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23/25

その24

     ☭


 今日は四月二十二日の日曜日だ。同時に、四月二十二日は『レーニン誕生日』の祝日でもある。振替休日で月曜も休みになるので、ちょっと得した気分になる。


 これといって予定があるわけでもなかったけれど、家にいると祖父と父とのピリピリした雰囲気に立ち会わなくてはならないため、ぼくは自転車に乗ってあてどなく街をさまよった。


 ぼくは駅前の屋台をひやかして歩くことにした。駅の無料駐輪場に自転車を止めて、雑誌を読んでいるやる気のない管理人から整理券をもらい、駅前の屋台街に歩き出した。


 うどん、そば、牛タンの塩焼き、冷麺、ロシアシチュー、揚げパン(ピロシキ)水餃子(ペリメニ)、汁なしうどん、カザフスタン風焼飯(パラウ)といった軽食。


 アイスクリームや駄菓子。野菜、米、魚に缶詰め。古雑誌、古道具の類。


 外国人向けの漆器や扇子、人民歌舞伎の記念写真、伊達政宗騎馬像の絵葉書。やはり外国人向けの、北海道で売っているような、クマやフクロウを模した木工民芸品。


〈南〉や西側諸国から来る観光客向けの、ビニールシートに並べられたロレックスやルイ・ヴィトンのバッタモン。


 とにかく何でも売っている。


 おっちゃん、(あん)ちゃんたちの、威勢のいい客引きが新鮮である。


 屋台は民営だった。もともとは戦後の闇市で、合法寄りの部分が生き残ったものだった。


 ぼくたちの日本において、工場や店舗は国営か共同所有が原則だが、もちろん抜け道もあって、従業員数何人以下だとか、席数何席以下だとかの制限をクリアしている場合は、保証金と税金を払ったうえで営業が認められた。だからこういう小規模屋台街が当局からお目こぼしをされている。


ソ連から偉い人が来日する前とかに、民警による取り締まり(ネズミトリ)があるが、いまはそんなニュースもないので屋台街は盛況であった。


 ぼくはたいしてお金も持ってなかったので、ウィンドウショッピングに徹した。ひやかすだけでも、熱気が伝わってきて気分がいくぶんウキウキする。


 しかし、

(今度、アンナもつれてきてあげよう――)

 と、ふと思ってしまい、現状の悲惨さを思い出して楽しい気分が一気に雲散霧消(うんさんむしょう)した。


 いったんそう考えてしまうと、もう屋台街にいるのもつらかったので、ぼくは売り声に背を向けて駐輪場に逃げ出した。


     ☭


 市立図書館に行こうかと思ったが、読書や勉強をする気分でもない。美術館もおり悪く休館中だ。


 ふらふらと街をさまよううちに、気が付いたらバールに立ち寄っていた。

 以前アンナとコーヒーを飲んだ、あの電話付きバールであった。


 ぼくは自転車を止め、近くの街灯にチェーンで固定した。時間が早いせいか、今日はすいていて、電話の列とコーヒーの列の見分けは一目でついた。ぼくはコーヒーの列に並んだ。


「やあ」


 という女性の声が後ろから聞こえた。


 ひとり連れだったぼくは、ほかの誰かが話しかけられたのだと思って、振り返らずにいた。

 万力のような握力で肩をつかまれ、ぼくは鈍いうめきを上げて振り返った。


 そこにいたのは、整った顔立ちをもった女性だった。

 私服だったので、一瞬誰だかわからなかった。


 鮫のように無表情な瞳がぼくをとらえていた。左手には、ひじ当て付きの本格的な杖をついていた。


 ぼくは気づいた。

 そこにいたのは、人民防衛英雄・人民陸軍同志・ナロ高付将校、美城美由紀上尉であった。


     ☭


 私服姿の上尉をみたのは、これが初めてかもしれなかった。


 上尉は、細いジーンズとサマージャケットを格好良く着こなしていた。スタイルがよいので似合う。おしゃれなデザインのナップザックをラフにひっかけていた。あんまりサマになっていたので、ひじ当て付きの杖も、なにかパンクなファッションの一部のように見えた。義足の身で、どうやってこんな細いズボンをはいたのだろうか、とぼくは思った。


