その17
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人生は選択の連続だ。
選択肢は初めから限られている。
ぼくたちが「この中から選ぶように」と、両親や党や運命から言い渡される路みちは、白く濃い霧のなかにむかって延びている。
先行きは誰にも分らない。
道行はときに困難で、ときに理不尽で、ときには致命的ですらある。
ぼくたちにわかっているのは道の最後だけだ。
それは死で終わる。
どんな道を選んでも、それだけは変わらない。隠れようが、祈ろうが、いつかは死がぼくたちを捕まえる。天にましますあのクソジジイは、猶予はされてもお忘れにはならないのだ。
八方丸くおさまる満額回答なんてたいてい存在しなくて、最後は骨になることがあらかじめ確定していて、それでもぼくらはいずれかの選択肢をえらび取るほかはない。選ばない、という選択肢も含めて。
ぼくはいままで、そのことを不幸だと思っていた。人の力のおよばない、どうしようもないことだとあきらめていた。そして、もし道の先があらかじめ分かっているなら、人生はどんなに気楽で素晴らしいものだろうか、と思っていた。
そこにアンナが現れた。
彼女の道には霧がかかっていない。空気は澄み渡り、道はどこまでも続いていく。
ただし、それは困難で、理不尽で、致命的な一本道である。
嗚呼、天にましますあのお方よ。あなたのクソジジイぶりは、ぼくの想像をはるかに超えていました。
科学的無神論を奉ずる共産主義者でよかったです。
とにもかくにも、受け入れるしかないのだ。受け入れないという選択肢もあるけれど、それを選ぶと両親が泣く。だから受け入れるしかない。
ぼくはアンナと違ってまだ十五年の人生経験しか持ち合わせていないけれど、そんなこんながのみこめる程度にはオトナだった。
「おめェ、そんなこと考えてる時点でまだガキだァ」
と脳内で祖父がわらった。
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などと、思わせぶりなモノローグをさしはさんでおいて、いま現在ぼくの頭を悩ませていることといえば、
「今日のお昼に何を食べるか」
という毛沢東の髪の毛に引っ付いたシラミのフンよりちっぽけな問題だった。
ナロ高のお昼はお弁当派と食堂派に大別される。
普段のぼくはお弁当っ子なのだけど、今日は母が党婦人部の研修旅行会で留守にしていて、ぼくも一丁早起きして自分でお弁当を作ろうかという気などさらさらない甘ったれだったので、今日だけはぼくも食堂党員なのだった。
ぼくは四限目の予鈴が鳴るかならないかのうちに、教科書も出しっぱなしにしたまま廊下を走った。食堂派の同級生がいつもそうしていたからだ。
だが、上級生の教室ほど行き来に便利な一階に近づくという、社会主義らしからぬ封建的年功序列が幅を利かせているナロ高では、一年生徒の教室は三階にある。体育館横に併設されている食堂棟についたころには、すでに食堂の入り口からもはみ出す長い行列ができていた。
ぼくは舌打ちして列に並んだ。行列は共産圏の友であり、社会主義国家で真っ当に生きている限り、逃れることはできないのだった。
ぼくは周りを見回した。みんな慣れているらしく、一緒に並ぶ友達と話したり、ポケットから文庫本を取り出して読んだりしていた。ぼくは何の用意もなかった。押っ取り刀で教室を飛び出したため、普段使っている行列用セット、読みかけの文庫本と網袋を通学カバンに入れっぱなしにして来てしまっていた。暇つぶしを求めて、ぼくはきょろきょろした。
食堂棟前は殺風景であった。
食堂の建物の入り口わきの壁に、宣伝ポスターが張られていた。灰色の風景の中で、原色の真っ赤なポスターは嫌でも目につく。別の方角を眺めていても目の端にちらつく。ぼくはあきらめてそのポスターを眺めた。
例によって社会主義リアリズム全開のポスターで、鎌と稲をもった農民、大きな魚を持った漁師、ソーセージと謎のトンカチをもった肉屋が上半分に描かれている。たぶんあれで豚を撲殺したんだろう。
下半分には自由少年団の赤い絹のスカーフを付けた小中学校生徒たちがいて、上にいる年長の同志たちから稲や魚やソーセージを手渡されている。
子供の手らしい墨字でこう書かれている。
『いただきます 同志のみなさん ありがとふ』
字あまりであった。
