ソニック十五号の切符
戸畑駅の射殺事件から三日後の夕方、激しい夕立が、北九州の厳しい暑さに潤いを与えた。十八時を回っていたが、辺りはまだ明るかった。
北九州市のほぼ中心、八幡東区に標高六六二メートルの皿倉山がある。帆柱連山の一つで、北九州国定公園の一部でもある。
その皿倉山の展望台で、男の射殺死体が発見された。
八幡東署捜査一課の斉藤警部が、現場検証に向かう。
彼は、胸を拳銃で射抜かれ、後頭部には、何かで殴られた跡もあった。鑑識によると、死後十三時間が経過しているという。つまり、同じ日の午前五時頃に殺害されたことになる。
被害者は、身元を示すものを何も所持しておらず、身元は分からなかった。
唯一の所持品は、ジャケットの内ポケットに入っていた封筒である。セロハンテープで閉じてあったのを開封してみると、一枚の便箋が入っていた。
斉藤は、それを広げて読み上げた。
「田中純一へ。八月二日、午前十一時四〇分頃、戸畑駅構内の多目的トイレで、江藤元と中垣誠也を射殺するお前を見た。警察に知られたくなければ、五千万円を用意しろ」
この脅迫状は、コンピュータによって行書体で打ち込まれていた。
斉藤は、この男は田中純一という人間で、身元を特定することができたと安堵した。
死体の近くで、一丁の消音器付きの拳銃が見つかった。
その後の司法解剖によると、使われた凶器は口径八ミリのトカレフで、現場近くに捨てられていた拳銃と特徴が一致し、凶器も判明した。さらに、そのトカレフは、例の戸畑駅射殺事件と同じ凶器であることも判明する。
その日の夜、東島の元に皿倉山での射殺事件に関する知らせが届いた。受話器を置いた後、東島は城戸にも伝えた。
「城戸警部、今日の午前五時頃に、身元不明の男性の射殺死体が発見されたのですが、その事件で使われた凶器が、戸畑駅での事件の凶器と同じようなんです」
「身元が不明なんですね?」
「ええ、身元を示す所持品は発見されなかったそうです。ですが──」
「ですが?」
「実は、被害者は、脅迫状を所持していたんです。今、八幡東署からメールで送られてきました」
東島は、城戸に脅迫状のコピーを手渡す。
「田中純一か──」
読み通した城戸は、そう溜息交じりに呟いた。
「城戸警部、その脅迫状から考えると、被害者は田中純一という可能性もあります」
「確かに、そうですね。被害者の顔写真はありますか?」
「ええ、ありますよ。これも八幡東署から送られてきました」
そう言って、東島は、城戸にパソコンの画面を見せた。画面上に男の顔が映し出されている。
城戸は、一目でその男が田中でないことが分かった。
「東島警部、この男は田中純一ではありませんよ」
「そうですか。すると、被害者の男は、あの脅迫状の送り主でしょうね」
東島は、少しの沈黙の後、
「城戸警部、田中純一から詳しい話を聞く必要がありそうですね──」
と、言った。
確かに、客観的に見れば、現段階で田中純一を重要参考人として、任意同行を求めるのは当たり前の事であった。
したがって、城戸は、それに否定することができずに、
「ええ、その様ですね」
と、答えた。
「田中純一は、江藤と中垣の事件で養父母を失っているんでしょう?そして、皿倉山の射殺事件の被害者は、彼への脅迫状を所持していました。一応、田中の犯行であることは、説明がつきます」
東島が、そう言ったが、城戸は黙っていた。
翌日、東島らの捜査で、重要参考人である田中純一の居所を掴み、任意同行してきた。
田中純一の故郷は、まさにこの戸畑であった。養父母を失い、警視庁を辞めた後、彼は里帰りをしていた。
まずは、取調室で、東島と柴崎が尋問を担当する。城戸は、別室から、中の様子を覗いていた。
「君、どういうわけでここへ来たのかわかっているかね?」
東島が、田中に訊く。
「いいえ、全くわかりませんよ」
田中は、口を尖らせながら言う。
「八月二日の話だ。戸畑駅の多目的トイレで、江藤元、中垣誠也という二人の男が射殺されたんだ。その時、君は現場に居たそうじゃないか?しかも、被害者二人は、君にとって憎い相手だろう?」
興奮した口調でそう言ったのは、柴崎である。
「確かに、その時戸畑駅に居て、被害者二人が私にとって憎い存在であったのは認めます。ですが、私はこうやってあなた方に尋問されなければいけないようなことはしていません」
「どうもその時、殺害する様子をある男に見られていたそうじゃないか?しかも、その男は君に五千万円を要求している。警察に知られるのはまずいから、皿倉山でその男も射殺してしまった。それで間違えないか?」
「間違いだらけですよ。戸畑駅の事件も、皿倉山の事件も、五千万円を要求されていたというのも、すべて違います」
