その23
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両親が共働きだったので、ぼくは祖父に育てられた。
祖父は話をすることを好んだ。内容は、主に自分の手柄話と、御近所さんの悪口と、血なまぐさい拷問や処刑の話であった。
祖父は古今東西の残酷物語に精通していた。古代中国の去勢刑を『宮刑』と呼ぶことや、スペイン宗教裁判の鉄の処女のことを、ぼくは祖父から知った。
祖父はソ連秘密警察の拷問について、睾丸を挟むくるみ割り機や、肛門に無理やり挿入されるフォークと電気ショックについて、微に入り細をうがって説明した。話がノッてくると顔がほてり、全力疾走したあとのカバみたいにぜーぜーと呼吸しはじめる。熱気にあてられて、ぼくの頬も熱くなる。
また、祖父は自分の過去について、何度も何度もぼくに語った。
祖父は一連の大戦争を生き延びた。
祖父は中国大陸、満州、東海道戦線、チェコスロバキア、ベトナムで戦った。
祖父は五〇年代と六〇年代末期、二度にわたって襲ってきた大粛清の波を、政治将校として泳ぎぬいた。
祖父は二年間、シベリアの強制収容所にいた。
そんな男が赤裸々な過去をつまびらかにしようというのだから、いきおい昔話は血なまぐさくなった。鉄の処女にまけないくらいに。
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もう何度も聞いたので、祖父の略歴はそらんじられる。
祖父は大正年間に新潟の寒村の第六子としてこの世に生を受け、不幸な子供時代をすごした。旧帝時代、徴兵で陸軍に入った。陸軍では、おりからの軍拡と日中帝国主義侵略戦争による下士官不足の波にうまく乗ることができ、軍曹にまで出世した。
二言目には『天皇陛下は』と権威を持ち出すタイプの暴力軍曹であったらしい。
下士官として、故郷の寒村におけるささやかな名士になりおおせた祖父は、庄屋さんの紹介で祖母の入り婿におさまり、新潟市内で商店を営んでいた祖母の実家と兵舎とを往復する生活を送って子供を何人ももうけた。そのうちのひとりがぼくの父である。
当時の写真が一枚だけ残っているが、若いころの祖父はなかなかの男ぶりであった。いまは脂肪で膨らんで見る影もないが。
アメリカと開戦したあとも、祖父はうまく上官に取り入り、比較的安全な満州で新兵をしごきながらぬくぬくと暮らしていたらしい。
戦争も末期に入って満州にソ連軍T‐34戦車の群れが乗り込んでくると、普段の威勢の良さはどこへやら、祖父は生きて虜囚の辱めを受け、シベリアの強制収容所に放り込まれた。
祖父はぶちこまれたラーゲリで思想研修を受け、「無知ゆえに帝国主義者の走狗として働かされていた過去のあやまち」にはじめて気づき、「共産主義という真実の道に触れ」たことで「自己改革を達成」したと図々しくも自己批判した。
どんな手品を使ったものか、祖父はラーゲリでは作業班長として威張り散らしていたらしい。当時を知る人は、祖父は毛深いロシア人所長に『尻を売った』のだと噂した。
祖父に転機をもたらしたのは、同志スターリンによる日本再軍備『許可』にともなう、人民軍の創設であった。
アメリカ合衆国との冷戦を当然に予想していた偉大なる同志スターリンは、在日アメリカ軍と〈南〉日本に対する盾として、ある程度精強な新生日本軍を欲していた。そのための方策のひとつが、ラーゲリに大量にとらえられていた旧帝国軍職業軍人の再登用であった。
かくして祖父は、二言目には『党の方針は』と口にする政治将校として人民軍に入隊し、出世を重ねていくことになる。
祖父が下士官から将校に大出世できた理由はここにある。同志スターリンは旧時代のエリートであった元帝国軍将校をあまり信用しなかったので、おぎないとして多くの元帝国軍下士官が将校に任ぜられたのだ。
いわゆる『シベリア階級』である。
任官基準は、能力や実績よりも、出身階級と党への忠誠度が重視されたので、小作農の出身であり、その時々の体制に常に従順でありつづけた祖父はとくに恩恵を受けた。
「小作に生まれたことをありがたく思ったのは、あれが生まれて初めてだ」と祖父は何度も何度も口にした。
旧帝陸軍軍曹から囚われの新米共産主義者を経て、人民軍シベリア少佐として堂々凱旋した祖父を待っていたのは、合衆国軍の原爆投下によって焦土にかえられた新潟市であった。
関東上陸作戦に手こずっていた米帝軍は、戦争末期、列島を南下するソ連軍をけん制することを目的として、新潟市に三発目の原子爆弾『キャッツ・クレイドル』を投下していた。
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当時、米帝軍はあせっていた。自分たちが手こずっているうちに、ソ連軍が続々と日本列島を南下していたからだ。日本列島北部の不凍港を押さえられたら、ソ連海軍が太平洋に進出し放題になってしまう。アメリカのトル-マン大統領も、同志スターリンと同じく米ソ冷戦を予測していたから、アメリカ陸海軍の尻を必死にたたくことしきりであった。
なぜ、米ソ軍でこれほど差がついたのか?