ポスターに描かれた関係者全員の顔には、日々のめぐみと労働とプロレタリアート独裁政権への感謝の色が満面に張りつけられ、子供たちは白い歯をみせて笑っている。
ぼくは、親鳥から餌をもらおうと口を開けているひな鳥の群れを連想した。
春のうららかな日差しを全身に受けながら、ぼくは行列に並んだ。夏や冬は大変だろうなと思った。
ポスターを眺めているうちに列が短くなって、ぼくは食堂棟内に入った。
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食堂は塩化ビニールのタイル張りで、水っぽいにおいがした。
食堂は食券制だった。前方を観察すると、生徒たちはまず食券機に並び、食券を買ったあとで受け取り口に並ぶらしい。街の人民食堂と同じシステムのようだった。
観察する時間はたっぷりあった。ぼくはどんどん短くなってゆく昼休みに焦れながらじりじりと待った。
券売機に並んでいるあいだにメニューをチェックしようとした。メニューは一応掲げられているのだが、受け取り口の上にしかないので、券売機の列からは目をこらさないと見えない。このかゆいところに微妙に手が届かない不便さが、共産圏のもう一人の友である(統一後に知りあった〈南〉日本人は、これを『ユーザビリティの悪さ』と表現した)。
前に並んでいる生徒の背中越しに、メニューをどうにかチェックする。うどん、そば、シナそば、丼物、揚げパン、水餃子といった一品物のほかに、а定食とb定食があるらしい。
ところが、定食の内訳はどこにも書いてなかった。
ユーザビリティの悪さ!
中央計画経済万歳、とぼくは思った。
「すいません、定食の中身って、わかりますか?」
仕方がないので、前に並ぶ生徒に尋ねてみた。幸い男子生徒だったので、声がかけやすかった。男子生徒は運動部風の体つきをして二年生の生徒章をつけた先輩生徒で、
「どっちも日替わりだよ」
と親切に答えてくれた。
この、不便さが生み出すローカルな優しさもまた共産圏の友である、とぼくは統一後におもい知った。
「今日のおかずは何でしょう」
「さあ?」
先輩生徒は説明した。
「受け取るまではわからねえんだ。日替わりってのは、同じメニューが一週間続くこともあれば、毎日違うこともあるって意味だよ。食券を出したとたん『今日はb定食はないよ』と食堂のおばちゃんに告げられて、券売機から並びなおしになることもある」
「厳しいですね」
「まあな。でも流石にそんなことはめったにないよ」
「あなたも経験が?」
「二回くらいかな」
ぼくは食堂党員として生きることの厳しさを知った。
「じゃあ、丼物が安牌かな」
「みんなそう考えるから、丼から先になくなる。今日はもう無理じゃないかな」
「厳しいですね」
「厳しいよ」
君は――、と先輩生徒が自己紹介をうながした。
「ぼくは一年四組の寒田といいます」
「二年二組の沖津だ」
ぼくは先輩生徒と握手をした。食堂の過酷な環境は、生徒の心に団結をはぐくむ。沖津先輩の手はがっしりとしていた。男子蹴球部の主将だという。
列に並びながら、沖津先輩は、きみはもう部活は決めたか、と訊いた。
「ええ、文芸部に」
「ああ、きみか。例のピンク――っと、文芸部延命を果たしたという一年生は」
「え、噂になってるんですか」
「随分ね」
「全然知らなかった」
「そりゃ、本人の前で噂話をする奴はいないだろうさ、話題が話題だし」
沖津先輩は話していて面白い人だった。
ぼくは先輩から、食堂党生活者としての生活の知恵についていろいろと享受された。
いわく、紙おしぼりは吸湿性がきわめて悪いので使わないほうが賢明である。
いわく、お盆は濡れていない奴を確保しないと、ときどき食べるときに生臭いにおいがする。
ぼくは先人の知恵にありがたく聞き入り、次回からは何が何でもお弁当をもってこようとすきっ腹に誓った。
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「先輩は何たのむんですか」
「アー定かな。パンじゃ食った気がしねえ。運動部だからさ、がっつり食うんだ」
「え、何が出るか分からないんじゃないんですか?」
「アー定はごはん、ベー定はパンとマーガリンって決まってるんだ。何故かそれだけは変わらない」
マーガリン。
ぼくの心はにわかに浮足立った。
嗚呼、マーガリン!
