和して、そして笑った。
ぼくは吹き出した。アンナは声を押し殺してくすくす笑った。マラソンを全力疾走したあとのようなテンションが二人をのみこんでいた。
「キミは今回の騒動でとても苦しんだ。がんばったね。えらかったね。それもキミの人生の一部なんだよ。辛くても、悲しくても、理不尽でも、厳しい吹雪をちからいっぱいに耐え忍んで、それこそが人生なんだ。宝石みたいにキラキラ輝く思い出になるんだ」
「ひどい話だ」
ぼくは目じりの笑い涙をふきながら言った。
「ひどい女だよ、わたしは」
アンナも腹を抱えていた。
「そんなわたしを許してくれる?」
「どうかな、許さないかも」
ぼくは正直に言った。
「でも、今はいいよ。あとでどう考えるかはわからないけど、今だけはどうでもいい」
「その今が大切なんだよ」
とアンナは言った。
「過去は過ぎ去っていく。未来は未だ来ない。現在だけなんだ。現に、在ることだけが重要なんだ」
「そうなのかな」
「今、この部室をどう思う? 素敵だと思わない?」
「思うよ」
「そう。だからそれに集中するの。これだけは寒田くんでもできると思う。楽しい瞬間だけに集中して、つらいことは考えないようにするんだ」
「ふうん」
ぼくの脳は事態を合理的に解釈し、説明ようとした。
ぼくたちのピンク文芸部はすでに生徒会に目をつけられていた。下手に隠すと、勘繰った生徒会は遅かれ早かれ、ぼくたちの部室に踏み込んできただろう。
アンナは、ぼくたちのちょっとした『悪事』をばらすことで、生徒会を安心させたのだ。当代文芸部の『悪事』はこの程度だと。
緊張緩和だ。
痛い腹をさらすことで緊張を緩和したのだ。
そしてそのすきに、まんまと『1984』を書きあげた。
ひょっとしたら、ひとり暮らしの家でこっそり並行して二部目の『1984』を書いていたのかもしれない。アンナの執筆速度から考えても、もう一冊をこの短期間で書き上げるのは難しいのではないだろうか。
アンナは策士だ、とぼくの脳の合理をつかさどる回路がささやいた。
ぼくは言った。
「園丘さん、きみにはヘラがはいるね」
アンナがぼくの胸に飛び込んできたのはそのときだった。
制服ごしに、アンナの体温が感じられた。
ぼくの脳の合理をつかさどる回路が、そっと閉じるのがわかった。
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ぼくたちは一晩中話をした。
ぼくは祖父のことについて話した。禁止されたマーガリンについて。人民を監視する仕事に逃げ込んでいる父について。特別扱いだった兄への不満について話した。
アンナは故郷で生き別れた家族のことについて話した。アンナが家族一緒になることは、この先の一生に一度もない。アンナはそれを知っている。だからアンナは、過去の家族に会いに行く。まだソヴィエト連邦軍が来る前の、地の涯・アフガニスタンの集落に。
ぼくたちは話せるかぎりを話した。
大切なことも話したし、どうでもいいたわごとも交換して、くすくす笑った。
アンナの家の風呂が壊れていることを知って、人民銭湯を案内してあげると申し出た。五月一日の労働者の日の祝日には、どこかに一緒に行こうと約束もした。青葉台の国立革命記念館や、革命記念広場や、かつて伊達政宗騎馬像があった場所にすえられている巨大なレーニン同志像を案内するとうけおった。
ぼくは思った。
ぼくたちの日本はたぶん滅びるのだろう。アンナの言うとおり。
でも、それはそういうもので、ぼくたちにはどうしようもないし、どうにかする義理もない。
ぼくたちにできることは、ただ泣いたり笑ったりしてそれを受け入れることだけだ。受け入れないという選択肢も含めて。
上尉は受け入れないことを選択した。彼女なりの流儀で祖国と軍を愛しているからだ。たとえ未来を変える方法があったとしても、上尉はたぶんクーデターに参加するだろうし、そしておそらくは銃殺されるし、銃殺されたし、銃殺され続ける。
その意志を変える権利は誰にもない。少なくともいまのぼくには。
アンナと一緒ならば、それも悪くない未来のような気がしてきた。アンナが隣で微笑んでいれば、どんなに厳しい吹雪でも乗り越えられると信じた。
認めよう。
ぼくはアンナに恋をした。
愛の力は素晴らしいと、多くの詩人や、ポピュラーミュージシャンや、ハリウッド映画は歌い上げる。愛さえあれば、ぼくたちはどれほどの逆境に耐えしのび、どれほど偉大なものを創り上げることができるだろうか。
二〇世紀の賢人、ジョージ・オーウェルいわく――、
ゼロ。
大変結構!
夜が白んだころ、時間構造的には永遠に続くおしゃべりも最後近くになって、アンナは言った。
「ねえ、わたしのこと、アンナって呼んでよ」
「アンナ」
「なあに」
「呼んでみただけ」
アンナはくすぐったげに笑った。
ぼくは思いついた。
「ねえ、ぼくの名前も呼んでみてよ」
「いいの? じぶんの名前、嫌いなんでしょ?」
「それも未来のぼくから聞いたの?」
「うん」
「良いよ、いってくれ」ぼくはアンナの瞳をまっすぐに見つめた。「アンナになら呼ばれてもいい」
「うん――」
と言ってから、アンナはぷっと吹き出した。
「きみ、失礼だな」
「ごめん、でも本当に変わった名前だから」
「そうかな。よくある名前だけど」
「〈南〉では相当変だよ。統一後は覚悟した方がいいね」
ひとしきり笑ってから、アンナはぼくの名前を呼んだ。
「レーニン――寒田礼仁!」
ダーミーイ・モスクイ!
ぼくたちの日本の、ぼくと同世代において、レーニンと読む名前――礼仁、礼人、玲人――は男子全体の十五パーセントを占めていた!
しっくる・あんど・はんまー! 正直アンナの真っ赤な現実 完




