その25
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「なんということを」
ぼくは両手で頬をつつんた。
「それを信じたんですか?」
「いかにも私らしい行動だと思ったからね。軍への愛着と――」
上尉はひじ当て付きの杖で、鉄とプラスチック製の左脚をこづいた。
「――統一後の生活への不安」
上尉は人民軍に愛着を感じている。
『統一』という名の〈南〉への吸収合併後、人民軍は真っ先に解体されるだろう。
特に陸軍は。
ぼくたちの日本は、本州のくの字に曲がったところに防衛境界線を引いていた。事実上の南北国境である(ぼくたちの日本はお互いを国家承認していないので、国境とは呼ばない)。
〈共和国〉では新潟と福島県。〈南〉では富山、長野、群馬、栃木、茨城県。じつに南北七県三〇〇キロにわたって広がる防衛境界線は、越後山脈、奥羽山脈、阿武隈高地などの自然県境を利用してグネグネと曲がりくねっている。
その両側に、ふたつの日本はお互いの侵攻に備えて、大量の陸軍部隊を配置していた。
〈共和国〉は人民陸軍と国家保安省国境警察、〈南〉は陸上自衛隊と復員事業庁国境警備隊。
統一後は、それらがすべて無駄になる。
南北日本で大量の軍人が失業する。南北の立場の強弱を考えれば、主に〈共和国〉の軍人が。
アメリカ式軍事戦略で組み上げられた日本国の自衛隊が、ソヴィエト式軍事戦略を叩き込まれた人民軍軍人を欲しがるとは思えない。
対敵研究用にいくらかは軍に残れるだろうが、そんなものはごく一部のエリートに過ぎない。一般の将兵たちはどんどんクビにされるだろう。
忠勤の見返りに与えられる仕事もなくなるだろう。勲章も、英雄称号も、それにともなう年金もなくなるだろう。上尉がいままでの人生と片足を犠牲にして勝ち取ったすべてが。
そして残るのは、女手一つの片足の傷痍軍人。
たしかに、反統一クーデターに参加するには十分な理由だった。
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「しかし――」
ぼくは上尉の自在ならざる左脚をさした。防衛教練の時間では熊みたいな巨体の男子生徒たちを軽々と投げ飛ばす上尉だが、さすがに本物の戦争はもう無理なのでないか。
「最前線で銃を撃つだけが戦争じゃないよ」
上尉はこそあど言葉を最大限に駆使して、自分の推理を披露した。
おそらくクーデター派は、暫定首都にあるナロ高の校舎に目をつけるのだろう。
学校の校舎は、物資の備蓄場所としても、兵舎としても優秀である。第一次世界大戦の昔から現代にいたるまで、軍隊は学校を接収して有効活用してきた。今回もそうなのだろう。
内密に行動するクーデター軍が校舎を利用するには、内部から事前に手引きをする者が必要である。学校付将校である上尉は、クーデター派からその手引き役をもちかけられるのではないか。
それが上尉の推測だった。
「それって、矛盾しませんか?」
「矛盾とは?」
「そのことを知ったいま、上尉はクーデタ―には参加しないでしょう。では銃殺されるいわれもない。ところが、そうなると上尉が銃殺される未来がなくなって、上尉は参加する――」
「いや、わたしは、何があっても参加するつもりだ」
タイムパラドックスの定石を無視して、上尉が決然と言い切ったので、ぼくは驚いた。
「なぜ? 失敗することがわかっているのに?」
「こういうことにからみそうな同期が何人か、作戦本部にいる。あいつらから持ちかけられたら、たぶんわたしは断りきれない」
「むざむざ死ぬつもりですか」
「無論、そんなつもりはないよ」
上尉は歯をむき出して嗤ってみせた。鮫がわらうとしたらこんな笑みだろうな、とぼくは思った。
「やるとなったら、必ず成功させるつもりでやる。それが軍人だ」
「ずいぶん都合のいい話に聞こえます」
ぼくはいじけたような声になった。
上尉の話は信じがたくて、矛盾だらけで、でもその笑い方は上尉にぴったりで、ぼくはなんだか寄る辺のない気持ちになってしまった。
上尉は、
「情報の取捨選択ができるのがオトナの証だ」
と笑った。
「わたしの人生はわたしが決める。オトナだからな」
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ぼくたちは空のコーヒーカップをあいだに挟んでベンチに座っていた。
「それじゃあ、今日はこの話をするために?」
「いや、アンナからも、一つ頼まれごとをしている」
上尉はナップザックをあさった。
上尉が取り出したのは、大きな茶色い封筒であった。
厚さは、一冊の本ほどもあった。
何度も出し入れしたものらしく、角がよれていた。
ぼくはアンナと違って未来は視えないけれど、この封筒を開く前から、中に何が入っているか言い当てることができた。
ぼくは原稿用紙の束を引き出して、『1984』をラストから読んだ。
大物オブライエンは、反逆者を狩りだす党の秘密警察官であった。
ウィンストンと女・ジュリアはとらえられ、拷問を受けた。二人の愛の力は実際的な拷問術の前にやすやすと砕かれ、ふたりはすべてを自白した。
いまや、〈偉大なる兄弟〉と〈党〉を憎み恐怖すると同時に、熱烈に愛する〈二重思考〉を完全に受け入れた二人は、処刑の日取りを心待ちにして日々を過ごしている――。
なんてひどい幕引きだ、とぼくは思った。
「なんてひどい幕引きだ」と口に出しても見た。
あまりのひどさに、ぼくは思わず吹き出してしまった。
ぼくは痙攣的な笑いの発作に襲われた。
上尉はそんなぼくを見ていた。その感情をかんじさせないクロコダイルのような目に、どこか温かいものがこもっているように見えた。
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「もう行くのか」
「ええ。行きます」
ぼくは残っていたコーヒーを飲みほした。質の悪い代用コーヒーは冷めきっていて、まぎれもない雑草の味がした。
ベンチから立ち上がって、うーんと伸びをする。背骨がポキポキと鳴った。
ふと、疑問が湧きあがってきた。
「最後に一つ、いや二つ」
「なんだ」
「ぼくが今日ここにいるのがわかった理由は?」
「アンナが言い当てた、もちろん」
やっぱり。
では。
「なぜ、ここまでしてくれるんですか?」
質問を受けて、上尉は、鮫のような目でじっとぼくを見つめた。
ぼくは、鮫は本能をつかさどる原始の脳しか持たないという話を思い出した。
上尉はしばらく口をつぐんでいた。噴水のほうをむき、ぼくの方を向き、それからまた噴水を見つめた。
そして、ぽつりといった。
「友達だからだ。キミもアンナも」
ぼくはこめかみをトンカチで殴られたような衝撃を感じて、上尉の顔をじっと見つめた。
上尉の顔色は一見、肉食性の爬虫類のように感情のかけらもない、非人間的な鉄の女に見えたが、よくよく観察してみると、恥ずかしそうにしているように見えなくもな――いたたた。
「なにしている、さっさと行け」
上尉は鍛え上げられた握力でぼくの顔面をアイアンクローしながら言った。顔面の肉がはがれるかと思った。照れ隠しとしてもひどかった。
ぼくは自転車にまたがった。
ふと気づいて、上尉のほうにキコキコと漕ぎだして、
「上尉、さっきの話が本当だとしたら、あの大吟醸〈統一〉は上尉の丸儲けということに――」
「ああ、あれか」
上尉は、いたずらっぽく笑った。
「機会を逃さないのもオトナの証だ」
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