一言でいえばこうなる。
『同志スターリンが賭けに勝ったのだ』。
アメリカ軍の日本本土上陸作戦は、一九四五年十一月の南九州上陸作戦、及び一九四六年三月の関東上陸作戦からなっていた。
当初一九四五年内の完成を目指していた原子爆弾の開発スケジュールは、マンハッタン工兵管区でおこったタバコの火の不始末を原因とする大火災によって遅れに遅れていた。
結局、原爆は一九四六年一月に完成し、一号爆弾が広島に、二号が小倉に投下されたが、そのころにはもう日米は悲惨な地上戦の泥沼にどっぷりはまり込んでいて、アメリカが期待したような日本無条件降伏の呼び水にはなりえなかった。
米国内の共産主義シンパを通じて、原爆開発の遅延を知った同志スターリンは何をしたか?
同じくシンパから入手した上陸作戦計画を、日本政府にリークしたのだ!
ずるい奴め、スターリン!
同志スターリンは、労農赤軍参謀本部に命じて、極東における大規模上陸作戦を大いそぎで計画させた。北極海経由でヨーロッパ地域から大量の輸送船を回航した。シベリア鉄道経由で、ナチス・ドイツ軍が降伏したことによって手すきになった兵隊と戦車を極東地域に集結させた。
一方で、ソ連外務省には日本との交渉を引き延ばすように厳命した。
ソヴィエト連邦を、条件付き降伏を可能にする最後の藁とみなしていた溺れる日本政府は、このペテンにうまうまと引っかかり、北海道・東北守備の部隊を引き抜いて南九州および関東の防衛にあてた。
結果、米軍が南九州に上陸するのと同時に南樺太・満州・クリル諸島に侵攻したソ連軍は、まさに無人の野を行くがごとしであった。
ソ連軍は、制圧した南樺太の豊原市に、亡命日本人共産主義者からなる臨時革命政府を打ち立てたあと、道北の稚内から留萌にかけての四ヶ所に強襲上陸。T‐34戦車を押し立てて、わずか二ヶ月で北海道全土を『解放』した。
黒海で失敗した大規模上陸作戦に成功したことで、同志スターリンは有頂天になった。側近を集めて宴会をひらき、シャンパンとウォッカで乾杯しまくり、好物のグルジアワインに舌鼓をうち、誰彼かまわずキスをした、とフルシチョフ回想録に残っている。
当初スターリンは、南樺太と、可能ならば道北を傀儡国家として独立させる腹づもりだったのだが、予想以上に日本軍の抵抗が軽微だったために欲を出した。たて続けに無茶な命令を連発して、東北地方の太平洋側にも上陸。これにも成功した。
一九四六年九月の時点でソ連軍は新潟県北部までを制圧し、このまま南部まで進出して三国峠を越えるかまえすら見せていた。
一九四六年九月十一日、トルーマン大統領は、ソ連軍の手に渡る寸前の新潟市に原爆投下を命じた。
米国からの強烈なメッセージと、いいかげん補給が限界だと複数のソ連軍元帥に直訴されたことで、同志スターリンはそれ以上の南下をあきらめた。
とはいえ、同志スターリンはまちがいなく賭けに勝ったのだ。
京都に逃れていた日本国皇帝は、降伏相手に米軍を選んだ。皇族を根絶やしにする気満々の共産主義者・同志スターリン率いるソ連軍よりマシだという当然の判断だった。
正式な降伏調印は一九四六年一〇月二十三日。ぼくたちの日本では、この日を『解放記念日』と呼んで祝っている。〈南〉では『終戦記念日』と呼んでいるらしい。正直に『敗戦記念日』と呼ばないところが、最後の意地である。
ソヴィエト連邦は一九四九年、日本列島のソ連占領地域をアメリカ合衆国の承認なく独立させた。北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国の独立した翌年、東ドイツ=ドイツ民主共和国の独立とほぼ同時期であった。
国号は『日本民主人民共和国』。
初代首都は南樺太・豊原市とされたが、独立と同時にいまの暫定首都に遷都した。『暫定』とついているのは、遠からず列島南部も解放して東京に遷都しようとする熱烈意思の表明である。