それはあこがれの味であった。
別に、マーガリンが手に入らないと言うわけではない。
共産圏とはいえ、いちおうは「社会主義の優等生」・〈共和国〉の首都圏であるから――質の悪さと品数の少なさはともかく――マーガリンくらいは国営商店の列に並べば買えた。
ぼくがいままでマーガリンを食べたことがないのは、もっと個人的な理由だった。
ぼくの家では、パンにつけるバター、マーガリン、豚の脂身のたぐいは一切禁止されていた。
祖父が嫌っていたからだ。
大正生まれ戦前育ちの祖父の舌は、戦後に移民たちが持ち込んできたロシア風の食文化を受け付けなかった。牛乳、バター、マーガリン、ヨーグルトといった乳製品はその最たるものだった。
特にマーガリンの評価は最低だった。祖父は、古い人間にありがちなことに、マーガリンを『工場製のバターのまがい物』『食うプラスチック』と呼んで徹底的に蔑んでいた。
祖父一人が嫌うのは勝手なのだけれど、祖父はそれをぼくたち家族にも強制しようとした。
とりわけぼくに。
祖父は、極度に太った人間特有のかすれ声で、よくバカにした。
「マーガリンなんてなあ、おめえ、ありゃあ農奴どもの食うもんだ」
『農奴』とは、ロシア系移民に対して〈共和国〉人がつけた蔑称である。
祖父はそう嘲笑って、砂糖をどっさり振りかけたぱさぱさの黒パンを、ジャムを添えた紅茶で流し込むのだった。
完全なロシア式食生活であった。
が、その矛盾について祖父に指摘できる者は、家族の中にはいなかった。
食卓愛国主義の基準は、ひとり祖父の中にだけ存在した。
パンは明治時代にはもうあったので、軍隊出身でシベリア抑留生還組の祖父はそこそこ食べ慣れていたのである。祖父は酸味のある黒パンに砂糖をこんもりとかけて、吸い込むように食べた。
また、紅茶も祖父のお気に召したらしい。別荘の家庭菜園で育てている柚子で作ったジャムを添えて、よく飲んでいる。
だから、祖父の食卓愛国主義は、なにか信念があってのことではない。
完全な、老人のわがままである。
だけど、父はそんなわがままな祖父に面ときって逆らうひとではなくて、お嬢様育ちの母はそんな祖父と父との冷戦に割って入るような愚かなひとではなくて、歳の離れた兄は長男という理由で特別扱いで、ぼくは祖父と両親の言いつけをよく守る優等生で、だからぼくはいままでマーガリンを食べたことがない。
小学校に上がって給食が始まるときも、少年団活動でキャンプに行くときも、絶対に牛乳、バター、サーロ、麦ジュース、ニンニクなどを食べないように祖父から厳命された。
「ウソつこうだなんて考えるなよ。臭いですぐわかるんだ」
祖父は、幼いぼくの目を、奥深くまで覗きこみながら言った。
「そんな悪い子は家に要らねえ」
その目は鋭かった。その声は恐ろしかった。
退役して年金生活に入る前、祖父は人民軍政治総監部に所属する政治将校だった。
政治将校とは、人民軍の将兵を政治的に指導し、監視し、統一農労党の方針を軍部隊に徹底させる仕事である。
祖父は、仕事の上ではやり手であったのだろう。
いまでもときどき、祖父の夢を見る。
そのくせ祖父は、学校や少年団側に話をつけてくれたりは特にしなかったので、ぼくは先生やキャンプ指導者から『好き嫌いの多い子』とみなされ、ことあるごとに叱責された。
なんという理不尽!
