その20
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ナロ高の来賓室は一階ホールの隣に存在していた。
普段は鍵がかかっていて、校外からお偉いさんが来たときのみ解放されるらしい。
もちろん来賓室に入るのは初めてで、
(いったいどんな豪華な部屋なんだろう)
とぼくはつとめてポジティブな方向に自分の気分を誘導し、いやな思考を頭から追い払おうとした。
お偉いさんに粗相があっては不味い。とくにこの国では。
「失礼します!」
生徒会長倉持同志が、黒光りするノブのついた立派な樫の木の扉をノックした。
「御用命の生徒をお連れしました!」
高校生らしいハキハキした声であった。
ドアは分厚く、立派な彫り物がしてあった。
中に入ると、部屋の真ん中には立派な応接セットがしつらえられていた。ぴかぴか光る頑丈そうなテーブルと、ふくふくとふとった黒いソファー。テーブルの上には、ロシア人受けを狙ったものらしい、漆塗り蒔絵入りの菓子皿と、本格的なサモワール。
灰皿は透明な耐熱ガラス製で、盗聴器が仕掛けられていないことをアピールしている。
そして、テーブルを囲む、お偉いさん半ダース。
こんなにいるとは思わなかった。脚の太いしっかりしたコート掛けが、多種多様な上着で鈴なりになっていた。ぼくは、大地を支える巨人アトラスを連想した。
それらすべてを、何枚ものポートレート写真が見下ろしている。ドアに向かい合って並ぶ大元帥同志と同志レーニン、プラス、一段低いところにずらりとかけられた歴代の校長たち。
「失礼します!」
と声をかけてから一歩入ると、毛足の長い絨毯の感触が上履きごしに感じられた。
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生徒会長と座敷犬が立ち去ると、ぼくはお偉いさんたちの視線の集中砲火を浴びせられた。
みんな黙りこくっていた。
ソファーに座ったお偉いさんたちは、誰も口火を切ろうとはせず、周囲の空気をさぐり合っている。それとなく牽制しあっている様子が察せられた。
室内にはすでに、タバコの煙と人間の体臭とが充満していて、ぼくは息苦しさをおぼえた。
居心地悪そうに座っていた校長が、身ぶり手ぶりで座るようにうながした。ドアの前にあった一人用の椅子をすすめられた。
背筋を伸ばしてちょこんと浅く腰掛けながら、ぼくもお偉いさんたちを観察した。
部屋の中には、ぼくを除いて七人の人間がいた。五人が日本人、二人が外国人(おそらくロシア人)だった。
まず、ぼくが顔を知っている学校関係者。校長と上尉。
校長はもうすぐ年金生活といった風体の男で、白くなった髪をオールバックに固めていた。朝礼で見せるいつもの威厳は、なりを潜めていた。
上尉はこちらと目を合わせようとしない。勲章のじゃらじゃらついた軍服姿で、じっと前を向いて腕を組み、〈勝利〉タバコをふかしていた。何か事情がありそうだったので、ぼくもあえて目を合わせようとしなかった。灰皿には、深紅の口紅のついた吸い殻がもう何本も積まれていた。
三人目は、高級そうなスーツを着た若作りの男。襟元には党員バッジが光っていた。ぼくたちの日本の国章をかたどった金色の円いバッジで、旭日章の上で交差する鎌とトンカチと赤い星を、両側から稲穂が包み込んでいた。稲穂には布が巻き付いていて、『万国の労働者よ、団結せよ』とラテン語で記されている。
四人目はくたびれたスーツを着た、疲れた顔の中年男。正体不明。人民酒場でひとり黙々と安酒をあおっていそうな雰囲気だった。党員バッジは付けていなかった。
五人目は固太りの初老の男で、時代がかった三つぞろいのスーツを着ていた。知的な顔つきで、エネルギーを発散していた。どこか知識人風だった。
六人目はロシア人で、軍服姿の大佐だった。髭だらけの熊みたいな男で、口ひげと頬ひげがつながっていた。ひとりリラックスした様子で、蒔絵の菓子皿をいじくりながらマルボロをふかしていた。
一般人にはなかなか手に入らない外国産のタバコである。ぼくは、在日ソ連軍部隊とは別系統に属する軍人なのでは、と感じた。在日ソ連軍の将兵は日産タバコ〈勝利〉を吸うことが多い。日ソ友好協力相互援助条約の一環で、ひとり月二カートンまではタダみたいな値段で買えるからだ。ぼくと大佐の目が合った。大佐は人懐こいサーカスの熊みたいなしぐさでウインクをした。