 ぼくと上尉は、バール近くの公園のベンチに腰掛けてコーヒーを飲んでいた。目の前の噴水からしぶきが飛んでくる。子供たちと、ソファーみたいに大きなラブラドール・レトリバー犬が、ゴムボールと戯れていた。


 本来、こんな遠くまでカップをもっていってはいけないのだが、上尉は慣れたものだった。二杯分のコーヒー代のほかに、カウンターのおばちゃんに小銭を握らせて、何も言わずにずかずか歩いた。おばちゃんも何も言わなかった。


 ぼくは上尉におごってもらったコーヒーを、ふうふうふきながら飲んだ。春の陽光の中で飲むコーヒーは、少し熱すぎた。そして粉っぽかった。


 ぼくと上尉は無言のままだった。さっきゴリラのような力で握られた右肩がまだじんじんしていた。


「なにから聞きたい?」

 あらゆる前置きをすっ飛ばして、上尉が唐突に言った。


「肩が痛いです」


「それは天罰だ」上尉は冷たく言い放った。


「他に()くことがあるだろう」


()いてもいいんですか」


「答えられる範囲で」


 ぼくは反射的に周囲を見回した。


「安心しなさい、いまここはクリーンだ」

 上尉はうけおった。


「噴水の音と、子供の遊ぶ声。こんな環境で盗聴(ナニ)なんかできるもんではない」


 上尉は耳をくすぐる仕草をした。


 それだけではないのだろうな、とぼくは思った。上尉はなにか、盗聴や尾行をされていないという確信をもっているらしかった。ぼくはなにも尋ねなかったけど、上尉はそうでもなければこんな話をする人ではない、そのことだけは知っていた。


アンナ(かのじょ)は何者なんですか」

 ぼくは、念には念を入れて言葉をぼかした。


「私が知る限り、本人の言ったとおりだ。アフガニスタン最奥地の未来を見とおす少数民族。今度の戦争で発見されてソ連軍の保護下に。ソヴィエト連邦科学アカデミー推薦。だが、これもカバーストーリーかもしれない」


 上尉はコーヒーを一口すすった。カップに紅い口紅の跡がついた。


「わたしもできる限り調べてはみたけれど、これ以外の情報はあまり出てこなかった。一応、同志教授から仮説を聞いた。聞くか?」

 ぼくはあの固太りの知識人(インテリゲンツィア)のことを思い出した。


「知りたいです」


「アンデス山脈の奥地にあった、『盲人の国』のことは知っているか?」


「いいえ」


「その民族だか部族だかの開祖は、視覚をつかさどる遺伝子になんらかの欠陥をもっていた。険しいところに住みついた部族で、通婚できるほかの部族が少なかったから、近親婚を繰り返した。視覚異常の遺伝子が部族内に蔓延して、ついには部族のメンバーの大多数が盲目になってしまった」


「なんと。それじゃあ生きていけないでしょう」


「それが、普通に日常生活を送れていたそうだよ。生活に必要な範囲には、すべて小道が整備され、目印ならぬ手印がつけられていた。小道の脇には花が植えられ、彼らは香りの違いで道を判別できた。彼らは涼しい夜に活動して、温かい昼間に寝ていた」


「それで、そのことがアンナ(かのじょ)とどう関係が?」


「人類は、未来を観られる遺伝子をもともと持っているんじゃないか、それが教授の仮説だ。だけどそれは劣性遺伝子で、発揮されることはほとんどない。アンナの部族の開祖はその遺伝子を持っていて、閉鎖的な環境で近親婚を繰り返し、その遺伝的特性が強く発揮されるようになった。――まあ、これもただの推測だけれど」