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そんなわけで、優等生であるぼくは、今までマーガリンを食べたことがない。
だから先輩の何気ない一言を聞いて、ひそかにテンションが爆上がりした。
禁止されればされるほど魅力的に感じる、というのが人間のサガである。祖父による十五年間の無意味な監視統制のすえ、マーガリンはぼくの中で軽く神格化されていた。
そう、例えるならば『1984』のように。
(ここはb定食で決めよう……)
ぼくの心中は期待と背徳感でパンパンに充満していた。腰の下あたりがそわそわうずうずした。
いよいよ列が短くなる。
ついに沖津先輩が券売機にたどり着いた。
ぼくの心中では
(bb……bb……)
と〈二分間憎悪〉のクライマックスみたいな大合唱がふき荒れている。
沖津先輩は手をふって去っていった。ぼくも手をふり返した。
ついにぼくの番がきた。
ぼくは竜の彫られた五銭硬貨を二枚、使い古されてプラスチック部品がひび割れている券売機に喰わせた。
ぼくの右手が、b定食と書かれたボタンにのびた。
ところが。
ボタンが、どうしても押せない。
プラスチックのちっぽけなボタンに、右手のひとさし指が乗っている。
ひとさし指からは、券売機の熱と振動が伝わってくる。
これを押し込めば、あこがれのマーガリンが食べられる。
祖父に禁止されたマーガリンが。
指一本で。
「臭いですぐわかるんだ」
祖父の、老人特有の饐えたにおいよみがえった。
「そんな悪い子は家に要らねえ」
「おい、早くしろよ」
後ろからせきたてる声がして、はっと気づいたときには、券売機はа定食の食券を吐き出していた。
ぼくは茫然自失の体であったとおもう。
頭が真っ白になっていた。
なぜか、初めて射精したときのことを思い出した。隣のお姉さんのことを考えながら夜中にトイレでこっそり局部をいじっていたら、急に頭のなかが真っ白になって、「白いおしっこが出た」と母に泣きついたのだった。
それでも、身に染みついた習慣に従って、ぼくの足は受け取り口の列に並んでいた。
ぼくは茫然としたまま列に並び、茫然としたままお盆を取り、茫然としたまま食券をわたし、茫然としたままа定食を配膳された。
気づいた時には、沖津先輩と並んでご飯を食べていた。
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а定食は不味かった。
人民食堂といえば不味いと相場が決まっている。クズみたいな食材と、やる気のない調理と、食材横流しの合わせ技が、鼻をつままないと食べられないような不味い料理を作り上げる。
ナロ高の食堂も、残念ながらその例外ではなかった。
ごはんはべちゃべちゃしていた。学校当局のだれかが米を横流しして、そのぶん規定より水の量を多くして炊いているのに違いなかった。
コメ自体の質も悪かった。味より収穫量を重視した『豊穣壱拾四号』であった。精米もよくないらしく、ぷんと匂った。たぶん古米で、触感も悪かった。
祖父の知人の農共関係者から〝おすそわけ〟される良米を常食できる家庭で育ったぼくにとっては、紙粘土を食べているような気分であった。
そして、濡れていたお盆からは、猛烈に生臭いにおいがした。
沖津先輩はそんなご飯を勢いよくかっこんだ。ネバネバしているくせにお粥みたいにポロポロこぼれて箸でつまめないので、かきこまないと食べられないのだった。
お腹がペコペコだったので、それでも何とか食えないかと工夫した。とろろ昆布の味噌汁をぶっかけてすすりこもうとしたが、悪手だった。味噌汁を吸ったコメは紙粘土から油性粘土に合体進化して、ぼくののどを詰まらせた。
結局、おかずの干し鰈とちりめん雑魚だけ食べて、ごはんは半分残した。
お百姓のみなさんごめんなさい、と心の中で謝ろうとしたが、よくよく考えたら、ぼくたちの日本にはもう『お百姓さん』なんて職業は存在しないのだった。
農業共同体や国営農場で働く『農業労働者』たちは、ぼくが米を食べようが食べまいが、書類上のノルマさえ達成していれば配給を受けられる。
むしろ、不味くて米を食べられないと聞いたら喜ぶかもしれない。
ぼくたちの日本政府・統一農労党政権はコメに厳しい生産ノルマを課していて、安い固定価格で強制買い上げしていて、そのくせ余ったら廃棄させたりするので、『農業労働者』さんたちは政府と都市住民を深く深く恨んでいた(その事実は、党と政府によって厳しく統制されているニュースではもちろん放送されないし新聞にも載らない。全部噂話である。ぼくは祖父と農共の知人の会話から知った)。
ではお米の神様に祈ろうかと思ったが、ぼくたちの日本は科学的無神論を憲法に明記しているガチガチの共産主義国家で、古代からある神社をぶっ壊して巨大な革命記念館を建てたりしているので、八百万の神々がそんなぼくたちの声を聴いてくれるかはだいぶ怪しかった。
ぼくはなんとなく、大元帥同志が公邸の裏庭に作らせた田んぼで新嘗祭をしているという噂を思い出した。
共産主義とアミニズム。
帰り際に水をこぼしてしまって、あわててテーブルに備え付けの紙おしぼりで拭き取ろうとしたら、まったく水を吸わず、かえってテーブルを水びたしにしてしまって、沖津先輩に笑われた。
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