七人目。最後はスーツ姿のロシア人で、こっちは能面のように無表情だった。まださほどの歳でもないのに、額が広いというか、前髪がだいぶ後退していた。後頭部まで後退していたから、正面から見ると、ほとんどスキンヘッドみたいだった。
上尉が口火をきった。
正体不明のくたびれスーツに菓子皿を押し出して、
「同志警部、おひとついかがですか」
とやった。くたびれスーツは言葉少なにそれを断った。
ぼくは上尉に心の中で礼を言った。
それは、上尉からぼくへのメッセージだった。
私服。
警察階級の『同志警部』。
この面子。
間違いない、くたびれスーツは国家保安省だ。
では、似たような雰囲気を発している無表情なロシア人はKGB(ソ連国家保安委員会)だろう。
上尉のことばが呼び水になって、高級スーツの党員が口を開いた。
「それでは、第五回目の合同討議を開始したいとおもいます」
ぼくは、事態の途方もなさに、ようやく気づきつつあった。
統一農労党政治局、人民軍、国家保安省、ソヴィエト軍、KGB。
日本民主人民共和国を主導する各勢力からの使者が、一堂に会しているのだった。
このありふれた学校の、ありふれた来賓室で。
なんてこった。
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「合同討議を始めるにあたッテ、確認しておきたいことがあル」
KGBのロシア人が口を開いた。なまりがやや強いものの、十分流暢と呼べる日本語だった。
「この少年ノ、政治的信頼性についてダ」
一同は、またか、という顔つきになった。
「その件に関しては、すでに結論がついているはずです、同志大尉」
党員があくまでも穏やかに指摘した。
「しかも、私たちよりも上のレベルで」
「これは、我々のレベルにおける最終確認ダ」
KGBはねばった。
「この少年の身元は完全にクリーンです」
国家保安省のくたびれスーツが端的にうけおった。
「祖父は人民軍政治総監部の退役大佐、御父上も保安関係の責任ある地位に就いておられる。母親も党活動に熱心に参加し、兄にも反体制的な活動歴はない。本人も成績優秀、素行や交友関係、性癖にもこれといった傷はない。模範的市民です」
くたびれスーツはタイプ打ちの資料を片手に、淡々とぼくの個人情報を読み上げた。
そんな調査をされているという事実をみせつけられて、ぼくは吐き気をおぼえた。
「当方としては、より積極的な調査を期待したい」
とKGBが突っ込む。
「我々の調査が信頼性に欠けると?」
国家保安省が受けて立つ。
「そうハいっていない。ただ我々としては、もう少し調査内容の開示を求めたイ」
「すでに十分開示しているはずですが」
「わたしのいう意味がわかるはずダ、同志警部」
「ここは日本です、同志大尉。そして彼は日本人民です。日本人民の調査は日本当局が行います」
これはKGBの方でもぼくのファイルが厚くなっているぞ、とぼくの第六感がささやいた。
「少年に関してはそうだ。だが少女については我々の管理下にある」
KGBは(ぼくにとっての)爆弾発言をした。
「軍の管理下、ダ。同志大尉」
熊ひげ大佐が口をはさんだ。酒の席でからかいあうような口調だった。
「少女は軍と我々の共同管理下にアル」
KGBがしぶしぶ譲歩した。
ロシア人熊ひげ大佐はやれやれという風に両手を挙げた。
「きみは何をそんなに心配しているんだね、ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ? この少年がヤンキーの諜報員だとでも?」
親し気な口調であった。ロシア人は丁寧に話しかけるとき、名前に父称をつけて呼ぶ。
これで決着がついたらしい。KGBは引き下がった。
空気が落ち着いた。
二人の諜報員が剣をうち鳴らしているあいだ、校長は鏡の間の蝦蟇みたいに黙ってだらだら汗をかいていた。上尉は三本目のタバコに火をつけて宙をにらんでいた。熊ひげ大佐は面白そうに二人を眺めて、時宜を見て口出しをした。党員は何とかとりなそうとタイミングをうかがっていた。知識人はじっと灰皿を見つめて嵐が過ぎるのを待っていた。