 ぼくはアンナの神話を思い出した。


 おそろしい暴君バトゥマからくすねた琥珀。

 英雄ベトゥキヤの妻の陰部。


 アンナの琥珀色の瞳。それを産む部族の女たち。


「なぜそもそも、その遺伝子があると未来が視えるんです?」


「これもまた科学的な話になる」


「けっこうです、ついていくように努力します」


 そうか、と言って上尉は、考えをまとめるようにちょっと宙をみた。


「水に入れる前に水に溶けてしまう物質のことを知っているか?」


「なんですかそれ、初めて聞きました」


「物質には溶解度というのがあって、ようは純粋な水にいれたときの溶けやすさのことだ。まったく溶けない物質を0として、数値が高いほど溶けやすい。なんだが、そのナントカって物質は溶解度が一〇〇を超えているんだ。実験者がその物質を水に入れようとしただけで、水に溶けてしまう」


「なんでそんなことに」


「『原子の手が四次元方向にのびている』から」

 同志教授から聞かされたことをそのまんま繰り返しています、という口調で上尉は言った。


「アンナの場合、記憶を司る脳内の海馬、そこと連絡をとっているニューロンのシナプスが『四次元方向にのびている』のじゃないか、教授はそういう仮説を立てた」


「信じられない」


「『それなりの裏付けがある』、そうだよ」


「それなりの、裏付け」

 ぼくはぼんやりと繰り返した。説の真偽を判断するには絶望的に前提知識の足りていない脳を、必死に回転させていた。


アンナ(あのこ)には兄がいたそうだね」

 上尉がぽつりとつぶやいた。


 ぼくは唐突に思い出した。


 ――アンナの兄は、自分が十二歳のときにソ連軍に〝保護〟されて解剖台の露と消えることを知っていて、そのことを幼い妹に話した。


 ぼくはカップを持っていないほうの手で両目のまぶたをおおった。


「彼女はなぜ日本に?」


「知らん」


「なぜうちの学校に?」


「知らん」


「なぜうちの部活に?」


「本人の希望だ」

 上尉はカップを持つ自分の右手をじっと見つめた。


「ある日、ヤツが突然こういった。『もうすぐ、あなたのもとに部員を探す生徒が来る。わたしの答えはイエス(ダー)』。その日の午後にキミが来た」


 上尉は、またひと口コーヒーをすすった。


「ひょっとしたら、日本に来た経緯もそんな感じなのかもしれん。そんな雰囲気だ」


 ぼくはソヴィエト連邦の頭の固い保安要員を前に、あの常軌を逸した話をおすまし顔で語るアンナの姿を思い浮かべた。

 たしかにそれは(サマ)になっていた。


「上尉の立場は?」


傷痍(しょうい)軍人。人民防衛英雄。非常勤教師」


「あなたは、人民軍におけるアンナの庇護者、あるいは利益代表なんですか?」


「答えられない」


 つまり、イエス(ダー)ということだ。


「上尉は、信じているんですか?」


「なにを?」


 何もかもを。

 ソ連を。

 ソヴィエト科学アカデミーを。

 ぼくらの国の体制を。

 人民軍を。

 国家保安省を。


 人間世界の何もかもを。


「アンナの体質を」


「……信じてもいいとは思ってる」

 上尉は慎重にことばを選んだ。


「それはなぜ?」


「……」

 上尉は残りのコーヒーを一息で飲み干して、カップを置き、空いた右手で目頭をもんだ。話すべきかどうか迷っているのだった。その様子があまりに真剣なので、ぼくは思わず気後れした。


「言いたくないのなら、無理には――」


「最初にあったときにな、いわれたんだ。『あなたの寿命はあと一〇年だ』って」


 ぼくは思わず上尉の顔を見つめた。上尉はまっすぐに、噴水の流れる水面(みなも)を見つめていた。


「わたしは九年後、クーデタ―(れいのアレ)に関与して銃殺されるらしい」


     ☭

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