その12
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ところでみなさん、女子を自転車の後ろに乗せて二人乗りする高校生についてどう思うだろうか。
勝ち誇るようににやりとする向きと、唾を吐かれる向きがあると思う。
いま現在のぼくは第三勢力、つまりコチコチになってペダルを踏みしめている派であった。
ぼくは兄おさがりの通学用自転車をこぎ、アンナが後部の荷物載せに女の子ずわりして、ぼくの肩に手を回したりしていた。
どうか唾は吐かないでいただきたい。
ぼくはテンパっていた。
背後から女の子のにおいがしていた。
なぜ、女子はあんなに良いにおいがするのだろう。
使っているシャンプーの差でないのは明白だ。国営商店ではシャンプーはリンス入りとリンスなしの二種類しか売っておらず、前者はめったに手に入らないのだから。
などと考えて背後の熱源から必死に思考をそらしつつ、ぼくは無心に自転車をこいでいた。
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アンナが仕掛けてきたのは、いつもの部活の帰りぎわであった。
カリカリと、アンナがペンを動かす音が部室に響く。
ぼくは赤ペンを手に、統一農労党中央委員会機関紙『思想農労』をチェックしていた。どこそこの工場が生産目標の十五パーセント増しを達成しただとか、党のお偉いさんの、これたぶんゴーストライターが書いたんだろうなって感じの論文だとか、ものすごくつまらないたわごとが延々と並んでいる。
共産圏にかぎらず、政府機関紙がつまらないのは当たり前だ。ぼくも、別に楽しむために読んでいるわけではない。とっさに言いがかりをつけられたときに、対抗して引用できそうな数字やフレーズに赤ペンで線を引いて、頭にしみこませているのだ。
わが日本民主人民共和国において党の指導性は絶対であるから、こういう機関紙からの引用はハッタリが利く。こういった地道な努力が、赤い優等生をはぐくむのだった。
その作業に集中していたので、いつのまにかペンの音が止まっていたことにも、ぼくは気づかなかった。
「ねー」
と突然アンナが言った。
「んー?」
「今日、帰りに送って行ってよ」
「いいよ」
と反射的に答えてから、ぼくは事が持つ重大性に気が付いたのだった。
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街の様子は、当然いつもと変わらない。ぼくたちの深刻でちっぽけな事情などお構いなしに世界は回ってゆく。
党の赤いポスターがべたべた張られた木製の電信柱に、野良犬が小便をしている。
四月二十二日の『レーニン誕生日』の祝日の防衛パレードが近いので、漢字とキリル文字で書かれた交通規制の看板がそこら中においてある。看板には、赤地に金色の日の丸、左上の隅っこに鎌とトンカチをあしらった、ぼくたちの日本の国旗が描かれていた。
日本道路公社の制服の蛍光ピンクのベストを着た、見るからにやる気のない道路作業労働者が、週刊誌を読んだりお茶を飲んだりする合間に、無意味に道路を掘り返しては埋めている。
継ぎはぎだらけのデコボコの舗装路を、黄土色の丸っこい統一規格自動車が走っている。豊原自動車公社製の国民自動車『躍進』だった。
一九五〇年代からほとんどマイナーチェンジだけで生産を続けている『躍進』は、重量わずか八〇〇キロ、二ストロークエンジン、三〇馬力と、時代遅れの軽量非力な自動車であるが、『ほかに手に入る車がない』という絶対的な理由により、国民車として不動の地位を誇っている。
『躍進』は、極東ロシア、モンゴル人民共和国、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、ベトナム社会主義共和国、イラク共和国、社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国といった海外友邦にも積極的に輸出されていて、東独製の有名な自動車に引っ掛けてこう呼ばれている。
『トヨバント』。
ぼくたちが走る道路脇は、いつものように排ガスが滞留していた。
『躍進』の二ストロークエンジンは、非力なくせに猛烈に排気ガスを吐き出す。革命の国は地球にはやさしくないのだ。優しくする(ことになっている)のは労働者と農民にである。最近は配給ガソリンに混ぜ物がしてあるので、排ガスはしばしば黄色や紫色だったりする。
ところが今日は、そんな西側の環境基準を全くクリアできない悪臭にまじって、オンナノコの甘い香りがただよっている。
あらあら、まあまあ。
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「ねえ」
会話をもたせるために、後部のアンナに話しかけた。
「なあに?」
「この街並みも変わっちゃうの?」
ぼくは質問を口にした。
別に、真剣に気になったわけではない。沈黙に耐え切れなかっただけである。
「変わるところはかわるよ」
「例えば?」
「車は〈南〉のトヨタやホンダばっかりになる。左側通行になって、統一の直後は交通事故が起こりまくる。道路公社は民営化されて、ベストの色が黄色になる。電柱はコンクリートになって、ピンク色の広告がべたべた張られてる」
「ふうん」
「あと、公衆電話があちこちに置かれるようになるけど、ケータイのせいですぐになくなる」
「へえ」
ケータイってなんだろ、とぼくは思った。
自分から訊いておいてなんだが、ぼくはアンナの語る未来のことなんて気にかけてはいなかった。
気にしていたのはもっと身近なことだった。
ぼくはアンナのことで頭がいっぱいだった。
アンナのあまい香りが気になって仕方なかった。
アンナの体温が気になって仕方なかった。
自分の体臭がくさくないか、気になって仕方なかった。
自転車の前かごの中でずり落ちそうな通学カバンのバランスを気にしていた。
兄おさがりの自転車はチェーンがたるんでいて、油断するとガコってなるので、そんな醜態をさらさないように気にしていた。
このくだらなくも美しい世界。
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アンナが示した住所は、近所の国営集合住宅で、偶然にも――アンナに言わせればこれも必然なのだろうが――学校とぼくの家を結んだ延長線上にあった。
自然と、ぼくの家の近所を通るかたちになる。
ぼくの家は、まったく同じ外見の灰色で四角い集合住宅がどこまでも立ち並ぶ住宅地区にあった。
夕方の優しい光が、殺風景だけれど温かい住宅地区を、穏やかに包み込む。
近所のおばちゃんにあらあらまあまあという感じで手をふられて、顔見知りの小学生にはやし立てられてわざとぶっきらぼうに「寄り道せずに帰れ」としかったりして、そんないちいちにアンナは声を押し殺してくすくす笑った。
ぼくの家の前を通るときに、アンナがきいた。
「家によって荷物おいていく?」
「いや、いいよ」
「家族にあたしを見られるの、恥ずかしいんだ?」
アンナは挑発するようにふふんと笑った。
「そう」
ぼくはちょっとだけ本音を隠した。
家族にアンナを見られるのが恥ずかしいのは本当。
でも、アンナに家族を見られたくないという思いもまた強かったことは、口にしなかった。
特に、祖父のことを。
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