「おい、五千万円を要求してきた奴の名前は何だ?未だ身元不明で、困っているんだ。教えてくれよ」
「ですから、私は何も知らないと言っているじゃないですか!」
「二人共、そこらへんで落ち着くんだ」
東島が、興奮する柴崎と田中を制止する。
「戸畑駅の事件に話を戻しますよ」
そう前置きをして、東島が続ける。
「我々の捜査によると、戸畑駅で江藤元と中垣誠也が殺されたのは、午前十一時四〇分頃だと思われます。八月二日ですが、その時あなたはなぜ現場に居たんですかね?」
「その日は、用事があって、朝早くから博多に行っていたんです。用事を終えた後、鹿児島本線で戸畑へ戻ってきて、丁度その時が、あの事件の起きた後だったんです」
「何時の列車を利用したんですか?」
東島にそう訊かれた田中は、手帳を取り出した。
「博多十時十九分発のソニック十五号です。折尾で、普通列車に乗り換えて、戸畑に向かいました。戸畑到着が、十一時三八分です」
柴崎が、時刻表を見て確認すると、田中に質問する。
「ちょっと待って下さい。ソニック十五号は戸畑駅に停車しますよ。何故、わざわざ折尾で普通列車に乗り換えたんですかね?」
「それには、わけがあります」
「わけとは?」
東島が、すぐさま田中に訊く。
「先ほど説明した通り、博多に用事があったんです。朝早くに出発したので、用事も早く終わりました。なので、早く戸畑に帰る手もありましたが、せっかくなんでゆっくりしていこうと思いました。ところが、背広姿のある男に声を掛けられました。あなたはどこに住んでいるのかと訊かれたので、戸畑だと答えると、その男は特急ソニック十五号の折尾までの切符を買ったが、仕事の都合で乗れなくなったので、その切符を譲るから使ってくれと言ってきたんです」
田中が、東島と柴崎の目を交互に見ながら言った。彼は、続けて説明する。
「どうすべきか迷っていましたが、その男は、タダで譲るからと言ってきたので、そんなお得な話はないと思って、男の言う通りにしたんです。でも、今思ってみれば、それは罠だったのかもしれません。私が、あの事件の直後に戸畑駅に到着するように、計算した上であんな話を持ち掛けてきたのかもしれません」
「何を恍けたことを言っているんだ」
柴崎が、そう言い放った。
「その背広姿の男とは、いったい誰なんですか?」
東島は、あくまでも冷静に質問する。
「それが、わからないんです。名乗ってくれませんでしたから」
「お前は、名前もわからないような、得体の知れない男から切符を譲り受けたのか?」
柴崎が、そう口をはさむ。
「確かに、名前も聞かずに取引をしてしまったのは、私が悪かったと思います。でも、本当にその男からソニック十五号の切符を受け取ったんです。嘘じゃありません」
「しかしね、証拠がないのなら、我々が疑うのも仕方がないじゃないか。君は、元刑事なんだそうだから、それくらいわかるだろう?」
東島が、困った顔で言う。
「でも、本当なんです。やせ型の高身長で、年は四十代後半から五十代くらいだと思います。さっきも言いましたが、背広を着ていました」
田中が、そう繰り返す。
「じゃあ、取り敢えず似顔絵を作るから、協力をお願いします」
東島がそう切り出し、田中の言うソニック十五号の切符を譲った男の似顔絵作りが始まった。
田中が、特徴を次々に証言していく。
その男は、かなりの高身長な上、痩せていたので、とてもスッキリとした印象だった。しかし、顔にはわずかながらしわが目立っていて、年は四十後半から五十ほどに見えた。
そうして、似顔絵ができた。
しかし、正直な所、似顔絵ができただけでは、捜査の何の収穫にもならない。この似顔絵一枚だけしか情報がない時点で、その男を見つけ出すのは、途方もない位難しい事である。
「では、話を皿倉山の射殺事件に移そう」
取調室に戻り、東島がそう切り出した。
「事件があったのは、八月五日の午前五時だが、その時君はどこで何をしていた?」
「その時は、まだ家で寝ていたと思います」
「それを証明できるか?」
柴崎が、田中に訊く。
「あいにく、一人暮らしなので。誰も証明できませんね」
「被害者の男を君は知らないのか?」
東島が、男の写真を田中に見せながら訊く。
田中は、首を横に振りながら、
「全く知りません」
と、答える。
「この男はだな、八月二日の日に戸畑駅の多目的トイレで君が射殺するところを見たらしいんだ。そのことで、どうやら五千万円を君に要求する気だったらしい。何か、心当たりは?」
「心当たり?まず私は、戸畑駅で射殺なんかしていません。人違いですよ」
「脅迫され、他の人に知られてはまずいと口を封じた。そうすると、説明がつくんだよな」
柴崎が、田中の目をまっすぐ見て言った。
「違います。また勝手な犯人扱いですか」
田中が、溜息をつく。