初代統一農労党書記長兼国会常任幹事会議長は、戦前にコミンテルン経由でソ連に亡命していた日本人共産主義者・兼森優一だが、のちに内ゲバで粛清されて、今では半分いなかったことにされている。
こうして、『〈北〉対〈南〉』という現在の冷戦構造が完成した。
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ちなみに、新潟市への反応爆弾を投下したB‐29爆撃機の名前は『恐怖の大王』号といった。名づけ親は、機長のカール・ノルトマン中佐だった。ノルトマン中佐は、ペイパーバック版『ノストラダムスの大予言』からインスピレーションを得たという。
ノルトマン中佐はのちに軍を退役したあと故郷のカリフォルニア州に戻ったが、酒と女で身を持ち崩し、ガソリンスタンドで強盗をはたらいた罪で逮捕された。裁判では原爆投下任務による精神錯乱を主張したが認められず、懲役四年、執行猶予三年の刑を言い渡された。
ノルトマン元中佐は、執行猶予中にキューバ経由でソ連に亡命しようとして再逮捕され、今度は実刑を食らった。
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祖父は廃墟となった新潟市近辺で親類縁者を探した。
新潟市に暮らしていた祖母と、子供たちと、祖母の親戚たちはそろって『行方不明』。おそらくは一瞬で蒸発したか、火ぶくれになって死んだものだと察せられた(ぼくは前者であってほしいと思う。そのほうが苦痛が少ないだろうから)。
故郷の寒村は、旧帝軍ゲリラをかくまったかどでソ連軍に焼き払われていた。祖父と祖母の仲人をつとめた庄屋さんは、日本人共産主義者からなる『人民進駐軍』に、むちゃくちゃな罪をふっかけられて逮捕され、佐渡島に設けられた強制収容所で亡くなった。
唯一残った係累は、村上市の親戚の家に預けられていて偶然生きのびた父だけであった。
祖父はその後、第一次祖国統一戦争で味方を督戦し、プラハの春にわくチェコスロバキア市民を戦車で弾圧し、ベトナムのジャングルでヴェトコン相手に偉そうにイデオロギー講義をぶって、大佐にまで出世した。
五〇年代のスターリン時代末期の大粛清と、六〇年代末期から七〇年代初頭にかけての〈刷新〉体制にともなう大粛清を、見事に泳ぎぬいた。
それらのすべてを、ぼくは祖父から聞いた。何度も何度も。
強制収容所帰り特有の、生気のない昏い穴のような目で。
極度に太った人間特有のかすれ声で。
脂肪で膨らんだ頬。
ドイツの皇帝みたいな口ひげ。
あの恐ろしい祖父の目。
あの恐ろしい祖父の声。
普通の人は黙り込む。
あまりにもつらく苦しい経験をした人々、大戦争や収容所から生還した人々は、自分の味わった苦しみについて多くを語らないものだ。語っても周囲の理解を得られないどころか、避けられ、後難をこうむる恐れの方が多いとなればなおさら。だから沈黙のうちに記憶を風化させ、つらい過去に耐え忍ぶのである。
祖父は真逆のアプローチをとった。
自分がいかに苦しかったか、自分がいかに残酷で無慈悲であるか、他人に語り聞かせることで自我を保っていた。自分と他人の血で真っ赤に染まった両手を突き出して、世界に対して窓を開き、訴えかけていたのである。
祖父とぼくからなる小さな世界に。
祖父はぼくを恐怖と規律でがんじがらめにしばりあげた。
ぼくが祖父の過去を密告しないように。
祖父にとってぼくは、自分の過去を閉じこめる秘密の小箱だったのである。
ぼくはおきあがった。夕食ができたことを告げる母の声がしたからだった。
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