ぼくはなんとなく、教科書に載っていたミュンヘン会談の風刺絵を思い出した。
この来賓室は、日本列島の北半分、ぼくたちの栄えある祖国・日本民主人民共和国のカリカチュアだった。
互いに牽制しあう人民軍と国家保安省。内政に干渉してくるロシア人たちは、日本人の頭越しに争っている。それらをうまく噛み合わせて事態をコントロールしようと努める統一農労党政治局。そんな現状に黙り込んだままの知識人たち。
そして、その蚊帳の外で所在なさげに翻弄され、こちらに飛び火しないことだけを願って、じっと息を殺している人民。
ぼくの脳裏で、ヒットラーのすまし顔と、ドアの外でそれをいぶかしんでいる同志スターリンの姿がちらついた。
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ぼくに質問してきたのは、おもに固太りの知識人だった。彼はみんなから『同志教授』と呼ばれていた。
「きみは園丘アンナさんの友人だそうだね」
「はい、同志教授!」
「彼女の『体質』についてはすでに聞いているそうだね」
「はい、同志教授!」
「本人から直接聞いたのかな」
「はい、同志教授! 本人から聞かされました」
そして、ここにいる全員はそのことを知っているというわけか。アンナの『体質』のことも、ぼくが知っているという事実も知っている。
なぜ知っているのか。
盗聴? 上尉が報告した? アンナが自分で報告した?
どうでもよかった。
その違いは、身を守るうえでとても重要なことなのに、いまは枯葉ほどにも思えなかった。
アンナが語る未来は、ぼくのアンナだけのSFな秘密だとか、そういう幻想をどこかで抱いていた。そのことにいま気づかされた。そしてへし折られた。
そんなわけないのに。
だって未来視だもの。
アンナの『未来』は国や軍や科学者や国際諜報機関も注目する一大プロジェクトなのだ。
当たり前だ、だって未来視だもの。
そもそもアンナ自身が最初に言っていたではないか。
「ソヴィエト科学アカデミーお墨付きなんだけどなあ」
ニェット。
後から後からヘドロのような後悔と自己嫌悪が湧いてきて、ぼくは気分が悪くなった。
でも、ぼくの身体は染みついた習性に従って、政治的上級者からの質問に従順に答えていた。
はい、同志教授! 彼女は精神的にも健康そうに見えます。
はい、同志教授! 彼女は喫煙や飲酒をしていません。
はい、同志教授! 彼女と肉体関係はありません。
ぼくはすべてを話した。
アンナの書いた『1984』のことも、多少ぼかして話した。
アンナと呑んだコーヒーのことも話した。
アンナが読んでいる少女小説の題名も話した。
高校生らしいハキハキした声で。
そのことがまた自己嫌悪の源泉になって、ぼくの頭は沸騰しそうになっていたのに、ぼくの胸はうつろにつめたくて、ぼくは考えるのをやめた。
ぼくはただ無心で、当局に同級生の動向を密告する卑怯者の声を聴いていた。
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そんな調子で小一時間ほど質問されたあと、
「協力に感謝する。引きつづき定期的に話を聞かせてくれ」
と言われて、ぼくは来賓室から追い払われた。
帰り際に同志教授と握手をした。ふくふくとして温かい手であった。
上尉は最後までぼくと目を合わせなかった。
生徒会長に会議の様子を密告したあと、ぼくは通学かばんを取りに教室に戻った。ほったらかしてきたはずの教科書は、きちんとかばんにしまわれていて、「強制下校時間まで待った」という匿名のメモと飴玉が添えてあった。
メモは恩島の字だった。飴玉はぼくの好きなりんご味だった。
ぼくは飴玉を口に含み、暗い夜道をひとりで自転車に乗って帰った。
街路灯はついていたり消えていたりした。
建物のすき間から、ライトアップされたレーニン同志像がみえた。青銅製の巨人は右手をかかげ、ぼくたちのいじましくてみみっちい営みのすべてを睥睨していた。
あんまり力を入れて漕いだので、たるみぎみのチェーンがガコってなって、ぼくはふくらはぎをすりむいた。
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